熊本市電めぐり

1876年1月30日に熊本市の花岡山(標高133m)に、熊本洋学校の生徒35名が集まった。
米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に「奉教趣意書」に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗し、これを日本に広めようと「盟約」を交わしたのである。
しかし、その直後に熊本洋学校は閉校になり、彼らの多くは新島襄の「同志社英学校」に移り、卒業後は同志社大学、日本組合基督教会の重鎮になった。
博多方面からJRで、熊本駅に到着すると、すぐ右側に見える小高い山が「花岡山」である。
熊本で結集したこの集団は「熊本バンド」とよばれ、「札幌バンド」、横浜バンド」と並んで日本の明治のプロテスタント派の3つの源流の1つとなった。
花岡山山頂には、その「熊本バンド」結成の地として、1865年に記念碑が建てられた。
歴史上の「誓約」といえば、1620年イギリスからアメリカに渡ったピューリタン101人が、新しい政府の下で法を作りそれに服して信仰を守ろうという誓い「メイフラワー誓約」を思わせるが、101人全員がこの誓いにくみしたわけではなく、41人による誓いであった。人数の上でも「花岡山の誓い」に近い。
この「メイフラワー誓い」が、アメリカ建国への源流ともいえ、高校で学ぶ「社会契約説」の歴史的実証例ともいえよう。
花岡山での奉教趣意書には「遂にこの教を皇国に布き、大に人民の蒙昧を開かんと欲す」とあるように、個人的な誓約や教会形成を意識したものというよりは、キリスト教と国家との関係を意識した宗教国家樹立を宣言したものであり、内容の面でも「メイフラワー誓約」と通じるものがある。
熊本駅から市電を使って「水前寺公園駅」で下車し徒歩10分で、「ジェーンズ邸」に行くことができる。
アメリカ人教師ジェーンズにより開設された熊本洋学校に、宮川経輝、金森通倫、横井時雄、小崎弘道、吉田作弥、海老名弾正、徳富蘇峰ら青年達が学び、新設間もない同志社英学校に転校し、同志社の大きな位置を占めるようになっていく。
NHK大河ドラマ「八重の桜」(2002年)で八重の夫・新島襄が創立したのが同志社大学だが、キリスト教プロテスタント精神を基に「同志社英学校」として創立された。
同志社大学の神学部は必ずしも牧師養成ではなく、卒業後の進路は他学部と変わらず一般企業への就職が多く、ユダヤ教やイスラム教の課程が充実しているのも特徴である。したがって卒業生もユニークである。
フォークソング歌手の岡林信康やはしだのりひこ、軍事評論家の小川和久、そして外務省出身の著述家・佐藤優などがいる。
湾岸戦争(1989年)時にTV出演が多かった小川和久は高校卒業後に自衛隊に入るが、依願退職した後にキリスト教を学ぶために同志社神学部への進学を望んだ。
しかしクリスチャンでなかったために受験資格がなく、同学部事務長宅へ直談判に行き「非クリスチャン学生第1号」となったという。
小川は熊本県八代市出身で、現在のウクライナ情勢に関して露出の多い防衛省防衛研究所の兵頭慎治のような役目である。ちなみに兵頭は愛媛県出身で上智大外国語学部ロシア語学科卒である。
さて、「熊本洋学校」の教師ジェーンズは宣教師ではなかったが、自宅で希望者に聖書を教えていたところ、多くの若者がキリスト教を信仰するようになり、洗礼を受けた。
そして前述のとおり花岡山での「誓い」を行ったわけであるが、当時はキリスト教が受け入れられない時代で、特に封建的気風の強い熊本にあって、このことが大問題となった。
そのため、熊本洋学校は保守派から批判を受けることになりジェーンズは解雇となり、熊本洋学校も「閉鎖」に追い込まれたのである。
