「かのように」~関係性の思想

2020年4月、京都大学数理研究所の望月新一教授が世紀の難問「ABC予想」を解いたというニュースで湧いたが、最近みたNHK特集によれば、果たして本当に解かれているのか大論争となっているという。
その理論「宇宙際タイヒミューラー理論」を解説することは無理としても、番組中ひきあいに出された数学者ポアンカレの言葉が印象に残った。
「数学とは異なるものを同じものとみなす技術である」。これなら、少し理解できる。
例えば、クロワッサン、ラグビ-ボ-ル、三カ月、色んな形があるが、これらは明らかに異なるかたちをしているが、共通点がある。
簡単にいうと「一筆書きでかける図形」ということ。
両端を一つに結わえた三本の紐は、動かしてみれば色んな形を成すが、両端が交わっているという関係性において共通している。見かけは変わっても、「関係性」まではくずていない。
話はとぶが、森鴎外に「かのように」という小品に次のような文章がある。
「まあ、こうだ。君がさっきから怪物々々と云っている、その、かのようにだがね。あれは決して怪物ではない。かのようにがなくては、学問もなければ、芸術もない、宗教もない。人生のあらゆる価値のあるものは、かのようにを中心にしている」。
鴎外のいう「かのように」といのは、実際は違うのかもしれないが、一応同じものとみなすということだ。
実社会で「かのように」で認識されているものいくらでもある。
例えば「法人」とは、生物学的にヒトである自然人ではないが、法律の規定により「人」として権利能力を付与されたもの。
会社などの団体をあたかも一人の人間である「かのように」、権利・義務の主体としたものとみなす。
こう考えることで、会社を一人の人間のごとくに相手取って損害賠償などを要求することができ、会社は人間であるかのように権利主体として行動したり責任が生じたりする。
しかし、そもそも人間は自由な主体なのだろうか。いかなる行為も過去にその原因を持ち環境の諸作用の結果として生まれたものと捉えるならば、自由な意思などは働いてはいないのかもしれない。
しかし我々は、本人の自由の意思が働いた「かのように」に見なして、その人物の責任を問題としている。
我々は、歴史上の人間がまるで自律した思い、自由な行為として行ったかのように考え評価する。
いくつも選択肢があってその中から一つの行為を選びとった「かのように」とらえるのだ。
それによって、その人物の偉大さや卑小さを際立たせることができるからである。
本当は、そうする他に道がなかったのにもかかわらず。

古代から近世に至る哲学者や科学者や芸術家たちは、ただ単に世界の仕組みを知ろうとしたにすぎない。
例えば、「ドレミファソラシド」の音階を見出したのは、古代ギリシアの哲学者ピタゴラスである。
音を奏でる楽器は、厳密な仕組みにのっとって作られている。
ある日、散歩中に鍛冶屋の近くを通りかかったピタゴラスは、職人がハンマーで金属を叩くカーン、カーンという音の中に綺麗に響き合う音とそうでないものがあることに気づいた。
すると彼は、「モノコード」というのは共鳴箱の上に弦を一本張った装置をふたつ用意した。
片方のモノコードの弦の長さは固定しておきこれを基準にする。もう一方のモノコードは琴柱を動かすことで弦の長さを短くしていく。そうして2つの弦を同時に弾き、綺麗に響き合う位置を探す。
そして、片方の弦の長さが半分になったとき、すなわち弦の長さが2:1になったときに2つの音が完全に溶け合うことが判明した。
ピタゴラスはその後、他にも2つの音が調和する場所がないかを探した。
すると、2つの弦の長さの比が3:2や4:3のときにもそれぞれ2つの音はよく調和することがわかる。
そしてピタゴラスは、3つの美しく響きあう音程になる時の2つの弦の長さの絃の比を調べると、すべて簡単な整数の比になることに感動した。
ちなみに、音楽では音程(2つの音の音の高さの差)を表すときに「度」という接尾辞を使う。
特に綺麗に響き合う音程には頭に「完全」を付けることになっていて1オクターブの中に完全音程は、完全4度(ドとファ)、完全5度(ドとソ)、完全8度(1オクターブ)の3つがある。
というわけで、古代ピタゴラスが音階を発明するきっかけになったのは鍛冶屋であった。
ピタゴラスは音楽の研究を通して、数字を研究することは神の意思を汲み取ることであり、数字の中にこそ神の言葉があるのだと考えるようになった。
ほどなくして、ピタゴラスたちは「万物は数である」というスローガンを掲げるようになったのである。
音楽史だけではなく、美術史においても「数的関係」が重視される。
ルネサンスでは、古代ギリシアやローマの学問が見直されたため、ギリシア人の考えた人体の理想的なプロポーションについても再注目された。
古代ギリシアでは、人体比率の理論が確立されており、「カノンの法則」と呼ばれていた。
古代ギリシア・ローマの人々は、神々や宇宙と繋がっている人体は理想的な比率を持っていると考え、これを解き明かそうとした。
ちなみに、ギリシア人の彫刻家・建築家のポリュクレイトスの著書「カノン」に由来する。
ポリュクレイトスは理想的な身体は、数学的に定義された身体のパーツが、正しいプロポーションと関係性の上に構成されていなくてはならないと考え、オリンピック選手の身体を測って理想的な人体の比率を決定し、その比率に基づいて彫刻を制作した。
また、ローマ時代の建築家マルクス・ウィトルウィウス・ポッリオは、「建築は人体と同様に調和したものであるべき」と述べて、理想的な人体の比率を数字で定義し、建築に応用しようとした。
12世紀になるとイタリアの数学者レオナルド・フィボナッチが発見した「フィボナッチ数列」は、植物の茎や葉のつき方などに見られる数列で、この数列の比は 「黄金比」に収束することがわかっている。
「黄金比」は、縦が1で横が1.618・・の長方形は安定感があり、人間が最も美しいと思う形と言われ、ギリシアのパルテノン神殿はこの比率がふんだんに生かされている。
現代においても、名刺やキャッシュカードの縦横の比率がそれに近似している。
また、古代ローマの建築家ウィトルウィウスの理論が再注目され、彼の算出した比率に基づいて複数の「ウィトルウィウス人体図」が制作された。
特に有名なのがレオナルド・ダ・ヴィンチの素描で、中心の男性の手足が円と正方形に接している。
この素描では、ウィトルウィウスの比率を忠実に再現したものではなく、一部の比率にダ・ヴィンチによる修正が施されているという。
レオナルド・ダヴィンチをはじめとするルネサンスの画家たちは、古代ギリシアの芸術家と同じように、「数学的比率」の中に普遍的な美を見つけ、絵画においてそれを再現しようとしたのである。
当時、絵画は見たものを写して組み合わせる作業が基本だった。
しかし見たものを写しとるのは、そんなに簡単ではなくて、「モノがそのように見えるためのルール」を知らなくてはならない。
例えば町の様子を描くのも、一点透視から二点透視、三点透視といった遠近法を知らないと正確に描くことはできない。
その建物が丸いか四角いのか、描くべき木がどんな風に枝分かれているのか、人間の骨格や筋肉がどんな仕組みをしているか、対象になる物にあるバックグランド や仕組みを理解して描かないと、見たとおりの形にならない。
というわけで、ダヴィンチが絵画を通じて表現したことは、数学的な関係を含む一貫した法則を見出す作業であったといえる。

