銀座の街のクリエーターたち

戦後復興を急速に進めるなか、銀座にはハイセンスな洋品の専門店が多く集り、そのため、流行を求める多くの人が集るようになった。
東京・築地の新橋演舞場と有楽町の日比谷公園とを結ぶのが「みゆき通り」も、その通りのひとつ。
銀座通り(中央通リ)と交差して、銀座5丁目と6丁目の境目を、晴海通りと平行に伸びる全長約1.2kmの通りである。
明治天皇が海軍兵学校、海軍大学校等々への行幸(みゆき)の際、また浜離宮へのお成りの時、この通りを行幸路とされたため、いつしか「みゆき(御幸)通り」と呼ばれるようになった。
そんな由緒正しき「みゆき通り」を、「アイビールック」の若者がたむろし、闊歩する時代があった。
それは1964年オリンピックも迫った頃、通りの名前から「みゆき族」とよばれた。
「アイビールック」とは、アイビーリーグと呼ばれるアメリカ東海岸のハーバード、ペンシルベニア、プリンストン、イェールなど8つの大学のスポーツ・リーグの公式名称で、今ではその8大学を表す言葉として一般的に使われている。
彼らは上流階級を形成し、子息がエリートとして教育を受けていた有名校で、在学中に英国に留学したり旅行したりする学生たちは、英国の伝統的なファッションをキャンパスに持ち込んだ。
そのトラッドを日本に持ち込んだのがファッションデザイナー・石津謙介の「ヴァンヂャケット」である。
「みゆき族」の男性は、足首の細さを強調した短めのコットンパンツやバミューダショーツにスニーカー、アイビー調のダークトーンでチェックのシャツ。
女性は、ロングスカートにブラウス、ぺたんこ靴にストッキングを合わせたスタイルで、男女共に紙袋を脇に抱えて持つスタイルが定番であった。
「みゆき族」は、彼らは特になにをするということなく、ただ銀座の街をうろついていた。
疲れると歩道にしゃがみ込んだり、店のウインドーやビルの壁にもたれかかり立ち話をしたり、喫茶店で何時間もおしゃべりをした。
反社会的な騒乱を起こすことは無く無害にも見えたが、店の営業に差し障りがあるとの苦情がでて、東京オリンピック開催に向けて混乱を避けたい方針から、築地警察署による一斉排除などの騒動にまで発展する。
それゆえに「みゆき族」のブームは短く、64年5月からのわずか半年足らずだった。
ところで、VANジャケットで一世を風靡した石津謙介のモットーは、「流行は作らない、風俗を作りたい」であった。
石津は1911年岡山の裕福な紙問屋の次男として生まれた。慶應大学に進んだものの家を継ぐことを拒否した長男に代わり、石津は東京生活と引き換えに家を継ぐことを了承し、明治大学に進んだ。
大学では様々なスポーツに興じ、ファッションセンスを磨き、ダンスホールに通った。
その間、親の仕送りを十分に受け、遊び倒して昭和モダニズムを満喫した。その3年後、石津は約束通り岡山に戻り結婚し、紙問屋を継ぐが、その後も道楽ぶりは相変わらずであった。
1939年、戦時色が濃くなってくると、中国の天津への移住を決断する。
当時の天津は、日本,イギリス,アメリカ、フランス、ドイツなどの居留地のある国際都市で、人々は比較的平穏で余裕のある暮らしをしていた。
石津は紙問屋をたたみ家族で天津に移ると「大川洋行」という洋品店に入社する。
ここで石津は、初めてファッション・ビジネスに携わり、営業や宣伝をしながら、各国の文化や、英語・中国語を習得する。
引き揚げ後、大阪で「レナウン」に就職するが、高木一雄と大川照雄と3人で始めた洋服づくりが評判を呼び、3人でレナウンを退社して「石津商店」を立ち上げる。
石津はファッションだけでなく音楽、映画、グルメ、車、海外の知識も幅広く、若者がどんな洋服を必要としているのか、どんな情報を欲しているのか、その時代を見抜く力を持っていた。
そして、様々なペンネームを使い分けて「コラム」を書いた。
ところで、「VAN」といえば、銀座よりも青山をイメージする人が大半であろう。
石津は銀座と比べて人が集まる場所でなかった青山を、ファッション・タウンに変えるという構想を抱いていた。
「VAN」が本社を青山に移すと、コシノジュンコ、三宅一生、川久保玲など続々と若いデザイナーが集まり、若者文化の発信地となっていく。
その一方で銀座には、「みゆき族」に代わり、黒一色で身を固めた「カラス族」がたむろし始める。

石津謙介が日本に帰国して就職したレナウンのCMソング「わんさか娘」は、作詞・作曲は小林亜星で、今も鮮度を失っていない。
