ノーウェイジャン・マインド

現在、ロシアが黒海の港湾を占拠しつつあり、ウクライナ産の穀物が輸送されるルートが閉ざされてしまった。
トルコの斡旋でロシアとウクライナの間で穀物輸出の合意が交わされたが、その翌日にロシアがオデーサを攻撃することによって、せっかくの合意も先行き不透明となった。
現在、ウクライナ産の穀物の多くは貨車で国境を越えてポーランド・バルト海沿岸にある港湾に送られている。
穀物用貨物列車がEU諸国の国境で待機する平均日数は現在16日間で、一部には30日間に達する場合もあるという。
ソ連時代からのウクライナの鉄道は、隣接する大半のEU諸国よりも幅の広いゲージを採用していることが、貨物での食料輸出をさらに難しくしているらしい。
ウクライナ産小麦への輸入依存度の高い中東・アフリカ諸国は、食生活に欠かせない小麦の調達が難しくなると、「食糧危機」に直結するのである。
米国やカナダ産の輸入小麦などに切り替えれば問題は緩和されようが、中東・アフリカ諸国は今まで相対的に低品質で安価なウクライナやロシア産小麦に頼ってきた。
輸送コストも含めてかなり高価な米国やカナダ産の輸入小麦に簡単に切り替えることはできない。
国連の事務総長は、「前例のない飢餓と貧困の波を引き起こす恐れがある」と強い懸念を表明している。
この食糧危機は干ばつといった自然災害なのではなく、「人災」によってもたらせられたものである。
しかし、それはロシア(もしくはソ連)で繰り返し起きたことだ。
1840年代に起きたアイルランドの「ジャガイモ飢饉」は、ケネディ一家など多くのアイルランド移民がアメリカに送り出され、アイルランド系アメリカ人が勢力の一つになった。
一方、現在のウクライナ戦争に端を発した「食糧危機」では、移民するという選択肢はなく、直接餓死につらなりかねない。
同時に、ソ連自体が隠してきた「飢饉」をまるで幽鬼のように蘇らせつつある。
旧ソ連で発生した飢饉は、しばしば全国規模の大災害に発展したが、ソ連政府の政策そのものが事態の悪化を招いたことがあった。
1917年「ロシア革命」に至る内戦で、ソ連時代最初の大飢饉がこの国を襲った。
内戦は、国内のあらゆる経済的結びつきを破壊し、大飢饉の主な原因の一つとなったからである。
1921年の干ばつで、すべての作物の5分の1が損なわれたこと、農産物の不足に直面して当局が農家からの「穀物徴発」を強化したことが事態をさらに悪化させた。
まもなく飢饉は9千万人以上が住んでいた広大な地域を襲うこととなる。
最近、NHKBSで放映された「映像の世紀」では、家屋は屋根がなく、窓や出入り口は開き、小屋のわらぶき屋根さえも食われていた風景がみられた。
牛、馬、羊、山羊、犬、猫など、あらゆるものが食い尽くされていた。
そればかりか人肉市場さえできていたことがなまなましく映されていた。
ソ連政府は、革命政府の正統性に傷をつけたくなかったのか、長い間この大惨事をひた隠しにしていたが、1921年夏に「飢餓の救済」を世界に求めざるを得なくなった。
ヨーロッパの慈善団体のほか、政治家達も呼びかけに応じた。
彼らは、集められた人道援助物資を持って、自らロシアを訪れた。
これらの支援と1922年に好転した農作物生産によって、500万人の命を奪った大飢饉をくい止めることができた。
ところがその10年後、ソ連はまたもや大規模な飢餓に見舞われた。
個人農家、民間農場を「集団農な場(コルホーズ)」に統合する凄惨なプロセス「富農撲滅」により、何百万人もの農民が都市部に逃れざるを得なくなった。
ソ連の農村が陥ったこの危機に目を向けることなく、当局は、現実を無視した「穀物調達計画」を立てた。
中央政府の認知、奨励を当てにする一方で、農民の抗議は妨害行為、サボタージュとみなされ、厳しく罰せられた。
そのため、地方当局はこの計画を遂行すべく躍起となった。失敗した場合の弾圧、粛清を恐れたからだ。
それによって、災厄の真の規模が隠され、歪められた情報がモスクワに届いたといわれる。
その結果1932年~33年の飢餓もソ連全土への広がりをみせ1920年代初めに経験した恐怖の再来となった。つまり、子供たちが姿を消し始めたのだ。
この1930年代の飢餓では700万人以上が亡くなったが、犠牲者の半分以上がウクライナ人だったことに特徴がある。
この事実は、ウクライナからすればソ連政府が仕掛けた「大量虐殺」のようにも受け止められた。
2022年のウクライナ戦争で、ロシアがウクライナを「ネオナチ」とよんでいるのは、ウクライがそうした情勢の中でナチスを招きいれたことによる。
しかしウクライナからすれば、ソ連政府に飢餓で殺されるより、ヒットラーに占拠される方がよほど生き延びる確率が高かったのであろう。

1920年代「ロシア飢饉」救済の呼びかけに応じたひとりがノルウエーのフリチョフ・ナンセン。