古代より自然科学者達は、はじめは自然という機械の精巧さに驚き、その製作者である神をたたえ、神の意図を知るために、自然を研究したのである。
ガリレイの有名な言葉に「宇宙は数学という言語で描かれている」というものがある。
ニュートンも、自然が一定の法則に従って運動すると考えて、その法則を発見しようとした。
ちょうど、幼児が玩具の仕組みを知りたがるようなもので、これを「機械論的自然観」とよぶ。
1630年、ガリレオは地動説を解説した「天文対話」を執筆した。
この書は、天動説と地動説の両方を「対話形式」にしたのは、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないように書いたものであった。
ガリレオ説は文字通り「天地がひっくり変える学説」であるが、すこし後の「社会契約説」も、社会思想において天と地を入れ替えたような説であった。
「社会契約説」では、ホッブズ、ロック、ルソーの3人の名前があがるが、ホッブズが1651年に先陣をきって「リバイアサン」を刊行している。
リバイアサンとは聖書の「ヨハネ黙示録」にある海上に出現する巨大な生き物の名で、ここでは教会権力から解き放たれた「主権国家」のことをさす。
主権国家とはすなわち、近代国家をさす。
ホッブスの生きた時代は30年戦争という各国が傭兵を使った略奪暴行に満ちた悲惨な戦いだった。
ホッブズには、超国家的な力をもつカトリック教会の介入が戦乱の一因に見え、分断をもたらす介入を防ぐため、国家の主権は誰からも干渉されるべきではないという政治理論を提示したのだ。
人は本来、自らの命を守るためなら何をしてもいい権利(自然権)をもつ。
その権利は、他人にも及ぶために争いになる(自然状態)。聖書や理性は「自分がほしくないことは他人にもするな」と命じる(自然法)。だが、これを自分だけ受け入れても、平和は訪れない。
すべての人を畏怖される共通の権力なしにには、「万人の万人に対する闘争状態」である。「リバイアサン」の表紙に描かれたリバイアサンの姿は、うろこはよろい、火をふき海を煮やす、まるでゴジラである。
それでは、いかにして万人の闘争を終わらせるか、自分たちを畏怖させる「共通権力」と契約を結べと主張する。
それが国家であり、軍や警察といった暴力を「独占」することにより、治安を保つという近代国家の枠組みができる。
だが、国家への畏怖がないと平和は保てないいものか、疑問が生じる。
文化人類学の知見では、民族集団の間で贈り物をしたり、通婚したり、小規模な小競り合いでガス抜きをしたりして、国家と国民というタテの関係をヨコの関係で均衡させる。
つまり、国家が暴力を独占した場合、暴走した時の犠牲が大きいというのは、現在のロシアをみればよくわかる。
ホッブスの思想は、結果的に「絶対的王権」を擁護する理論となり、後に現われるロックやルソーの「市民社会」支持の政治理論と異なるものの、政治権力の正統性が天より賦与されたという考えから、地から湧き起ったとする視点へと転換した点で、「コペルニクス的転換」といえる。
またホッブズの画期的なところは、王と人民の「社会的契約」という「関係性」を前面に打ち出した点である。
しかし、実際に国と人は契約なんて結ぶだろうか。あえて探せば、アメリカ建国に向かって、メイフラワー号でやってきたピューリタンたちの「メイフラワー誓約」がその端緒なのかもしれない。
日本人にとって、国の創成は自然生成的なもので、明治の近代国家にしても「社会契約」とは言い難い。
つまり「社会契約説」は、政府が人民と為政者の契約があった「かのように」見做す典型的な事例といえる。
実際、この考えが市民革命を起こして近代国家を生んだことを考えれば、「かのように」は絶大であるといえよう。
実は、ホッブズに世界観の転換をもたらすインスピレーションを与えたのは、意外にも「ピタゴラスの定理」(三平方の定理)であったという。
そして、このピタゴラスこそは、古代ギリシアにおいて「地動説」を唱えた人物にほかならない。
ヨーロッパ中世において、石工のギルドから生まれた現代にも続く秘密結社は、「ピタゴラスの定理」をシンボルに使うほどである。
そして、ホッブズ以上に、数学的関係性の見方を社会思想に適用したフランスの人類学者が、レヴィ=ストロ-スである。
ストロ-スがが提示した思想は「構造主義」とよばれる。
レヴィ・ストロ-スは、異なった社会を比較の上で、見かけ上の複雑さの下に埋められた関係性における共通項を探り出し、その社会における人間の思考が、そうした社会的関係(親族の構造など)により規定されてるという考え方を打ち出したのである。
実際に、レヴィ=ストロ-スが構造主義の考え方を作りあげる過程で、フランスの数学グル-プとして有名なブルバキ派の中心人物だったアンドレ・ヴェイユが協力しているのである。
具体的にいうと、未開社会において平行イトコの婚姻と交叉イトコの婚姻の問題につき、前者がタブ-視されるのに対て後者が許容度が高い。
この問題につき、人々は女性をできるだけ近親相姦から免れた通婚(交換)の対象として残して置けるように思考すること(野生の思考)を明らかにする。
また関係性といえばまずは関数を思いうかべるが、数学において式の形はいろいろな形で表れても、その関係性においては共通というものが関数の一つの性格である。
4-3y=2x+5という式は、2x+3y=-1とは見かけにおいては異なっていてもまったく関係性において同じである。
社会の構造がいかに豊かに枝葉を身にまとっていても幹の構造において共通ということである。
こうした構造主義の考え方は、自由や主体性を中心において考える人間像、また歴史性を重んじるマルクスなどとも異なっている。

