アメイジング・グレイス

1492年コロンブスによるアメリカ大陸発見。しかし、そこに代々住み生活していた人びとがいた。
ヨーロッパ人は彼らをインド人と勘違いして「インディアン」とよび、大地の元主である先住民を虐殺や強制移住などにより、おびやかすことになる。
先住民たちは、トウモロコシやカボチャ、タバコ、トウガラシ、いんげん豆など栽培していた。
大地はだれのものでもなく、先住民は農作ばかりか、狩猟や採集で生活を営んでいた。
もともと「所有の概念」はなかったであろうが、ヨーロッパ人が一方的に「法」を作り、先住民を無視した「先守権」がルール化された。
キリスト教の教え自体は隣人愛や博愛を説くものであったが、権力者の侵略のために悪用される。
宣教師を送り反抗の芽をつもうとしたのである。その教えになじまにぬ者は、駆逐されるべきものとして「居留地」に押しこめられる方法がとられた。
その「強制移住」の過程で、多くの先住民が命を落とした。
先住民に「居留地」が用意されているとはいえ、禁止され5歳から10歳までの子どもたちは、部族の宗教はいきなり親元から引き離されて100キロ以上も離れた異郷の地で、白人家庭で役立つような職業訓練や白人のやるような遊びを教えられ、強制的にキリスト教を仕込まれていった。
つまり先住民としてのアイデンティティを剥奪され、そのまま「居留地」に送り返される。
居留地に帰ってきた若者たちは、訓練した技術を活かすような仕事はなく、社会に出ても行き場を失う。
結局は居留地から出ることを許されず、アルコール、薬物中毒になる若者が増加、自殺者も多く出た。
しかし、先住民たちは二つの大戦でアメリカ国民として戦い、その貢献を背景にしてようやく自分達の権利を主張するようになった。
「父親たちの星条旗」(2006年/クリント・イーストウッド監督)は、「戦場」における先住民の心理を描いていた。
アメリカは予算が足りず戦争継続が難しくなっていた。そんな時、日本軍との硫黄島との戦いで「針摺山」に米国旗を建てるシーンの写真をつかって、戦意高揚と「国債販売」(資金集め)に利用された。
米国旗を立てた6人のうち3人は戦死するが、残った3人は「英雄」として全国を巡り、亡くなった戦友達を称えつつ国債購入奨励のスピーチをする。
しかし彼らは実際は英雄的な働きをしたわけでもなく、写真は撮り直されたものであり、真偽は問われることはなかった。
特に先住民の血をひくアイラにとって、米国旗は侵略のシンボルであり、酒に酔って暴れる姿を見られ、恥さらしと罵られたあげく、再び前線に送り返される。
そうした先住民の苦難は、黒人差別の陰に隠れていて、顧みられることが少ない。

最近NHK・BSで、アメリカに住む黒人や先住民にとって心の拠り所となった曲「アメイジング・グレイス」の誕生の経緯を探る番組があった。
日本語で「驚くばかりの恵み」と題した有名な賛美歌であるが、日本でも公共広告機構の「骨髄バンク提供のよびかけ」のコマーシャルでこの曲を聞くことができた。
それは、白血病で亡くなった本田美奈子さんが、たまたま同じ病院に翻訳家の戸田奈津子さんが入院していることを知り、「声」だけでも届けようと病床で保存された「肉声」であった。
そのため、教会に行ったことのない日本人でも、この曲には聞き覚えがあると思う。
ジョン・ニュートンは、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなったが、黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に手を染めるようになり「巨万の富」を築くようになった。
当時奴隷としてアフリカで拉致された黒人への扱いは家畜同様であり、輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。
このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、栄養失調などの原因で死亡したといわれる。
ジョンもまたこのような扱いを黒人に対して当然のように行っていたが、1748年5月、彼が22歳の時に転機はやってきた。
船長として任された船が嵐に遭い、非常に危険な状態に陥ったのである。
今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈った。 敬虔な母親がいながら、心底から神に祈ったのは、この時が初めてだったという。
すると船は奇跡的に嵐を脱して、命を保つことができ、この日をみずからの「第二の誕生日」と決めた。
その後の6年間、ジョンは奴隷の待遇を改善しつつも運び続けたが、ジョンは病気を理由に船を降り、勉学と多額の寄付を重ねて牧師となった。
そして、自分の罪を知り、新たに生まれ変わったことを詞に書いたのである。しかしこの曲の作曲者は別にいるはずである。
ミシュシュッピ河口から160キロ、ルイジアナ州ニューオリンズはジャズ発祥の地、ストリートミュージシャンが集まる。
NHKBSの番組では、そのニューオリンズの街角で「アメイジング・グレイス」が歌われていることを紹介していた。
ひとりのトランペッターが観光客相手に、「アメイジング・グレイス」を毎日演奏している。
彼は、親の生き方に反発してミュージシャンをめざし、ニューヨークで挫折を繰り返し、酒やドラッグに溺れる。
そして彼を救った曲こそが「アメイジング・グレイス」。
そして、この曲は黒人にとって「魂の唄」であり、第二の国歌であるともいった。
またニューオリンズで、野外活動を通じて子供たちに黒人の歴史とジョン・ニュートンの話を伝えるひとりの黒人女性教師の姿が映されていた。
彼女は黒人の歴史を次のように語った。アフリカの地で捕まえられ縛られ数珠つなぎにされ奴隷船につみこまれれた。トイレもなく垂れ流し、ホースであたまから水をかけ、病気で死んだ。死んでもほっておかれた。船員たちは海に投げだされた。
奴隷船は大嵐にまきこまれ、船がくだかれそうになる。そんな時船長は”神様助けてください”と祈った。
こうして「アメイジン・グレイス」の誕生が語られる。
ニューオリンズはアメリカ有数の「奴隷貿易」の拠点で、セントルイスホテルがある辺りは「奴隷市場」があった処である。
黒人は裸にされてセリにかけられ、すぐその隣では絵画や家具が同じように取引されていた。
1830年代の奴隷売買の記録には、黒人の名前・年齢・仕事の内容、値段も書き記されている。「レベッカ・17歳・むいている仕事は、農作業。売値1000ドル」といった具合に。
ちなみに当時の馬一頭の値段が50ドルであった。
番組では、ミシュシュッピ州「プーシャイ」で洗礼が池で行われている場面に移った。
その洗礼のは始めと終わりに「アメイジング・グレイス」が歌われる。
「プーシャイ」はアメリカ有数の綿花地帯で、ニューオリンズからラ南部一帯に連れてこられた街のひとつである。
当時の「奴隷小屋」が今でも保存されていて、6畳の部屋で5、6人が居住し、彼らは夜明け前から日が沈むまで働かされた。
逃亡のおそれがあると首輪や手錠、手錠にはスズが付いていて逃げると音が鳴るようになっていた。自由を奪われ絶望的な黒人たちにとって安らぐ処は、小屋傍らにたてらえた礼拝堂で讃美歌を歌うことだった。
彼らは読み書き禁止で、讃美歌を通じてキリスト教にふれた。
白人農場主が積極的に布教したのである。農場主のねらいは、黒人が主人に反抗することなくもっと仕事をするようにするためであった。
そして農場主は、屋外で集会を開いたり、夜通しり集会で歌ったり踊ったりすることを認めるようになる。
ここで歌われたのが、「アメイジング・グレイス」である。
