役者から政治家へ

1950年代の前半、アメリカでおきた「マッカーシー旋風」。宇宙開発でソ連に後れをとったアメリカで、共産主義者のスパイがいるのではと疑心暗鬼となって、多くの知識人がスパイの嫌疑をかけられ追放された。
旋風の中心人物であるマッカーシー上院議員の名前からそう呼ばれたが、別名「赤狩り」ともよばれた。
ただし、アメリカ映画界(ハリウッド)における「赤狩り」は、「ユダヤ人狩り」の様相を呈した。
ハリウッドには、ユダヤ系の映画監督や脚本家が多くいたからだ。
彼らは、「赤狩り」を逃れ自由な制作を行うため、ユダヤ系が多いイタリアに渡って映画創りを行った。
そこで生まれたのが、ジュリアーノジェンマ主演の「荒野の1ドル銀貨」(1965年)などで、「マカロニ・ウエスタン」ともよばれた。
また、世界的な名作「ローマの休日」が生まれたのも、そうした背景があり、脚本家・トランボはユダヤ人であった。しかしその名は表には出なかった。
1954年の「ローマの休日」公開の翌年マッカーシーは失脚し、「赤狩り」の嵐も収まっていった。
トランボ自身は、1979年に亡くなっているが、1993年、「映画公開40周年」を記念して、アカデミー選考委員会によりようやくオリジナル・ストーリー賞が授与された。
その授賞式では、トランボ夫人が亡き夫に代わってオスカーを手にした。
そして2003年、映画公開50周年を記念して「ローマの休日」のスクリーン上のエンドロールにトランボの名前が流れたのである。
そんなこと思い浮かべたのは、ロシア侵攻で注目されるウクライナ大統領のウォロディミル・ゼレンスキーが、ユダヤ系の元喜劇役者であったことによる。
戦後帰還するユダヤ人により「イスラエル建国」がなるが、ソ連からパレスチナに入ったユダヤ人達は、社会主義的な集団農場を築いた。
それが、「キブツ」とよばれるものである。
ウクライナには、ユダヤ系住民が多数いた。その理由は他稿に譲るが、ナチス・ドイツ占領下の1941年9月、ウクライナの首都キエフの「バビ・ヤール」と呼ばれる谷間で、2日間にユダヤ人ら3万3000人以上が虐殺された事件がおきた。
事件はホロコースト(ユダヤ人大虐殺)のうち最大の一つと言われる。それから80年経過した2021年、ゼレンスキー大統領が現場を訪れて献花している。

昨年40歳過ぎて、プロ野球のトライアルに出場した新庄剛が、なぜか日ハムの監督となって「ビッグボス」と呼ばれているが、意欲はどんなカタチであれ見せておけば、違ったカタチで実現することもある。
しかしウクライナで喜劇役者が、実際に現職大統領を破って大統領になるなんて、誰が想像できるであろう。
コメディアンの太田光が実際に総理大臣になったとしたら、と想像してみたが。
ウクライナの喜劇役者ゼレンスキーが主演し、平凡な学校教師が大統領になるのを描いたテレビドラマのタイトルが、「国民の僕(しもべ)」。
ゼレンスキー大統領は様々な批判はあるものの、ロシアとの闘いでは「抵抗のシンボル」として評価をあげている。
さて、役者から政治家になった事例は少なくない。アメリカではレーガン、クリントイーストウッド、アーノルドシュワルツネッガーなどが浮かぶ。
また中国では、文革の首謀者として「四人組裁判」(1979年)で有罪となり自殺した毛沢東夫人の江青は、元は「上海の紅いバラ」とよばれる女優であった。
意外なのは、毛沢東時代の周恩来首相は、学生時代は美しい女形として名を馳せていた。
首相となったあとも、女形の名優・梅蘭芳(メイランファン)の京劇団を日本に送りこむなどしている。
日本の江戸時代には、「能役者」が重く取り立てられ政治に関わることもあった。
