「南北戦争」の文化遺産

映画「風と共に去りぬ」は、アメリカの南北戦争を舞台にした壮大なドラマであるが、公開を前提に書かれたものではなかっただけに、原作者自身の個性が色濃くでている。
マーガレット・マナリン・ミッチェルは、南北戦争から45年ほど経った1900年、アトランタのジョージア州にて三人兄弟の末っ子として生まれた。
父はアトランタ弁護士会の会長を務めている高名な弁護士で、かつアトランタ歴史協会の会長であった。
また、母はアトランタ婦人参政権運動をする団体を率いるメンバーの一人である。
父の経歴から、ミッチェルの歴史への関心が頷ける。そればかりか南北戦争を生き抜いた母方の親戚からその体験を聞いて幼少期を過ごしている。
映画においては、スカーレットが戦争で親も屋敷も、すべてを失い故郷タラに戻っきた場面が印象的だった。
映画音楽「タラのテーマ」を背景に、スカーレットは泥だらけの大根を貪りながらいう。「神様、私は二度と飢えません!私の家族も飢えさせません!その為なら、人を騙し、人の物を盗み、人を殺してでも生き抜いてみせます」。
ミッチェルは幼い頃より、活発でおてんばな少女であったが、その一方で冒険小説を中心に読書に没頭、そのうちそれに飽き足らずに脚本を書き始める。
脚本の演者は、自分自身や親友のコートニー、初恋の少年ヘンリーであり、演劇の舞台はミッチェルの自宅であった。
18歳となったミッチェルは医学の道を志し、マサチューセッツ州にあるスミス・カレッジに入学したものの、翌年に母親の急死するという悲劇に見舞われる。
学業をあきらめざるを得ず、大学を退学して、実家の家事を取り仕切るようになった。
そんなミッチェルも、年頃になるや「風と共に去りぬ」の主人公スカーレット同様に、多くの男性から好意を寄せられる存在となっていく。
そして22歳の時、あるパーティで出会ったビリアン・キナード・アップショーと婚約・結婚する。
赤毛だったことより通称はレッドとよばれたこの男性との結婚に、家族や友人は大反対だったようだが、ミッチェルは背が高く、フットボーラーだったレッドに惹かれていた。
しかし、周囲の心配は的中し、レッドとの結婚はわずか3ヶ月で破綻する。
なんとレットは「酒の密売人」であることが判明し、まともな稼ぎもなくミッチェルの実家に同居し、父親が寝込む事態にまでなってしまう。
結局、二人の結婚は2年足らずで終局をむかえる。
「風とともに去りぬ」の「バトラー船長」と呼ばれるレットバトラーは、ミッチェルの最初の夫であるレッドがモデルであるといわれる。
ミッチェル自身それを公言したわけではないが、パーティーで出会った時のレッドが海賊の格好をしていたこと、レッドが「長身で容姿に優れていたが裕福な親から勘当された異端児だった」ことからも推測できる。
となると、最初の夫との出会いは「風と共に去りぬ」の人物造形にとって重要な意味をもっていたといえる。
それ以上にミッチェル自身、スカーレットのように男性を惹きつける女性だった。
そしてレットとの別居中、ミッチェルは地元の新聞社アトランタ・ジャーナルに就職する。
記者としての実績を確実に積み重ねる中、同社の元同僚でありレッドの友人というジョン・ロバート・マーシュと再婚し、ジョンは生涯のパートナーとなる。
しかしミッチェルは乗馬の際に落馬して足首を捻挫。加えて交通事故に遭ったことで怪我が悪化し、長期の自宅療養を余儀なくされてしまう。
自宅で過ごすミッチェルに、ジョンは「そんなに本が好きなら、小説を書いたらどうか」と勧めた。
ミッチェルも、幼少期に聞き馴染んだ南北戦争の歴史をテーマに決め、執筆を開始する。
文章のチェックは記者であり元国語教師のジョンで、夫でありながら最高の助手となってくれた。
