パノプティコンと人足寄場

刑務所には「パノプティコン」というものがある。
塔の頂点からそれを囲んで円形に配置された囚人用監房を監視するといった建築で、逆光になっているので相手に見られることなく、中央から一切の状況や動きを監督できる「一望監視施設」というもの。
18世紀の哲学者で「最大多数の最大幸福」で有名なイギリスの功利主義哲学者ジェレミー・ベンサムが考案した。
ベンサムの主張した「収容者に対して自立的な行動を促す」という考えのもと、ゆくゆくは病院や学校、工場にまで応用されることが企図されていた。
実際に哲学者のミッシェル・フーコーはベンサムが考案した監獄「パノプティコン」にもとづいて、近代社会のあり方を”パノプティコン社会”と見なした。
この「パノプティコン」を、フーコーは次のように説明している。
「権力は囚人からは見えないが、存在し、囚人を監視している。たった一箇所から他のすべての場所を監視することができる」。
「パノプティコン」の最も本質的なことは、中央で監視する人が仮にいなくても、囚人たちは”権力”からあたかも見られている如く、それぞれの行動を自らを規制していくのである。
実際、これほど効率的な権力の在り様は存在しない。
現代は街中に監視カメラが設置されている(と思われれている)ので、非常に啓発的である。
フランスでは19世紀に、こうした建物としての「パノプティコン」監獄がいくつか建てられた。
そしてこの「パノプティコン」は、日本にも見ることができる。
明治維新以降、新政府にとっては、幕末に欧米各国と結んだ不平等条約の解消と、様々な面での「文明化」「西洋化」が急務だった。
不平等条約のうち、関税自主権の回復と並ぶ最大の懸案だった治外法権の撤廃については、陸奥宗光らによる交渉が実を結び、1894年の第一次条約改正によって、5年後に実現する見通しとなった。
そうなると、監獄制度の改善が急いで行うべき大きな課題になった。
治外法権が撤廃されれば、罪を犯した外国人は、日本の刑務所で刑に服することになる。
政府は、欧米各国に対し、日本にも欧米なみに人権に配慮した法制度と刑務所があることを示す必要に迫られたのだ。
日本は明治時代に憲法をプロイセンから学んだが、刑法と民法はフランスから学んでいる。
そのため、ヨーロッパの「パノプティコン」がいちはやくとりいれられることになった。
その代表が、2017年に国の重要文化財に指定された「奈良少年刑務所」である。
設計者の山川啓次郎は、薩摩藩士の次男として、現在の鹿児島市で生まれた。
東京帝国大学に進み、東京駅舎の設計で知られる辰野金吾のもとで建築学を修めた。
その後、司法省営繕課長として明治40年代初めに相次いで完成した五大監獄(千葉、長崎、金沢、鹿児島、奈良)の建築に携わった。
現在でも当時の収容所の様子を見ることができるのは、愛知県犬山市にある博物館明治村で、この一角に、パノプティコン型監獄である金沢監獄が当時の様子のまま再現されている。
山下のコンセプトは、「罪人を懲らしめるための暗くて冷たい監獄」ではなく、「罪を深く悔いて再出発をするための希望の場所」であった。
つまり「受刑者の人権」にまで思いをはせて設計した建物だったという。
そんな高い志から生まれた「美しい刑務所」ではあったが、その願いは時局の推移と共に虚しく裏切られていく。
第一次世界大戦後、日本では自由と平等を求めるさまざまな社会運動が巻き起こった。
これを鎮圧する目的で作られたのが、1925年に制定された「治安維持法」で、革命を標榜する日本共産党が標的とされた。
その後、改正が重ねられ「政府にとって都合が悪いと思われる思想を持つ人間」に広く適用されるようになる。
労働組合や農民組合、プロレタリア文化運動、宗教団体、学術団体に至るまで、この法律が適用された。
治安維持法は、ファシズムへ向けて、国民の思想を統制する武器として機能し、やがてこの国を戦争へと導いていく。
奈良刑務所にも、「思想犯」として収監された人々がいた。日本初の人権宣言「水平社宣言」を起草した西光万吉もそのひとりである。
また西光とともに収監されていた労働運動家・高田鉱造は、1928年の「三・一五事件」で検挙された。
マルクス主義者約1600人を一挙に検挙、うち500人近くを起訴したという、政府による前例のない弾圧事件だ。
後に高田は『一粒の麦』という自伝で、収監された奈良刑務所の様子を詳しく描いている。
食事の貧弱さを含む待遇の悪さはもとよりだが、互いに言葉を交わさないようにと、一つ置きの独房に入れられて、互いに連絡が取れず、孤独の中にあった。
刑務所では作業が課せられ、高田は下駄の鼻緒の芯を作っていた。
その芯に新聞紙が使われていることがあり、数か月遅れで新聞を読むことができたことが、活字に飢えている者にとっては、ありがたいものだった。
