C.W.ニコルの遺産

世界が熱波に襲われ山火事が起き、天をひっくり返したような水が襲って、土砂が住宅を襲う事件などが起きている。一方で欧州のライン川は干上がって国際運送への支障がでている。
そんな映像を見ながら、長野県・黒姫山の森を30年かけて甦らせたC.W.ニコルのことが思い浮かんだ。
ニコルは2012年4月 直腸癌で亡くなられたが、その生涯は仏教でいう、「一隅を照らす」という言葉がよくあてはまるように思う。
C.W.ニコルは、1940年イギリスの南ウェールズに生まれる。17歳になると 家出同然で憧れだった北極へ探検に出かけた。
その後北極探検を数回行い、今度は南半球のエチオピアで野生動物の保護活動に取り組んだ。
世界中の自然を見て回ったニコルは、1978年捕鯨基地の和歌山県の太地(たいち)に1年間滞在した。
日本の伝統的な鯨捕りの漁法と誇り高い生き方をテーマにした小説を執筆するためで、その時書いた「勇魚」はニコルの初めての長編小説である。
その頃ニコルは、長野県の黒姫を訪れ、日本の「里山」の風景にほれ込み、黒姫に移住する決意をする。
ニコルはこの地で「森の再生」に取り込むが、その後押しをしたのが自分の故郷で起きた出来事だった。
炭鉱が盛んだったウェールズは森林が伐採され 山が丸裸となり石炭クズのボタ山だらけになっていた。
1966年秋、大雨のあとボタ山が崩落し、小学生116人が犠牲となるという痛ましい災害が起きる。
村の人々は悲劇が二度と起こらないように元の森を取り戻そうと苗木を植え始める。
さて、ニコルが黒姫を訪れたのは1980年頃で、春に地元の仲間と一緒に山に行くと、落葉樹の木々がたくさんあった。
数時間歩くとクマを4頭見て、ここには原生林が残っていると感じ、翌年 同じ山でクマの写真を撮りたいと思ってやってきたが そこにもう森はなかった。
大木はほぼ全部伐採されていてショックを受けた。
先祖から頂いた美しい自然を、特に戦争のあと豊かな日本は自然をずっと壊してる。
1980年代 好景気に沸く日本では各地でリゾート開発や住宅地の造成が行われていた。
スキー場やゴルフ場造ったりして、森をバサバサ切って何で残り少ない「原生林」を切らなくちゃいけないのか。未来のためにはどうすべきか。もう、いいかげんに考えてくれ。
愚痴だけ言うのは面白くない。自分が日本で何をすればいいかと考えた。
そして日本の森の再生のために生涯をかけて戦い続ける。そう心に決めたニコルは、バブル全盛の1986年より本格的に森の再生に乗り出す。
ちなみに、フランスの絵本作家ジャン・ジオノの「木を植える男」(1953年)が日本語に翻訳されたのは、1988年である。
ニコルは、スギやヒノキばかりが植えられた鬱蒼とした森を少しずつ買い取って本来の日本の明るい森に作り替えていこうと決めた。
この途方もないニコルのチャレンジをサポートしたのが地元の松木信義という、名前がミッションを表しているかのような林業家であった 。
ニコルと松木はかつて「幽霊森」とも呼ばれた暗い森を間伐し、元々ここに生えていたブナやシラカバなどの木を植えていった。
森は周辺の自然が豊かにならないと回復しない。自然環境を守りたいというニコルの目は日本各地の川や海にも向けられていた。
ニコルは林野庁に原生林の伐採を抗議する「公開質問状」を提出した。その中で「森林を破壊すれば川は鉄砲水となり大きな災害を起こす」とも警告した。
そして黒姫を流れる鳥居川でも恐れていた災害が起こる。集中豪雨による鳥居川の氾濫。
この災害をきっかけに 長野県は「護岸工事」を進めようとする。当時 日本では 水害を防ぐためコンクリートで固められる川が増え続けていた。
しかしニコルはこのやり方に猛反発し、そのやり方を変えてしまう。
ニコルは、川の小さな支流は国の血管であって、その血管が硬くなってしまうとどうなるか。
コンクリート化されると国は、そのうちに心臓麻痺で死んでしまうと訴えた。
そしてニコルが提案したのは「近自然工法」と呼ばれるもので、コンクリートではなく岩や石を使う自然に近い工法であった。
その工事のあと 鳥居川にはイワナや カジカなど川魚も増えていった。
黒姫の森は20年の時を経て見事に蘇った。それが「アファン・アルゴード森林公園」である。