そして、この執筆は実に約10年にも及ぶことになる。
彼女が35歳を迎えた頃、ついに小説は完成したが、ミッチェルはその作品を公表するつもりはなく、周囲には小説を書いたことすら公言しなかった。
そんなある日、ミッチェルは友人の紹介でマクミラン・ジャーナル社の編集者であるハワード・ラザムと出会う。
彼は、アトランタの観光案内をミッチェルに頼むためにやってきたが、彼から新人作家や原稿を探す旅行の最中であることを聞かされた。
ラザムはミッチェルに興味をもち、何か原稿を書いてはいないかと尋ねると、最初ミッチェルはこれを否定し、原稿を見せようとはしなかった。
ミッチェルは元記者として「こんな出来損ないの作品は見せられない」という思いからだったという。
しかしついに折れて、ラザムに原稿を読んでもらうと、彼は「ベストセラーになる」と確信を得て、1936年にマクミラン・ジャーナル社は『風と共に去りぬ』を出版したのである。
ラザム予想どうり、「風とともに去りぬ」は瞬く間に大ベストセラーになり、何度も増販された。
ミッチェル自身なぜこんなに売れるののか不思議に思ったくらいだが、その人気は国内に留まらず、29カ国語に翻訳され世界中で読まれることとなった。
しかも1939年にはヴィヴィアン・リーとクラーク・ゲーブル主演の映画が大ヒット。本作はアカデミー賞において作品賞、監督賞、主演女優賞を始めとする9部門を制する歴史的な映画ともなった。
当然ながら、アトランタの平凡な主婦であったミッチェルの生活は一変する。電話やベルが鳴り止まないことで気が休まらず、自宅をたびたび留守にしてホテル暮らしをしたり、作家仲間の邸宅に匿ってもらっていたりしていた。
1949年の8月、ひどく気が塞いでいたある日、彼女は気分転換にジョンとイギリス映画『カンタベリー物語』を見に出かけ、帰宅途中に彼女は道路を横切ろうとし、飲酒運転をしていたドライバーにはねられた。
その傷が原因となり、5日後に48歳の若さで亡くなった。
ジョンは、ミッチェルの死後、遺言通りに未完成の原稿や日記など全てを家の裏庭にて焼却した。
平凡な主婦からベストセラー作家といえば、「ハリーポッター」のJKローリングや「氷点」の三浦綾子が思い浮かぶが、その生涯はあまりにもあっけない幕切れだった。

1858年、ウェストミンスター聖堂参事会長をつとめる聖職者・リチャード・シェネヴィクス・トレンチがロンドン図書館でひとつの演説を行った。
英語が普及すれば「キリスト教(イギリス国教)」が世界中に広まるという考えのもとに、正統な辞書編纂の必要性を説いたのである。
しかし英語辞典の編纂はスタートして20年あまり遅々としてすすまなかったが、1878年にジェームズ・マレーが編纂者となってから、ようやく本格的に動きだした。
マレーは1879年に「オックスフォード英和大辞典(OED)編纂主幹」に就任すると同時に、英語圏の読書人に助けを依頼した。
その求めに応じてOEDで最も多い用例を提供したのは、想像だにしない人物からだった。
なんと、殺人罪を犯してイギリスの精神異常者収容所に収容されていたアメリカ人元軍医・ウィリアム・マイナーであった。
マイナーはスリランカで生まれ、米国コネチカット州に育ったアメリカ人で、南北戦争で北軍の軍医として従軍しただけに、数々の死体と接してきた。
しかしそれ以上に、軍医としてアイルランド人の北軍脱走兵のホホに、焼きゴテで脱走兵を示す”D”の焼き印を押すことを強制されたことが、マイナーの精神に異常をきたす原因となった。
そのうちマイナーはアイルランド人が夜になると忍び込んでくるという被害妄想を抱くようになる。
マイナーはその後イギリスにわたり、ロンドン市内を歩いていたある夜、アイルランド人が自分を襲うといって接近する幻想に襲われ、ピストルで人を撃ち殺してしまう。