奴隷となって体は縛られても、綿花を摘まされていても、心までは縛られないという「自由を象徴」するものであった。
ところでこの曲の歌詞の中に、「自分のような”卑劣漢”でも救って下さった」とある。
ジョン・ニュートンは、奴隷船をやっていた自分自分を卑劣漢(ウレッチ)とよんだのが、黒人は奴隷扱いされた側であり、自らを「卑劣漢」)とよぶのでは、抵抗があるのではないかと思う。
しかし「ウレッチ」には「卑劣漢」の他に、「哀れな人」という意味がある。
「プーシャイ」の多くの黒人は、綿を手で摘む苛酷な労働を強いられた。
そんな彼らがつらくなったら歌ったのが「アメイジング・グレイス」であった。
ウレッチを「哀れな人」と読み替えることで、この曲は黒人達の「魂の歌」となったのである。
しかし、聞く人の心を包み込むようなメロディはどこから生まれたのか。
そして作者不明のメロディとジョン・ニュートンの歌詞がどこでどう結びついたのか。
あるケンタッキー出身の人物のよって「コロンビアンハーモニー」(1829年)という古い讃美歌集が出来た。
その中に「アメイジング・グレイス」とよく似た曲が2つあることがわかった。
「セントメアリー」ともうひとつは「ギャラハン」。「アメイジング・グレイス」とメロディーの運びはほぼ同じでことから、ここから採譜されたのと推測される。そのメロディーは同じ時期にアパラチア地方に伝わる「民謡」であった可能性がある。
さて17世イギリス人とオランダ人が最初にアメリカにやってきたが、アパラチア山系には「スコッチ・アイリッシュ」の人々があった。
特に「デッキンソン」は、スコットアイリッシュが多く住んでいる街で、教会で信達者は家族ごとに祭壇に昇り、ギターやバイオリンに合わせて、讃美歌や楽器の演奏する。
それは彼らに伝わる民謡(フォークソング)などのメロディーに乗せたものであった。
実は、「アメイジング・グレイス」のメロディーは間違いなく「スコッチアイリッシュ」といわれている。
ではジョン・ニュートン歌詞とスコッチアイリッシュの曲はどうして結びついたのか。
当時から教会では食事会を通じて信者の交流があっていて、そんな中で讃美歌の歌詞を民謡にあてはめて歌っていた。
そうした中で、その絶妙の組合わせが「アメイジング・グレイス」であったことが推測される。
さて19世紀半ば、北軍勝利で解放されることになるが、ほとんどが解放後も小作人として残った。
しかし、都会をめざす者もいた。
この一帯の都会といえば、綿花の集散地「メンフィス」がある。黒人たちもメンフィスに出て、その多くが「港湾労働者」として働いた。
このメンフィスが生んだ大スターが、「エルビス・プレスリー」である。エルビスは黒人音楽リズム&ブルースに熱中した。
実はエルビスは「アメイジング・グレイス」を歌って、最高峰の「グラミー賞」を受賞している。
エルビスはどうしてこの曲にひかれたのだろうか。
大人は喜ばなかったが、エルビスが愛したのは黒人音楽。黒人が集う教会にいけば、生で黒人音楽を聞ける。
白人と黒人は一緒に座ることは許されず、エルビスはいつも最前列に座っていたという。
ここで毎回のように歌われていたのが「アメイジング・グレイス」であった。
そしてゴスペルの聖歌隊の歌い方が、エルビスに影響を与え独特の動きを生んだ。
黒人霊歌では、歌をうたう時に体を動かすのがあたりまえで、エルビスはその体の動かし方を学んだのである。
そして、黒人音楽と白人音楽を融合させた独自の「ロックンロール」を生み出したのである。
エルビスの音楽は黒人たちにも影響を与えた。
メンフィス生まれのBBキングは白人が歌っていることに驚き、すぐにエルビスが好きになった。
同時にエルビスに新しい時代の到来を予感した。
「メンフィス」では、音楽で人種の壁をのり超えていったのである。

