招かれざる客

2022年正月3日に放送されたフジテレビ系列『潜水艦カッペリーニ号の冒険』は、出色のテレビドラマで、映画化に価する面白さであった。
第二次世界大戦において、日本・ドイツ・イタリアは同盟を結んでいた。
「三国同盟」は軍事同盟だが、1938年8月ヒットラー・ユーゲント(ナチス青少年団)の来日で大歓迎をうけるなど、文化交流も生まれた。
また日本とイタリアの関係では、会津若松の飯盛山つまり白虎隊自刃の地にローマ時代の彫像のような「記念碑」が建っている。そこには、福岡の士族の子である下井春吉が介在している。
下井春吉は東京外語大学でイタリア語を学び、当時「同盟関係」にあったイタリアのナポリにある国立東洋語学校の日本語教授として招かれ、「義勇兵」としてイタリア軍に従軍したこともあった。
その中で会津「白虎隊の悲劇」の話をしたところ、交友のある詩人(ダンツィオ)を通じてその話がムッソリーニに伝わり、ムッソリーニはその話にいたく感動。
その後、日本とタリアとの間で様々なやりとりがあり、イタリアから白虎隊の少年達を記念してその故郷・会津若松に記念碑が建立されるはこびとなった。
一方、日独伊の「軍事同盟」の側面を最もよく表すのが、前述のTV化された「潜水艦」をめぐるエピソードである。
日独伊三国の中で、日本だけは海洋で隔てられていて、なおかつ直線距離でも約1万kmも離れていたことから、アメリカやイギリスを始めとした連合軍の「海上封鎖」が強まると、物資輸送や人員の交流が困難になった。
そこで、水中にもぐって敵の目を欺くことが可能な潜水艦が、その任務を受け持つようになった。
しかし、ヨーロッパから遠路はるばる日本までたどり着いたのは、2隻のイタリア潜水艦だけであった。
しかし、これら来日したイタリア潜水艦も、戦争の進展によって数奇な運命をたどっている。
1941年12月の真珠湾攻撃で日米戦争が始まるまでは、第二次世界大戦といいつつも、戦火はヨーロッパに限定されていた。
そのためドイツは、日本へは武装商船を使い、イギリスなどの海上封鎖線を突破してインド洋経由で物資や人員の輸送を行ってたが、日米開戦以降はアメリカやイギリスを始めとした連合軍による「封鎖エリア」が拡大したため、新たな方法を計画するようになった。
そこで用いられたのが潜水艦である。
1943年には、日本から「伊30」「伊8」「伊29」といった潜水艦がドイツやフランスへ、ドイツからは「U-511」がマレー半島西側岸のペナン島へ互いに到着した。
ちなみに、潜水艦はその大きさを「い(伊)ろ(呂)は(波)」で区別する。
「伊号○○ 一等潜水艦 排水量1000トン以上、呂号○○ 二等潜水艦 排水量500トン以上1000トン未満、波号○○ 三等潜水艦 排水量500トン未満」といった具合に。
日欧間の航海は大きな困難を伴うもので、日本と独・伊を結ぶ多くの潜水艦が連合軍に沈められていた。
そのうえ、ドイツのUボート(潜水艦)はサイズ的にも輸送任務に不向きであった。
そのような中、ドイツ海軍はイタリアの潜水艦に目を付ける。
ドイツ占領下にあった南仏ボルドーの基地を拠点として、大西洋で独伊の両海軍は協同して「潜水艦作戦」を行っていたが、そこに停泊するイタリア潜水艦は明らかに自国ドイツの潜水艦よりも大きく、長距離航海に向いていたからだ。
そこでドイツ海軍は、「新型Uボート」との交換条件で、イタリア潜水艦9隻をドイツ海軍の指揮下に入れ、極東輸送用に改造し運用する計画を立案した。
この作戦内容は、まさに「日独伊三国同盟」を象徴するものであったといってよい。