ナンセンはクリスチャニア大学で動物学を専攻した。
1885年には最初の航海の成果を纏めた寄生虫に関する研究を公表し、その後、神経系の研究で博士号を取得している。
ナンセンは1882年にはグリーンランド水域への最初の航海を行ない、グリーンランド氷原のスキーによる横断に成功する。
1893年には北極点遠征を行った。流氷に密閉されて漂流しながら極点に達するという計画であった。
ナンセンは、北極探検の際、丸い船腹など長期間氷の圧力に耐えられるようにデザインした船の建造を行った。
こうして、特別に設計された「フラム号」に8年分の燃料と6年分の食糧を積み、12人の乗組員とともに同年6月にクリスチャニアを出港した。
フラム号は予定通り流氷群につかまり漂流を始めたが、ナンセンの考えたほど北極点に近づかなかった。
フラム号がこのまま北極点に到達しないことは明白となるや、ナンセンは士官のヤルマル・ヨハンセンを伴いスキーで極点を目指すこととした。
しかし旅は難航し、翌年4月8日に北緯86度14分の地点に到達したところで残りの食糧が僅かとなり、極点到達を断念した。
彼らはゼムリャフランツァヨシファで越冬することになり、セイウチやホッキョクグマの肉を食べながら1896年の夏までその場に滞在した。
雪解けとともに南下を開始、運良くイギリスの探検隊に出会い帰国することができた。

ノルウェーがスウェーデンから独立を試みた1905年、ノルウェー政府より代表に選ばれたのがナンセン。対するスウェーデン側の代表は、同じく探検家スヴェン・ヘディン。
ヘディンは中央アジアの探検で「さまよえる湖」を発見した著名な探検家である。
こうした経緯からナンセンは、政治家としての道を歩んでいく。
1906から08年まで駐英ノルウェー大使としてロンドンで暮らし、第一次世界大戦後は国際連盟の「難民高等弁務官」に就任し、ソ連政府との交渉、「45万人以上の捕虜の交換帰国プロジェクト」を成功させ、戦争難民のために後に、「ナンセン・パスポート」と呼ばれた証明書を発行した。
6000人ものユダヤ人を救った「杉原ビザ」を思い浮かべる。
杉原千畝が中立国「リトアニア」の大使館に押し寄せたユダヤ人を前に、本国の許可も得ずに独自に書き続けた「命のビザ」である。
一方、「ナンセンパスポート」は「無国籍」の難民に対し国家間の移動を可能にするパスポートである。
ナンセンは1920年代の「ロシア飢饉」では外国援助機関の全権代表を務め、またウクライナの大飢饉に苦しむウクライナ人をカナダに移住させることに成功した。
ナンセンの死後、スイス・ジュネーブで行っていた国際的な難民支援活動を引き継ぐために、1930年に「ナンセン難民事務所」設立された。
1938年にはその活動が評価されて「ノーベル平和賞」が授与された。
これが今日の「国連難民高等弁務官事務所」のルーツとなっている。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、紛争や迫害によって故郷を追われた難民を国際的に保護し、難民条約に従って支援を行っている。
この8代目の「難民高等弁務官」となったのが国際政治学者として、日本の大学で教鞭を執っていた緒方貞子である。
国連での仕事を経て63歳のとき、女性初の「難民高等弁務官」となる。
就任直後に赴いたのは、湾岸戦争の混乱の中にあったイラク。目の当たりにしたのが、迫害された数十万のクルド人が、トルコとの国境で行き場を失い、命の危険にさらされている姿。
緒方は小さな体を紛争地帯に運び、難民たちの過酷な状況を前に、けっしてひるむ姿勢を見せなかった。
コンゴ内戦の渦中にあった職員に一人が語る。
彼は内戦の最中、命を危険にさらしても、難民保護のためにとどまるべきか、撤退すべきなのか、決断を迫られていた。
緒方に電話をしたところ、彼女は「もしとどまれば、難民の命を救うことができそうですか」と聞いてきた。
「出来ると思う」と答えると、彼女は言った。「それなら、とどまるべきです」と。
またUNHCRの別の職員は語る。「ある避難民(旧ユーゴスラビア)のテントに緒方さんが訪れたときでした。一家のおじいさんが『客人が来てくれたのに、何のおもてなしも出来ない』と泣き出したのです。すると緒方さんは、そこにあった古いミルクを飲み、おじいさんは本当に喜びました」。
緒方貞子の姿勢は一貫していた。「現場主義」「生きてもらう」「難局は乗り越えるもの」「ミッションのためにルールを変える」そして「何でもしてやろう」。
緒方貞子は、1991年から2000年まで国連難民高等弁務官として活躍された。
その緒方貞子の大きな功績のひとつは、国外ばかりではなく「国内避難民」の人権を「難民」と同じように保障すべきとした点にある。
