日本で見つけた「心の風景」

日本文学研究家のドナルド・キーンは、太平洋戦争の終結後「翻訳将校」として「源氏物語」の国として憧れを抱いてやってきた。
敵対国・日本に憧れを抱いてやってきたのは、キーンぐらいであったろう。
当初、キーンはヨーロッパの古典文学を研究していたが、ニューヨークのタイムズ・スクウェアの古本屋の山積みされたジャンク本の中からたまたま見出したのが、「Tale Of Genji」であった。
キーンによると、ナチスや日本のファシズムの興隆という世界の暗雲漂う中、「源氏物語」の世界には戦争がなく戦士もいなかった、ということだった。
そしてキーンは、なによりも光源氏の人物像にひかれたという。
「主人公の光源氏は多くの情事を重ねるが、それは何もドン・ファンのように自分が征服した女たちのリストに新たに名前を書き加えることに興味があるからではない。
光源氏は、深い哀しみを知った人間であったということだ。それは彼がこの世の権勢を握ることに失敗したからではない。
彼が人間であってこの世に生きることは避けようもなく悲しいことだからだ」と書いている。
「源氏物語」で開眼したキーンは日本文化への関心を深め、コロンビア大学で角田柳作教授の「日本思想史」を受講した。
角田教授は、アメリカで「日本学」の草分け的存在であった。群馬県生まれで東京専門学校(早稲田大学)を卒業している。
キーンの述懐によれば、日本学の受講者がキ-ンたった一人であったにもかかわらず、たくさんの書物を抱え込んで授業に臨んだそうだ。
ただ、キーンにとって日本語を勉強することが将来どんな意味があるかは全く不透明であったが、1941年キーンはハイキング先で真珠湾攻撃のニュースを知り、これが氏の人生を大きく変える事になる。
アメリカ海軍に「日本語学校」が設置され、そこで翻訳と通訳の候補生を養成している事を知り、そこへの入学を決意した。
海軍の日本語学校はカリフォルニアのバークレーにあり、そこで11カ月ほど戦時に役立つ日本語を実践的に学んだ。
そしてハワイの真珠湾に派遣され、ガダルカナル島で収集された日本語による報告書や明細書を翻訳することになった。
集めた文書多くは極めて単調で退屈なものであったが、中には家族にあてた兵士の「堪えられないほど」感動的な手紙も交じっていた。
「海軍語学将校」ドナルド・キーンが乗る船は太平洋戦争アッツ島付近で「神風特攻隊」の攻撃をうけ九死に一生を得るが、キーンにとってそんな底知れない恐ろしさをもって迫ってくる狂信的な日本兵と、「源氏物語」の平和主義とは結びつきにくいものがあった。
日本軍は兵士達に「日記」を書かせることにしていたのであるが、ガダルカナルで集められた日本兵の心情を吐露した「日記」を読むうちに、他の米兵とは全く違う思いで日本を見つめた。
キーンはグアム島での任務の時に、原爆投下と日本の敗戦を知った。
キーンは中国の青島に派遣されるが、ハワイへの帰還の途中、上官に頼みこんで神奈川県の厚木に降りたち一週間ほど東京をジープで回ったという。
キーンの「憧れの日本」は壊滅状態にあり、失望を禁じ得なかっものの、船から見た富士山の美しさに涙が出そうになり、再来日を心に誓ったという。
「私は旅立ちの感傷に浸っていた。すると舟尾の地平線に雪をかぶった富士山が突然、浮かび上がった。緩やかな稜線が朝日に照らされ桃色に輝く。まるで葛飾北斎の版画だ。光の加減で色が刻々と変わり、私は感動で目を潤ませていた」。
キーンにとって、この時の「富士」は間違いなく生涯焼き付いた光景であろう。
そして、自身のワークと魂のよって立つところが、「源氏物語」によって教えられた「日本人の心」であったことをあらためて再確認させられたことであろう。
そして、コロンビア大学の角田教授の下で再び日本語を学んだ後、キーンはイギリスのケンブリッジ大学で日本語の研究を続けることになった。
ケンブリッジでは数人の学生と共に日本の古典文学を学んだが、そのせいで日常の会話でも日本の「古文調」で行われた。
たとえば「ジョンは真面目な男」というのを「ジョンはひたすらなをのこ」といった会話がイギリス人の間でかわされていたというから、世にも珍妙な会話がそこに繰り広げられていたのだ。
その後キーンはアメリカに帰国し1953年、研究奨学金をもらって、ついに日本に留学生として再来日した。
その初日、朝の目覚めて列車が「関ヶ原」を通過した時に、日本史で学んだその地名に感激したという。
キーンは1962年より10年間、作家・司場遼太郎や友人の永井道雄の推薦で、朝日新聞に「客員編集委員」というポストに迎えられた。
そして初めて新聞に連載したのが、「百代の過客」で、それは9世紀から19世紀にかけて日本人が書いた「日記」の研究だった。
キーンが戦時に語学将校として戦場で収集された手紙と手記と格闘して以来、手記(日記)こそが日本人が世界をどう見ているかを直接的に知るよすがだった。
ここにその年ノンフィクションの最高賞をとった「百代の過客」の原点があった。
