「鄙(ひな)」に居た天才

1980年代に、細川護煕と岩圀哲人の共著「鄙の論理」は、それぞれが熊本県知事、島根県知事として、中央政府一辺倒に対する独自のビジョンをうちだしたものだった。
我々は「ひなびた」という言葉を使うことは少なくないが、「鄙」という文字が広がった感があった。
「鄙」を漢字の部首から意味を探ると 「啚」 は米倉や納屋を描いた象形文字で、「阝」 は 「邑」 の変形で 「鄙」 はいわゆる”田舎”、”農村地域”を意味する漢字である。
日本語では「日無」という文字が当てられ、「日」は支配者(天皇)を意味し、その恩恵が及ばない土地。となると、いわゆる「まつろわぬ」人々という意味。
また、陽のメを浴びないとか、「場末(ばすえ)」とかいうニュアンスまで含む。
関連して気になるのが、「山陽」に対する「山陰」。
松本清張の小説「砂の器」の父子の哀しい物語。また、小泉八雲が出雲を「神話の国」として紹介したイメージとも重なる。
その名称は、律令制の行政区画である五畿七道の「山陰道」にちなむ。
「山陰」とはもともと、中国語で「山の北側」を意味する言葉で、「山陽」とは中国山地の南側に位置する地方を指す言葉である。
ちなみに、中国地方の「中国」は、畿内に対し遠国でも近畿でもなく「中ほど」に位置する意味のようだ。
さて、山陰の島根といえば、出雲大社の祭神・大国主命(おおくにぬしのみこと)が、大袋を担ってやってきた土地。
ミュージシャンの竹内まりやの実家は出雲大社参道入口の割烹で、出雲の地はなにかキラキラするような”異才”が表れる地域のようでもある。
山陰には有力企業が少ないということもあり、山陰の若者たちにとって「役所」や「信用組合」こそ、もっとも望まれる進路先であるという面がある。
そうした地味な役場や信用金庫の仕事をしながら、中央の舞台で脚光を浴びた人もいる。
最近注目の「Official髭男dism」は、20代後半から30代前半、元銀行員や警察音楽隊出身である。
またスポーツの世界では、広島カープの元エースで、大野豊投手もその一人である。
セリーグ左腕のエースといってもよい存在ともなった大野だが、実家は日本海に面していたため、幼少期から砂浜で走って遊んでいたことで、足腰が鍛えられ、後年の下半身に重心を置くフォームの土台にもなった。
母子家庭であり、母の苦労を見ていたので「中学を卒業したら、就職する」と胸に秘めていたが、せめて高校だけは出て欲しいと家族が要望したため、すぐに働くために出雲商業高校を選んだ。
高校2年から本格的に投手として投げ、高校3年の夏には島根県でも注目されるようになる。
強豪社会人チームからの誘いもあり、広島のスカウト木庭教もマークしていた。
しかし、当時の大野は体力的に自信がなく、また母子家庭で苦労をかけた母のため、軟式ながら地元で唯一野球部がある「出雲市信用組合」へ就職した。
3年間窓口業務や営業活動をこなす傍ら、職場の軟式野球部で野球を続けていた。
1976年に、島根県準優勝の島根県立出雲高等学校と、練習試合を硬式野球で行ったところ、5イニングで13三振を奪い、硬式でもそれなりに投げられたことで、プロへ挑戦し、母親を楽にさせたいという気持ちを持ったという。
そしてもう一人、「鄙に居た天才」といえるのが浅川マキ。近年その訃報に接し、懐かしさがこみあげた。
高校時代にお金持ちの息子が、「これぞ大人の女性の魅力ゾ」といいつつ浅川マキの「アルバム」を貸してくれのがきっかけだった。
浅川マキの代表曲「かもめ」や「赤い橋」や「ちっちゃやなころから」の少し投げやりなアンニュィを含んだ雰囲気にひきつけられた。
当時、淺川は、「渇いたブルースをうたわせたら右に出る者はいない」と言われ、ジャズ、ブルースやフォークソングを独自の解釈で歌唱した。
ところで浅川マキは、横浜の本牧のクラブあたりで歌っている感じがしたが、その経歴を見ると意外なことがわかった。
石川県の町役場で「国民年金窓口係」の仕事をしていたのだ。職に就くや、ほどなく上京し、マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始めた。
戦後の混乱期、石川県の役場勤めの女性が上京して”歌姫”として成功するサマは、松本清張の「ゼロの焦点」を髣髴とさせる。
その浅川を見出したのが寺山修司で、新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を行い、クチコミでその名前が広がっていった。
