「自分」が演じる役

1980年代の世界的歌姫といえば、マドンナだが、マドンナにはもうひとつ夢があった。1995年、ブロードウェイミュージカル「エビータ」の映画化が決定した時、マドンナは自分こそが主役エバ・ペロンにふさわしいと信じて疑わなかった。
それはエバが、私生児として貧しい家に生まれるも、持ち前の美貌(というより知性)で権力をもつ男に近づき「女優」という仕事に就き、やがて大統領夫人となり、ついにはアルゼンチン初の「女性副大統領」にまでなったからだ。
当初、その候補には、メリル・ストリープ、マライア・キャリーなど錚々たるメンバーが名を連ねていていたが、マドンナは、自分こそがエビータ役にふさわしい女優であると便箋4枚もの手紙をしたため、監督のもとへ送った。
マドンナの強い意志を受け、監督は名だたる名女優を押しのけ、彼女をエビータ役に大抜擢した。
しかし、撮影のためアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに上陸したマドンナは、街のいたる所に書かれた「マドンナ帰れ」という文字を目にする。
レジェンドと化した聖女・エビータを、マドンナごときポップスターに演じて欲しくないという人々の気持ちの顕われだった。
また、映画の最大の見せ場である、4000人の観衆の前でエビータが大統領官邸のバルコニーで歌うクライマックスシーンで、「大衆の抗議」の高まりに、アルゼンチン政府がマドンナの官邸への立ち入りを禁止した。
そこで彼女は、大統領との会見を何度も申し入れ大統領との「極秘会見」が行われることになった。
その会見当日、マドンナはなんとエビータが生きた1930年代の服装に身を包んで、自らが歌った歌を統領の前で流した。大統領は目を閉じじっと耳を傾けていた。
そして曲が終わったとき、大統領の目にも涙が浮かべて語った。「どうやら私は君を信じているようだ」と言って手をさし伸ばし、「映画の成功を祈っています」と握手した。
総制作費60億円をかけて製作された「エビータ」は、興行的にも大成功をおさめ、ゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディー部門において「最優秀女優賞」という栄誉を手にする。
日本でも、「自分が演じるためにある」という思いから、映画化にこぎつけた元ミュージシャンがいる。
富山県の名もなき作家・青木新門に、本木雅弘から思いもよらない電話があった。本木がインドを旅した時の写真集に、青木の「納棺夫日記」の文章を入れたいという。自費出版の本であり、青木は本木に「どうぞ ご自由に」と返事をしていた。
それから5~6年何の音沙汰もなかったが、その間本木は映画関係者に「映画化」の話をし、断られ続けていた。そんな中ただ一人、中沢敏明というプロデユーサーが興味を示した。
本木の情熱に後押しされた中沢氏の働きで、いくつかの企業が資本を出し、「制作委員会」が出来た。
そして、しばらくして青木の処に脚本が送られてきた。
青木はその脚本に正直ガッカリしたという。
映画の舞台が浄土真宗の拠点でもある富山ではなく、真言宗の多い山形であったこと。
「後世」など宗教的な要素が消えていて、青木が思うところとの”着地点”とは違うと思った。
制作委員会に修正を迫ったが、決定を覆すことは商業上できなかった。
しばらくして本木から電話があり、富山の小料理屋で会うことにした。
正座して語る本木の真摯な態度に心をうたれた青木は、「映画は映画、本は本ということでいい」というと、本木はやっと刺身に手をつけた。
青木は、有楽町館の映画館で「試写」を見て、あれだけ美しい映像に仕上がっていたことに感動した。
そしてある日のこと、青木のもとに本木から電話があって「アカデミー賞外国部門賞にノミネートされました」という喜びの声であった。
その後、オスカー受賞決定の報告に、青木は世の商業主義に屈せず、この作品を完成させた本木に、心底敬意を表したいと思ったという。

1959年、動物作家、戸川幸夫は、網走経由で知床入りを目指した。当時、知床は文字通りの「地の果て」。毎日グラフ編集次長を務めた戸川であるから、知床の「秘境知床」には非常に興味がそそられたのであろう。
とはいえ、網走市の観光課の人でさえ知床半島に行ったことがないという。
観光係長にお願いして知床半島に行ったことのある市民四人をやっと探してもらい事情を聞いた。
その時は知床半島のウトロまで行くのに営林署のジープに便乗し、営林署の宿舎に泊めてもらった。
鮭の集荷船に乗って突端の番屋に行き、そこから先は「番屋づたい」に転々と移動して半島を旅した。
ウトロ側は険しい海岸線で、半島先端部に番屋はなく、「番屋伝い」とは赤岩から羅臼町の中心である羅臼港にかけて点在した番屋このこと。