1961年にかまやつひろし歌唱により誕生して以来長期にわたって使われてきたCMソングであり、1964年の弘田三枝子や翌年のシルヴィ・ヴァルタンの歌唱によるものが有名である。
こんな名作コマーシャルとならんで時代を代表するのが、ウイスキーの「トリス」のコマーシャルだった。
「ドン・ドン・ディン・ドン・シュビ・ダ・ドン オデー オー!」で始まるCMミュージック「夜が来る」の作曲は、「レナウン娘」と同じく小林亜星。
キャッチコピー「時が満ちて来る、黄金色の時が。サントリーオールド」は、たしかに大人の街銀座に多くの人々を引き寄せたであろう。
サントリーがまだ「寿屋」と呼ばれていた時代、社長の佐治啓三はバーでウイスキーを飲むという文化から作っていくというコンセプトを抱き、サントリー宣伝部を中心とした「イメージ戦略」によってそれを現実化した。
そのコンセプトを実現すべく「洋酒天国」を発刊。日本初の国産ウイスキーを発売したサントリーが、戦後の日本にウイスキー文化・洋酒文化を根づかせるべく作ったPR誌で、1956~1964年まで、61号にわたって発刊された。
「洋酒天国」は、書店で流通していたわけではなく、サントリーが全国の盛り場に展開していた「トリスバー」の店内で読むことができた。
サントリー宣伝部は、ひとりひとりが違った方向を向いたとても素直に社長のいうことの聞きそうもない異能派集団。
後に作家となる開高健、山口瞳やイラストレーター柳原良平らは、数々の伝説的な広告をつくってきた。
佐治は自分の力量を超えるような異質な才能をも抱え込み、宣伝部に負かされたように見せながら、「やってみなはれ」と上手にのせて使っていたともいえる。
「洋酒天国」の編集責任者は、サントリー(当時の社名は「寿屋」)の宣伝部に所属していた開高健。
後に小説家として芥川賞を獲得した開高は、トリスウイスキーの「人間らしくやりたいナ」をはじめ、数々の名キャッチコピーで知られている。
「洋酒天国」の編集には、開高だけでなく、のちに直木賞作家となった山口瞳や、名キャラクター「アンクルトリス」を生んだイラストレーター・柳原良平など、昭和を代表する名クリエイターが参加。
そのセンスあふれる誌面は、ウイスキーともに、“オトナの嗜(たしな)み”として多くのファンに支持された。
「洋酒天国」の誌面は、センスあるデザインのもと、ウイスキーなど洋酒にまつわる知識はもちろん、その背景となる海外の食文化やバー文化、洋酒にまつわる小説やエッセイ、紀行文も掲載されるなど、非常に読み応えのあるものであった。
お酒はただ飲んで酔っ払うものではなく、文化的な知識に裏づけられた洒脱な会話とともにたのしむもの。そんなウイスキーのたのしみ方を、「洋酒天国」から教わったという人も少なくない。
「トリスバー」は、サラリーマン層をターゲットとした“庶民の酒場”として生み出したもの。ピーク時の1960年代には全国で2千件を数え洋酒ブームを生んだ
当時CMで流れた「アンクルトリス」のキャラクターは爆発的にヒットし、サラリーマンの仕事帰りの一杯は「赤ちょうちんでの一杯」ではなく、「バーでウイスキーをたしなむ」という文化を生んだ。
この時代は、高度成長期と重なって、生活が豊かになるとともに、かつては“高根の花”だったウイスキーなどの洋酒が少しずつ身近なものになっていた。
「トリスバー」は戦後間もないモノ不足の時代に「安くてもしっかりした品質のお酒を飲んでもらいたい」との想いで生み出された銘柄である。
ウイスキーの歴史や、粋(いき)なたのしみ方を、さまざまな海外文化とともに発信した「洋酒天国」は、仕事帰りにバーでウイスキーをたのしむという文化を定着させるうえで、少なからぬ役割を果たしている。
こうした「洋酒天国」のPR効果で、「銀座」の風景も随分変わったといえよう。

「銀巴里(ぎんパリ)」は、1951年から90年まで東京銀座七丁目にあった日本初のシャンソン喫茶である。
美輪明宏、戸川昌子、長谷川きよし、青江美奈らを輩出し、三島由紀夫、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一らが集い、演出に尽力した。
なかでも、三島由紀夫と美輪明宏(丸山明宏)との交流は有名である。
美輪の実家は、長崎市内の「丸山遊郭」と呼称された遊郭街の近くで、「世界」という名前のカフェーや料亭を経営して成功を収めており、経済的に豊かな環境で育った。