つまり、命を守るというミッションのためにルールを変えたのである。
NHKBSの「映像の世紀」では、ナンセンの精神が緒方貞子に受け継がれていることがよくわかった。

ノルウエーの一人の社会学者が、イスラエルとアラブの合意の仲介役をなした「劇」がある。
こうしたノルウエー人の精神がどれほど一般性をもつものかは知らないが、ウインタースポーツの中にノルウエー人の精神の一端をみることができる。
「パシュート」は1チームは3人で構成され、400mリンクの内側のコースのみを使い、日本がメダルを競った女子の場合は6周でのタイムを競う。
3人目のブレードの先端がゴールした時点のタイムが記録される。つまり、チームの中でラストの順位を競うというもの。
この競技の起源は、ノルウエー人とフィンランド人の軍人が始めたといわれる。
つまり、一番弱い選手を引き上げていくという発想は、落後者をださないという意味合いもあろう。
実は北欧諸国のPISA(OECDび学習到達度調査)が世界でトップにあることはよく知られているが、その理由は成績の下位者が少ないということである。
イタリア・トリノで行われたオリンピックにおける、「クロスカントリー競技」のエピソードがある。
クロスカントリー チームスプリントは、1チーム2名が1周づつ交互に走り、計6週でタイムを競い合うというもの。
クロスカントリーは、滑るというよりもスキーで走る競技、その中でもチームスプリントは距離が短いゆえに勝敗がコンマ1秒で決する過酷な種目である。
カナダチームが首位に立っていた時、カナダチームのサラ選手のストックが突然折れてしまった。
サラは一瞬のうちに4位にまで後退。 代わってノルウェーチームがトップに立った。
そんな時、 誰かがストックを渡してくれたのだ。それによりカナダチームは金こそ逃したものの、見事銀メダルを獲得した。
ノルウェーはその後、まさかの失速、4位に終わりメダルを逃してしまった。
サラはゴールした後、誰がストックを渡してくれたのか映像で確認した。それは通常考えられるカナダチームのスタッフではなく、ライバルのノルウェーチームのヘッドコーチだったのだ。
サラは、彼の元にお礼を伝えに行ったところ、彼はあたりまえのことをしただけだという。
幼い頃からクロスカントリースキーを始めた彼が学んだことは 「たとえ、どんな状況であっても、共に走る者を敬い、助け合うことが重要だ」ということ。
そもそもクロスカントリースキーは、雪深い北欧で生活のための移動手段として誕生した。
当時の人々にとっては、仲間と共に助け合い、無事に目的地へ到達することが最も大切だったのだ。
このコーチが示した「フェアネス」は、北欧独特のコミュニティで育まれたものだ。
また世界的な出来事として、イスラエルとパレスチナ人が「共存」しようという合意がなされた場面があった。
それは1993年の「オスロ合意」(1993年)。オスロとはノルウエーの首都である。
この合意は、イスラエルがはじめて「パレスチナ解放戦線」(PLO)を交渉相手として認めた画期的なもので、ガザやヨルダン川西岸にパレスチナ人の自治区を定めたのである。
この合意にまで至る背後には、あるノルウエー人夫妻の地道な対話にむけた努力があった。
エジプトのカイロに住むノルウエーの社会学者ラーセンは、少年同士が銃をもって戦う姿を見た。少年たちの表情は憎しみと恐怖に満ちており、こんな争いは絶対になくさねばならぬと思った。
ラーセンは、社会学研究の関係でイスラエルやPLOに知り合いが多かった。
そこで社会学の観点から平和を見いだすアプローチとして双方が顔を合わせて対話する舞台を作ることができないかと考えた。
そこで知り合いのイスラエルの大学教授二人とPLOの役人二人に的を絞り、参集の場を画策した。
当時両国とも相手国と連絡を取ると刑事罰の対象になり、パレスチナでは死罪と決まっていたため、ミーティングは極秘裏に進められた。
ラーセン夫婦の努力の下、会合は何度にもわたり行われ、相互承認を繰り返し、交渉の舞台に集まる人々も増えていった。
そして様々な難局をぐり抜け、ラーセン教授が待ち焦がれていた「オスロ合意」へと結実した。
しかし、合意の調印をかわしたイスラエルのラビン首相は暗殺され、イスラエルは国際協定を無視してパレスチナ自治区を占領して、「オスロ合意」は反故になってしまった感がある。
この「オスロ合意」に至る過程を劇化したブローウェイ劇「オスロ」の副題は、「リスクを冒す価値はある。成功すれば、世界を変えることになる」。
この言葉は、ラーセンと同じくノルウェー人フリチョフ・ナンセンの「ロシア飢饉」の惨状を見過ごすことができなかった「難民救済」の活動にも、よくあてはまる。
背景に、ノルウエーの森で育まれた「落後者を出さない」というマインドがあるように思われる。