原爆の破壊/折り紙の創造

「原爆と折り紙」とくれば、大概の人は広島の原爆慰霊碑にいつも捧げられている「千羽鶴」を思い浮かべるであろう。
しかしここでは、原爆の被災地にあって「折り紙」を創造の原点としたファッション・デザイナーについて、敷衍したい。
2022年8月亡くなった三宅一生のデザインは、現代文明最悪の破壊に対して、もっとも人にやさしい「折り紙」のデザインを提示して、人間の「再生」を願ったかのようにも思える。
三宅の通学路の視界にはいつも千羽鶴があったであろうが、そこは破壊と創造の十字路となった。
というのも中島公園辺りは、「世界的」と称される三人の芸術家のバンデージポイント(結束点)だったからだ。
その三人とは、建築家の丹下健三、彫刻家(工芸家)のイサムノグチ、そしてファッションの三宅一生。
丹下健三は大阪堺市生まれ、住友銀行に勤める父の転勤で中国上海のイギリス租界にて幼少期を過ごすも、7歳の頃に父の出身地四国の今治に移住する。
今治中学から旧制広島高校理科甲類に進学し、その後1935年東京帝国大学工学部建築科に入学する。
さらに大学院を終えた後、東大助教授に就任した。
1951年CIAM(国際近代建築会議)に招かれ、「広島計画」を発表し、1974年東京大学を定年退官する。
丹下が発表した「広島計画」とはどのようなものであったか。
広島市は中島地区を記念公園として整備する方針を決定し、平和記念公園および平和記念館を設計するコンペを実施した。
コンペの結果は、1等・丹下健三、2等・山下寿郎、3等・荒井龍三であった。
計画によれば丹下建三は、幅員100mの平和大通りと直交している新しい「景観軸」を導入し、この軸線の強さが建築と都市全体の計画を貫いている。
丹下のデザインといえば、「東京都庁舎」の建築などがよく知られるが、個人的には「東京カテドラル聖マリア大聖堂」(1964年)のインパクトが大きかった。
文京区の関口に住んでいた頃、近隣のホテル「椿山(ちんざん)荘」を見に行ったことがある。
ここは、山縣有朋の邸宅跡に立つ名園といわれ、ここからさらに目白方面に歩くと、椿山荘との対比で予想もしない壮観な教会に出会った。
それが「東京カテドラル聖マリア大聖堂」(1964年)で、丹下健三の名を世に知らしめた代表作のひとつと知った。
この教会に建築も指名コンペが実施され、前川國男、谷口吉郎という二人の巨匠と争って、勝ちとったもの。
その構造は実にユニークで8枚の双曲放物面を利用して壁と屋根両方の役割を与え、外壁は総ステンレス張り。上空から見るとキリスト教を象徴する十字架を形作っている。
内部には柱が一切なく、鋭く傾斜した壁は、天井高最高40mの荘厳な大空間をつくり、見上げるとトップライトが十字に輝いている。
祭壇の奥には、ステンドグラスではなく大理石を薄く切り出してはめた格子状の窓を置く。
最近では、新型コロナの対策に向けたAIによる飛沫シュミレーションで、この教会が使われていたことに驚いた。
丹下は、旧ユーゴスラビアやイタリアなどでの都市設計をも手がけたことから 「世界のタンゲ」と言われ、日本の建築を世界レベルに引き上げた最大の功労者といってよい存在であったが、2005年3月、91歳で亡くなった。
丹下と親交があったのが彫刻家のイサムノグチ。
ノグチは1904年11月、アメリカ合衆国ロサンゼルスで生まれた。
父は日本の詩人野口米次郎、母はアメリカ人の作家で教育家のレオニー・ギルモアである。
家族とともに日本へ移住し、13歳まで東京で暮らした。しかし小学校時代、工作が得意だったが、友達と馴染めず転校を繰り返した。
学校には行かず、茅ヶ崎の木工細工の職人の元で修行をしていた時期があったこともある。
アメリカに戻り、コロンビア大学医学部に入学したものの、19歳の時から彫刻に目覚め在学中にレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校で彫刻を学んだ。
1927年から奨学金でパリに留学し、2年間、ロダンの弟子である彫刻家に師事し、1928年にニューヨークで最初の個展を開いた。
1941年、第二次世界大戦勃発に伴い、自ら志願して強制収容所に拘留されたものの、半分アメリカ人の血をひいていいるため、周りから受け入れてもらえず、苦しい思いをした。
結局、芸術家仲間らの嘆願書により釈放され、その後はニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにアトリエを構えた。
「ノグチ・テーブル」をデザイン・製作するなどインテリアデザインの作品に手を染め、次第に日本の伝統デザインをモチーフにした作品を発表した。
なお、岐阜提灯をモチーフにした白い笠の「あかり」シリーズの電灯器はロングセラーで、今も売れ続けている。
そして1952年に、「原爆慰霊碑」制作の話がもちがあり、ノグチ自身もそれに意欲を燃やした。