今でも羅臼町側は相泊地区から先は車道がなく、漁をするには船が頼りになっている。
この時の取材は、小説『オホーツク老人』となって実を結ぶ。
今でこそ、漁船の高速化などで知床半島先端部番屋も羅臼町の道路終点も、相泊港から日帰り圏内となったが、戸川が取材に訪れた頃は、夏場には漁師が番屋に滞在し、交通船という船で物資や人材を定期的に運んでいた。
「昆布漁」の時季になると一家総出で番屋入りするので、子供たちも当然、番屋に入る。
そこで教師が船に乗って番屋を訪ね歩いて臨時の授業をしたこともあった。
知床半島の羅臼側先端部が、赤岩海岸。今でも数軒の番屋があるものの、夏だけの季節移住の漁業基地なので、海の荒れる晩秋から流氷が去る春までの休漁期間はほとんど無人状態となる。
もちろん、厳冬期には船さえも近づけない厳しい自然に「封鎖状態」になってしまう。
そこで、大切な漁網をネズミの被害から守るために番屋では猫が飼育される。
そして、この猫のお守り役をするのが「留守番さん」の役目である。
戸川幸夫は、この老いた「留守番さん」を務めた実在の人物をモデルに『オホーツク老人』を書いた。
この「オホーツク老人」を読んだのが、俳優の森繁久弥。そして東宝によって「留守番さん」村田彦市を主人公とする映画が誕生する。
それが森繁久彌(当時47歳)主演、久松静児監督の映画『地の涯に生きるもの』である。
オホーツク海は秋になると荒れ始め、9月に入ると、まず昆布採りの漁師たちが知床半島から去っていく。
次に、漁期を終えた鱒漁師たちが引揚げる。10月末になると、最後に残った鮭漁の人たちも帰ってしまう。
その原始の世界の中に、たった一人残っている老人がいた。
これを「留守番さん」といい、この老人村田彦市に与えられた名前が「オホーツク老人」である。
人々の去ったあとの番小屋の中で、言葉では言えない孤独は、彦市に過ぎ去った人々を回想させる。
彦市はオホーツク海に直面するウトロ港に近いオシンコシン岬の番屋で生まれた。
三十のとき、小さくて古くはあったが一艘の船を買って独立した。
飯たきの娘おかつと、他の若者と決対のあげく、強奪する形で結婚した。
おかつは、次々と三人の子供を生んだ。
しかし、長男の与作は流氷にさらわれて死に、二男の弥吉は戦争で倒れた。
おかつも、急性肺炎で死んだ。彦市は東京の工場で働いていた三男の謙三を呼びよせて船を与えた。
その船で漁に出て行った謙三は、嵐に会ってそのまま帰ってこなかった。
彦市は謙三の死を信じることができなかった。エトロフ島の見える番小屋の留守番さんを志願したのも、謙三の帰りを待つためでもあった。
ある夏、都会の娘がこの地の涯を訪れた。謙三という恋人が死んだ場所を一度見たかったという。
彦市にとっては、こうした思い出と猫だけが無聊を慰めるものであった。
猫たちはそれを知ってか、彦市にあまえた。
だが、その猫さえもが大鷲にさらわれることもあった。
彦市は老いた身に鉄砲をかまえて後を追った。たくましかった若き日のように。
1960年、知床半島の羅臼(らうす)で、東宝映画『地の涯に生きるもの』の長期ロケが行われた。
そしてロケの最終日、森繁は「さらば羅臼よ(別題:オホーツクの舟歌)」という歌を作って羅臼の人達に贈った。
それは知床住民の間で昔から歌われてきた曲を基にした歌だった。
歌詞には冬の厳しさ、春の訪れの喜び、そして望郷の想いが描かれている。
その歌は、マスコミ発表を意図としたものではなく、村をあげて大人から子供たちまで撮影に協力してくれた羅臼の人々への感謝の気持ちで作られたものだった。
実はこの「オホーツクの舟歌」が、「知床旅情」の元歌なのだが、「知床旅情」とはかけはなれた歌詞である。
「知床旅情」が知床の春歌ならば、「オホーツクの舟歌」は知床の冬歌である。
「オホーツクの舟歌」は、次の台詞(せりふ)からはじまる。
「何地(いずち)から 吹きすさぶ 朔北の吹雪よ わたしの胸を刺すように オホーツクは 今日も 海鳴りの中に 明け 暮れてゆく 父祖の地のクナシリに 長い冬の夜があける日を 白いカモメが告げるまで 最涯ての茜の中で わたしは 立ちつくす 何故か 眼がしらの涙が凍るまで」。
また歌の中に、♪霞むクナシリ 我が故郷 何日の日か詣でむ 御親(みおや)の墓にねむれ静かに♪という歌詞があり、そこには、国に翻弄される無力な民のくやしさが込められていた。
「オホーツクの舟歌」は、森繁が映画『地の崖に生きるもの』の撮影で知床半島の羅臼に滞在していた時に作られ、撮影の最終日に地元の人たちに「さらば羅臼よ」というタイトルで歌われた。
1962年の紅白歌合戦では本人歌唱で披露された。そして1965年にシングル盤が発売されオリコン11位となる。
「オホーツクの舟唄」は、森繁バージョンより、倍賞千恵子のバージョンがよく知られている。