ニコルが黒姫で再生した森は「アファンの森」、「アファン」とはウェールズ語で「風の通るところ」という意味である。
「アファン・アルゴード森林公園」は、子どもたちがキャンプに来て、 年長者は散歩道を歩いていたり、一人でサイクリングして、各世代の人たちがそれぞれの楽しみ方をしている。
そして2002年 ウェールズと黒姫、つまりニコルにとっての2つのふるさとの森が「姉妹森」の提携を結んだ。
そして 自分が亡くなったあとも森を守り続けていってほしいと願い「アファンの森財団」を設立した。
ニコルの戦いを30年以上にわたって見続けてきた親友が北海道富良野にいた。
「北の国から」で知られる脚本家である倉本聰(くらもとそう)で、 富良野で森作りをしニコルとは互いに共鳴し合ってきた仲である。
その頃、二人がTVコマーシャルで、北海道を舞台に共演していた記憶がある。
ニコルは行政マンから「赤鬼」と恐れられながらも、豊かな命と自然を守るニコルの戦いは、やがて高い評価を受けるようになる。
2005年ニコルはイギリス政府から名誉ある勲章を受けた。
ウェールズの森林公園との姉妹森の締結など日英の関係発展に大きく貢献したことが評価された。
そして2008年には思いもかけず、イギリスのチャールズ皇太子が「アファンの森」にやってきた。
イギリスで有機農業や環境保護に力を注いでいたチャールズ皇太子は「アファンの森」での取り組みや森の持つ可能性についてニコルと熱心に話したという。

我が個人的な話だが、それまで意識にも上らなかった「原生林」の存在に出会ったのは2021年春のことであった。
宮崎県の都城(みやこのじょう)に行って、そこからレンタカーで2時間半をかけ宮崎県綾(あや)を訪れた。
髙さと細さでスリリングな「照葉(てるは)大吊橋」を渡ることが目的であったが、ここが日本を代表する「照葉樹林地帯」のド真ん中であることを知った。
宮崎県綾町には中核部分(コアエリア)約700haを含め、約2500ha(東京ドーム約535個分)の日本で最大級の照葉樹林が残っている。
この地域の照葉樹林構成種の高木種数は、25種~30種程度とされている。
無知ゆえに驚いたことは、日本で照葉樹林の大部分が失われ、まとまった面積の森林はほとんどないということであった。
九州の宮崎県には日本最大級の照葉樹林が広がっているが、そのほかは、香川県の金毘羅宮、三重県の伊勢神宮のように、社寺林として残っているものがほとんどである。
森林大国と呼ばれる日本において、残念ながら照葉樹林はごくわずかというのが現状である。
現在の全照葉樹林の面積は日本の総森林面積のたった1.2%程度に過ぎない。
つまり、縄文期より西日本全域にあった多様で豊かな森は、建築用資材の需要により「針葉樹林」(杉や松)に変ってしまったということだ。
実は、これこそが現代日本人を悩ます「花粉症」の原因なのだ。
自然の生態を破壊することの恐ろしさは、なによりも新型コロナウイルスの発生が教えてくれる。
感染源はコウモリということだが、原因は何と森林伐採にある。昼行性のゴリラはふだん夜行性のコウモリと出会わないが、伐採で樹木が減り、ゴリラが寝ている木にコウモリがやってきて接触したのだろう。
感染したゴリラに森のハンターたちが接触したことで人間にも感染が広がった。
さらに、森林伐採によって現金経済が奥地まで浸透し、伐採会社が去って失業した人々が現金を得ようとして野生動物の肉を都市に売りさばこうとし始めた。
伐採会社が作った森林道路と携帯電話が一役買い、都市からの注文を受けて野生動物の肉がすばやく都市に運ばれ、感染が広がったというわけだ。
こうした自然の大規模な改変やグローバル経済の浸透は地球の至る所で起きている。
それは地域の文化を急速に変容させ、今まで微妙なバランスで抑えられていた細菌やウイルスを都市に運ぶ結果となる。
戦後の復興で建材の需要が高まり、日本の各地で大規模な造林が進み、広葉樹林がスギやヒノキの針葉樹に置き換えられた。
その計画は安価な外国材の導入により宙に浮き、針葉樹林は間伐などの手が入れられないまま放置された。
それがシカやサルなど野生動物のすみかを奪って畑地や里に侵入させる結果を招き、「花粉症」の原因となり人々を困らせている。