人類がいつしか自然を加工し利用することを目指すようになったのは、「科学革命」から「産業革命」へと進む過程であったように思う。
そして自然科学の概念を、直接的に社会科学に適用する見方も生まれる。
例えば1980年代に「エントロピー」の名を世に知らしめたジェフリー・リフキンは著書「エントロピーの法則」で次のように語っている。
「エントロピーの法則は、歴史は進歩するという、これまでの概念を撃ち砕くものであっり、科学とテクノロジーによって、もっと秩序だった世界が創成されるとする現代の神話を打ち砕く力をもっている」。
エントロピー増大の法則は元々「熱力学」の第二法則であり、それをそのまま社会に適用して「無秩序拡大」のように捉えるのは、やや行き過ぎかと思う。
森鴎外がいう「かのように」が怪物となりうるのは、例えばダーウインの「進化論」の人間社会への適用で、それがスペンサーが唱えた「社会進化論」である。
資本主義興隆期のアメリカにおいて弱肉強食の苛烈な闘いが展開されるが、ダーウイン主義は強者にとってまたとない理論的武器とみなされた。
彼らはダーウイン主義を根拠に、強い者、才能ある者が競争に打ち勝つのは自然の理であり、成功と富は自然法則によってもっとも生活に適合したものの上に輝くことを、まことしやかに主張する。
資本主義的競争とは矛盾と荒廃がもたらす点で、リカードやマルサスに連なる悲観主義の系統に属するものであったものが、途方もなく楽観的な資本主義を賛美する理論へと変貌する。
そして「かのように」が暴走すると、「優生学的な世界観」を生み、世界中でジェノサイドの悪夢を生む。

また音を出す「楽器」の製作は数学と関わりが深い。例えば1オクアーヴ上がるならば、計算上はピアノの弦なら半分の長さになり、トランペットの管も半分になる。
作曲とは、音自体が自分の中に存在していて、体の中で響いているものを楽譜として表現することだ。
つまり、自分たちの体内に宇宙のリズムが流れており、作曲とはそれを見出して譜面に記していく作業だという。
当然ながら、われわれの体は、水やアミノ酸など、地球の一部、宇宙の一部である。
はやぶさが、集めた砂で注目しているのは、アミノ酸であるのは、それが生命の存在の可能性を示すからである。