特に、5代将軍の綱吉は、将軍就任以前から「能」に耽溺し、江戸城内で私的催しを頻繁に開催し、自ら舞うだけでなく家臣や諸大名などにも「能」を舞うことを強要した。
さらに自分の能の相手をさせるために多くの能役者を武士の身分に取り立てて、江戸城内に仕えさた。
綱吉の「能狂い」は個人的興味にとどまらず、当時の能の世界にも大きな影響を及ぼした。
綱吉は能の演じ方にもたびたび口を挟み、本来のしきたりにならって、綱吉の命令に背いた役者が追放されることもあったという。
それゆえに「喜多(きた)流」は、流派存続の危機にさらされたほどであった。
また綱吉は、当時上演が途絶えてしまった珍しい曲を観ることを非常に好み、能役者たちは、普段めったに演じない曲や伝承が途絶えた珍曲を復活させなければならない羽目に陥った。
さらに、6代将軍・家宣(いえのぶ)もまた「能」の愛好家であった。その一例が、能役者から「お側御用人」になり、大名にまでなった間部詮房(まなべあきふさ)の存在である。
詮房は、家宣が甲府藩主・徳川綱豊であったころの藩士・西田清貞の息子でしあった。
「喜多流」の樹立を許されたシテ方の喜多七太夫の弟子となっていた詮房は、甲府藩主時代の綱豊の目に止まり、側用人に取り立てられた。
1704年に綱豊が6代将軍となると詮房も幕臣となり、将軍の「側御用人」となり、ついには高崎藩5万石の大名となる。
能役者から大名になった例は、詮房の他にはない。
詮房は、新井白石とともに家宣の治世を支え、「正徳の治」といわれる政治改革を断行。また一方で、当時将軍が好んだ能の珍曲探しに奔走し、復活上演するなど、能に関わることにも尽力した。
しかし歌舞伎役者と大奥女中のスキャンダル(1714年絵島事件)などもあり、8代将軍・吉宗(よしむね)の時代以降は、縮小に向かった。

ヨーロッパの映画の世界では、郵便配達人が政治家に成長していく「イル・ポステリーノ」(郵便配達人)という実話をもとにした映画がある。
「役者から政治家へ」という主題からややはずれるが、この郵便配達人を演じたのが、喜劇役者でありながら脚本を書いたマッシモ・トロイージである。
マッシモが、「原作」に惚れ込んだことから映画化へと動き出した。
彼の友人のイギリス人監督マイケル・ラドフォードに頼んで、2人で協力して映画化を進めることとなった。
実在した詩人パブロ・ネルーダに材を取ったA・スカルメタの「原作」を基に、映画化にこぎつけた執念の作品である。
1994年に「イル・ポスティーノ」が公開される。
南米のチリで逮捕状が出たため、イタリアに亡命してきた名のある詩人と、小さな島でひっそりと暮らしている郵便配達員の男との友情が描かれる。
第二次大戦直後の南イタリアの港町ナポリの沖合いの小さな島カプリを舞台とした「実話」を元にした映画である。
1950年代のナポリの沖合いに浮かぶ小さな島、そこへチリからイタリアに亡命してきた詩人パブロ・ネルーダが滞在する事になった。
パブロ・ネルーダは南米チリを代表する20世紀最大の詩人である。チリ大学在学中に「二十の愛の詩と一つの絶望の歌」を出版し、中南米の有望な詩人として認められた。
そのナポリ沖合いの小島に一人鬱々と暮らす漁師の青年がいた。
青年マリオは漁師の父親とふたりで暮らしているが、海が嫌いなマリオには仕事がなかった。
ネルーダの元には、世界中から山のようなハガキや封書が届く。そのため、局長1人で運営されている島の郵便局では、人手が足りなくなり、彼の元に郵便物を運ぶ“配達員”を雇い入れる必要が生じた。
自前の自転車を使用するという条件も合って、マリオは首尾よく、その仕事を手に入れ、毎日ネルーダ邸に通うようになる。
