習近平のプーチン化

「西側のショーウインドー」という言葉に、今時の人々はあまり馴染みがないかもしれない。
1949年、西側諸国が管理するドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、ソ連(東ドイツ)が管理するドイツ民主共和国が成立し、異なる国家に分かれていた。
さらに東ドイツ内の首都ベルリンの街も、東ドイツが自国民が西側に亡命するのを防ぐため、西ベルリンを取り囲む壁「ベルリンの壁」を築き、有刺鉄線とコンクリートの壁は、東西分断の象徴となった。
西ベルリンでは、外交と通貨行政を西ドイツ政府が代行するという協定を結んでいたため、西ドイツの通貨(ドイツマルク)が用いられ、西ドイツ国籍の人が多く居住し、担当する市長や市議会議員も西ドイツの政党に所属していたことから、実質的には西ドイツの「飛び地」であった。
いわば東ドイツ内の陸の孤島が「西ベルリン」であったのだが、東側からみて自由主義経済の繁栄を物語る「ショーウンドー」のような存在であった。
東ドイツのような統制の強い国にとっては、自由主義の繁栄を真近で感じさせる「ショーウインドー」は、国民を統制する上で目障りな存在であったに違いない。
実際は髙い壁で隔てられていたので向こう側は見えなかったが、情報統制はそれほどきいてはいなかった。
西側からひそかに持ち込まれたロック・ミュージックは東側でも聞かれていたし、それがベルリンの壁崩壊への「バタフライ効果」ともなった。
デビット・ボウイは、あえてベルリンの壁の前で、スピーカーを東側にむけてコンサートを開くなどして、東側の市民を刺激した。
そうした西の自由が、東側の市民に牢獄のような世界から逃れたいという気持ちを盛り上げたにちがいない。
そんな若者の中に、後のドイツ首相となるメルケルもいた。
ちなみに、プーチンはKGB職員として1985年には東ドイツのドレスデンへ派遣されており、そこに5年間滞在している。
ところで、中国は改革開放で沿岸部は繁栄したとはいえ、内陸部は依然発展から取り残されており、陸続きである「香港」の自由と繁栄は、中国にとっての「西のショーウンドー」的な存在で、国家統制の上でそのまま放置することはできなかったに違いない。

2022年10月中国の第7回全国共産党委員会で、習近平首席の3期目への延長が決まった。
その中で習近平国家主席の権威を高めること、中国独自の社会主義型市場経済づくりを進めていくこと、台湾独立を認めないことなどがきまった。
台湾は香港とは異なり、海上を西方へ250キロに位置する島である。
改革開放前の中国にとって、台湾の繁栄は「西側のショーウインドー」にも近く、国民に知られたくない不都合な真実であったに違いない。
今から30年ほど前に「漂流物事典」(海鳥社)の著者・石井忠先生の話を聞いたことがある。
石井先生は、福岡県の県立高校の教諭を務められつつ、玄界灘に面した宗像の海岸に流れてくる漂流物を集めてこられてきた。
その中で一番面白かったのが、韓国から北朝鮮へと大量に流されたと思われるボトルであった。
そのボトルの中身は、韓国が工業面や文化面でいかに進展しているのかを示す写真が数多く掲載されたパンフレットであった。
インターネットのない時代に、こうしたカタチで西側は、東側の情報統制の壁を崩そうとしていたのだ。
ところで中国は、人口の9割を占める漢民族と、55の少数民族からなる多民族国家である。
チベットやシンチャンウイグルなど5つの民族自治区をもつほか自治州や自治県という下位の行政地域の民族自治が実施されている。
そんな中で漢民族は、「宗族」を大事にすることで知られる。
「宗族」とは、ある血縁関係の範囲の人々が、共通の祖先を持つことで団結し、共通の利害をもつことで形成されている。
父系の氏族で、同じ姓(王、周、張、劉、etc)を名乗り、生まれてからいままで会ったことがなくても、親戚と分かるところっと仲良くなったりするのが、中国の宗族である。
その代表格が、数万人単位にもおよぶ「客家(はっか)」で、世界的に活動している点でユダヤ人とも似ている。
日本人も祖先崇拝があるが、中国の祖先崇拝は、はるかに厳格で強固で、儒教だけでなく、道教やその他の中国の思想も、やはり祖先崇拝前提にしていることがその繋がりのベースにある。
1948年に始まった毛沢東率いる中国共産党と蒋介石率いる中国国民党の戦いに敗れて台湾に逃れた人々も、「宗族」の墓は中国本土にある。
そして、蒋介石は最後まで「大陸反攻」を唱えて、1975年に亡くなっている。
特に、台湾と中国の沿岸州(福建省や浙江省)との「人的なつながり」は強く、そういう意味で「台湾の存在」を今のカタチで放置することは、専制国家の度合いを高める中国にとって益々「不安要素」なのでないだろうか。
実際、台湾は「大陸反攻」の起点となった歴史がある。それは、明朝から清朝へと時代が遷る頃のこと。