敵軍としてやってきたキーンは、日本人の心に少しでも寄り添おうとされてきた。
しかし東北大震災を機に帰化して「日本人」になることを決意された。
東北の震災による瓦礫の跡に、終戦直後の東京に見た自身の原点、つまり「焼け跡」の風景が蘇ったのかもしれない。

中国では、1926年頃から、蔣介石率いる国民党の「北伐」が始まり、その部隊は広東から杭州、武漢へと進み、南京を巡る攻防となった。
百人を超える外国人はアメリカの駆逐艦に乗せられ、駆逐艦は西洋人難民を乗せて上海へ向かった。
その中に、中国で宣教師の子として育ったノーベル文学賞を受賞した「大地」の作家パールバックがいた。そしてパール一家は上海を出て、日本の長崎に近い雲仙へと旅立った。
というのも当時、中国の上海と長崎には「定期航路」があったからだ。
パールは雲仙の景色を「世界一美しい海岸線」から松の木や山々がそびえ立ち、その組み合わせが絵のように美しかった表現している。
このパールバックと少し似た境遇にあったのが、世界的なダイバーであるジャック・マイヨール。
ジャック・マイヨールといえば映画『グラン・ブルー』で知られる、ダイバーたちの憧れの存在。
マイヨールはフランス人建築家の二男として1927年に上海租界で生まれた。ジャックの一家は毎夏唐津の虹の松原で休暇を過ごした。
そしてジャックが最初に浅い海で潜ることを覚えたのは、6歳の時であった。
そして、七つ釜で初めてイルカに出会い、このことが彼の一生を左右する「心の風景」となる。
1920年代、虹の松原の中には外国人専用の木造のホテルがいくつかあり、リゾート地として賑わってた。ジャックの一家が逗留したのは、「あずまやホテル」(東屋ホテル)であった。
しかし、けれども1930年代後半は戦雲がたちこめ、日本の軍国主義はすべての西欧的なものを排除した。
そのために、ジャックの一家はその後日本にくることはなくなった。
12歳で一家でフランスのマルセイユに移住。17歳で父の設計事務所で働きながらバカロレア(高卒資格)を取得。
高校を出ると北極圏でイヌイットと暮らすなど、以後コペンハーゲンを起点に旅を繰り返した。
その後水夫としてカナダのアルバータ州、アメリカのマイアミに移住。
その間、レポーター、ジャーナリストとして働き、25歳の時に結婚し、一男一女をもうけいている。
ロリダではフランス語系新聞の手伝いやラジオ番組のリポーターを務めながら、マイアミ水族館で働きながら、イルカの調教を担当したことから水中での泳ぎ方などを体得した。
その後水族館を退職しカイコス諸島に移住、素潜りによる伊勢エビ漁を島民に教える。
その頃になると周りの勧めでフリーダイビングに挑戦するようになり、1966年にハバナにて60メートルを記録したのを皮切りにエンゾ・マイオルカと共に記録合戦を繰り広げた。
1973年、イタリアに居を移し、10余りの潜水実験に参加。それにより数十メートルの深度でフリーダイビング中のマイヨールの脈拍が毎分26回になっていることや赤血球が著しく増加していることが、スキューバで潜った医師によって測定されたこともある。
1976年11月、エルバ島にて人類史上初めて素潜りで100メートルを超える記録をつくる。この時49歳であった。
ただ、1971年、ジャック・マイヨールは76メーターという驚異的な素潜りの記録を樹立るが、その年に唐津を再訪している。そして、幸せだった幼い頃の記憶の断片をつなぎあわせようと、数人の人に会っている。
その20数年後、NHKのテレビ番組制作のためジャック・マイヨールは再び唐津を訪れて、海洋写真家の高島篤志と親交を深め、唐津訪問のたびに一緒に行動し潜ったという。
ジャック・マイヨールにとって、唐津の海は特別な場所だった。なぜならジャックが初めてイルカに会った海だから。そして海の中では四季折々の表情を見せてくれた「楽園」でもあった。
そのため大の親日家であり、フリーダイビングにヨーガや禅を取り入れていた。ジャックは閉息潜水にヨガや禅の呼吸法を取り入れ、前人未到の記録を次々と打ち立てた。
そしてさらには自己と海(自然)との融合を目指していた。海へ入る際に行われる独特のルーチンは、ありのままの自己がゆっくりと海と融け合うかのようだ。それは、仏教でいう「自他一如」、自分と周りのものとが一つになるということだろう。
晩年の彼は、「海の哲学者」と自分のことを呼んでいた。そして、千葉県館山市坂田に別荘を設けている。
現在、地球環境と人類の平和は悪化の一途をたどっている。環境保護活動家としても知られるジャックはそのことを次のように語っている。
「人はみな、同じブルーの深海から生まれてきた。人間は自然の一部であり、もっと謙虚にならなければならない。我々、人間の考え方と行動のいかんによっては、取り返しのつかないことになるだろう。人間同士の信頼を再構築しなければ何も解決しない」と。
ダイビングの第一線から引退した後は、イルカと人間との共存を訴えた。晩年はうつ病を患っていた。