戦後の土建国家政策は、全国に道路網を敷き、河川に大小のダムを建設し、海岸にコンクリートの防波堤を張り巡らせた。
その結果、川の流れがせき止められ、森に十分な水や栄養が行き渡らず、保水力が落ち土壌は崩れやすくなり、森里川海の循環が断ち切られた。
それがかえって災害の規模を拡大させ、漁場の劣化にもつながった。
日本列島は自然の多様性に富み、それをもとに人々は多様な文化をはぐくんできた。
科学技術はその文化と寄り添い、地域の特性に合った暮らしを設計する役割を担う。
思い浮かぶのは、静岡県で起きているリニア新幹線への反対運動。これによって水源が失われるなど、地域になんの利益をもたらさないと反対が続く。
トンネルの建設による湧水によって、南アルプスの地下水を源泉とする大井川の水量に影響が出る可能性がある。
静岡といえば「楽器の街」浜松がある。ピアノの素材は主にマホガニーという木材だが、南アルプスから天竜川で運ばれた木材と、山を越える乾いた空っ風による乾燥という地形的な面で、浜松は木製品を作るのに適していた地なのである。
ところで、日本人ほど「花粉症」に苦しんでいる国民は世界にいるのだろうか。
豊かな野生の動植物が生息する貴重な森は、政府の「林業政策」の方針に基づいて破壊され、生物の遺伝子銀行となる原生林ほとんど残されていない。
現代日本人の「花粉受難」も、そうした反自然的政策の行き着いた必然なのであろう。

ニコルが住んだ黒姫は、もともとは貴重な「原生林」であった。しかし、多くの森は いわゆる二次林で二次林ということは、きちんと人と森とがつきあっていかないとどんどん荒れていく。
健康的な森はどういう森かというと「明るい森」、 光が入るとまだらに光が入る森で、木の種類が豊富で、たくさんの種類の動物が住み着いた森。
しかし人間が切ったり植えたりすると、切りっ放し植えっ放しで健康な森とはいえなくなる。
手入れしないと密集することになる。密集すると光は入らない。風が通らないと フクロウが飛べない。
人間が 間伐したりして、人間の汗と愛情を入れないと森は育たない。
世の中では「動物福祉」という言葉があって、同じゲージで沢山の動物を育てることに対する批判が高まっているが、森の木も「密」にすれば病気になってしまう。
その一方で木も寂しがり屋で、植林をする時は近く50センチぐらいの所に隣の木があるように植えて孤立させないようにする。
風が強い時 雨が強い時お互いに支え合う。
そして 種類を増やすっていうのは、1つの種類が病気で枯れても、ほかの種の木は耐えて残るかもしれない。だから木の種類もを増やすのは、森の質をアップグレードしてようなものだ。
つまり、木をよく育つためには、「多様性」(Diversity)と「共生」が大事ということである。
日本の植林と言えば、スギやヒノキばかり。それはほとんどが建築資材となるためのものである。
しかしニコルはブナやナラ シラカバなどさまざまな種類の広葉樹を植えた。
また、森の健康に欠かせない水の循環を作るため池や水路も自らの手で作った。
すると、きれいな水にしかトンボのヤゴが住んだ。ヤゴは住まない森の健康の番人。
オニヤンマなど 数十種類のトンボが見られるようになった。
ニコルの森は 年を追うごとに豊かな姿へと変わっていき、ヤマネのような絶滅危惧種も帰ってきた。
そして驚くことが起きた。森の生態系の頂点に立つフクロウがアファンの森を住みかにしたのである。
ニコルは黒姫の森にあって、作家として小説 童話 エッセーなどの本を出版している。
その中で、ニコルは「森の魔法」ということについて述べている。
ニコルの父は戦争で亡くなり、母は仕事と安全を求めて母は隣の国 イングランドに行った。
ニコルは、重い病気になって、両足にギプスはめてた学校に行っていた。
ウェールズ生まれのニコルの発音は周囲と違っていて皆に嫌われた。本人の希望もあって、一人でウェールズに帰された。
すると祖母が「あんた強くなりたいかと聞いて」きいてきた。それに頷くと、祖母は自宅から1キロほどの古い森について語った。
そして、森に行って 中入って強そうな木を選んで木を思い切り抱いて、木に3回力を貸して下さいと言いなさい。