明が建国した頃、東シナ海では、日本を拠点とする武装集団「倭寇(わこう)」による襲撃が繰り返されていて、洪武帝は、この倭寇と国内の反乱勢力とが結びつくのを防ごうと、「海禁政策」が行われた。
これは民間の交易や海上交通を禁止し、外国との取引は朝貢貿易のみとして、国が管理するものであった。
豊臣秀吉の朝鮮出兵による関係の悪化したが、徳川政権になって明は貿易を復活しようとした。
しかし当時、東シナ海の交易を一手に握っていたのが鄭芝竜(ていしりゅう)。実質、鄭芝竜が認めない限りは安心して、海を渡ることもできなかったほどの影響力を持っていた。
日本の平戸は明の時代、海禁をくぐりぬけ、海へでて交易を行った多くの中国商人たちが暮らしていた。
そして鄭芝竜と日本人女性の間に生まれた「鄭成功(ていせいこう)」である。
明朝にとって、モンゴルの勢力は北に退いたとはいえ、ずっと明朝を脅かす存在で、いわゆる「北虜南倭(ほくりょなんわ)」の状況にあった。
それによる財政難から1644年、明が農民(李自成)の反乱によって倒れると、清が明に代わり、中国を支配することになった。
清王朝が北京を占領した一方、満州族の支配に服したくない明の遺臣達は周辺諸国へと逃れた。明王朝の復興を目論むひとり鄭成功が、現在の福建省沿岸地域で日本との海上交易で得た利益を元手に軍備を整え、清王朝を苦しめていた。
鄭成功は1662年台湾に進出していたオランダを追い払い、中国本土から多くの移民も招き、戦いの拠点とした。
鄭成功は、オランダの支配から台湾を解放したことで、台湾では「英雄」とされている。
清朝はそういう鄭氏の資金源を断つために、1661年に海禁令として「遷界(せんかい)令」をだした。
それは沿海地域の住民を、強制的に内陸の方に移住させるという政策であった。
現代の広東省から山東省までの海岸線から30里(約15km)以内の地帯に住む全住民を、強制的に内陸部に移住させ、沿岸部を無人化した。
こうして鄭成功の孤立をはかったが、鄭成功は台湾に拠点を築いて対抗する。
ただまもなく病で亡くなり、その約20年後に鄭氏政権が降伏すると、清は満洲族の王朝として中国を支配するに至る。
こういう歴史的経緯と中国の宗族の絆(きずな)を踏まえると、現代の中国で不満が高まれば、台湾を「発火点」に、宗族の絆を「導火線」として中国に燎原の火のように広がっていく潜在的な脅威があるのではなかろうか。
ここで台湾が「発火点」になるというのは、台湾が独立するということにほかならない。
ここに中国による「台湾統合」への強い誘因が生まれることになる。

習近平国家主席の人気は68歳引退の慣例を破り「第三期」めにはいった。一方で最高指導部で68歳前後の幹部の多くは、退任させられており、「終身国家主席」をも脳裏に描いているのかもしれない。
なにしろ習国家主席は、中央軍事委員会主席でもあり、人民解放軍を掌握しているため、それを強硬しようとすればできないことはない。
その習近平国家主席の悲願こそが「台湾統合」にある。
習近平は、現在のロシアによるウクライナ侵攻の行方を見守っているのであろうが、習近平が「三期め」にはいれば、プーチン大統領にも似ていく気配である。
プーチンも大統領期限を延期し、独裁体制を築いた。
中国が習国家主席のワンマン体制となれば、中国の国家的意思よりも習国家主席の意思が優先される。
そんな習近平はプーチンと同じく、どちらかといえば地味な存在であった。
1953年に、中国の陝西省で生まれた習近平の父親は、習仲勲という中国共産党の元幹部であった。
そして習仲勲は、毛沢東政権時には副総理にまで就いたが、文化大革命時に失脚している。
しかし、その後は復活し、幹部の中でも強い権力をふるった中国共産党の長老集団「八大元老」のメンバーとなり、1988年には全人代常務委員会副委員長にまで出世している。
習近平は、父親が文化大革命で失脚したことによって、恵まれた環境から一転して不遇時代を迎える。
そして「上山下郷運動(地方の農村で肉体労働を行うことを通じて思想改造をしながら、社会主義国家建設に協力させることを目的とした思想政策)」という運動によって、地方での労働に就いている。
そこで共産党に入党し、模範的な労働者や農民、兵士の推薦入学制度を利用して、国家重点大学の清華大学化学工程部に無試験で入学し、有機合成化学を学んだ。
地方で共に働いていた労働者たちのあいだでは、穏やかな口調と温和な人柄で知られていたそうで、当時の人々にとって今の「習近平」は想像できないのではなかろうか。
さて、習近平は1979年に清華大学を卒業し、各国大使を歴任し国務院副総理を務めていた人物の秘書となったことが政治家への足がかりとなった。
一方、ロシアのプーチン大統領は、幼少時代は貧困で、家族で共同アパートに住んでいた。
学校では頑固で勤勉な学生で成績優秀でサンクトペテルブルク大学法学部に進学している。