マイナーは裁判にかけられるが、精神異常者と認められ、精神病犯罪者収容所に終身収容の判決を受けることなった。
しかしマイナーは資産家だったために、精神病犯罪者収容所で特別待遇を許され、二部屋を占有し、他の患者を使用人として雇って、アメリカやロンドンから取り寄せた本に囲まれた生活をしていたという。
そんな裕福な囚人マイナーと、貧しいスコットランドの家庭に育ったOED編集担当であるマレーが、英語辞典の編集を通じて出会ったのが面白い。
マレーは、14歳で学校を卒業した後、学校や銀行で働きながら独学で学んだ。
ケンブリッジ大学の数学者兼音声学者のヘンリー・スウィートと交友があったことから、英国言語協会の会員となり言語学者としてその名を連ねることになる。
その後マレーは、OED編纂事務局書記をつとめる人物と知り合い、1879年に1月に、マレーが編纂主幹を務め、7000ページ、全4巻の辞書を10年間で仕上げるとういう契約が成立した。
マレーはすぐに「英語を話し、読む人々へ」という8ページの編纂協力依頼文を2000部印刷して書店や雑誌社、新聞社に送った。
この訴えがどういういきさつか、英国バークシャー、クローソンのブロードムア刑事犯精神病院に収容されているウィリアム・マイナーの目に留まったのである。
この訴えに呼応して、ビル・マイナーがせっせと”バークシャー、クローソン、ブロードムア”という住所から、編纂事務局と手紙のやり取りを始めた。
マイナーは独房一杯の蔵書から単語リストを作り始め、丁寧な細かい文字でメモに書き込んでいった。
その後マイナーは20年以上にわたって多くのカードを小包で送り、用例183万のうち、マイナーが送った用例は数万にも達した。
マイナーはすでに60歳を超えていたが、被害妄想という異常なところはあったが、辞書編纂についてマレーとじっくり語り合ったという。
マレーは1908年にナイトの称号を与えられていて、年老いたマイナーをイギリスからアメリカに帰国させるべき運動を主導した。
その頃内務大臣であったチャーチルが、マイナーの釈放と本国送還を承認した。
しかしマイナーの帰国はかなったが、1920年ワシントンDCの精神病院に収て85歳で亡くなる。
結局マレーはOED完成を見ることなく、”T”のところで亡くなってしまった。
それから7年後、1927年の大晦日「オックスフォード英和辞典」の完成が宣言されたのである。

「風と共に去りぬ」の世界的ヒットで陰に隠れた感のある名作が二つある。そのひとつが「アラバマ物語」。
作者は、ハーバー・リーという女流作家で、幼き頃に映画「ティファニーで朝食を」で知られるトル-マン・カポ-ティと接点をもっている。カポーティーはルイジアナ州ニューオリンズで生まれた。
両親は彼が子供の時に離婚し、ルイジアナ、ミシシッピー、アラバマなどアメリカ南部の各地を遠縁の家に厄介になりながら転々として育った。
後に自殺する母に連れられて町々を渡り歩き、ホテルの部屋に一人閉じ込められ母の帰りを待つこともあった。
引越しの多い生活のため、ほとんど学校に行かず、独学同然に勉強したという。
そんな彼にとって一つの幸運は、アラバマ在住当時、ひとりの女の子と知り合ったこと。
カポーティは、「冷血」を書いた際に、その幼ななじみと共に事件の取材にあたっているのである。
この女の子こそが後に「アラバマ物語」を書くハーバー・リーであった。
「アメリカ南部を描いた「アラバマ物語」は、「風とともに去りぬ」と同様にピューリッアー賞を受賞、半世紀以上たった今も世界中で多くの読者を獲得し続けている。
「アラバマ物語」で描かれたのは、アメリカ南部に染みついた奴隷制度であり、差別に決然と戦う父親とその姿をを見て育つ子供の姿が描かれている。
