今年も小倉の街に祗園太鼓が響いて、盛夏の到来を告げる。
九州小倉の作家である岩下俊作が書いた「富島松五郎伝」はあまり知られていないが、映画「無法松の一生」のタイトルの方は有名である。
この小説を映画監督・伊丹万作がシナリオ化し、阪東妻三郎主演、稲垣浩監督で映画化されたことによる。
喧嘩早く、酒と博打に目がない俥引きの富島松五郎。その気性の烈しさから「無法松」とよばれた。
その無法者の松五郎が、堀に落ちた少年を助けたことから、その父親である吉岡小太郎陸軍大尉に気に入られ、吉岡家に出入りするようになる。
ところがその吉岡大尉はまもなく病死し、残された未亡人の良子と遺児敏雄のために親身になって尽くす。
それはまるで別人のような変わりようで、喧嘩はもちろん、あれ程好きだった酒も博打も止めて、その母子のためにに誠心誠意尽くすことになる。
そして、そのハイライトは、無法松が敲く「小倉祇園太鼓」のシーンである。
この映画、戦時中は軍部の検閲がかかり、戦後はGHQの検閲がかかるという、異例の「二重検閲」という数奇な運命をたどる。
最初の検閲切除の理由は「無学文盲の市井無頼の徒が、大日本帝国陸軍の将校の未亡人に恋慕の情を抱くとは、もってのほかということであった。
戦後のGHQによる二度目の検閲削除では、日露戦争大勝祝賀の行列において「日露役大勝利万歳」などと書いた万燈や飾り行灯の場面が、軍国思想の排除の観点から望ましくないというものであった。
というわけで平成の時代に、フイルムが復元されるまで、ほとんどの人がこの映画をみていない。
それでも「無法松の一生」は村田英雄の歌謡によって世に知られることとなった。
梶山勇(本名)は、浮羽郡吉井町(現・うきは市)に、旅芸人夫妻の子として生まれる。
生後まもなく養子に出され、その後、佐賀県東松浦郡相知町(現・唐津市)へ引っ越す。
わずか4歳で宮崎県の地方劇場にて初舞台を踏み、その後大人気の浪曲師に因んで「酒井雲」を名乗る。
無許可で名乗っていたことが、本家の知るところとなり、大阪道頓堀の劇場に出演中の酒井雲本人を訪ね弟子入りする。
14歳で「酒井雲坊一座」の座長となり、その後も九州にて地方公演を続けるものの、「日本一の浪曲師」を夢見て、妻子を九州に置いて上京。
25歳の時に「村田英雄」に改名し、若手浪曲師として注目を集めるようになる。
たまたまラジオで村田の口演を聴いた福岡大川出身の古賀政男に見出され、十八番の芸題(演目)であった浪曲「無法松の一生」を古賀が歌謡曲化し、同曲で歌手デビューを果たした。
「王将」の大ヒットで、以前出した「無法松の一生」「人生劇場」なども相乗効果でヒット、人気を確立していった。
村田は1945年、16歳で海軍に志願し、佐世保鎮守府相浦海兵団輸送班に配属される。
福岡市吉塚の専売局(現在の”BRANCH”)に砂糖を輸送する任務に就いた際に、福岡大空襲に遭遇している。
小倉の繁華街を歩けば、鍛冶町あたりに林芙美子歌碑や森鴎外旧宅など文学史跡がある。
小倉城近くには、「松本清張記念館」もあり、小倉は文学と縁が深い街である。
2022年8月は、松本清張没後30周年にあたり、記念制作されたTVドラマ化「混声の森」は、私学内部の権力闘争を描いた作品で傑作だったと思う。
主人公(沢村一樹)は創立者である若草学園の創立者で前理事長の子で、娘婿(船越栄一郎)との権力闘争を繰り広げ、ラストは思わぬ展開が待っていた。
(主人公の父親で前理事長役として、我が学生時代同じゼミにいた外山誠二君が出演しました)。
「混声の森」とほぼ同じ頃、民放の番組で1979年に実際に起きた北九州小倉の大病院院長の殺人事件が「実録ドラマ風」に放映されていた。