1941年12月、イギリスやアメリカ合衆国との戦争体制に入った中で父親は「敵性文化を商売にする事は時局にそぐわぬ」と言われて、やむ無くカフェーを閉店せざるを得なくなり、金融業に転業する。
1945年8月9日、雲ひとつない快晴の日、当時10歳の美輪は窓際で夏休みの宿題に御伽草子の「万寿姫」の絵を描いていた。
絵の仕上がりを確認するため、2、3歩後方に下がった時、何千ものマグネシウムを焚いたような白い光をみた。
女中に促され2人で布団をかぶるとすぐさま空襲警報が鳴りだし、その後爆風で机の下に飛ばされていた兄を起こして、3人で防空壕に向かった。
6日後の終戦の日に爆心地近くにあった生母の実家へ祖父母を1人で探しに行き、惨状を目の当たりにする。
原爆により、父の貸付先が相次いで破産・他界したため、返済を受けられなくなった美輪一家は貧乏生活を余儀なくされた。
それ以前に美輪の父の後妻が他界しており、父の後々妻も失踪する等の不幸に見舞われ、美輪は幼い異母弟達と辛い日々を送ることとなった。
美輪は東京でひとり生きていく決意をして、海星高等学校を中退、生活費を稼ぐために進駐軍のキャンプ廻りをして歌を披露した。
本人によれば、新宿駅で寝泊りしていた時期もあるという。
1952年、17歳になった美輪は、銀座7丁目にあるシャンソン喫茶「銀巴里」で「美少年(ボーイ)兼歌手募集の張り紙広告」を見て応募する。
そして、シャンソン喫茶「銀巴里」と歌手として専属契約を交わし、国籍・年齢・性別不詳として売り出す。
次第に人気を博し、三島由紀夫、吉行淳之介、野坂昭如、大江健三郎、中原淳一、遠藤周作、寺山修司、なかにし礼等、文化人の支持を得る。
ところで、昭和を代表する文豪・三島由紀夫は、ノーベル賞の候補にまでなりながらも、1970年11月25日、自衛隊駐屯地での割腹自殺という衝撃的な最期を迎え、45歳でその生涯を閉じた。
三島由紀夫と美輪明広(当時、丸山明広)は、美輪が当時アルバイトをしていた銀座のバーで出会ったのがきっかけ。
当時美輪が16歳の時で、歌手を目指そうと地元・長崎から上京し、音楽学校に通っていた時のことだった。
三島は美輪の10歳年上で、当時26歳。2年前に発表した「仮面の告白」が文壇に衝撃を与え、新進気鋭の作家として注目を集めていた時期だった。
美輪は、店で周囲から「先生、先生」と声をかけられる三島がどうも気に入らず、当初そっけない態度を取っていたという。
その頃のことを美輪は、次のように語っている。
「三島さんがね、『かわいくないやつだ』と吐き捨てるようにおっしゃったので、『かわいくなくていいんです。きれいですから』って私はやり返したんですよ。あきれていらっしゃってましたけど、それが三島さんにはおもしろいと思われたようなの。飛ぶ鳥を落とす勢いの流行作家となるとみんなぺこぺこするんですよ。でも私だけ傲然としていたもんですから、そういう人間を見たことがなくてびっくりなさったんでしょうね。それからときどき、お店にいらっしゃるようになりました」。
三島は、「銀巴里」のステージを見に来るようになったばかりではなかった。
「黒蜥蜴(くろとかげ)」といえば、美輪明宏が妖艶に演じた舞台として有名だが、江戸川乱歩原作の「黒蜥蜴」を三島由紀夫が戯曲化したものであった。
我が青春時代、NHK・芸能番組で「黒蜥蜴」の舞台を視聴した時の記憶は未だに強く残っている。
舞台「黒蜥蜴」は世の中の「美」に執着する、美輪明宏演じる正体不明の女盗賊「黒蜥蜴」。
対するは、彼女を追う名探偵「明智小五郎」との鬼気迫る対決。
「心の世界ではあなたが泥棒で私が探偵。だって、あなたは私の心を盗んだのだから」。
禁断の二人の間にいつしか恋が芽生え、明智に追い詰められた黒蜥蜴は、彼を愛するがゆえに自決する。
「黒蜥蜴」は美輪明宏のライフワークともなった舞台で、三島由紀夫との交流は三島が亡くなるまで続いた。
美輪からみた三島由紀夫のイメージは、男が社会に出てついてしまう手あかがつく以前の、少年の心をあの年になるまで持ち続けているのか、というような存在であったという。
三島には文壇向き、営業向きの顔があった。
大ぶらなければ、作家ぶらなければなめられてしまうと、出版社などの人たちに接していた。
しかし、彼らと別れた後、ぴょんと舌を出したりする姿が、まったく子供みたいだったという。
また美輪が「尊敬するような人は恋愛の対象にならない」というと、三島は「じゃあどういうのが恋愛の対象なんだ」と聞いてきた。
