貨物船に乗って

中村哲氏はアフガニスタンで医療活動をしながら農業指導をしたが、戦前、それと同じように満州で歯科医をしながら農業指導を行った人がいる。
その名は小澤開作。小澤開作の子が世界的指揮者・小澤征爾(おざわせいじ)である。
「小澤征爾」の名前は、満州に進出した日本陸軍の関東軍高級参謀・板垣征四郎と石原莞爾の名前からそれぞれ一字「征」と「爾」をとってつけられた。
となると小澤開作は軍国主義者かと勘違いされるが、満州国の理想「五族協和」を素朴に信じ実現しようとしたヒューマニストであった。
とはいえ、日本に土地を奪われ「満州国成立」を一方的に宣言されたカタチの満州の人々に受け入れられるのは、なかなか難しいものがあったのも事実。
それでも小澤開作が満州で見た夢は、現地の人々共に農地を開拓し、農業指導をし、種を植え、作物を育て、道路を作り、町を作ることであった。
当時、中国には唐辛子だけを売って生活しているような貧しい集落がたくさんあった。
それらの村を日本軍が占領した。その上に鉄道も占領してしまったので農民は生活に困っていたが、そこで開作がトラックなどを村に提供して、唐辛子をどんどん外に売りさばく手助けをした。
そういうことをあちこちの村でやり、村民から感謝の銅板をもらい、今も小澤開作の名前が記された銅版が残っている。
一方で小澤は、満州が単なる日本軍の労力給源、軍馬給源、宿営拠点といった兵站地と化していったことを知るにつて、官僚・軍人達との間に違和感を抱くようになる。
そして小澤の夢も、満州を支配した軍人や官僚たちによって次第に踏みにじられていく。
「喧嘩の小澤」とよばれるくらいに、東条英機ら軍人ともよく喧嘩したが、ついに満州が軍人と官僚の国になってしまった現実に挫折し、奉天を去り北京へ向かった。
小澤征爾は歯科医の父・開作の三男として北京で生まれた。これ以後のことは、夫人である小澤さくらの著書「北京の碧い空へ」(1996年)に詳しい。
帰国してからの小澤は、東京立川で味噌の会社をやったり、雑誌の記者をしたりしたがうまくいかず、川崎で再び歯医者をはじめた。
征爾は小学校4年生頃ピアノをはじめたが、ミシン会社をやるために一家が小田原に移った6年生になって本格的にピアノを習い始めた。
成城学園中学から高校へ進み、桐朋学園高校音楽科に入り直し、その後短大に進んだ。
桐朋学園で指揮者の齋藤秀雄の指導を受けていたが、卒業後、ヨーロッパに行くことを決心した。
その理由を、「外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土、そこに住んでいる人間、をじかに知りたい」と記している。
そしてフランス政府の留学生試験受けるも最終であえなく落選。それでも、夢を諦めなかった。
経済的な問題から安く行くため、ヨーロッパに着いたら足としてスクーターを使おうと思い立ち、東京中を走り回ってカンパでお金を集め、スクーターの提供を受ける。
そしてツテを頼って貨物船に乗せてもらい、2月あまりの船旅でパリに到着。
日の丸つきのスクーターに白いヘルメット、ギターを担いで街を乗り回し、街の人たちとも仲良くなり、様々なトラブルも乗り越えていく。
ヨーロッパに渡って間もなく小澤は現地で知ったフランスのブザンソンで行われている指揮者の国際コンクールに出場した。
世界トップレベルの大会であったが、小澤は見事一等賞となり、一躍その名をヨーロッパ中に轟かせることとなる。
それからベルリンに通いカラヤンの指導を受けるなどして、その後も数々のコンクールに参加しては優秀な成績を収め、日本を発ってから約2年のうちに、フランス、ドイツ、アメリカそれぞれで成功していく。
アメリカではミシュルンと、バーンスタインに師事しつつ、指揮棒の振り方、音楽の理解の仕方について学んでいる。
そしてついに、あこがれのバーンスタインのもとでニューヨーク・フィルハーモニーの「副指揮者」として働けることになった。神戸港を立ってから2年、26歳の時のことであった。
その著書「ボクの音楽武者修行」(1980年)は、1959年より1961年までの若き日の自伝である。
まる2年半をかけ、フランス、ベルリンアメリカで過ごし、行く先々で音楽的才能を評価され、ついにはニューヨークフィルハーモニーの副指揮者となって、日本に帰国するまでの体験を自伝的に書いたもの。
小澤征爾といえば白髪の老カリスマのイメージだが、「ボクの音楽武者修行」を読むと、ふつうの大学生が書いた日記か手紙のようなかんじ。実際に小澤が日本の家族、友人、知己に書いた手紙を兄弟が集めていたものを材料に書いたものらしい。
小澤征爾の甥にあたるミュージシャン・小澤健二(オザケン)のイメージが浮かび上がってくる。
例えば、魚が食べたくて何匹もおろしているうちにうまくなって、ある人の自宅に呼ばれて「お願いがあるのだけど」と乞われ、てっきり音楽のことかと思ったら「魚をおろしてもらえる?」なんて頼まれたり。