1943年3月にはイタリア艦を選定し、極東到着時にマレー半島のペナン島(現マレーシア)基地と、スマトラ島(現インドネシア)北端にあるサバン島基地を使用することなど、具体的な計画を取り決めた。
そういう時代背景の下で起きたのが潜水艦カッペリーニ号の日本来航で、TVドラマ『潜水艦カッペリーニ号の冒険』は実話に基づくものである。
日本、ドイツ、イタリアを中心とする枢軸国であったが、イタリアは先に連合国に降伏、政権交代したことでイタリアは連合国側につくことになった。
こうして互いに敵対する国同士になった日本とイタリアだが、そんな状況をつゆ知らず、潜水艦「カッペリーニ号」で日本へ物資輸送のために向かっていた間の悪いイタリア人たちがいた。
彼らと日本人との交流は、解説者の池上彰が語ったごとく、「どこまでが本当か、フィクションか」の判断は視聴者に委ねられる。
彼らの名はアベーレ、シモーネ、アンジェロ。日本から大歓迎を受けることを期待し浮かれる3人だが、待ち受けていたのは鬼の形相をした日本海軍少佐・速水だった。
そして、もてることを人生最大のテーマとする彼らが、軍国主義の日本社会のただ中に放り込まれたのだが、そこにほのかな恋心と友情が芽生えていく。
厳格な・速水洋平を二宮和也、彼らが恋した速水の妹・早季子を有村架純が好演している。
さて、潜水艦カッペリーニ号に乗り込んだ陽気なイタリア人同様に、「カッペリーニ号」自体も数奇な運命を辿る。
1943年9月9日、イタリアが連合国側へ降伏したため、日本側によって接収される。
日本に接収された「カッペリーニ号」は、その後ドイツ海軍に引き渡され「UIT-24」と命名された。
「コマンダンテ・カッペリーニ」はドイツ海軍の潜水艦となったが、イタリアの乗組員もそのまま乗艦し、ドイツ軍との混成チームで運行していた。
その後、「UIT-24(コマンダンテ・カッペリーニ)」は、日本とマレー間での輸送任務に従事する。
1945年5月、今度はドイツが連合国側へ降伏し、ドイツが降伏した時、三菱神戸造船所で整備中だった「コマンダンテ・カッペリーニ」。そのまま日本軍に接収され、『伊号第五百三潜水艦』と改名し、7月15日、日本海軍に編入され、呉鎮守府部隊付属に配備される。それから約1か月で終戦をむかえる。
なお、帝国海軍籍に入った「伊号第五百三」には、大日本帝国側についた伊国海軍の乗組員がいたが、降伏時に「イタリア社会共和国」側についたことで脱走兵と裏切り者扱いされること恐れ、戦後も帰国せず日本に残ったという話がある。
そのあたりが、ドラマ『カッペリーニ号の冒険」の馬場監督が伝え聞いた話で、イタリア人乗組員と日本人女性の恋の話のベースになったようだ。
その後、1946年4月、「カッペリーニ号」は、連合国に引き渡され、武装解除後、紀伊水道で海没処分されている。

日・独・伊の三国の海軍で立案された輸送計画では、日本側から生ゴムや錫(スズ)、タングステンやモリブデン、そしてマラリアの特効薬キニーネなどの貴重な物資を、ドイツ側からは日本が求めている新型兵器の設計図やサンプルを提供するというものであった。
そうした軍事物資の中で、「ウラニウム」を含めるとなると、その輸送には厳重な管理を必要になることは想像に難くない。
東京都文京区の本駒込。その一角に、昭和初期の建物が1棟残っている。
かつての理化学研究所の研究棟37号館だ。この東隣にあった木造2階建ての49号館で戦時中、極秘の「原爆研究」が行われていた。
研究が始まったのは戦前の1941年4月。欧米で核分裂反応を利用した「新型爆弾」が開発される可能性が指摘されていたことを背景に、陸軍が理研に原爆の開発を依頼した。
核物理学の世界的権威だった仁科芳雄博士に白羽の矢が立った。