そういえば浅川マキの「ふしあわせという名の猫」は、寺山修司作詞の「時には母のない子のように」の曲想を思わせるものがある。
2010年1月17日、ライブ公演で愛知県名古屋市に滞在中、宿泊先ホテルで倒れていたところを発見され、搬送された病院で死亡が確認された。享年68。

東京文京区・江戸川橋から神田川沿いに東にある「西五軒町」あたりには周恩来なども下宿し、中国人留学生が日本語を学ぶための「弘文学院」があった。
「弘文学院」にはかつて中国人作家・魯迅も通っていて、「弘文学院」で学んだあと一人仙台に向かい、現在の東北大学医学部に学んだ。
魯迅はこの大学で彼自身の人生を転換せしめる決定的な体験をする。ある日のこと大学の階段教室で幻灯の上映が行われ、中国人が日本人に銃殺されているシーンを見た時のことである。
周囲の日本人学生の喚声があがる中、その銃殺の周囲にいる中国人民衆の無表情さ・無関心さに大きなショックをうけた。
そしてこの時、彼自身の内部で憤怒とともに恥辱の気持ちが広がり医学を学んで「人の体」を直すよりも、中国人の「精神を正す」文学を志す決意をする。
この幻灯のシーンの中の民衆の姿をシンボリックに描いたのが「阿Q正伝」である。
ところで東北という同胞から離れたところで学ぶ孤独な魯迅にとって救いとなったのが、東北大学の教授であった藤野先生であった。
藤野先生は、魯迅のノートを細かに添削して魯迅の勉学の進路について絶えず励してくれた。
魯迅は、藤野先生の恩を一生忘れずに、藤野先生の写真をいつも座右においていた。
ところで、太宰治は小説「惜別(せきべつ)」で魯迅と日本人との交流を描いている。
「惜別」は、戦時中のため自分と魯迅の関係を「日支友好の美談」のように誇張されてしまう為、自分で「思い出」を手記にに残そうと考え、書かれたものとなっている。
1943年「大東亜共同宣言」が採決され、日本文学報国会による依嘱作家の一人となった太宰は、仙台医専在学当時の魯迅について現地で調査している。
物語は、当時の魯迅の親友であった老医師「私」が語るという設定で、学生時代に同輩だった魯迅について、記者が取材に来るところから始まる。
その記者は老医師に、「あなたは今の東北帝大医学部の前身の仙台医専を卒業したお方と聞いているが、それに違いないか」と問う。
そのとおりだと老医師が答えると、記者は「明治三十七年の入学ではなかったかしら」と胸のポケットから小さい手帖てちょうを出しながらせっかちに尋ねる。
すると記者は「あなたとは同級生だったわけだ。そうして、その人が、のちに、中国の大文豪、魯迅となって出現したのです」とたたみかける。
老医師は「そういう事も存じて居りますが、でも、あの周さんが、のちにあんな有名なお方にならなくても、ただ私たちと一緒に仙台で学び遊んでいた頃の周さん だけでも、私は尊敬して居ります」と応える。
記者が「へえ」と眼を丸くして驚いたようなふうをして、「若い頃から、そんなに偉かったのかねえ。やはり、天才的とでもいったような」。
老医師が、「いいえ、そんな工合ではなくて、ありふれた言い方ですが、それこそ素直な、本当に、いい人でございました」と応える。
そして「私」と魯迅の出会いについて語り始める。老医師は自身の強い訛りを引け目を感じ、授業をほっぽって松島に観光に出かけたところ、そこで周さん(魯迅)と出会う。
その後、周さんが慕っているという藤野先生とも面識を得て、互いに仲を深めていく。
その後、周さんが祖国で行き過ぎた儒学や漢医学などの無知蒙昧が蔓延していること、それを打破するために西洋医学を学び祖国の人々を治療することで西洋科学のすばらしさを啓蒙し、祖国近代化の助けになりたいといった志が明かされる。
そして、そんな魯迅の思いを決定づける「幻燈事件」が起きる。

アルベルト・アインシュタインは、ニュートン以来の時空の概念を根本的にかえるような理論をうちたてたが、彼が驚愕の理論を発表したのは、いわばアマチュア時代であった。
アインシュタインは1896年にチューリヒ工科大学を卒業し、大学の助手になりたいと希望していたが、助手にしようという教授はいなかった。
助手になるアテがなく、仕方なく家庭教師をやったこともあり、「オリンピア・アカデミー」という科学について議論する三人の友の会を結成したりしている。
そして、友人の紹介でスイス・ベルンの特許局になんとか就職することができた。
