軍人の蜂起

軍人のクーデターといえば近年、韓国(1980年光州事件)やタイ、ミャンマーなどで起きていてあまりいいイメージはない。政治の不安定に乗じて軍が民衆を弾圧する側に回ったからだ。
しかし、専制君主の暴走や政党の腐敗を正そうとした、「軍人の反乱」がないわけではない。それがたとえ軍人のひとりよがりだっとしても。
ロシアの帝政の時代の1825年、「デカブリストの乱」が起きている。
デカブリストとは、武装蜂起の中心となった貴族の将校たちを指し、反乱が12月に起こされたことから「デカブリスト(十二月党員)」の名で呼ばれた。
ナポレオンの「ロシア遠征」を失敗に追い込んだロシアは、ヨーロッパにおいて大いにその地位をあげたが、意外にもナポレオンを通じてフランス革命の精神に影響をうけた。
ナポレオン戦争に従軍した貴族出身の青年将校たちは、パリにまで進軍しフランスに滞在中、議会の討論会や自由主義的な雰囲気を持つ大学の講義を聴講したり、政治的意見を掲載する新聞を読むなどして、ヨーロッパ諸国の政治・社会制度に触れ、祖国ロシアのそれと比較して格段の進歩を遂げていることに衝撃を受けた。
また、戦争に従軍している農民出身の多くの兵士に直接接し、彼らの境遇の劣悪さを肌で感じ、国家社会の改革を強く意識し、改革の必要性を痛感し蜂起した。
デカブリストの乱はロシアにおける農奴解放を実現させるが、最終的にニコライ1世により鎮圧された。
この「デカブリストの乱」に幾分似た事件が日本でも起きている。
1878年8月23日の近衛兵の反乱、これを「竹橋事件」と呼ぶが、教科書で"欄外扱い"するのでは不当なほどで、日本の近現代史を方向づけたといっても過言ではない。
その発端は、皇居を守るべき精鋭「近衛兵団」が、西南戦争の恩賞に対する不満と俸給減額への不満から、皇居内に向け大砲を砲火した。自由民権運動の影響を受けた兵隊もいた。
竹橋事件は、大砲を皇居に向かって撃ったことをもって「天皇に対する反乱」と見なされているが、その処分の厳しさは異例のものであった。
第一に、8ヶ月にわたる西南の役の叛徒は、禁固以上で1767人に及ぶ中、斬罪に処せられたもの22人に対し、竹橋事件では53人の銃殺。しかも事件から2ヶ月たたないうちでの処刑だった。
第二に、竹橋事件の処刑者は、後に「大赦」となり賊名は消えたが靖国神社の名簿にはない。(極東軍事裁判のA級戦犯は名簿にアリ)。
竹橋事件は、兵士達の西南戦争における待遇の不平等を訴えたばかりか、徴兵制度の根本を問うものでもあった。
自由民権運動にも連動し、他の砲兵大隊と統一行動をとるならば、空前の武装蜂起となりうる予断を許さぬものがあった。
山縣有朋によって「参謀本部の設置」が建議され、初代参謀本部長となるが、山縣有朋により「竹橋事件」は政治的に徹底利用された。
最終起案者・山縣有朋の「軍人訓誡」は、「忠実、勇敢、服従」を主眼としている。特に、軍人の政治活動(自由民権運動など)への参加を誡めている。
そして、「軍人訓誡」の配布は竹橋事件の処刑直前の10月12日というタイミング。
それは、この訓誡にそむく兵士がいかなる末路を辿るかを 極めて効果的な形で証明することになる。
「軍人訓誡」はのちに「軍人勅諭」として全国の兵士に下賜される。
また、参謀本部の独立は、統帥権いっさいを天皇の直属させ、政府の介入を許さない、いわゆる「統帥権の独立」の布石となったのである。
竹橋事件は給与問題から起きたということなので、軍事予算削減はおそるべき事件をまねくという政党への口実にも利用されることになった。
兵士に対する鉄の締めつけをするための「みせしめ」として利用されたのである。
竹橋事件の処刑者の墓は、なんと100回忌にあたる1977年になって、ようやく所在が確かめられた。皮肉にも、乃木坂の約50名は、裁いた側の陸軍大将・乃木希典を祀る神社に向かう乃木坂近くに埋葬されていた。

昭和史における軍人の反乱といえば、515事件と226事件。いずれの事件でも、ささいな偶然から貴重な人材が死から免れている。
その幸運の主のひとりはチャーリー・チャップリンで、そこには”相撲観戦”が関わっている。
さて、チャップリンの秘書は、高野虎市(こうのとらいち)という日本人であった。
高野は、広島の裕福な家庭に生まれるが、自由に憧れて1900年、15歳のときに移民としてアメリカに渡った。
当初は従兄弟を頼りに暮らしながら雑貨店などで働きながら現地の学校に通った。
1916年にチャップリンが運転手を募集していたため赴いたところ、採用された。
特にチャップリンのファンであったわけでもないが、当初は運転手としての雇用だった。
そのうち、後にチャップリン邸の秘書となる。