院長は夫人に「高い買い物をした。2000万円から3000万円用意してくれ」という連絡を最後に失踪、それから11日目に大分県国東の海で遺体の一部が発見される。
警察が院長の知人関係をあらっていくうちに、スナック経営の男と釣具店経営の男が容疑者として浮上する。
事件解決の糸口は、スナックから出された絨毯と釣具店の男の奥さんのちじれ毛の髪。
捜査陣の執念が実って犯人は逮捕され、二人はカネに困って共謀して地元の名士でもある院長の殺人に至ってしまったことを自白する。
この「実録」を見ながらずっと思っていたのは、もしもこの事件を小倉出身の松本清張が描いたら、きっと素晴らしいサスペンスになったに違いないということ。
清張ドラマの真髄は、人間には善人も悪人もなく、ちょっとした絡みで凶悪な犯罪に至ってしまう心理のアヤ、逮捕された二人も表向きはごく平凡な市民であったが、よく似た境遇の二人が出会ってしまったことが最悪の結果を招いてしまった。
2010年「松本清張生誕100年記念」として制作された「霧の旗」も、そうした心理劇であった。
出演者は、大塚弁護士(市川海老蔵)、柳田桐子(相武紗季)、桐子の兄の柳田製作所社長(カンニング竹山) が演じた。
原作は北九州の「K市」だが、ドラマでは北九州小倉、「犯人捜し」のカギとなるのが、高校時代の野球部の人間関係で、ドラマでは「小倉第一高校野球部」という設定になっていた。
大塚弁護士は新進気鋭の弁護士で、出身は柳田桐子と同じ福岡県という設定になっている。
桐子は「殺人罪で逮捕された兄の無実を証明してほしい」と同郷の大塚を訪ねるが、今や法曹界の寵児となった大塚は詳しい事も聞かず、「費用が払えないならば弁護は出来ない」と冷たくあしらう。
それでも桐子は「費用はなんとかするから、大塚先生に助けてもらいたい」と懇願する。
しかし聞き入れられず、その1年後、大塚弁護士に桐子から手紙が届く。それは兄が公判中に獄中死した知らせであった。
ところで「霧の旗」でもうひとつ印象的だったのが、大塚弁護士が桐子に対して発した「同郷だからどうにかしてくれるというような甘えは嫌いだ」という言葉である。
大塚の突き放したような冷淡さを不思議に思った同僚刑事は、「同郷だから関わりたくなかったのかもしれない」と臆測している。
つまり、世の中には「故郷を大事に思う人」もいれば、「故郷を忘れたいと思う人」もいるということである。
そして、大塚弁護士にも、貧しさと両親の不和に苦しんだ過去があったことが明らかになっていく。
「霧の旗」というタイトルは、高々と掲げた旗印に、疑惑の霧がかかっているというイメージ。
つまり高く翻る「旗」は大塚弁護士の勢いを表し、その「旗」には霧のように疑惑がかかっているということである。
実際には、大塚の交際相手の女性への疑惑だが、「霧が移動する時は音がする」という大塚の言葉が不気味な響きがこもっていた。
作家の松本清張と俳優の草刈正雄は、小倉出身という他にいくつかの共通点がある。
清張は著名になって東京に在住し、地元では故郷小倉を捨てたとして「小倉嫌い」とも噂された。
一方、草刈はある時期まで「小倉」を忘れようとしていたフシがある。
ただ清張が嫌ったのは小倉そのものではなく、小倉で目にした弱者への差別だったように思う。
なぜなら、清張作品の多くは小倉が舞台となっているからだ。それは「小倉愛」にちがいない。
清張が1953年に芥川賞を受賞する「或る小倉日記伝」を書いた時は、小倉の黒住町に住んでいた。
作品の主人公は、軍医時代に小倉に滞在した森鴎外の紛失した小倉時代の日記を埋めようと、その足跡を追った青年。