そして木に登りてっぺんまで登って木と一緒に呼吸をしなさいと教えてくれた。祖母のいうとうりにすると、そこでニコルは「新しい世界」を見つけた。
木の上にいると、自分が魔法の何かで飛んでいる気がして、森から力や元気もらえることを実感した。
作家の大江健三郎は四国の山林に育ったが、森の斜面に住んでいたせいか、木の根元が家の上にあった。
そして、自分達の生活がマルデその木の根っこから「命」をウケながら生きているように思えたという。
この風景は、作家的イマジネーションの源泉であったにちがいなく、大江氏は木を「メタファー」として多 くの作品を書いている。
さて、東北大震災から5か月たった2011年8月、ニコルは宮城県東松島市の人たちを「アファンの森」に招いた。いずれも 家族や家を失い心に深い傷を負った人たちである。
喪失感にさいなまれていた市の職員も同行し、3日間滞在したが、森の中で子どもたちが明るい表情を取り戻していく様子を見て、市の職員ははじめて「町は再生できるかもしれない」という希望が湧いたという。
その後ニコルは東松島を訪れる度に、かつてここにあった人々の暮らしや風景に思いを巡らせた。
津波で壊滅的な被害を受けた地区は高台に移転し新しい小学校を造ることになった。
市の計画は 鉄筋コンクリートの災害に負けない頑丈な建物で子どもたちを守ろうという考えだった。
しかしニコルの考えは違っていて、校舎の裏手の丘を復興の森として整備し、その森に抱かれるように温もりある木造の校舎を配置することであった。
予算はかかっても、自然から隔離するのではなく、交わらせることで子どもは健康に育つと、市とニコルの間で繰り返し話し合いが行われた。
そしてニコルの構想したような「小学校」が出来上がって「学校が本当に種。その種から大きなすばらしい木が生まれる」と語った。

加えて、日本は単位あたりの農薬使用量が世界トップクラスの「農薬大国」でもある。
こどもの発達障害の原因が農薬にある疑いもある。
私たちを癒やしてくれるその森を育てていくことが大事って言って下さっていたのは 本当に 私たちの体の一部は森かもしれないっていうふうにね 思えてきましたね。 森 ニコルさんと最初にお目にかかったのは 実は森の中で。それは 富良野だったんですね。 で 86年。 私の第一印象はやっぱりニコルさんは 森の人。 で その何年かあとに「勇魚」の出版記念会でお呼び頂いてそこに参りましたら その… 海の専門家でもねいらっしゃるってことが私は ようやく その時 分かって。 ああ ニコルさんは海の人でもあるんだなって。 富良野で出会って3年後竹下さんは ニコルさんの番組に呼ばれ長野県の黒姫を訪れます。 たくさんの生き物に住みかを与え命を育むアファンの森。それが本来の日本の森の姿だと 竹下さんは知りました。 ムツゴロウさんのね イベントで「ムツさんと」っていうコンサートがあって。 その時に 歌手としてのニコルさんにお会いしました。 ニコルさんが歌手でもあったなんて意外に思われる方が多いのでは。 晩年は プライベートの仲間とC.W.ニコルバンドを結成し チャリティーイベントなどで歌声を披露していました。 環境保護活動でも交流の場を重ねていった加藤さん。 特別な思いがあったといいます。 実は 登紀子さんに初めて会ったのは1977年だっておっしゃったんですよね。 その時 北極に仕事で入っていてで 誰か日本の隊員が持ってたカセットで 私の歌を聴いた日があったと。 「帰りたい 帰れない」っていう歌なんですけど それがニコルさんがお母さんを亡くされた日だったと。 17歳で家出してからず~っと故郷に帰らずにいて そのお母さんが亡くなったっていうことを知った時に 私の歌に出会ったっていうお話をされたんですね。 それ以来 私 何となくニコルさんをちょっと息子のような気持ち… おかしいけど。何か あの お母さんを恋しがって泣いてる男の子っていうんですかね そういう 何か ニコルさんの中の望郷の気持ちっていうのかしらね それを ば~んって受け止めた感じで。後の最後まで ニコルさんと会うと あの~ ちょっとだけ お母さんの気持ちになっちゃうっていうか。