当初は郵便を届けては、幾ばくかのチップを受け取るだけの関係だったが、マリオがネルーダの著書を手に入れ、詩について質問をしたことがきっかけとなり交流が生まれる。
丘の上の別荘に毎日郵便を届けるうちにネルーダとマリオとの間には年の差を越えた友情が芽生えた。
ネルーダは美しい砂浜で自作の詩をマリオに語って聞かせ、詩の「隠喩(メタファー)」について語り、マリオは次第に詩に興味を覚えるようになった。
ある日カフェで働く美しい娘ベアトリーチェに心を奪われたマリオは、ネルーダに彼女に贈る詩を書いてくれるように頼んだ。
そしてネルーダ自身が妻のマチルダに贈った詩を捧げた。それをきっかけに、物事を直接的に語ることしか知らなかった朴訥な青年は、詩人からメタファー(隠喩)で語ることを教わる。
ところで、ネルーダの「愛の詩」の日本語訳をネットで探すと次のような詩が掲載されていた。
//君より背の高い女性はいるかもしれない、君より清らかな女性はいるかもしれない、君より美しい女性はいるかもしれない、でも君は女王様なんだ。
君が通りを歩くとき誰も君に気がつかない、君のガラスの冠に気がつかない、 赤と金の絨毯の上を君が歩いてもその絨毯に誰も気がつかない、その存在しない絨毯に君が姿を表わすと私の体の中のすべての河が騒ぎだし、空には鐘が鳴り響き、世界は賛美歌に満ちる ぼくと君だけ、いとしい人よ、ぼくと君だけがそれを聞く。//
この詩人を師匠としたマリオは思いを寄せるベアトリーチェに、「君のほほ笑みは蝶のように広がる」といった表現で手紙を書くようになり、少女の心を射止める。
しばらくして、国外追放令が解かれたネルーダ夫妻はチリに帰国してしまうが、またマリオはネルーダの詩の創作のために、様々な「音」を集めて送っている。
実は、漁師の倅マリオの青年が住む島には水道もなく、水道をひくという選挙公約もいつも反故にされてきた。こうした島の人々の不満や苦しみを青年は、詩人が教えたメタファーをもって世に訴えていく。
そして、島を代表してイタリアの共産党の大会に参加し、自ら作った詩で放置された「島の窮状」を訴えるのである。
この映画の主題は漁師の父親の後を継ぐ気もなくニートのような生活を送っていた青年が、恋愛をきっかけに「言葉の力」に目覚めた人間が、社会的問題の「本質」をつかんで自らの言葉で表現することで、人々を動かしていく姿にある。
一方ネルーダは1927年外交官となり、34年赴任したスペインの内戦では「人民戦線」を支援した。
1948年独裁色を強める大統領を非難し、地下に潜伏し、アメリカ大陸の文化、地理、歴史、階級闘争を包含する一大叙事詩「おおいなる歌」を執筆した。
詩人であるばかりか、外交官で共産党員の政治家であったネルーダは、時のチリ政府に睨まれたため、母国を脱出。以降、3年半に及ぶ亡命生活を余儀なくされるに至っている。
逮捕状が取り下げられ、彼がチリに帰るのは、52年8月のこと。実はその前年に、彼が仮の住まいとして身を寄せたのが、ナポリ湾に浮かぶカプリ島だったのである。
こうして、“チリ”の作家が書いた小説の舞台を“ナポリ”に移して、“イギリス人”が監督する“イタリア映画”が作られることになったわけである。
実際に撮影をされたのはプローチダ島という島で、現在も映画に登場する居酒屋は営業されている。
また原作では17歳の少年だったマリオを、マッシモ・ドロージに合わせて、30歳の青年に変えている。
しかしこの青年が、共産主義者のネルーダの影響を受けて、“労働者”としての自覚が生まれたことが、彼に思わぬ悲劇をもたらしてもしまう。
「イル・ポスティーノ」の結末では、5年という月日が経っていた。
ネルーダはひょっこり島に遊びに来ることになる。マリオたちに会おうと居酒屋にいるのだが、そこには小さい子供がいた。