清張は、障害をもった不遇の青年の生涯に、自分の前半生と重ねるように「或る小倉日記伝」を書いた。
それは何より、この作品に登場する青年の誕生日が、清張自身の誕生日となっていることが物語っている。
しかし戦後、森鴎外の「小倉日記」の紛失部分が、その青年の努力を無為にするかのように出てきた。
鴎外の末子の類(るい)さんが、疎開した荷物を整理していて見つけたのである。
そこには、当時の小倉時代の日常が手に取るように記されているという。
松本清張は明治の終わり、小倉の貧しい家に生まれた。中学には進めず、15歳で会社の給仕(雑用係)に。配達中、進学した同級生と街角で出会うのがつらかったという。
19歳で画工見習いとなり、苦労して新聞社に職を得るが、ここでも露骨な学歴差別に遭遇。地位も富も関係ない軍隊生活で初めて平等を実感したという。
そんな清張は仕事の帰り道、小倉の東南部に位置する足立山の頂から上るオリオン座に、絶望と悲哀を癒やされた。
「印刷所の夜業をすませて家に帰るとき、足立山の上にこの星が貼りついている」と書いている。
清張の長女は、小倉にある北九州市立足立中学校に通っており、その縁で同校の校歌を作詞している。
校歌は、「わがまなびやに 床(ゆか)しく因(ちな)む うるわしき 足立の山よ」ではじまる。
松本清張と同じくしばしば足立山に登り、小倉の風景を眺めたのが草刈正雄である。
かつてNHKテレビで小倉出身の俳優・草刈正雄が郷里を訪ねる番組があっていた。
草刈の父親はアメリカ軍の兵士であったが、日本人の母親が草刈を妊娠していた最中、朝鮮戦争で戦死している。
草刈が生まれる前のことであり、母子は四畳半一間の生活を身を寄せるように送った。
貧しい家計を少しでも楽にしようと小学生より新聞配達と牛乳配達の仕事を掛け持ちして登校した。
少年時代は現在の小倉北区昭和町あたりで過ごし、「小倉祇園太鼓」にも参加している。
中学卒業後は本のセールスマンとして働きながら小倉西高等学校定時制に通い、軟式野球部のピッチャーとして全国大会に(控えとして)出場している。
ふとしたことで出会ったバーのマスターの強い勧めもあり、福岡市で開催されたファッションショーを観に行った際スにカウトされ、17歳で高校を中退し上京した。
1970年に資生堂専属モデルとしてデビューし売れっ子モデルとなった。
草刈氏は、故郷のことを忘れようと、上京後は小倉との繋がりを失っていたが、近年は「自分の土台はふるさと小倉にある」ことに気付き、地元で行われる祗園太鼓の舞台などにも積極的に参加するようになっているという。
そして「朝鮮戦争で戦没した国連軍兵士を祀るメモリアルクロス(十字架)」のある足立山から小倉の眺めを楽しむのだという。
ところで、松本清張のある作品が、草刈正男の父親とクロスする。
松本清張は占領時、朝鮮戦争に転任予定の黒人米兵が集団(300人)で小倉で強姦・略奪・殺人等を行った実際の事件を題材に「黒地の絵」を書いている。
1951年正月、米軍が38度線を越えてきた中共軍のため、再びソウルを放棄したことを伝えた。
小倉に増派された黒人兵達は、いつも自分達が戦争では最前線に立たされることをよく知っていた。
「黒地の絵」の中には小倉祇園太鼓の響きと追い詰められた黒人の精神状態について、次のように描かれている。
「彼らが到着した日も、小倉の街に太鼓の音は聞かれていた。黒人兵たちは不安にふるえる胸で、その打楽器音に耳を傾けていた。音は深い森の奥から打ち鳴らす未開人の祭典舞踏の太鼓に似通っていた。黒人兵士たちは恍惚として太鼓の音を聞いていた。彼らは鼻孔を広げて、荒い息遣いをはじめていた」。