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「土の皇帝」。そう呼ばれてきた土がある。「チェルノーゼム(黒い土)」。土壌の養分が豊富でバランスがよく、作物の栽培に非常に適した性質の土だ。 アメリカのプレーリー、アルゼンチンのパンパなどにも分布するタイプの土で、世界で最も肥沃な土として地理の授業などでもおなじみの存在だ。 ところが、その土にいま「疲れ」が見え始めているという。いったい何が起きているのか。3月中旬、「欧州のパンかご」と呼ばれる穀倉地帯、ウクライナを訪ねた。 黒い土。肥沃で生産性が高く、土の「皇帝」。世界の小麦の多くは、この土からとれる ウクライナは、土壌の6割がその黒い土だ。第2次大戦中、侵攻してきたナチスが土を貨車で運び出そうとしたという逸話が残るほどで、土の肥沃さは折り紙つきだ。 首都キエフから特急で5時間かけてたどりついたのは、東部の古都ハリコフ。そこからさらに車で1時間ほど走ると、寒風が吹きつける丘の上の畑に、真っ黒な土が広がっていた。ハリコフにある国立科学センター土壌科学・農芸化学研究所の試験畑だ。 畑の隅にはまだ雪が残っていた。一歩足を踏み入れると、雪解け水を吸った真っ黒な土が靴底にねっとりと絡みつく。想像していたよりも、はるかに重い。 「典型的なチェルノーゼムです。黒い土の層は1メートルほどあるでしょう」。同研究所のヴァディム・ソロヴェイさん(55)が教えてくれた。 土が黒いのは、枯れ草などの有機物を微生物が分解したあとに残る「腐植」という物質が多いからだ。腐植は養分を蓄える力を持っていて、土を豊かにする。おかげでウクライナは大麦、小麦、トウモロコシ、油の原料となるヒマワリの種などの世界有数の産地だ。 黒い土ができる大きな理由は気候だ。ウクライナの平均降水量は、日本の半分以下。雨が少ないので森よりも草原が多い。草の葉や根は秋になると枯れて土に戻るが、冬には雪が土を覆うために分解はゆっくり進む。冷蔵庫の中の食べ物が腐りにくいのと同じ理屈だ。おかげで土の中に養分が残りやすい。 「でも、宝物は黒い土の下にもあるんです」とソロヴェイさんは言った。それは、黒い土の下にある黄色い土。約1万年前まで続いた氷河時代に、氷河に削られた岩が風に飛ばされてきて降り積もった。カルシウムなどのミネラルを豊富に含んだこの土台が、豊かな黒い土を生んだのだという。 ハリコフ近郊の農場には、一面に冬小麦が広がっていた。土の保水力が高く、夏場は2カ月ほど降雨がなくても小麦が育ところが、世界で最も肥沃なチェルノーゼムが「疲れ」始めている。豊かな土地なので住民はこぞって農地にしたが、手入れが足りていない。 「ここも侵食を受けていますね」。試験畑に向かう車中では、ソロヴェイさんが時折、そう言って畑を指さした。ところどころ、幅数十センチの溝のようなものができている。傾斜地にできた畑では、うまく管理をしないと水で土が流れ出ていってしまうという。 さらに、風も敵になる。畑にしたまま土を風にさらしておくと貴重な表土が飛んでいってしまうからだ。このためウクライナでは伝統的に「シェルターベルト」と呼ばれる樹林帯を畑の周りにつくり、土を守ってきた。ところがシェルターベルトの中には手入れが不十分なところや、切り倒されてしまったところもあり、土がダメージを受けているという。 ハリコフの街中にある研究所に戻ると、所長のスヴィアトスラフ・バリュク(72)さんが迎えてくれ、土の現状について語ってくれた。「侵食に加えて、誤った施肥などにより、土が衰えました。スピードはゆるやかになっていますが、悪化は今も進んでいます」 研究所によると、ウクライナでも耕地の3分の1は風や水による侵食を受けている。さらに、十分な手入れをしないまま作物を育て続けてきたことで、土の養分も減ってきているという。最近では、土の力の衰えが、年間8000万~9000万トンの穀物生産のマイナスにつながっているという試算もある。 さらに、政治的な事情も絡む。紛争が続く東部のロシア国境付近では砲弾による汚染もあり、研究所は衛星画像による監視を続けている。 バリュク所長はこう言った。「いま、土の力が見直されています。