約1年後、ミッドウェー海戦で大敗した海軍も「画期的な新兵器の開発」を打診する。
懇談会では「理論的には可能だが、米国もこの戦争では開発できない」と結論付け、研究は進展しなかったが、本格化の契機になったのは仁科が1943年6月に陸軍へ提出した報告書。
核分裂のエネルギーを利用するには少なくともウラン10キロが必要で、「この量で黄色火薬約1万8千トン分の爆発エネルギーが得られる」と記した。
後に広島に投下された原爆に相当する威力だが、陸軍はこれに反応した。
東条英機首相兼陸軍大臣は研究開発の具体化を仁科研究室に命令。「ニシナ」の名前から、計画は「ニ号研究」と名付けられた。
天然ウランには中性子の数が異なる同位体が複数存在する。核分裂するウラン235は全体のわずか0・7%で、残りは核分裂しないウラン238だ。
原爆はウラン235の核分裂で出てきた中性子が、ほかのウラン235に衝突して瞬時に核分裂の連鎖反応が広がり、爆発的なエネルギーを放出する。
ウラン238は中性子を吸収して連鎖反応を妨げるため、原爆開発にはウラン235の比率を10%に高める濃縮が必要だった。
そこで、「熱拡散法」という方法でウラン235を分離し、その濃度を高めることにした。49号館には、分離筒と呼ばれる高さ5メートルの筒状の実験器具が立てられた。
1944年3月に完成し、7月から実験が始まった。理論的にはうまくいくはずだったが、六フッ化ウランが筒と化学反応を起こして分離できない事態に陥る。
筒には化学反応を起こしにくい金メッキをすべきだったが、戦時中の物資不足で銅を使ったことが落とし穴になった。
実験は計6回行ったが、いずれもうまくいかない。仁科は大阪帝国大(現大阪大)に分室を設置。陸軍が同様の分離筒を設置したが稼働せず、4月14日、本拠地の49号館は空襲で分離筒とともに焼失する。
仁科が中止の可否を陸軍に尋ねると、6月に届いた返答は「敵国側もウランの利用は当分できないと判明したので、中止を了承する」という楽観的なものだった。
広島に原爆が投下されたのは、その2カ月後だった。
仁科は米国も太平洋戦争中には開発できないと考えていた。それだけに広島の原爆には計り知れないショックを受けた。
「ニ号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来た」と、科学者としての敗北感と自責の念がにじむ言葉をのこしている。
ただ家族によれば、あれ以上に戦禍を拡大せずに済んだという意味でほっとしていたという。
終戦後の1946年、理研所長、戦後初の文化勲章、1951年に死去する。
ところで、仁科芳雄らを最後まで悩ませたのが天然ウランの確保だった。
陸軍は、ドイツ占領下のチェコスロバキアで「ピッチブレンド」というウラン鉱石が採れるとの情報を入手していたが、同盟国とはいえドイツも原爆開発を進めており、なかなか許可がおりない。
ようやく認められたのは極秘電報から1年以上もたってから。
45年3月24日、酸化ウランを積んだ独潜水艦Uボート「U234」が独北部のキール港から日本へ向かうことが決まった。
護衛として、欧州に駐在する2人の日本人技術将校が搭乗した。ドイツで潜水艦の設計を学んでいた友永英夫(36)と、イタリアで飛行機の研究に携わっていた庄司元三(41)の両中佐だった。
バルト海から大西洋の海域も支配され、日本にたどり着ける保証はなかった。
友永と庄司は、敵に拿捕(だほ)された時は自ら命を絶つ決死の覚悟だった。家族にあてた遺書をしたため、睡眠薬ルミナールの瓶を持って艦に乗り込んだ。
当時、乗組員の間でベルリン出身の女優、マレーネ・ディートリヒが歌 う「リリー・マルレーン」がはやっていた。