このため、京都に「同志社英学校」が開校する事を知ったジェーンズは、手紙で新島襄に生徒の引き受けを依頼した。
新島襄はジェーンズの依頼を引き受け、同志社英学校に「神学課」(バイブル・クラス)を新設して、熊本洋学校の生徒を受け入れたのである。
行き場を失っていた熊本洋学校の生徒20数名が京都へ移住し、同志社英学校へ入学したのは、薩摩藩邸跡に「新校舎」が完成した直後のことであった。

2011年、鹿児島新幹線の開通で駅前の雰囲気が一新した熊本であるが、街中には昭和レトロ感のある「市内電車」が通る。
この市内電車に乗って街を巡れば、熊本市の歴史文化を日帰りで巡るとができ、幾分NHKBSの「ヨーロッパ・トラムの旅」にならって「熊本市内・トラムの旅」の気分である。
実際、熊本の市電はドイツの車輌メーカーの低床式を採用しており、ヨーロッパのトラムを連想させる、とても贅沢な「主観の旅」である。
熊本市電には「健軍町」「味噌天神」など意表をつく駅名が連なり「異郷情緒」をそそる。
「味噌天神」は、奈良時代に疫病 の平癒を祈願するために「薬の神」を祀ったこと始まる。
肥後国分寺が建立され、ある年に国分寺の 僧侶 たちの食用の味噌が大量に腐った時に祈願をすると、 神様のお告げどおりに笹の葉を味噌に刺すと美味な味噌に戻った事から、以来「味噌の守護神」として知られるようになったという。
この「味噌天神駅」の住所は大江本町であるが、ここで下車して徒歩15分で「徳富蘇峰記念館」に着く。日本のジャーナリズムと近代文学に大きな足跡を残した徳富蘇峰・蘆花兄弟の過ごした旧宅が残っている。
徳富家は、熊本県水俣市(芦北郡水俣郷)の豪農で、のちの徳富蘇峰こと猪一郎は徳富一敬の長男として1863年に母親久子の実家(上益城郡)で生まれた。
大河ドラマ「八重の桜」では、蘇峰を中村蒼が演じていた。
1870年、父徳富一敬が熊本藩庁に招かれ、水俣から熊本市の大江町に移り住んだ。
この旧邸が「徳富記念園」となって、樹木が多くあるが印象的である。
その中に「カタルパ」という、5月に白い花を咲かせる樹は特別なものである。
明治16年頃、大江義塾は徴兵制改正で塾生が激減し、塾の存続が危ぶまれた。
その時に新島襄は「大江義塾」を励ますためにアメリカから取り寄せたカタルパの種を送った。
まもなく、二人の兄弟は東京で活躍するが、父一敬が植えたカタルパは成長して見事な大木となった。
ただし、その木は台風で倒れみることができない。
この大江の徳富邸をに訪れて初めて知ったことは、徳富家に関わった「四姉妹」の存在である。
熊本の女性は「火の女」といわれる所以か、蘇峰の母親久子(旧姓矢島)の姉妹には、竹崎順子(横井小楠の高弟・竹崎茶道の妻)、横井津世子(横井小楠の後妻)、矢島楫子(明治、大正の女子教育者)である。
中国には「宋家の三姉妹」、日本では戦国時代の「浅井三姉妹」がいる。
矢島家の四姉妹は「四賢婦人」とも呼ばれ、近代日本における女子教育や婦人解放運動に尽力し、今日の男女共同参画社会の源流ともなっている。
さて、蘆花こと健次郎は、近代小説家として知られ、明治元年(1868年)生まれ、18歳までこの大江の邸宅で暮らしている。
1876年、熊本旧士族の反乱「神風連の乱」が起きて、大江の旧邸近くの種田少将宅が襲撃されている。
その際、母・久子に手をひかれて二階へ上がり、城下を眺めた様子は『恐ろしき一夜』に描かれている。
さて熊本の野球場といえば「藤崎台球場」であるが、この辺りこそは「神風連の乱」の発火点であり、旧徳富邸とは2キロぐらいの近く、ここから昇る火の手を見たのかもしれない。
藤崎台寺球場は熊本城の敷地内にあり、かつて福岡城の敷地にあった平和台球場に雰囲気が似ている。
徳富蘇峰は1882年3月に、父一敬とともに旧居の一部を改装して「大江義塾」を開校した。