もちろん、音楽の勉強は一生懸命するのだけど、飲んだり、スキーをしたり、ドライブしたりと休む間もなく遊び青春を謳歌する。
パリで体調が悪くなり病院に行くと「ホームシック」と診断され、その治療法がなんと「修道院で修行」と医者が紹介状を書いてくれた。
ほんとに修道院に行かされ、おまけに冬の寒い時期でとにかく修道院が経営する農場の手伝いをしたりして動いていないと寒くてたまらない。
こうして「じっとしているわけにはいかない」状態がよかったのか、無事「ホームシック」克服している。
小澤の才能で際立つのはむしろ、行き当たりばったりのような旅でありながら、行く先々にちゃんと必要に応えてくれる人がいること。
いなかったら、いなかったで大使館とかに通い、とにかく「人脈」を築く点である。
また敗戦の色が強く残っているドイツの街並みや情勢について書かれた部分もたくさんあって、ベルリンの壁崩壊以前の東と西の空気感が伝わってくる。
小澤は最終章で、フランス、ドイツ、アメリカ、日本それぞれのオーケストラの違いについて次のように書いている。
「ドイツのオーケストラは指揮者の優劣に左右されず、常にいつもと変わらぬアンサンブルに徹する。フランスのオーケストラはアンサンブルに乏しく、その意味ではまとまりに欠ける恨みはあるが、感性に光り輝くものがあって、その色彩に魅了される。アメリカのオーケストラは指揮者の優劣により、ひどく左右され、出来栄えに影響する。日本とアメリカのオーケストラに共通するのは西欧的な音楽に関する伝統が欠けており、それゆえに新しい発展性と可能性を秘めている点で、長期にわたる伝統に拘泥する西欧オーケストラにないものをもつことが強味。近代や現代の音楽をオーケストラで指揮すると、アメリカのオーケストラの実力が際立つ」と。
そして最後に、「ふりかえってみると、そのさきどうなるかという見通しがなく、その場その場でふりかかってきたことを、精一杯やって、自分にできるかぎりのいい音楽をすることによって、いろんなことがなんとか運んできた。これからあと5年先、10年先にどうなっているかということは予測がつかないけれどただ願っていることはいい音楽を精一杯作りたいということだけだ」という言葉で締めくくっている。
ところで日本で「歯医者復活」した父・小澤開作は1970年11月21日、突然に亡くなった。
開作の死の三日後、三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地で自決している。

サッカー日本代表の監督も務めたジーコの通訳を長らく務めたのが鈴木國弘。中学3年生の時、ブラジル渡航を企てる。
この頃鈴木を突き動かしていたのは、ペレーを中心に世界を席巻したボールのマジシャン集団ブラジルのサッカー見たさだけだった。
だがパスポートとは何、ビザとはどんな食べ物?と、何もしらない無邪気さのままに。
横浜港にいくと眼前に夢の国ブラジルへ誘ってくれる巨大船が停泊していた。
クルーが忙しそうに動き回っているので、船内を自由に歩き回る見知らぬ少年をとがめたりしない。
鈴木は階下の倉庫の様なスペースに忍び込んだ。
突然、倉庫のドアが開き懐中電灯の強烈な灯りに照らし出される少年の姿。
鈴木が千葉の自宅に戻った時はすでに辺りは真っ暗になっていた。自宅周辺は、警察官や友人、近所の人々でごった返していた。
日頃から特に厳しかった親父からは体罰を覚悟したが、「高校だけは出とけ」の一言だけだったことに意表を突かれ、さらに涙が出た。
鈴木が中学生時代に体験したこの強烈な出来事は大きな挫折ではあったが、その後の45年間をずっとブラジルサッカーがその心を支配し続けることになる。
そんな鈴木がブラジル・サッカーとの出会ったのは中学1年の時。部活で毎日ボールを追いかけていたある日、大阪のヤンマーディーゼルに日本初の外人助っ人としてネルソン吉村がやってきた。
当時の日本サッカーはドイツ流一辺倒で厳しいボディコンタクトの応酬で、身体の小さかった鈴木にはまるで格闘技のように思え、どうしても馴染めなかった。
ところが生粋の日本人のネルソンのプレーはまさに別次元で、ボールをまるで身体の一部の如く自由自在に柔らかく扱う。
鈴木は、日系ブラジル人選手のプレーを目の当たりにした時、「地獄で仏を見た」様な歓喜を味わった。そしてブラジルサッカーに一気にハマった。
中学3年生といえば、高校受験勉強に励むが、鈴木は頭が全てブラジルに占領されてしまっていた。
そして英語だけは必死で勉強したという。ブラジルの母国語ポルトガル語は複雑すぎて独学ではとうてい無理で、英語でなんとか乗り切れるだろうと考えたからであった。
しかしながら「中学生密航失敗」で屈辱を味あうも、高校進学後は当時としては画期的なミニサッカー・サークルなるものを立ち上げた。
そんなある日、ブラジルからもうひとりトンデモない選手が来日した。