大学4年を優秀な成績で収めたプーチンはKGBからリクルートを受けて、念願だったKGBへの就職をするも、ベルリンの壁崩壊をきっかけに事態は急変。東西ドイツが統一されたことにより、KGB支部はCIAに家宅捜査されることになった。
ドイツ統一後にロシアに戻り、1991年6月にサプチャークが市長に当選すると、プーチンは第一副市長をつとめた。
その後は、ロシア大統領府総務局長の抜擢で、ロシア大統領府総務局次長としてモスクワに異動している。
1998年にはKGBの後身であるロシア連邦保安庁の長官に就任する。
エリツィン大統領がクーデーターで追い落とされかけたのを救ったことにより、エリツィン大統領の信頼を得た。
エリツィン大統領が健康上の理由で引退を宣言し、プーチンは大統領代行に指名され、2000年に大統領選挙を行い正式に大統領になった。その後、憲法を改正し、大統領の再選を延長している。
プーチンも習近平が似ているのは、国家の崩壊(ソ連崩壊/ベルリンの壁崩壊)や最高幹部の父親の失脚を通じて、現状がいつまでも続くことはないという認識をもっている点である。
それが専制国家体制を築く最大の心理的因子なのではなかろうか。
また、習近平の経歴の中で特筆すべきは、台湾との関わりが深いことである。1985年より、福建省厦門(アモイ)市の副市長を3年間務めている。
厦門は台湾交流の表の窓口で、沖合2キロのところには、台湾側が占領している金門島があり、かつては激しい砲撃戦もあったところである。
厦門は経済特区の一つに指定され、沖合の金門島に向けて、大陸の魅力を大音量で宣伝する巨大なスピーカーも設置されていたという。
習近平は、厦門で台湾資本の呼び込みに陣頭指揮をとっている。
実は、福州にはもう一つの台湾との交流の窓口があった。それは福州市の沖に浮かぶ「平潭(へいたん)島」である。
厦門が台湾資本を呼び込む「表」の窓口であるとすれば、平潭島は、台湾の漁船をひそかに呼び込む秘密の「裏」の窓口でもある。
台湾の漁船の船長に、安い労働力を提供することで取引が成立していた。
台湾交流の表と裏という両方の窓口の場で重要な仕事をした習近平は、その後、福建省の行政のトップ省長とななる。
そして習は2002年から5年間、同じく台湾の対岸に隣接する浙江省のトップである党書記に異動した。
台湾には中国大陸から嫁いできた女性がおよそ30万人いるといわれ、そのおよそ3分の2が、習近平が福建省や浙江省で仕事をしていた時期に大陸から台湾に渡ったといわれている。
ここでもう一つ注目したいのは、習近平氏が福建・浙江両省で仕事をした時期に、それぞれの地域で軍の仕事にもついていたことである。
例えば福建省長や浙江省の党書記を務めた時期には、南京軍区国防動員委員会の副主任と、それぞれの省の主任を務めている点が注目される。
国防動員委員会とは、民兵の指導と育成を主な任務とする組織で、福建省や浙江省では、その経歴から漁民をいわゆる海上民兵に育てる指導をしていた公算が強いといえる。
もし、中国が力による台湾統一を強行しようとするなら、真っ先に出動させるのが、漁船に乗った海上民兵である可能性も十分考えらるという。
習近平は、台湾独立によって生じる中国沿岸州の「離反」という潜在的な脅威を、中国と台湾の経済的結びつきで打ち消そうとしているようにも見える。
2000年には、福建省長となり、2002年には浙江省の党委書記に就任している。
2006年には、上海市で大規模な汚職事件が発覚し、上海市党委書記が罷免されるが、2007年には習近平が上海市党委書記に就任している。
この上海市党委書記というポストは、中国共産党の出世コースといわれており、実際に同年の10月には「中央政治局常務委員)」という事実上国家の最高指導部にまで異例の昇格を果たしている。
習近平は、2013年3月に開かれた第12期全国人民代表大会(全人代)において、国家主席と国家中央軍事委員会主席に選出された。
ここからは、「腐敗撲滅」を掲げ、徹底的に党幹部や役人の汚職を取り締まり、中央や地方の権力者を続々と処分(ある意味粛清)していった。
しかし、そもそも習近平がなぜ、毛沢東のようにならんとしているか。
その大きな要因として、「台湾統合」という目標の前では、共産党内の誰も習近平に実績の上でかなわないからである。
中国で作られた3隻目の空母の名「福建」に少々驚いた。中国人民解放軍トップを務める習近平国家主席が命名したもので、習がいかに台湾統合に強いこだわりを持っているかをよく示している。
しかしながら、そんな習近平の「独裁化」は中国にとってリスクかもしれない。
なぜなら習政権の第二期までは中国経済の拡大期であったが、第三期以降は顕著な減速期に入って、「ひとりっ子」政策により少子高齢化も顕在化つつある。
また中国は「幸せな監視国家」とも言われてきたが、都市のロックダウンなどの強硬な「コロナ対策」で、人々は「国家の正体」を知った感がある。
習近平が悲願の「台湾侵攻」を実行する前に、足元から火の手があがるかもしれない。