蘇峰はこの時、弱冠19歳であったが、横井小楠の思想や、新島襄の教えを背景にイギリス経済学やアメリカのデモクラシー等に関する書物などを読み解いた。
ここで学んだ若者は総数255名にもおよび、荒尾の宮崎滔天など有能な人材もいた。
宮崎滔天は、孫文を支えた革命家、浪曲家としても有名で、自由民権運動家「前田案山子(かかし)」の娘婿でもあり、宮崎龍介(柳原白蓮の夫)の父親でもある。
この徳富蘇峰が大江義塾の集大成として『将来之日本』書き上げ、この本は東京の知識人の間で大評判になり、自信を得た蘇峰は一家で上京しジャーナリストを目指す。
この大江の邸宅で育った徳富蘇峰・蘆花兄弟といえばしばしばその仲が断絶したことでも知られる。
徳富蘇峰の「国民新聞」は中央政権に対して民主政治を主張したため、何度も発行停止となりながらも、全国有数の大新聞に育っていく。
しかし、「平民主義」の立場から政治問題を論じていた蘇峰だったが、日清戦争後の「三国干渉」を契機に国権論者に転じ、政治の世界にも足を踏み入れていく。
そのような経緯から「国民新聞」は「政府の御用新聞」と批判されるようになり、1905の日比谷焼き打ち事件をはじめ、度々、暴徒による襲撃を受けることになる。
蘇峰の思想の転換は、兄弟の溝も深めることとなる。断絶状態は1927年まで続くが、蘆花の臨終の際に再会して和解する。
蘆花が亡くなる日に伊香保温泉で和解し、「後のことは頼む」と蘆花は蘇峰に遺言したという。それは1927年9月18日のことであった。

夏目漱石と小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の関係は面白いものがある。なにしろ東京帝大の英語教師・小泉八雲の任者が夏目漱石である。
そして二人は熊本の五高の英語の教師であった点も共通している。
夏目漱石はして熊本に来た4年3ヶ月の間、6回の引っ越しを行い、一番長く住んでいたのが「坪井旧居」で1年8か月をここで暮らしている。
当時、新婚だった鏡子夫人と暮らし、長女筆子が誕生した夏目家にとっての思い出の家である。
「坪井旧邸」はバスで「坪井橋」下車徒歩約2分だが、市電でいくと「熊本城・市役所前駅」より徒歩13分である。
小泉八雲は1891年11月、熊本大学の前身である第五高等中学校の英語教師として島根の松江中学校から赴任し、約3年間を熊本で暮らした。
熊本に来て最初に住んだ家が当時の住所は、手取本町34番地にあったが、この家を借りるにあたってハーンは特に注文して神棚を設けた。
毎朝神棚に拍手(かしわで)を打って礼拝し、人力車で学校に通っていたハーンは日本の心を深く愛した。
日本を世界に紹介した「知られぬ日本の面影」「東の国から」などを読むとなぜか幸せに気分に浸れるのは、八雲自身の気分が乗り移ってくるからかもしれない。
これらのの著書は熊本時代に書かれたものだが、ただ八雲は熊本で日本の軍国主義への足音を感じ取り、松江での生活程には幸せ感は得られなかったたようだ。
小泉八雲の棲んだ家は保存され 熊本市中央区安政町2丁目にある。
桜町バスターミナルから徒歩約11分に位置して、市電も桜町駅で下車すれば容易にいくことができる。
ちょうど北九州の「森鴎外旧宅」が、小倉魚町の繁華街に保存されているのとよく似ている。
さて、熊本市電めぐりでぜひ降りてみたいのが「洗馬橋」である。「洗場」といえば手毬唄の「あんたがたどこさ」が有名である。
♪あんたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ
熊本どこさ せんばさ せんばやまにはタヌキがおってさ それを猟師が鉄砲で打ってさ 煮てさ 焼いてさ 食ってさ それを木の葉でちょいと隠(かぶ)せ♪
この歌にちなんで、「洗馬橋」電停の周囲にはタヌキの像をちらほらと見かける。