セルジオ越後という選手で、学校を休んで観に行ったところ、眠っていたブラジルへの夢が一瞬で呼び覚まされた。ちなみにセルジオ越後は、近年TVのサッカー解説で有名である。
鈴木は高校卒業後、テキストも少ないポトガル語の学習を様々な機会をつかっておこなった。
日中はブラジル大使館でアルバイトをし、夜中は四谷のブラジリアンバーでバーテンダーをやり、その時、ラモス(瑠偉)とも知り合った。
語学はあくまでも生活のためのツールだと思っており、語学を極めようという意識はあまりなかった。
ただサッカーをやって不便にならない程度に学んでいった。
そして高卒後1年たった19歳の時、苦い思い出のある横浜から憧れのブラジルに渡った。
現地で通訳コーディネーターとしてブラジルサッカーと深く関わった。
日本に帰国後、1991年から「鹿島アントラーズ」の通訳としてジーコと二人三脚で歩んだ。
というよりも、鈴木は鹿島アントラーズ設立の功労者の一人といってもよいほどの存在となった。
鈴木圀弘は、2006年W杯においてジーコ率いる「日本代表監督通訳」としてベンチ入りを果たすことになる。

ITを活用して「誰も見たことのない」装置やアートを次々と開発し、「現代の魔法使い」と呼ばれるのが落合陽介。
最近ではニュース番組のコメンテーターとして露出も多い。トレードマークは、服を選ぶ時間を節約するため黒の服装。
その姿が何かにおびえる鳥のようなイメージにも映る。
その落合陽一の父親が国際ジャーナリストで作家の落合信彦と聞いて驚いた。父と子のイメージがあまりにもかけ離れていたからだ。
落合信彦によればその父母(陽介の祖父母)ともに「素晴らしい」人であったという。
ただ、父親の方は全てが常識の範囲を超越した、言葉にできないくらいの徹底した利己主義者であり、自分の勝手な生き方を貫くために家族を犠牲にし続けた、超絶無責任男であった。
とはいえ、幼い彼の目には父親がとてつもないヒーローのように見えたという。それは父親の世渡り上手がずば抜けていた点にあった。
裏社会の者達からはそのスジの大物と見られたり、女性にもよくもてたようだ。
反面、家庭内では暴君のような存在で、あげくの果て家族を棄てて新しい女と一緒に出て行ってしまった。
それも、「俺は世界一幸せだ」という言葉に唖然とする家族を尻目にして。それは間違いなく家族にとって悲劇であり、もともと豊かではなかった落合家の窮乏に拍車がかかっていった。
その境遇は、最近注目のイェール大学准教授成田悠輔とよく似ている。
一方、母は寝る間も惜しみ働き続け、秀才である兄は進学を諦めて、有名企業の入社試験を受けることにした。
成績はほぼ満点という内容で自信があったが、「落合家は母子家庭である」という理由で落とされたようだ。
母と兄の苦労を知っていた落合は、日本にいても自分の居場所は無いに等しいと、アメリカに渡ることを決意する。
アメリカでは日本とは比較にならないくらいに奨学金の制度が発達している。貧しいけれども優秀な人には機会を与えようというもので、それは敵国であった日本も例外ではなかった。
定時制高校に進んで、来るべきアメリカでの生活のために、教科書レベルではない、「活きた英語力」を学んだ。
高価な英英辞書を苦労して入手し、自分に厳しいルールを課して単語を覚えようがいまいが一定の時間が経つごとに破り捨てるという不退転の決意を固める。
昼間の運送の仕事の間は周囲に迷惑がられても米軍の放送をラジオで聴く。
休みの日は弁当持参で場末の映画館へ通い、閉館まで映画を見続け、聞き取れた会話を懐中電灯を使ってメモする。
そして、生活面まで全てが保障される奨学金制度の試験に挑み、見事合格することができた。
しかし一番の問題は旅費。しかも当時はドルの海外持ち出しに厳しい制限があった。
それでも落合は、貨物船で働きながら西海岸へ辿り着き、東海岸の目的地までヒッチハイクを続けるという無謀にして壮大な計画を立てる。
横浜港でアメリカ行きの貨物船を探して船長に事情を説明して乗船許可を貰うとする。
許可がでるまで家へ戻らないという不退転の覚悟のテント生活までして。
しかし、留学生用のパスポートと書類一式を見せても「前例が無い」との一点張りで、断られ続けた。
それでもついに、船内作業に従事することを条件に乗せてくれる船が見つかった。
落合は大学の選択につき、落合独特の考え方をしている。
レベルの高い大学では必ず自分より優秀な日本人が先に来ているはず。また外国へ行ってまで日本人という群れに居ようとは思わない。
そこで東部の小さいけれど知名度の低い優秀な学校を目指そうと。それは日本に留学した魯迅が仙台の医学校(現東北大学医学部)に向かった発想に似ている。
大学卒業後は、石油ビジネスで成功し「国際ジャーナリスト」とよばれるが、大いに役立ったことは、聖書を英語で読んでいたこと、そして無責任一代の父親がたった一つ教えてくれた空手であった。