「オホーツク老人」を演じた森繁久彌が作詞・作曲を手がけた「オホーツクの舟歌」に、森繁自身が、新たに歌詞を添詞をした楽曲が「知床旅情」である。
個人的には、この曲を加藤登紀子のバージョンで知ったが、加藤がこの曲と出会ったのは、後に夫となる藤本敏夫を通じてであった。
1960年代後半から70年代前半にかけて、学生運動のリーダー的な存在で、カリスマ性的指導者として名が知られるようになっていた。
兵庫県西宮市に生まれ育ち、同志社大学に進学している。
大学2年生の頃に学生運動に初参加したのをきっかに、1965年には羽田闘争に参加、反帝全学連の委員長に就任するなど、頭角を現していった。
1968年には反帝全学連の委員長として、国際反戦デー防衛庁抗議行動に参加。これを理由に、同年11月に逮捕され、1969年6月まで勾留されている。
1970年に入ると、機動隊が出動したり、学生運動家の中で死者が出たりするなど、学生運動はさらに激化していった。
藤本は1972年4月に公務執行妨害及び凶器準備集合で再逮捕されている。
そんな藤本敏夫と加藤登紀子の「接点」はどのように生まれたのか。
加藤は駒場高校のトップをいくほど成績優秀で、東京大学の西洋史学科に在籍していたが、大学2年生の時、「アマチュアシャンソンコンクール」で優勝したことがきっかけで歌手デビュー。
「赤い風船」で日本レコード大賞を受賞し、人気を博していた。
仕事が多忙すぎた加藤は、2年留年して東京大学を卒業するが、学校側から、卒業式には振袖で参列するように言われていた。
加藤はそれを無視して、ジーパン姿で颯爽と大学に現れたところを、週刊誌の記者が激写して記事にした。
誌面を見た藤本は、そんな加藤登紀子を気に入り、東大に赴いて「学生運動の集会で歌を歌って欲しい」と依頼した。
加藤は、自身の歌を政治的な問題に使われることが我慢ならず、拒否しているが、これがきっかけで2人は交際に発展した。
1968年3月、藤本敏夫との初デートの時で、その日の夜の別れ際に、加藤の住んでいるマンションの屋上で夜空を見ながら「知床旅情」を歌ってくれた。
朗々と唄いあげる藤本の姿に、プロ歌手の加藤の方が負けてしまった。
藤本は、学生運動をするために兵庫県の西宮にある実家から東京に出て来て、明治大学の学生会館に寝泊まりをする生活を送っていた。
藤本が唄った“俺たち”という言葉には、「嵐に身を晒す者への愛しさと、なぜか言いようない悲しみのようなものが漂っていた」と語っている。
この歌を聴いた時の衝撃が、彼女の歌手としての“何か”を突き動かしたという。
その後、藤本は拘束されて彼女は別離の中で“ひとり寝の子守唄”を書いた。
1969年の秋頃、加藤は森繁主催のイベントで「ひとり寝の子守唄」を歌った。
楽屋にいた森繁が“誰が歌っているんだ?ツンドラの風の冷たさを知っている声だ”と言って出てこられて、舞台の袖で歌い終えた私を両手を広げて迎えてくれた。
加藤は旧満州(現中国東北部)のハルビン生まれで、森繁は旧満州からの引き揚げ者。
大陸への想いの共有が、知床を舞台にして結びついた。
後に加藤が日本人残留孤児の方たちを前に、中国語で知床旅情を唄った時、彼らと一緒に泣いたことが今でも忘れられないと語っている。
さて、藤本と加藤が結婚したのは1972年、藤本が服役中のことであった。
藤本は1974年に出所して、出所後、過激な運動家だったこれまでと異なり、自然を追求した人生を送っていて、千葉県で「鴨川自然王国」を設立した。
その後、参議院に立候補したが、あえなく落選する。
そして2002年7月、藤本敏夫は、肝臓がんを患い、58歳にして亡くなった。
加藤は、夫を通じての「知床旅情」との出会いが、自分のために曲を創る方向へと向かうきっかけになったという。
つまり、身の丈にあった自分の曲を歌うシンガーソングライター加藤登紀子のスタイルへと。
加藤が素晴らしいと評する映画『地の崖に生きるもの』に描かれた人生には、海と共に生きてきたこと、海を戦いながら生きてきた人生、海の生活に誇りを持ってきた彦一という老人の人生に、知床半島の四季の自然が厚みを加えている。
特に、冬の海に生きている動物達、鳥達が撮られているシーンは。自然世界を記録したドキュメンタリーようである。
その点では、今村昌平が同じく「老人」を描いて、1983年にカンヌ映画祭でパルムドール賞を受賞した「楢山節考」を想起させる。
森繁の老人役はもともと絶品なだけに、「彦一」を見事に演じていた。
森繁は戸川幸夫作『オホーツク老人』を「おれのために書いてくれた小説だ」と感じ入り、「森繁プロダクション」を設立までして制作された映画だった。
その思いは、加藤登紀子が歌う「しれとこ旅情」のミリオンヒットにも繋がった。
知床半島・羅臼町の「しおかぜ公園」に「知床旅情」の歌碑と共に、森繁久弥の「オホーツク老人」が建っている。