電停脇のタヌキの親子が何だか楽しげで、熊本中央郵便局前のポスト、通称「タヌキポスト」の上にも、このタヌキは季節ごとに姿を変える。
サンタクロースになったり、帽子をかぶったり、マスクをしたりして、熊本市民のキャラクター「クマモン」の存在が脳裏に浮かぶ。
さて洗馬橋を渡って辛島町方面に向かう途中にあるのは「船場町」という地名。もともとはこの地に坪井川の船着場があったことから「船場」と呼ばれ、一方で川で馬を洗うこともあったために「洗馬」という表記もなされるようになった。
坪井川にかかる橋の名前としては「船場橋」で、電停の名前としては「洗馬橋」なのである。
自然気になるのは、歌詞の中の「せんばやま」というのはどこにあるのかという疑問である。なにしろこの界隈には、山らしきものは皆無なのだから。
現在はすっかり市街化されていてよく分かないが、川の土手あたりに築かれていた土居を「船場山」と呼んでいた可能性もある。

熊本駅前から市電A系統に乗車して「交通局前」で下車、徒歩2分で「九州学院高等学校」に着く。
前述の「味噌天神駅」のひとつ前の駅なので、「徳富蘇峰記念館」にも近接している。
「九州学院」は、キリスト教ルーテル派の学校でありながら、「敬天愛人(けいてんあいじん)」を校訓としている。
我々はこの言葉を西郷隆盛の遺訓として記憶しているので意外に思えるが、言葉そのものはキリスト教と矛盾しない。
西郷隆盛の「南洲翁遺訓」(岩波文庫)より抜粋すると、「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」
ただし、これは西郷が言い出した言葉ではなく、他の人の言葉を借りてきたものである。
実は、「敬天愛人」の語を日本で最初に提唱したのは中村敬宇(中村正直)で、敬宇の学んだ中国や日本の儒学在来の敬天思想が、新しくキリスト教の「愛神」の思想に接触しているため、深く感化されて「敬天愛人」へと結実したものと推測される。
「九州学院」はアメリカ南部一致ルーテル教会宣教師により創設され、1911年、遠山参良初代院長就任開校 第1回入学生122人でスタートした。
「九州学院」の創設者チャールズ・ラファイエット・ブラウンは、1874年12月3日、北米ノースカロライナ州のアイデアル地方の農家に生まれた。
チャールズが9歳半の時、子ども達に変わらぬ信仰心を育んだ母親が病没し、チャールズはバージニア州リッチモンドの叔父の家に移り住んだ。
ここで印刷の技術を学んでいたが、第一英語ルーテル教会に出席するようになり、モーザー牧師からの教化薫育を受けて、福音宣教の牧師になることを決意した。
チャールズは牧師になるためのアカデミーに入学し、1892年、17歳でバージニア州サーレムのローノーク大学の2年生に編入学した。
チャールズは誰もが認める勤勉家で、弁論家としての才能も開花させた。チャールズは4年間の研鑽を経て、1895年、20歳で大学を卒業した。
チャールズがルーテル神学校を卒業する直前になって、南部一致シノッドの伝道局から日本への宣教師を求める緊急の招聘状が送られてきた。
日本伝道の支持を訴える運動のため、南部一致シノッドにある地区の諸教会を広範囲に巡回旅行した後、共に日本伝道に赴く新妻を伴い、1898年10月14日、日本へ向けて出帆する。
ブラウン博士アフリカ伝道地視察中リベリアにて熱病により1925年に亡くなっている。
さて、「九州学院」といえば数多くの著名な野球選手を輩出しているが、その代表格はなんといっても、日本人の人ホームラン記録56号を達成した村上宗隆選手であろう。
熊本市民のキャラクター好きからすれば、そのうち「村神様」が登場しそうな気配である。
ただし、「おらが村の守護神」と誤解されやすいので、ネーミングには一工夫必要だ。