その子供はマリオの子供だったのだが、マリオの姿はない。奥からベアトリーチェがやってくるが、ネルーダを見て驚いた様子を見せる。
ネルーダはマリオはどこにいるのかと聞くが、実はマリオはすでにこの世を去ってしまっていたのだ。
マリオは共産党の集会に参加していたのだが、そこで起こった暴動に巻き込まれてしまい、マリオは命を落としてしまったのだ。
ベアトリーチェはネルーダ宛てに録音されていたマリオの肉声テーブを聞かせる。
ネルーダは島でマリオと一緒に過ごした場所を歩きながら、懐かしい記憶を蘇らせる。
ネルーダは、マリオの死についての悲しみをかみしめ、その目には涙が浮かんでいる。
原作でのネルーダは、マリオの恋を加勢する中で、チリ共産党から大統領候補へと指名され、選挙運動へと突入していく。これは1969年に実際に起こった出来事である。
翌70年、「チリ人民連合」の統一候補にサルヴァトール・アジェンデが指名されると、ネルーダは立候補を取り下げて支援に回り、その年の9月にアジェンデ大統領が誕生。これは世界史上で初めて、合法的な選挙によって“無血”で誕生した、社会主義政権であった。
1971年にノーベル文学賞とレーニン平和賞を受賞したネルーダは、72~73年にはチリのフランス大使としてパリに赴任。アジェンデ政権の外交を支える一員となる。
73年3月、アジェンデ政権は国会議員選挙でも国民の支持を得て、圧倒的な勝利を収めた。しかしその年の9月11日、中南米に社会主義政権が存在することを快く思わないアメリカが介在して、軍事クーデターが発生。
アジェンデ大統領は自殺に追い込まれ、チリはクーデターの首謀者である将軍による軍事独裁政権に転ずる。
その時ネルーダは、癌を患いフランス大使を辞しており、チリに帰国して静養中にアジェンデ政権崩壊と共に、当局によって軟禁状態となる。
そして9月24日、ネルーダは失意の中で心臓発作を起こし、69年の生涯の幕を閉じる。
チリではその後、軍事独裁政権により左派”が徹底的な弾圧を受け、数多くの者が拉致されては虐殺されたり、行方不明となった。
原作では、ネルーダと親しくて共産党員となっていたマリオも権力側に連行されて、そのような運命を辿ることが暗示される
映画化を主導したトロイージの故郷ナポリはかねてからイタリア国内では失業率が高く、「イタリア共産党」への支持も強い地域であった。
映画版には原作ほどの政治的要素は感じられず、もの静かなヒューマンドラマとなっている。
しかしトロイージが、常に「人民の側の詩人ネルーダ」が重要な役割を果たすこの原作に惹かれ、己の生命を賭してまで映画化を進めたのには、ある種の共感があったであろうことは、想像に難くない。
パブロ・ネルーダは1971年ノーベル文学賞受賞するものの、その2年後にクーデター勃発し、まもなく癌により死去している。
この映画は1993年3月に撮影をスタートしているが、この映画の主役となったイタリア人喜劇俳優トロイージはその時心臓の病におかされていた。
しかし映画製作を優先し手術を延期し、治療を続けながら撮影を続けた。
トロイージの体は日増しに弱っていったが、ネルーダ役であるイタリアの名優フィリップ・ノワレの励ましを受けつつ、撮影は続けられ、6月3日にはすべてを撮り終えた。
そして撮影終了後わずか12時間後、トロイージは41歳の若さで世を去る。
イタリアの名優フィリップ・ノワレと喜劇俳優マッシモ・トロイージによって演じられた「イル・ポステリーノ」はアカデミー賞5部門にノミネートされた。
映画の役柄と実際の友情が重なったこの映画が、「黄金の魂をもつ作品」と評される由縁である。