アインシュタインは通算7年間特許局に在籍した。特許局にはアカデミックな雰囲気とは程遠い環境で、この時アインシュタインは「日の当たらぬ場所」を歩んでいたようにも思える。
しかし、それが逆に好都合であったようだ。
勤務時間後に自宅で自分の理論研究をこつこつと行った。また時間を無駄にしないように人との接触をさけ、休み時間でも思索にふけった。
仕事を通じて能力を磨き、仕事の合間に自由に研究をするという、結果的には非常に恵まれた時間を過ごしたわけである。
、 特許局時代についてアインシュタインは、「ここは世俗の修道院のようなところで、私は自分が生み出したとても美しいアイディアを卵から孵しています」と語っている。
そ実際、この特許局時代こそ、アインシュタインが最も素晴らしい知的生産を成し遂げた時期だった。
1905年、研究の成果を3つの論文に発表した。
第一の論文は「光電効果」に関するもので1922年にノーベル物理学賞を受賞する。
第二の論文は特殊相対性理論に関するもので、この論文が「一般相対性理論」とともに、物理学の革命をもたらす。
第三の論文は、統計力学に関するもので原子の実在を明確にするものであった。
1908年、特許局に勤務するかたわらベルン大学の私講師のポストにつくことになり、これがアカデミズムの場での最初の仕事であった。
世界的に有名になったアインシュタインには、特許局の一役人に留めてはおけないと、様々な大学からオファーが来るようになった。
しかし、大学で講義を行うための準備が思った以上に大変で、奇妙なことに特許局時代よりも自由に研究するための時間が少なくなったと嘆いている。
こういうと、特許局時代のアインシュタインはどれだけ仕事をサボっていたんだと思いたくなるが、アインシュタインは特許局の職員として実に有能だで、局内で最も有能な専門家の一人という高い評価を得て、昇進・昇給もしている。
アインシュタインは、特許局の仕事に向いていただけではなく、特許局の仕事を通じてさらに知的に成長したともいわれている。
特許局は特許の申請を受け付ける場所であるが、やってくるのは、申請したい特許に関して上手く説明できない人たちばかりだった。
特許局の仕事というのは、そんな彼らの申請書をチェックし、申請された特許内容の核心を捉え、それについて的確な申請書類を作る、というものであった。
局長が非常に厳しくこの仕事を通じてアインシュタインは、物事を批判的に捉える力や、自分の言いたいことをいかに正確に表現するかを学んでいる。
特許庁は、アカデミズムとはかなり違った世界であったにせよ、その仕事になくしては、知的な面での成長が阻まれていただろうともいわれている。
「奇跡の年」となる1905年に、「特許庁」に在籍していたことからも、そのことは明らかである。
一般相対性理論の要となった「等価原理」も、特許局の椅子に座っている時に閃いたと、後に講演で語っている。

1915年に「変身」を書いたフランツ・カフカもまた「鄙にいた天才」といえそうだ。
なぜなら、カフカの「変身」という作品には、現代人には身につまされるような”実存的”状況が描かれているように思う。
ある男が朝起きたら「虫」になっていたという話だが、突然「変身」することを、逆に突然に周りの世界が変化したと「置き換え」れば、相対的に人間は「変身」したことにもなる。
要するに、人間はある日突然に虫になることはなくとも、ある日突然に世界との「不調和」を体験して悩まされることは、大いにアリウル話である。
つまり、転勤も失業も病気も事故など、「変身」の起因はいたるところに転がっているということだ。
カフカが生まれたプラハを支配していた帝国の名は、オーストリア・ハンガリー二重帝国である。
そこは多数のチェコ人を少数のドイツ人が支配し、カフカがその血をうけついでいたユダヤ人は、その二重構造からもハズレていた。
カフカはその二重帝国のシンボルのひとつであるプラハ大学で化学とドイツ語を学び、結局は法律学を専攻する。
カフカは学んだ法律学も生かせないまま、ふらふらと「労働災害保険協会」に入る。
これも、半官半民の中途半端な組織だったようだが、仕事上、突然事故で手足を失ったような労働者と出会ったようなことも推測できる。
この職場での時間に書いたのが「変身」であった。
主人公のグレゴールはある日自分が虫になっていることに気がつく。
作家は「彼は甲からのように固い背中を横にして横たわり、頭を少しあげると、何本かの弓型の筋にわかれてこんもりともりあがっている自分の茶色の腹が見えた」と描写している。