面白いのは、思想犯は考え事をするので、刑務作業がはかどらず、凶悪犯のほうがずっとまじめに取り組み、ノルマもよく達成したという。
凶悪犯から仕事を取りあげると、時間潰しに閉口しネをあげるところから、「懲らしめのために仕事を与えない」という罰則すらあった。
そして奈良刑務所の囚人たちにとって特質すべきは、太平洋戦争の末期に、「仏像の疎開」に駆りだされたことである。
なにしろ男たちは徴兵され、人手がない。そこで白羽の矢が立ったのが、奈良刑務所の囚人たちだった。
東大寺の大仏は、さすがに動かせないものの、運べる仏像は運んで疎開させようということになった。
村長の家の土蔵に匿(われたのだが、極秘にしていたので、隣の住民さえ気づかなかったという。
その中には、あの有名な「阿修羅像」もあった。囚人たちが「阿修羅」を守とうとしたである。
我が地元の福岡にも、第一次世界大戦のドイツ人捕虜が、福岡市西区の今津の元寇防塁の改築にかりだされたエピソードがある。
奈良監獄はその後「奈良刑務所」と改称され、終戦後は「奈良少年刑務所」と名称が変わる。原則として17歳から25歳までの受刑者が収容されるようになった。
最終的には13種類の職業訓練コースを持つ「一大職業訓練所」となり、少年たちの更生に貢献してきた。
それぞれに重い過去を背負った少年たちは、ここで社会復帰のための職業訓練や教育を受けることができた。その教育方針はきびしいスパルタ式ではなく、やさしさに満ちたものだった。
明治の若き設計者・山下啓次郎の「人権」への願いは、戦後になって、ようやくこの貴重な建物の中で陽の目をあびた。
2017年3月をもって、その奈良少年刑務所も廃庁となった。記念式典で煉瓦建築の前でピアノを弾いたのは、ジャズピアニストの山下洋輔。山下啓次郎の孫であった。

ジェレミー・ベンサムが「パノプティコン」を考えていた頃、江戸時代後期の日本では松平定信が老中として幕閣の中心にあった。
松平定信は、「享保の改革」を行った徳川吉宗の孫にあたる。白河藩主の養子となり、家督を継いで藩の財政を立て直し、老中となってからは、「寛政の改革」を行うなど、幕政を担った。
寛政の改革のなかでも現代社会にも通じるのは、無宿や罪人を受け入れる職業訓練施設だった。
“無宿”とは、戸籍から外された人のことで、当時は無宿が多く存在していて、罪を犯した人はその代表であった。
それ以外にも、親に勘当された人、他には故郷を離れた人、今でいえば失踪した状態の人も、親族が戸籍を外すことによって無宿となることが珍しくなかった。
なぜなら、江戸時代は子どもの借金や犯罪に対して、親族が連帯責任を取らされる場合があったからである。
このような無宿にとっての大きな問題は、まともな仕事に就けないこと。その結果、盗みなどの犯罪を犯すケースが多々あった。
さらに無宿の問題を深刻にさせたのが、1782年から87にかけて起こった「天明の大飢饉」である。
北関東から東北にかけて大変な食糧危機が起き、1つの藩で何万人という単位の人が亡くなる場合もあった。
こうした飢饉がおきると、人々は困窮し、消費都市である江戸に集まった。そのため江戸には、東北方面から大勢押し寄せてきたのである。
その結果、江戸にはたくさんの無宿が徘徊し、盗みや火事が頻繁に発生し、治安の悪化が深刻となった。
この時代に活躍したのが、池波正太次郎の小説「鬼平犯科帳」のモデルとなった火付盗賊改方の長であった長谷川平蔵(長谷川宣以/のぶため)である。
さらに、こうした無宿対策を取ろうと1790年に老中・松平定信が作ったのが「人足寄場」であった。
「人足寄場」は、これまでのように刑を終えたらただ釈放するのではなく社会復帰に向けた職業訓練をする施設である。
入墨(いれずみ)や敲(たたき)の刑を受けた者を受け入れて、彼らに仕事をさせる。その仕事には賃金を支給し、一定の金額に達したら釈放する。
あるいは、人足寄場で仕事をしている間に身元引受人を探し、見つかった時点で引き渡す。
こうして、寄場を出るときには再び戸籍につけるようにしたのである。
つまり、人足寄場での強制労働は「刑罰」ではなく、収容年数が決まっているわけでもなく、賃金の額がある水準まで貯まるか身元引受人が見つかれば、いつでも出ていけようにしていたのだ。
更生施設だから、強制労働に対して支払う賃金は、無宿にすべて渡さず、一定の割合を天引きして毎回貯金する。そうして積み立てたお金を釈放の際にまとめて支給し、今後まっとうな仕事に就くための支度金に充ててもらう仕組みとなっていた。
「人足寄場」は、当時、隅田川の河口付近にあった石川島(現在の東京都佃2丁目)に作られていたが、明治期から名前を「石川島監獄」などに変えて、今日の刑務所と同じような刑罰(懲役)を執行する場になっていく。