2001年12月22日、ナポレオンが脱出し百日天下をとったことで知られるエルバ島の自宅の部屋で首吊り自殺をしているのが発見された。
遺体のそばのテーブルの上に、『グラン・ブルー』のビデオと、直前に出演したテレビ朝日の『グレートマザー物語 ジャック・マイヨールの母』のビデオが置いてあった。遺骨はトスカーナ湾に散骨された。

ブルーノ・タウト(1880~1938年)は、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家である。「表現主義」の建築家として知られ、その著書「都市の解体」は世界中で多くの読者を得ている。
ケーニスベルクといえば、ドイツ観念論の大成者・イマニュエル・カントの出身地である。
さて、江戸時代の長い鎖国が終わったのが、日米和親条約が締結された1854年のこと。
200年以上の時を経て、いわば解き放たれた日本文化は、西洋人たちに宝島を発見したような驚きを与えるとともに、オリエンタリズム的な興味をかりたてた。
葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重らの浮世絵は、ルネサンス以来の西洋絵画の幾何学的遠近法を大胆に無視した新しい表現様式としてフランス人画家を中心に強い衝撃を与えた。
「ジャポニズム」とよばれたこの潮流は絵画の世界にもとどまらず、プッチーニの『蝶々夫人』、ドビュッシー『海』、建築アール・ヌーヴォ様式など、新たなインスピレーションを求め、こぞって東の島国に目を向けた。
こうした「ジャポニズム全盛時代」のなかで、ブルーノ・タウトは育つ。
タウトは「表現主義」(Expressionism)とよばれる一派に数えられる前衛的な建築家で、戦後の悲惨な現実に対して、前向きなユートピアを提示するよりも、戦争の残忍さから逃れるための新しい都市の提案をしている。
タウトは中等学校を卒業した後、さまざまな建築家の事務所で働きながら、構造としての鉄鋼と石積を組み合わせた建築工法を体験を通して学んだ。
1913年にはライプツィヒで開催された国際建築博覧会で「鉄の記念塔」を作り、翌年にはケルンで行われたドイツ工作連盟の展覧会に「ガラスの家」を出展、これら2作品によってタウトは名を広く知られるようになった。
また、この頃タウトが設計した、田園都市ファルケンベルクの住宅群はベルリンのモダニズム集合住宅群のいちぶとして世界遺産(文化遺産)に登録されている。
1930年、ベルリンにある母校のシャルロッテンブルク工科大学(現:ベルリン工科大学)の客員教授に就任。革命への憧れをもっていたタウトは、1年間ほどソ連で活動した。
1933年にはヒトラー内閣が誕生しており、タウトがソビエト連邦から帰国したことは、政権から危険視される原因になった。
親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われた。
1933年、ナチスの迫害から逃れるため海外に滞在先を探していた際に、前年にあった上野伊三郎率いる日本インターナショナル建築会からの招聘を受け入れ、5月4日、タウトは念願の来日を果たす。
敦賀に到着した翌日、タウトは桂離宮に出会う。長らく憧れていた日本の美を間近でみた感慨もひとしお、タウトはこのときの印象を「泣きたくなるほど美しい」と日記に記している。
タウト以前に桂離宮を評価していたのは建築家ではなく、庭園関係者と茶人だった。
庭園という観点からの桂離宮評価だったからか、この時代の建築家は桂離宮にはあまり興味を示さず、建築家の評価は低かった。
タウトは桂離宮の美を最初に世界に広げた建築家となった。その一方で日光東照宮に出かけて、その過剰な装飾を嫌ったタウトは日記に「建築の堕落だ」とまで書いたことはあまり知られていない。
タウトは日本建築に関する文章を多く残したが『ニッポン ヨーロッパ人の眼で見た』で、桂離宮を激賞したことが以後の「桂離宮ブーム」を引き起こした。
出版して間もなく日本図書館協会の推薦図書に、その後は文部省選定の優良図書に指定されている。
ところで、タウト当初敦賀に滞在した後、日本国内を転々としていたが、当時帝国大学農学博士であった佐藤寛治の別荘であった「洗心亭」という建物が、少林山達磨寺境内にあり、空いていたためにここに滞在することになった。
タウトはここでの生活を大変気に入ったようだが、1935年に入る戦争の気配が強まり、日本では建築設計の仕事を得られなかったことから、トルコ政府の招きにより、コンスタンチノープルで活動しした。
1938年12月24日、心臓疾患で病没するが、最後の仕事は彼自身の死の直前に死去した大統領ケマル・アタテュルクの祭壇だったという。
翌25日に告別式が行われたあと、エディルネ門国葬墓地に埋葬された。
タウトの死後、デスマスク、タウトの所有物はすべて秘書のエリカが日本へ持ち出し「洗心亭」に預けており、トルコ国内にタウト関連の資料は残されていない。