しかし、製作直前から「イサム・ノグチはアメリカ人だ」とノグチを拒否する声が相次ぎ、結局慰霊碑を創ることは出来なかった。
ノグチに代わって、コンペを経て採用されたのが、丹下健三であった。
もともと、慰霊碑創作者としてノグチを推したのが丹下で、慰霊碑の中にノグチの意匠が色濃く生かされているという。
ただ、平和公園の東西両端に位置する平和大橋・東平和大橋のデザインはノグチの手になるものである。
イサム・ノグチは、多種多芸な点でも天才的だった。彫刻家としての作品は本命だし、インテリアデザイナーとしても秀でていた。またアメリカや日本で彼の造った庭園も処所に見られ、造園家としても一流である。
ノグチは、アメリカ大統領の慰霊碑をデザインしたこともあるが、こちらの方は日本人であるとの理由で却下されている。
しかし1984年、ニューヨークのロング・アイランド・シティのイサム・ノグチ庭園美術館が一般公開され、1987年にはロナルド・レーガン大統領からアメリカ国民芸術勲章を授与されている。
結局ノグチの生涯は、日本人の血とアメリカ人の血に引き裂かれることが多くあったが、日本人の血と中国人の血に引き裂かれた女優と、日本の古都・鎌倉で出会う。
中国満州の映画界で「李香蘭」として生きた山口淑子(よしこ)である。
戦争中、満州・中国に進出した日本は「五族協和」をとなえ「日・満・華」合作の映画が作られた。
山口淑子は日本人でありながら「李香蘭」という中国人女優として多くの作品に出演した。
山口淑子は満州鉄道の社員の娘として育ったが、父の親友・李将軍のもとから中国名で学校に通った為、中国語が自由に話せた。
そして日本人男性と中国人女性の恋愛を描いた映画に多く出演したのである。
終戦後中国では、日本に協力した中国人を「祖国反逆罪」として裁く軍事裁判が行われた。
次々と中国人が終身刑や死刑を命ぜられていく中、「李香蘭」も群集の中に引きずり出された。
しかしその時、彼女は中国人ではなく日本人であることを告白する。
もしそれが真実ならば、日本人の彼女には「祖国反逆罪」は適用されない。
騒然とする法廷の中、彼女は日本人「山口淑子」として生まれながらも、学校に通うために実父の親友である中国人の「養女」となり、「李香蘭」という名前を授けられて生きたことを訴えた。
しかし、それをどのように証明するかのか方法がなかった。「李香蘭」が中国人ではなく日本人であることを「間一髪」証明してくれたのは、幼き日の奉天時代の親友でロシア人のリューバという女性であった。
リューバの働きにより、北京の両親の元から日本の「戸籍謄本」が届けられ、「日本国籍」であるということが証明された。
結局、李香蘭には「漢奸罪」は適用されず、国外追放となった。
1945年日本の敗戦とともに山口淑子は博多港に着き再び故国の土をふんだ。
そして自ら出演した映画で、知らず知らずのうちに自分が国策のなかで利用されたこと、また描かれた世界と格差に満ちた現実の姿の違いに苦しんだことを、博多港・即席インタビュー会場で答えている。
また、上海からの引き揚の際に一緒に帰国した映画人の川喜多長政の好意で、鎌倉にあった川喜多家所有の洋館の一室に居候することが許された。
そこは「窟(いわや)小路」と呼ばれる、鎌倉時代から残る道が通るところである。
山口淑子がイサムノグチと出会ったのは、鎌倉市大船にあったノグチの友人の陶芸家、北大路魯山人(しょくさんじん)を介してであったようである。
ただ2人の結婚は擦れ違いが多く5年で離婚、その後山口は外交官の大鷹弘と結婚し、フジTV「3時のあなた」での司会者や参議院議員としても活躍した。
ノグチは1988年冬、肺炎によりニューヨークで84歳で死去した。

広島生まれのファッションデザイナ-の三宅一生は、1945年8月6日、爆心地から4キロの東雲小学校の教室で原爆の閃光を見ている。
自宅で大やけどを負った母は4年後に亡くなった。
幼少期から優れた美的センスを発揮して一貫して美術部に所属していた三宅は、焼け野原から復興する広島の街中をつぶさに眺め、高校の近くにあった丹下健三設計の平和記念公園やイサム・ノグチが設計した平和大橋のデザインに大きな感銘を受けたことを自ら告白している。
ところで、三宅のデザインにインスピレーションを与え続けたものが「折り紙」であることは一般に認知されているところだが、「折り紙」がいつごろから作られるようになったのかは定かではない。
ただ手紙を折り畳んだり、紙で物を包むときに折ったりするようなことは古くから行われていた。
それらが武家社会で発達して様式的に整えられ、実用的また礼法的な折り紙の文化を生み出した。
「鶴」や「舟」など、具体的な物の形に見立てて折るものを遊技折り紙と言う。
それらはもともと、病気や不幸などを人間に代わって背負ってくれるようにと江戸時代に入ったころからはじまった。