農業に必要なだけでなく、土の中の炭素が温暖化にもかかわることが分かってきたからです。まずは劣化を止めなければいけません。私たちもそのために、土壌の監視システムをつくっているところです」 翌日に訪ねたのは、首都キエフの近郊。黒い土が失われて白っぽくなった農地や、すでに資材置き場などにされている元農地などが広がっていた。 キエフ近郊の農場の中には、土が白っぽくなったところもあった 「劣化しているとはいえ、もともと豊かだったために土はまだ肥沃です。しかし、だからこそ、農家は土の劣化にあまり真剣に向き合ってこなかったとも言えます」。案内してくれた国連食糧農業機関(FAO)ウクライナ事務所のミハイル・マルコフ開発プログラム・コーディネーター(50)が言った。 だが土が衰えれば、地域も衰えてしまうとマルコフさんは言う。土がやせれば収穫は減る。採算がとれなくなれば、農家は耕作をやめる。そこで新たな職を見つけられなければ、地域が貧しくなる。懸念しているのは、そんな負の連鎖だ。 ただし、うまく土を生かし、農業を持続可能なものに変えていければ、農業生産を大きく増やすポテンシャルも大きいとも言う。「世界の中には、明らかに農業に向いていない土地もあります。将来の世界的な食糧危機への懸念を考えてみると、私たちには土をうまく管理し、世界の食糧生産に貢献する責任があると思っています」 FAOウクライナ事務所の開発プログラム・コーディネーター、ミハイル・マルコフさん そこでFAOウクライナはいま、土を積極的に守る農法を広げようとしている。環境に貢献するプロジェクトを支援する投資ファンドなどから資金を集め、昨年から新たなプログラムを開始。今年からは、試験農場で地域の農業法人とともに土にいい農法のテストを始めた。うまくいった例を、各地の農家のモデルにしてもらうためだ。 「土を守ったほうが、長い目で見れば利益になると農家に分かってもらうことが大事なんです」。プロジェクトの責任者のオクサナ・リャブチェンコさんが言った。昨年には、ウクライナ中の関係者を集めた会議も開催。「農家、政府、研究機関、企業など、あらゆる関係者が同じ問題意識を持つことが重要なんです」 すでに、土地の生産性を高めようと動き出している企業もある。キエフから南西に100キロほど離れた村に拠点を置く「KOLOS」は、有機肥料などを積極的に使っている農業企業だ。 4000ヘクタールの土地でトウモロコシなどを栽培。果樹の生産や畜産も手がける。飼育している500頭の乳牛のふんは、有機肥料に加工して使っている。 整備された黒い土が広がるKOLOSの畑。整地を終え、種まきが始まる直前だった 「最近は土の中の腐植も増えてきた。土が変われば、作物の味も変わるんです」。そう語る総責任者のレオニド・ツェンティロさん(52)が見据えるのは、市場の動きだ。 輸出先として期待する欧州では、作物の安全性や農業の持続可能性への関心も高い。作物をより高く売るためにも、いい土は欠かせない。 もうひとつ見据えているのが、農地改革だ。旧ソ連時代、農地はすべて国有。1991年の独立後は農家に分配されていった。2001年には農地の売買を可能にする法律もできたが、施行が見送られる「モラトリアム」が今も続いている。世界有数の土があるだけに「外国企業に土地が次々に買収される」といった不安も根強い。 それでも、ここ数年は毎年のように売買の自由化が議論されている。ツェンティロさんは「農地の売買は、遅かれ早かれ自由化される。そうなればよく手入れされている土が、高い評価を受けることになる」と話す。 4月の大統領選では、コメディータレントのボロディミル・ゼレンスキー氏(41)が圧勝するなど、政治的に不透明な状況が続くウクライナ。世界に誇る「皇帝」の未来は、そうした政治の旗振りにも左右されることになりそうだ。
森の恵みと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、松茸。この松茸の値段が高騰したのは、チコちゃんによれば、プロパンガスの普及が原因であるという。
なんだか風が吹けば桶屋が儲かる式の話だが、それは次のような経過を辿る。
マツタケは、樹齢50年を超えるアカマツの近くにシロという菌糸の塊ができると発生する。