乗組員らは「大洋の底に沈んでも 一番近い岸まで 歩いていこう 君のところに」と歌詞を替え、気持ちを奮い立 たせた。
キール港をたってから1カ月余り後の5月、U234の無線通信室に「ヒトラー総統自殺」や、ドイツが連合国に降伏し、日本とドイツの同盟関係が破棄された、との情報も入った。
動揺する艦内で、友永は艦長のヨハン・フェラーに「生きたまま敵側に引き渡されるのは許されない。このまま日本へ行ってください」と、航海続行を申し出たが、かなわなかった。艦は連合国軍の停船命令を受け入れ、ドイツ人乗組員は全員投降を決めた。
友永と庄司は、持っていたルミナールをあおった。2人はフェラーにあて「運命には逆らえません。静かに死なせてください。遺体は海に葬ってください」と、ドイツ語の遺書を残して自決した。
5月14日の夜。艦は静かに洋上に浮かび、エンジンを止めた。2人の遺体は重しとともに漆黒の海に降ろされた。10分間の黙祷がささげられた。

「カッペリーニ号の冒険」は、陽気で明るいイタリア人が、軍国主義の日本に投げ込まれたらどうなるかという脚色を交えた話であった。
それでは逆に、厳格な日本の武士またはその子孫が、ラテン社会を生きたらどうなるのか。
そんな逆ケースのようなエピソードが思い浮かんだ。
昭和の時代に起きた「カッペリーニ号」のイタリア人も、江戸時代に起きた「慶長遣欧使節」の日本人も、時代の運命に翻弄された点では共通している。
スペインのアンダルシア地方に、約600人の「ハポン」を姓とする一群の人々が住んでいる。
「ハポン」姓の人々は日本のサムライの子孫といわれている。
コノ人々は1618年に派遣された支倉常長率いる「慶長遣欧使節」と関係が深い。
1618年、伊達政宗は宣教師のソテロとともに支倉常長をローマに送ることを命じた。
一行は仙台領の月の浦(宮城県石巻市)から、太平洋・大西洋を日本人で初めて横断し、メキシコ、スペイン、ローマへと渡る。
この大航海の目的は、スペインの植民地メキシコとの通商と宣教師の派遣をスペイン国王とローマ教皇に要請することであった。
彼らがスペインで約1ヶ月を過ごしたセヴィリアは、マゼランが世界周航へと出港した港町でスペイン第4の都市だけあって、町並みはとても華やかで活気があった。
一行26人(資料によって異なる)のうち6~9人はどうやら最初に上陸したコリア・デル・リオに留まり、そのまま永住したらしい。
この人々の子孫が「ハポン姓」のスペイン人である。
さらにマドリッドではスペイン国王フェリペ3世に謁見を賜り、ここで支倉常長は洗礼を受けバルセロナに滞在後ローマへと向かっている。
彼らはローマで熱狂的な歓迎を受け、教皇パウロ5世に謁見し、伊達政宗の手紙を渡している。
しかし彼らがようやく帰国した1620年は、日本では全国的にキリスト教が禁止され、信者たちは次々と処刑されるという厳しい時代となっていた。
日本ではしだいにキリシタン弾圧が厳しくなってきているという情報が教皇のもとに届いており、交易を約する返書をすら得られず7年後に帰国している。
しかしキリシタンとなった彼らの多くは「招かれざる帰還者」であり、仙台藩にとってもやっかいものになっていく。
仙台に帰った支倉は、以後身を潜めて生きなければならなくなった。「運命に裏切られた」者として、自分の人生をどう総括したらいいのか、思い悩んだにちがいない。
1997年、「ハポン姓」の女性が美人コンテストで優勝したのをきっかけに、テレビで「ハポン姓」の人々のコミュニティが紹介された。
支倉使節がアンダルシア地方に蒔いた「ハポン」姓の人々は、かつての支倉の孤独で沈鬱な自問自答とはまったく裏腹に、底抜けに人生を楽しんでいるかのように見えた。