チャップリンは高野の仕事に対する一途な姿勢に感銘をうけ、一時期家の使用人全てを日本人にしたほどである。
また、チャップリンが日本贔屓であるのも彼に由るところが大きい。
高野に最初の子息(長男)が誕生した際には、チャップリンは自らのミドルネーム(スペンサー)をその名前として与えている。
そんな中1931年に公開された「街の灯」が興行収入500万ドルを越える大ヒットとなった。
しかしその直後人気絶頂にあったチャップリンが次回作のプレッシャーに追い詰められ部屋に閉じこもるようになってしまう。
人々を楽しませなければならないプレッシャーと孤独の闘いに苦しむ天才チャップリン。
その姿を見た高野はどれだけキツくてもチャップリンを支える事を決意し、公私ともにあらゆるワガママに応えていった。
素人同然にも関わらずチャップリンの命令で無理矢理映画に出演させられたり、 挙げ句の果てには、チャップリンの妻の浮気調査までさせられていた。
自由を求めてアメリカに来たはずの高野には、子供たちと過ごすことも出来ず束縛される日々が続いた。
チャップリンの高野への信頼度を示すことのひとつが、 家の使用人17人を全て日本人に変更したことがあげられる。
そのチャップリンが日本に初めて訪れたのは1934年5月14日。つまり、歴史的事件でもある515事件の前日である。
当時、国民には政党政治への不信が蔓延し、1932年5月15日、海軍将校・陸軍士官学校候補生らが決起し、「憲政の神様」とも評された犬養毅首相宅に押し入った。
犬養は、毅然とした態度で青年将校を抑えとどめる。「諸君はいったい、なんの用で来たのか」「乱暴なまねはするな、靴ぐらい脱いだらどうだね、おたがい話せばわかることだ」。
しかし、将校は 「問答無用、撃て」 将校が発砲した弾は頭部を貫通。こめかみに入った弾丸は、鼻の辺りに止まる。だが、出血が止まらない。意識は薄らいでいき、犬養は夜中に死去した。
以上が世に言う515事件の顛末であるが、実はこの日に首相官邸でチャップリンの歓迎会が行われる予定であった。
そしてチャップリン自身も襲撃のターゲットになっていたのである。
チャップリン訪問のことを事前に知っていた軍人たちは、欧米の退廃文化にかぶれた連中を効率よく殺すことができる と考えたからだという。
そして同伴した高野も、チャップリンが日本で受けるであろう敵意に対しても敏感だった。
515前夜に皇居付近を自動車で走行中、チャップリンに「車を降りて皇居(当時は宮城)の方角に向かって会釈してほしい」と依頼した。
これはチャップリンに対する不穏な動きを察知してか、印象を少しでも良くするために行ったものであったが、チャップリンはそれに従ったものの、その真意を測りかねていたという。
ところが5月15日の歓迎会の日、首相官邸にチャップリンの姿はなかった。
チャップリンは勝手な思いつきで総理との面会をキャンセルし、相撲観戦へと足を運んでいたのだ。
5月18日、犬養毅の葬儀が執り行われ、チャップリンは「友国の大宰相犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」という弔電をよせた。また、襲撃現場に立ち寄り、追悼の意を示した。
高野は1934年までチャップリンの下で秘書を務めた。
チャップリンの当時の内縁の妻ポーレット・ゴダードの浪費癖を指摘したところ、ポーレットがこれに激怒する。
高野は、自分を取るか、ポーレットを取るかとチャップリンに迫ったところ、チャップリンは高野をクレイジーだと応じたため、高野は自ら辞任した。
とはいえチャップリンは高野に莫大な退職金とアメリカの映画配給会社ユナイテッド・アーティスツ社の日本支社長の地位を用意した。
このうち支社長の地位は、日本での作品上映に当たる代理店としての権利を与えたものであったが、日本の興行習慣に高野が馴染まなかったため長続きはしなかった。
高野はその後いくつかの事業を試みるがいずれも成功せず、妻イサミを病気で失っている。
日米開戦後には日系人の一人としてモンタナ州の強制収容所に収容された。
高野は「特に親米的な日本人」として待遇も良かったものの、日本の敗戦後も収容が続き、6年間の抑留を経て釈放されたのは、戦争終結から3年後の1948年8月のことであった。
高野は、収容所の中で自分の故郷・広島に原子爆弾が投下されたことを知ったはずだ。
1956年に、第二次世界大戦中にアメリカ市民権を失った日系アメリカ人のアメリカ市民権回復運動への支援を日本で募る目的で日本に帰国した。
晩年は故郷の広島で過ごし、1971年に、86歳で死去した。
世界が第二次世界大戦の巨大な渦に巻き込まれていく時代、チャップリンが世界に向けて発信した平和のメッセージは、高野の存在や日本での危機体験なくしては語れない。