さらに近隣の都市化が進むと、石川島から巣鴨へ移転し、巣鴨監獄から「巣鴨刑務所」と名を変えた。第二次世界大戦後、市ヶ谷での極東国際軍事裁判でA級戦犯となった軍人たちが収容され7人が処刑された場所で、現在はその場所に「サンシャイン60」が建っている。
巣鴨刑務所は、現在の「府中刑務所」へと再移転するが、偽白バイ偽警察官による「三億円強奪事件」(1968年)が、その塀の前で発生して、その名が世に広く知られた。

吉村昭は小説「破獄」で、白鳥をモデルに佐久間清太郎という脱獄囚を描いている。
白鳥は刑務所側の万全と思われる「セキュリティ」を打ち破り、脱獄を繰り返すことによって、結果的に刑務所のセキュリティと、所内での人権意識のアップに貢献した稀代の囚人であった。
戦中の日本の食糧事情の悪化は刑務所にも影響し、人不足は看守の質の低下を招いていた。
冬期の厳しい寒さは凍傷によって体調を崩した囚人が大勢おり、時として非人道的な扱いを受けていたのである。
そんななか白鳥は1936年から11年間に4度の脱獄を成功してみせたのである。
白鳥は超人的な体力はいうにおよばず、緻密な頭脳とを併せ持ち、その脱獄の手口は大胆且つ繊細であった。
3度めに収容された網走刑務所は、究極のセキュリティをもっており、建物の造りも堅牢で過去に一度も脱獄の例もなかったのである。
再逮捕され収監されるやベーブルースの「ホームラン」予告のごとく「脱獄宣言」を行いそして実行したのである。
白鳥は新たに刑務所に入るや、脱獄に必要な体力を養うことを欠かさなかった。
手足の強靭な筋力を使って壁を4本の手足で壁を圧しながら10メートル上の天井の窓まで到達できたのである。
時に刑務所側をアザ笑うかのように、はずした手錠をきちんと廊下に並べ看守達を驚愕させた。
自分が在任中に脱獄でもされたら、刑務官の昇進やその家族の生活にまでひびいてくる。それこそが白鳥のねらいだった。
風呂の熱ででフヤケた手に、錠をおしつけて型をとるなどして手錠の「合い鍵」を作る。
なんといっても圧巻は、味噌汁を毎日手錠に吹きかけ腐らせていった点である。
さらに貧乏ゆすりのフリをして、膝に挟んだ食器の破片で毎日床板を切り取ったり床下からトンネルを掘り脱獄した。
身体を鎖でつながれた網走刑務所の脱獄後には、熊に喰われたのではないかという噂もたった。
こんな寒いところで身体を隠しても食糧はなかなか手が入らないし、「三食保証」つきの刑務所の方がよほど楽であったからだ。
白鳥にとって、「脱走」はそれほど関心事はなく、「破獄」そのものが目的だった。
小説「破獄」には、次のような場面が描かれている。
白鳥は布団をか頭からかぶって寝るのを常としていたが、看守が規則を守らぬ白鳥に苛立ち頭を出すように注意すると、子供の頃からの癖だから大目に見てくださいという。
さらに看守が声を荒げて規則厳守を要求すると「そんな非人情なあつかいをしていいんですか。痛い目にあいますよ。あんたの当直日に逃げられると困るんじゃないですか」と、反対に脅迫した。
さて秋田刑務所脱獄後、白鳥は2週間ぐらいして知り合いの東京の戒護主任のもとに自首してきている。
検事が、なぜ戒護主任のもとに自首してきたのかと問うと、白鳥は「主任さんは、私を人間扱いしてくれましたから」と答えている。
また、秋田刑務所破獄の動機については、看守は横暴で囚人を人間扱いしないので、処遇の改善を司法省に訴えるため破獄し、上京したという。
さらに、最も酷いあつかいをする看守の当直の夜をわざと選んで破獄したとも言った。
4度の脱獄を成功させた白鳥を東京の府中刑務所が迎え入れた。
ここで白鳥に脱出されては、府中刑務所の面目丸つぶれとなり、その存在意義さえ疑われるのだから超厳戒態勢であたった。
施設の特別強化もはかられたが、人間とは思えぬ白鳥の能力を前にして、当時の府中刑務所・所長は「大英断」をくだした。
厳戒態勢を敷くのをやめて、白鳥に対してきわめて人間的な扱いをほどこしたのである。
一般の囚人の中にいれ作業も一緒にさせた。
すると、脱獄の機会としてははるかに可能性が増したにもかかわらず、待遇改善後には白鳥は脱獄の兆しすらみせなかったという。
白鳥は1961年52歳で仮出獄し刑期満了後、1979年に71歳で亡くなった。
なお府中刑務所が松平定信がつくった「人足寄場」の後身であることは、石川島の人足寄場に作られた「お稲荷さん」が施設とともに移転し、府中刑務所に存在することが、なによりの証(あかし)である。
ただし、刑務所は公的機関であり、特定の宗教に公務で関わってはいけないという原則にのっとり、今のお社は刑務所の「塀の外」にあるという。
ちなみに小説「塀の内の懲りない面々たち」(1989年)で有名になった安倍譲二も、この府中刑務所のお世話になっている。