かつての大黒柱が厄介者となってしまった一家は、母も妹も勤め口をみつけて働くようになる。
そのうち家族は誰もグレーゴルの世話を熱心にしなくなり、代わりにやってき手伝いの大女はグレーゴルを怖がるどころか、彼をからかうようになる。
家族は生活のために空いた部屋をある男に貸すが、男はグレーゴルの姿を見つけるや家賃も払わず出ていってしまう。
これを契機に家族はグレーゴルを見捨てるべきだと言い出し、父もそれに同意する。
グレーゴルは憔悴した家族の姿を目にしながら部屋に戻り、そのまま息絶える。
目がさめたら虫になっていたという設定だが、誰しも次の日職を失ったとか、記憶を失ったとか、外に出られなくなったとか、有罪の烙印を押されたとかで「虫」になる可能性がなくはない。
またカフカには「城」という作品があって、城に招かれながら、もどかしくも城には辿りつけない「測量士」の物語である。
だらだらしたラチのあかないところが、カエって「実存的」ともとれる。「城」は結局は扉を開くことなく、作品は終ってしまう。
さて、カフカにとっての「城」とは、まさしくカフカが生まれた国のようであり、カフカがうけついだ血のようであり、カフカが就職した「労働災害保険協会」のようでもある。

できる。 浅川の独自性は、外国作品を自ら日本語で唄う場合、原作の保つ世界観を損なわぬよう先ず対訳を依頼し、メロディーから受けるイメージも採り入れたうえで推敲し新たに詩作を行った。そのため表記を「訳詩」とせず「日本語詩」としている。
新型コロナウイルスが発し当初、品切れになったのはマスクばかりではなく、カミュの小説「ペスト」もそうらしい。
「ペスト」は1940年代のアフリカ北部のフランスの植民地アルジェリア西部のオラン市が舞台。
高い致死率を持つ伝染病の発生が確認されたことで街が封鎖され、愛する人との別れや孤立と向き合いながらも見えない敵と闘う市民を描く。
山陰といえば、日本海に面する出雲(島根県)や若狭(福井県)は、いまだに「鄙(ひな)」のイメージがある。
個人的には、 ヨーロッパへは11世紀に十字軍が東方の産物として手織り絨毯を持ち帰ったのが「タペストリー」の始まりとなる。
華やかな絨緞を靴で踏むのは忍びないことから、壁にかけたところ、部屋の装飾になるだけでなく、壁の隙間風を防ぎ、断熱効果が認められた。
ここからヨーロッパでの需要が高まり、国内で生産できる”つづれ織り”の「タペストリー」が生まれた。
それから15世紀にかけて、フランス北部のアラスが織物で栄えた都市だった。
特に上質のウールで織られた「タペストリー」はヨーロッパ各地の城や宮殿を飾るために輸出され、16世紀までにフランドルがヨーロッパの「タペストリー」生産の中心地となった。
中世のキリスト教は、修道院の家畜を襲う狼を邪悪な動物として駆除していたため、”ペスト菌”を媒介するクマネズミが大量発生したが、そのクマネズミの格好の棲家が、壁に吊ったままの埃だらけの「タペストリー」だった。
この14世紀のペスト蔓延を契機に「タペストリー」より軽量で手入れの簡単な布や革が壁を覆うものとして好まれるようになり、印刷技術の発達によって15世紀半ばには「壁紙」にとって代わっていく。
それにしても、ヨーロッパから南米に持ち込まれた”疫病”によりインカやマヤ文明が滅んだといわれるが、南米から持ち出した”染料”が、ヨーロッパのペスト流行拡大を助けたとは!

備考​[編集] 東北大学医学部前身の仙台医専に留学していた頃の魯迅を、、藤野先生・私・周君(魯迅の本名)らの純粋な対人関係を描いた。作中で魯迅の語る偽善や革命運動家への疑問などを通して太宰自身の思想が色濃く反映されており、伝記としての魯迅伝とは若干異なる作品となっている。 「中国の人を賤しめず、軽妙に煽てる事もせず、独立親和の態度で臨んだ。日支(日中)全面和平に効力を与えたい。」という意図の政治的発言を太宰にしては珍しくしている。短編小説「竹青」(『文藝』1945年4月1日号収録)の末尾にも「竹青はシナ(中国)の人達に読んで貰いたくて書いた」とあるように、太宰は戦争末期、対等な日中和平を真に望んでいた作家であったとも言える。 他の太宰作品とは大きく異なる傾向にあるこの作品に、熱烈な太宰ファンだった竹内好や武田泰淳、鶴見俊輔といった作家らは失望を表した[要出典]。竹内や武田は東京大学支那文学科に籍を置いていたこともあり(武田は中退)、中国文学に独自の愛着を感じていたためだとも考えられる。