元禄の頃より折り鶴や数種類の舟などの折り紙が衣装の模様として流行し、さかんに浮世絵などにも描かれるようになる。
ヨーロッパでも12世紀に製紙法が伝えられて、独自に「折り紙」が生み出されているが、日本ほど広く厚い折り紙文化の層を持っていた国はなかった。
「逆説の日本史」の井沢元彦は、「折り紙こそ日本文化、つまり作り変える力の象徴である、とまでいっている。
それは必ず正方形の紙を用い、のりやハサミも決して使わない。非常に制約された技法の中で美を競う折り紙こそ、まさに諸外国にない日本文化のオリジナリティーの象徴である。
日本に「折り紙」という伝統文化が生まれたが、現代では急速に忘れ去られ、贈り物に付ける赤と白の熨斗(のし)などに見られる程度だった。
ところが今やそれが「ハイテク技術」や数学の一分野としてされている。
中でも「剛体折り紙」という分野で、「たたむ」伝統と最先端技術を合わせたものの中に「ミウラ折り」というものがある。
「ミウラ折り」とは、1970年に東京大学宇宙航空研究所の三浦公亮(みうらきみすけ/東大名誉教授)が考案した折り畳み方である。
人工衛星の大きなソーラー・パネル配列を効果的に折り畳み、展開するなどといった応用がなされている。
さらに今、「地図」の畳み方などにも使われているという。
きわめて緩い角度のジグザグの折り目を付けることにより、縦方向へと横方向への展開・折り畳みが、並列にかつ極めて非線形な比で移り変わることがキモである。
要するに、紙の対角線の部分を押したり引いたりするだけで即座に簡単に展開・収納ができるものである。
こういものは、アルミ缶のツブシ方などにも応用がきき、ダンロップのスタッドレスタイヤの「ミウラ折りタイプ」というものもある。
ところで三宅一生のデザインの特徴をひと言でいうと、「布と服の境界線がない服」ということ。
人が生まれたとき人生で最初に体が包まれるのは、一枚の布。裁断による布の無駄がなく生産性が高いのも、一枚の布。
畳むと四角になる和服のベースも、一枚の布。極めて根源的な衣服のあり方であり、エコ・コンシャスでもあるこの布使いを、三宅は生涯追い続けていったといてよい。
たとえば、複雑な構造に見える服が実は一枚の布でつられていたり、立体的な服なのに畳むとまっ平らの四角形に収まったりする。
要するに、どの服も着ても美しく畳んでも美しいというコンセプトに基づいている。
それは日本の「折り紙」の伝統に基づいていることを感ぜざるをえない。
しかも「美しい」といいうばかりではなく、人々の生活に役立つ機能性や快適さが、着る人の目線で考えられていることも重要なポイントで、それは「機能する服」としてデザインされいることである。
西洋の服づくりは布を細かく裁断して縫い合わせ、人の肉体を強調する彫刻のごとく “構築的” なもの。
それに対し、着崩したように体と布の間に「隙間」をもたせた日本の “非構築的” な服は、驚きをもって世界に迎え入れられた。
その代表が三宅の「コクーン・コート」。コクーン(繭)の名の通り、丸みのあるシルエットが特長的で、「一枚の布」のコンセプトに基づいている。
一方、三宅はテクノロジーを応用した実験的な素材や造形を模索した。例えば、「繊維強化プラスティック」を用いたり、シリコンを染み込ませた布を使ったりしている。
また2010年よりブランドとしてスタートしたのが「132 5. ISSEI MIYAKE」で、改良を重ねた再生ポリエステルを用いた服を発表した。
ブランド名には、一枚の布(1次元)から立体造形(3次元)が生まれ、折りたたむと平面(2次元)になり、身にまとうことで時間や次元を超えた存在(5次元)になるようにとの思いが込められている。
1969年に「輝く星座/レット・ザ・サンシャイン・イン」で大ヒットを飛ばした「フィフス・デイメンション」を思い浮かべるが、三宅の服はSDGsを先取りしているばかりか、「宇宙服」とも相性がいいのではなかろうか 。
、 さて、三宅の「ファッションブランド」を愛したのが、アップルの創業者ステーブ・ジョブズである。
ジョブズがイッセイミヤケを知ったのは1980年代初めに、日本にあるソニーの工場を訪問したことがきっかけだった。
そのときソニーの従業員は、三宅がデザインしたユニフォームを着ていた。袖にはファスナーが施されており、取り外すとベストとしても着られて、当時としては画期的なデザインだった。
米国に戻ったジョブズは、アップルでもイッセイミヤケのユニフォームを採用したいと提案するが、最終的にはスタッフの反対にあって実現しなかった。
伝記作家ウォルター・アイザックソンがジョブズの家を訪れたときに、ジョブズはワードローブを見せながら「これが私の服です。私がこれから一生着るのに充分な量です」と語った。
クローゼットのなかには、綺麗に畳まれた黒のタートルネックが100枚以上も積まれていたという。