1936年2月25日、深々と降り積もる中、官邸には選挙直後の総理大臣・岡田啓介や身近で支える人々が集まり穏やかなムードにいた。その中には岡田総理を父のように慕う秘書官の福田耕(たがやす)がいた。
日付が変わった26日の午前5時ごろ、凄まじい「銃声」が静寂を破り、自宅で目覚めた福田は外を眺めた。
そこには、数多くの歩兵部隊が向かいの首相官邸を取り囲んでいる姿が目に飛び込んできて、彼はすぐに官舎を飛び出そうとしたが玄関に居た兵に制止された。
後にわかったことは、この日、首相官邸を襲ったのは陸軍の歩兵部隊約300人でで、同じ頃には別の部隊が警視庁などを襲撃、陸軍省を含む東京の中枢を占拠した。
異変を知って官邸に松尾伝蔵陸軍大佐が私服警官とともに駆けつけるや、間もなく襲撃部隊が官邸になだれ込んできた。
見つかるのは時間の問題だった。そしてそのとき福田が耳にしたのは、兵たちの「万歳の声」。それは岡田首相が殺害されたことを意味するものだった。
首相官邸は襲撃部隊に完全に制圧され、襲撃から4時間経った26日午前9時、寝室には遺体が安置された。
福田は同僚の秘書官を伴い線香を上げたいと官邸の中に入った。ところが寝室に通された二人は予想もしない事態に直面した。
遺体は岡田首相ではなく義弟で私設秘書官の松尾伝蔵大佐だったのだ。
そして二人は女中部屋に向かった。そこには身を固くして座り込んだまま動かない女中たちの姿がいた。尋ねると女中の一人が「お怪我はありません」と答えた。
福田たちはこのとき岡田首相が無事であることを直感した。女中たちは押入れの前から動こうとしないのに気づいた。
彼らは、適当な理由を作り将校を女中部屋から遠ざけ、押入れの中の首相の生存を確認した。
襲撃直後に、捜索を続ける下士官に女中部屋の押入れが開けられるが、女中の「料理番のお爺さんです。風邪をひいて休んでます」の答えに下士官は部屋を立ち去る。
そして女中たちは怯えて動けない振りをして首相を守り通してきたのだった。
実は、義弟で私設秘書官でもあった松尾伝蔵大佐は、襲撃部隊の侵入を知って岡田首相を女中部屋の押入れに押し込むと自らは庭に立ち襲撃部隊を待ちうけた。
襲撃の下士官の「撃て!」の一声で一発の銃弾が松尾大佐の顔面を捉え、松尾大佐は即死した。
襲撃部隊のリーダー的将校らも岡田首相と面識は無く、欄間に掛けてあった肖像画を頼りに岡田首相本人であると判断したのだ。
実際に、岡田首相と松尾伝蔵は、顔や体型がよく似ていた。
そして福田は、押し入れの岡田首相を「救援」に動き出した。政府に応援を要請するため宮内省に使いを送る一方、官邸内を歩き襲撃部隊の警戒態勢を調べた。
岡田首相が隠れていたのは女中部屋の押入れで、脱出するには廊下を通って玄関に出るしか道はなかった。
しかし見張りの兵が寝室前と玄関に立って常に警戒しているため、通過するのは至難の業だった。
ところが事件発生から14時間が経った午後7時、ラジオや新聞の号外が岡田首相の死を伝えた。それを聞いた親戚が早く弔問させるよう訴えてきたのだ。
27日午前9時かつて福田応援を求めた憲兵隊曹長がやってきた。彼も女中から岡田首相が無事であることを知った。
そしてこの二人の出会によって「奇跡の脱出劇」が始まった。二人が考えたのは、次のような「奇想天外」な作戦だった。
まず弔問客を官邸内に入れ、小坂の部下たちが兵の注意を逸らし、岡田首相を焼香を終えた弔問客ということにして玄関を通過させ車で脱出するというもの。
寝室と玄関の見張りに怪しまれずに通過できるかが成功の鍵を握った。
弔問客の誘導から首相の脱出まで各人の役割分担が決められた。
福田は弔問客を入れさせてほしいと頼み、交渉の結果10人程度という条件で許された。
一方、憲兵隊軍曹は岡田首相を弔問客に変装するための着替えを用意し、部下が見張りの注意を引きつける間に、女中部屋に届けることができた。
そして27日午後1時、いよいよ作戦が決行された。
予定通り弔問客が官邸内に足を踏み入れ、しばらくして岡田首相を廊下に連れ出した。
ところが心神を消耗した岡田首相は歩ける状態ではなく、福田と軍曹で抱きかかえるように部屋を出た。
寝室の見張りを突破し玄関前の廊下を進んだが、慌ただしく走ってきた3人にただならぬ気配を感じたのか、見張りの兵が身構えた。
尋問しようとしたその瞬間、軍曹はとっさに「病人だ、死体を見たからだ」と答えた。
見張りの兵は、最後まで弔問客が1人多いことに気が付かなかった。
そして3人は遂に玄関を出た。直後、岡田首相を乗せた車は官邸を脱出。事件から32時間が経った午後1時20分、首相は無事救出された。
しかし、岡田首相は事件の責任をとって辞職。事件から16年後84歳でなくなっている。

自分を守ってくれた者達の位牌をつくり供養し続けたという。