ただ、「アラバマ物語」は差別を告発し、人種差別と闘うことを目的とした作品ではない。
それは、この小説の原題「ものまね鳥を射つ」ということからもわかる。
主人公アティカス・フィンチは、差別主義者を責めるのではなく、種差別を擁護しているわけでもない。
ただ、南部の小さな街の日常を描く中で、何か事件が起きると、よく調べることもなく有罪にされる黒人の話は南部では珍しくなかった。 それは黒人の目線ではなく、白人の目線ではあるものの、幼い少女のとらわれぬ視点から描かれている。ほのぼのとしていて、子供の視点から素直に世の中を観察している。そのことが、読者の心に違和感なくストレートに入ってくる。
マネシツグミとも呼ばれる北米南部産のこの鳥には、ほかの鳥の鳴き声を巧みにまねる特徴を持っている。原作者は、長く続いてきた制度の中で、慣習によって長らく生活を営んできたメイコームの町の人々になぞらえたのである。
さて、「風と共に去りぬ」の影にかくれた名作のもうひとつが、「ベンハー」である。
とはいっても「ベンハー」は映画化され、「風と共に去りぬ」と同様に知られることとなった。
なんといっても、戦車の競争シーンの大迫力は映画史上にのこる名場面といえるだろう。
しかしそれ以外にも、印象的な場面がある。ベンハーが奴隷になって酷使されて砂漠で喉の渇きを覚えたときに、人影が映ったかと思うと水を持った手が差し伸べられるシーン。この人影こそキリストで、ベンハーは後にキリストと再会することになる。
その再会の場面とは、キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘へと石畳をあえぎながら歩いて行く途中、苦しみに耐えかねて崩れるように倒れるシーン。
その群衆のなかに、ベンハーがいたのだ。そしてベンハーが水を差し出し恩返しをするのだが、ローマの兵卒に強制されて十字架を運ぶはめになる。
実はこの場面、聖書の記述どおり(マルコ15)で、「クレネ人シモン」といわれる人物がそこに居合わせたのだ。
「水を差し出す」行為は聖書にはないものの、このシモンこそは最もイエスの苦悶を最も身近にみた人物で、その後家族もキリストの救いにあずかっている。
そしてある時、父の書斎で「メキシコ征服史」を見つけ、それが刺激となって『美しき神』という小説を書き始めた。
そのうち、メキシコ戦争が起こると、インディアナ州の義勇軍として参加するなどして、帰国後、弁護士試験をパス。地方検事から、その後州議会議員になる。
結婚後は安定した生活の中で『美しき神』の執筆を続けたが、やがて南北戦争が起こると「北軍」として戦いに参加している。
陸軍少佐に昇進したものの、些細な過ちからユリシーズ・グラント将軍の不興を買い、その後退役し45歳で借金を抱え、生活に窮するようになった。
こうした不遇の時代に、は再び『美しき神』を執筆し、これを完成し出版した。
そんな時知り合った神学者の感化でキリスト教を学び始める。
その後外交官となり、中近東に出向した機会に集めた資料を基に書き上げたのが『ベン・ハー』であった。
実は、ルー・ウォーレスは、徹底した「無神論者」であった。
聖書は嘘偽りのデッチ上げの書であることを証明するために数年の歳月を費やして、あらゆる文献を調べ上げていくうちに、聖書が真実の書であると確信するに至った。
晩年はインディアナ州クロフォーズビルに引退。1905年77歳の生涯を閉じている。
「バン・ハー」は、発売当時アメリカで大ベストセラーとなり、発行部数が「風と共に去りぬ」に抜かれるまでベスト・ワンであり続けたのである。
ちなみに、南北戦争で使われた銃は日本に輸出され、グラバーを通じて薩摩長州による討幕に使われる。