事件当時は国連軍が連戦連敗の「劣勢」で、黒人達は危険な戦場に送られる恐怖と自暴自棄に陥り、それが脱走・強奪につながったと推測される。
実際に生き残った逮捕者は朝鮮半島の激戦地に送られ、ほとんどが戦死したという。
大事件ではあったが、当時の日本がGHQの占領下であったことから、「情報規制」のためほとんど報道されず、被害の詳細は今でもわかっていない。
北九州市・小倉北区にそびえる足立山は、標高598Mでハイキングコースとしては絶好の場所である。奈良時代に和気清麻呂が「宇佐八幡宮」に向かう際に、足の傷をこの山の湯で癒やし再び立てるようになったという伝承がその名の由来という。
この足立山の麓の「妙見宮(御祖神社)」で、思わぬものを見つけた。
それは歌人・杉田久女の句碑で、「花衣ぬぐや纏わるひもいろいろ」とあった。
松本清張には、歌人杉田久女の生涯を描いた「菊枕」という作品がある。
久女は1890年に官吏だった父の郷里、鹿児島で生まれている。1908年に、東京の御茶水高女を卒業し、俳句を始めたのは次女が生まれた26歳の時、実兄が自宅に滞在した際に手ほどきを受けたのがきっかけであった。
俳句に出会ったことで、1枚の絵画の前に立ったのは、その結末からすれば運命のいたずらといえるかもしれない。
その絵は、杉田久女の夫となる杉田宇内(うない)が東京美術学校を卒業する時に描いた「自画像」だった。
卒業の翌年に画家の杉田宇内と結婚した。夫が小倉中学校の図画の教師になっていたため、小倉に住むことになる。
しかし芸術を愛する久女は、宇内が絵画に心血を注ぐことはないことに幻滅し、夫婦の間にはしだいに亀裂が生じていく。
そんな折に久女が出会ったのが俳句だった。
1916年の秋ごろ、「ホトトギス」や「曲水」に俳句を投稿し、高浜虚子が主宰する俳誌「ホトトギス」に久女の句が掲載される。
これを機に久女は、作句に熱中し始める。そのころの句で「足袋つぐやノラともならず教師妻」という句が知られている。
当時、文化の先端の新劇で話題をさらっていたノルウエーのイプセンの小説「人形の家」のノラ。夫の足袋を繕うような貧しい生活を続けている自分への、複雑な心情が感じ取れる句である。
久女は1932年の「ホトトギス」10月号で同人に昇格。また崇拝する虚子から「清艶高華」と評され、久女は俳句に一層の精力を注ぎ込んだに違いない。
しかしそれから4年後、「ホトトギス」に1ページ全面を使った前代未聞の社告が出る。
久女が、師である虚子から突然に同人を「除籍」されたのだ。
理由の明記はないままで、真相はいまもって不明である。ただ、虚子の恩顧を求め、6年間に230通に及ぶ手紙を書いたことがわかっている。
理由はどうあれ、長く心服し傾倒していた虚子からの勘当で、俳人の生命を絶たれたも同然だった。
久女は「ホトトギス」を除名されてからは句作を断念し、以後入院生活となり、1946年1月、福岡県筑紫野市の病院にて57歳で他界している。
松本清張は、久女を題材とした小説「菊枕」を書き、久女は「ぬい」という色白の女性、夫の杉田は圭助、高浜虚子は「宮萩梅堂」という名で登場している。
そのラストの場面は次のとおり。
「ある日、圭助が面会に行くと、非常によろこび、”あなたに菊枕を作っておきました”と言って、布の嚢をさしだした。
時は夏であったから、菊は変だと思い、圭助が内部を覗くと、朝顔の花が凋んでいっぱいはいっていた。看護婦がぬいにせがまれて摘んできたのである。
圭助は涙が出た。狂ってはじめて自分の胸にかえったのかと思った」。