ミシュシュッピ側中流域、30キロ上下流には橋がなく「渡し船」が運行している。この「渡し船」を歌にしたのが、ロックの定番「プラウドメアリー」(CCR/1975年)である。
今から約180年ほど前に、凍てつくこの川を渡った人々がいる。
アメリカ先住民「チェロキー」の人々で、オクラホマ州西部の「ターレクア」には1万1千人のチェローキーの人々が住んでいる。
彼らは「自治権」を認められ、憲法と裁判所をもっていて、チェロキー政府の庁舎前には、「チェロキー旗」と自由の女神像がある。
彼らは独自の言葉を語り、「チェロキー讃美歌集」も作られている。
この街の教会では、チェロキーの言葉で「アメイジング・グレイス」が歌われている。
元のニュートンの翻訳ではなく、チェロキーの人々が独自に作った歌で、様々な記念日や冠婚葬祭で歌われている。
なぜ「アメイジング・グレイス」がそれほど大切にされているのか。
それは彼らの祖先が、「最も困難な時」に歌った曲だったからである。
チェロキーの人々は元々アメリカ東部アパラチア一帯に住んでいた。
しかし、そこにヨーロッパから移住してきた白人たちか進出してくる。
チェロキーの人々は「マーブル」など伝統的なボール遊びなどを大事にしながらも、積極的に西洋文化をとりいれ白人と共存する道を選んだ。
住居も西欧風にして宣教師を迎え、文明人であることを白人社会にアピールした。
しかし1828年チェロキーの土地で金鉱がみつかると、それらは水の泡となる。
1830年ジャクソン大統領は、「インディアン強制移住法」に署名し、東部の先住民をすべて、ミシュシュッピ以西に追いやられる。
この「移住勧告書」の冒頭には、「チェロキー諸君、アメリカが就航は強力な軍隊を派遣したのですみやかに土地をあけわたし移動するようすように。双方の神によって平和と友好が維持されることを望む」と書いてあった。
チェロキーの人々が白人文化を取り入れ共存をはかった事は一切顧みられず、アパラチアから騎兵隊に追われながら、移住先のオクラホマに向って歩き出した。
それはミシュシュッピ川をこえる1600キロの道のりであった。
1838年のこと、半ば凍ったミシシュッピ川にさしかかる。小さな船しか調達できず長旅の疲れや船の転覆で次々と命をおとした。
ケープジラドゥーの川のほとりには、彼らを埋葬した墓が残っている。
4人に1人がなくなった苛酷な旅で、墓が涙のしずくのように続いたたことから「涙の旅路」といわれる。
彼らの終着地のオクラホマ州「ターレクア」にはチェロキーの伝統文化を学びづける人々がいる。
毎月一回集会で、祖先の歴史を語り継いでいる。
ある人は、出産したばかりの妻をなくし雪のなかに置いていく他はなく、「子守歌代わり」に「アメイジング・グレイス」を歌うことしかできなかった話などである。
現在ターレクアの人々は白人の混血がすすみ、独自の文化もうすれつつある。
「チエロキー・ナショナル・ミューアム」で、祖先が歩んだその姿を象った「石膏像」が「涙の旅路」を再現している。
そして苦難の道で歌った「アメイジング・グレイス」を歌うことは、民族が歴史を忘れないことを意味する。
第一次世界大戦以降あらゆる戦場にチェロキーが従軍した。しかしその多くは、帰ってこなかった。
五月の最終月曜日、チェロキーの人々も「合衆国国旗」をかかげ行進し、戦没者の墓を周る。
さて我が職場で3年の間同僚であったオクラホマ州出身のアメリカ人が、自分には何分の1かチェロキーの血が混じっていることを語った。
祖父の写真を見せてくれ、それはまぎれもなくアメリカ先住民の姿であった。
オクラホマに帰郷して軍に所属するアメリカ人に、「アメイジング・グレイス」を紹介した番組で「チェロキーの歴史」を初めて知ったことを告げると、自分の結婚式でも「アメイジング・グレイス」を演奏したことを嬉しそうに語った。