加えて、マツタケは栄養が多すぎる土では生えてこない。栄養が多いと、他のキノコやカビがたくさん生えてくるため、マツタケは生存競争に負けてしまう。
戦後まもない頃は、落ち葉や枝を拾って煮炊きをしていたため、山には落ち葉が少なかったが、1953年ごろからプロパンガスが普及したことで、状況は一転。落ち葉、枝を拾って煮炊きをする必要がなくなったことで、土が富栄養化。その結果、マツタケが減少し、価格が高騰するようになったという。
さて、 地球上を美しい緑に彩る樹木には、大きく分けて「広葉樹」と「針葉樹」の2種類がある。
両者は、葉の形が違うだけではなく、広葉樹は枝分かれして丸くこんもりと、針葉樹は真っ直ぐ円錐状に伸びた形で育つ。
広葉樹は複雑な細胞の種類が多いが、針葉樹は単純な細胞で出来ていている。
そのため、細胞密度が高い広葉樹は空気を通す穴が少なく、細胞密度が低い針葉樹は穴が多く風通しがよい。
この差により、広葉樹は硬く重い材質となり、針葉樹は柔らかく軽い材質となる。
木造住宅では古来、広葉樹は傷がつきにくいことから床の材料などに用いられ、幹が真っ直ぐな針葉樹は柱などに利用されてきた。
またスギやヒノキなど針葉樹はよくしなるため、桶や樽の素材として使われている。
つまり、木材はその特性を生かし、その用途によって使い分けられているということだ。
思い浮かべるのは「桐箪笥(きりだんす)」。広葉樹のひとつ「桐」は、その木目の優雅な美しさに加えて、湿気を通しにくい、虫がつき中にくい、熱を通しにくいなどの理由から、古くから衣服や貴重品の保存保管に最適な材料として重用されてきた。
火事が起きてすべて焼失と諦めていたら、収めていた着物や書類が無事だったという話をきく。
さて、針葉樹は、冬でも葉を落とさない「常緑樹」が大部分を占めているが、広葉樹には、冬に葉を落とす「落葉樹」と、季節を問わず葉をつけている「照葉樹」の二種類がある。
宇宙衛星から見ると、日本の西日本からヒマラヤのあたりまで「照葉樹林」が広がるが、日本の植物学者の中尾佐助(1916~1993)は「照葉文化地帯」とよび、そこにはある共通の「文化的特性」があると指摘した。
照葉樹林の森は、葉が落ちずに一年中生い茂っているため、落葉広葉樹のブナ林に比べても薄暗く、ここに雨が降ると「発酵」にもってこいの湿気の多いジメジメとした環境が生まれる。
こうした環境が「発酵文化」を生むことになる。
インド世界では、多種類の豆類が食用に供されているが大豆は特に重要ではない。
しかし、ヒマラヤの照葉樹林帯に入ると大豆が「発酵食品」として様々なカタチで用いられている。
照葉樹林の風土のなかで、人々は菌の作用(発酵)に気が付き、大豆を中心に利用してきたのだ。
例えば「納豆」で、煮た大豆を稲わらで包むことで、わらに付着している納豆菌が繁殖し、大豆は納豆になる。わらと大豆の出会いがあってこその話だ。
また「醤油」はもともと醤(ひしお)と呼ばれ、東南アジアでは魚を発酵させた魚醤が一般的である。
日本では、ゆでた大豆や小麦に麹を加えたものを塩水で発酵させるともろみがつくられ、これを絞ると「醤油」になる。
そして、こうした大豆系発酵食品は、照葉樹林のエリアにとどまらず、時代とともに日本列島全域に広まっていったのである。
日本人は、湿気が多くモノが腐りやすい環境に生きたため、「発酵」という分解作用を食料にいかすワザを磨いた。
「発酵」とは、カビや酵母、細菌など微生物の働きによって、食材に含まれているでんぷん質やたんぱく質が分解されて、アミノ酸や糖分などが生成される過程をいう。
夏に高温多湿な日本では、その気候から特に「カビ食文化」が発達した。
西欧でカビ食といえば、ブルーチーズやカマンベールだが、日本の代表的なカビ(麹菌/ニホンコウジカビ)は、清酒・味噌・醤油など「和食」に欠かせない食材を生み出している。
味噌や酒、醤油、納豆など、腐敗をもたらす「悪玉菌」を増やさず、善玉菌だけを増やしてくことによって生まれたものだ。
実は「麹菌」は、大陸から伝わったものではなく、日本独自に発生したものらしく「国菌」といわれ所以である。
こうた発酵の技こそが、「和食」をユネスコの無形文化遺産に導いた最大の要因であろう。