美輪が「かわいそうな人が好きなんです。だから三島さんは恋愛の対象になりません。お気の毒さま」と応えた。
すると三島は「君は誤解している。俺はかわいそうだぞ」というので、美輪が「なぜ?」と聞くと、「ある雨の日、君と別れて、傘を差してしょんぼりと帰っていく俺の後ろ姿を想像してみろ。ほれたくなるほどかわいそうだぞ」と言った。
美輪が最後に三島と会ったのは1970年11月。三島が市ヶ谷駐屯地で自決する直前だった。東京・有楽町にあった「日劇」でのショーに出演していた美輪の楽屋に、突然、正装姿の三島が訪ねてきたという。
腕に抱えられるだけの300本もあろうかというバラの花束を持って入ってきて、バケツの中に入れてめずらしくプライベートな話になった。
美輪が「文豪は年を取ってから世紀の傑作ができるときもある」と言ったら、三島は「自分は嫌だ、床柱を背にして、紬の着物を着てふんぞり返っているようなのは、俺には似合わない」と語ったという。
しばらくよまやま話をしてして、ショーが始まる頃に美輪が呼ばれ、三島が「じゃあね」って言ったあと振り返って、「もう君の楽屋には来ないからね」というので、美輪が「どうして?」と聞くと、三島は「また今日もきれいだったよ、なんてうそをつき続けるのがつらいからね」と、例によって日常の憎たれ口になったという。
2009年7月8日、銀巴里の閉店日には、銀巴里の名が記されたコーヒーカップや食器類が、すべて常連客によって持ち帰られた。
跡地の銀座7丁目9番11号付近に石碑が立つ。

流行のアイビールックを独自に解釈した奇妙な風体の若者たちが、東京の銀座に集まり始めたのは1964(昭和39)春ごろからのことだった。
はじめは「西銀座族」などと呼ばれていた彼らは夏に入ると銀座・みゆき通り周辺に集まるようになり、週末には1000人もの若者たちがこの小さな通りを独占するようになってしまった。「みゆき族」の誕生である。
「VAN」や「JUN」といった当時のファッションブランドのロゴ入りの紙袋が人気だったそうですが、中には米袋を自分でアレンジして持っていた人もいたらしいです。米袋って! なんだか斬新です。当時の写真を見たところ、とてもおしゃれな雰囲気。特に男性はシュッとしていてかっこいい!
先端のファッションとともに大きな社会現象にもなったみゆき族。彼らは、みゆき通りをただ散策していただけだったのですが、近隣の店舗などから苦情が出るようになり、同年9月12日に一斉に取り締まられてしまいます。
東京オリンピックを間近に控えていたこともあって、一斉に取り締まりを受けることになったのだそう。
みゆき族が突然現れたことや、米袋がおしゃれアイテムだったことなどにビックリしましたが、さらには一斉に取り締まられていたことにもビックリ。それだけ影響力が大きかったのかもしれませんね。
彼・彼女たちは東京周辺の高校生が中心で、大きなズダ袋に着替えの服を入れて銀座に出かけ、西銀座デパートのトイレなどで着替えてみゆき通りに現われる。
原宿に出現した「竹の子」族を思わせる。
大人の街といわれた銀座にはまったくそぐわない格好の連中に業を煮やした商店主たちの声を請けて、警察が一斉補導に乗り出し、この年9月には姿を消してしまうが、ファッションだけでこれほどの話題を集めた族というのは、これが初めてだった。
ちゃんとしたVANヂャケットの服に身を固めた若者は「アイビー族」と呼ばれたが、これも翌年には「カラス族」と呼ばれて急速に風俗化してゆくことになる。 一言で表すと、ブラック一色で固めたアイテムを身に纏う人たちのことをカラス族と呼びます。
オーバーサイズで体のラインは隠れてしまうスタイルも当時から流行ったそうです。
1982年のパリコレクションで「ヨウジヤマモト(yohji yamamoto)」と「コム・デ・ギャルソン(COMME des GARÇONS)」が、それまでタブーとされていた”黒”の衣装を使ったことで世界に衝撃が走ったことから始まりました。
美輪明宏が三島由紀夫と出会ったのはアルバイト先の銀座の喫茶店。
「私は反権力派だったから、何が新進作家の三島由紀夫よって感じで、何度呼ばれても振り向きもしなかったの。でも、マスターに『お小遣いあげるから、お願いだから行ってくれ』って頼まれて、仕方なく横に座ったのよ」そんな反抗的な態度に三島が逆に惚れてしまい、二人の運命的な出会いが始まったのです。
後に三島は自ら脚本を書いた舞台「黒蜥蜴」の主役に美輪明宏を口説き落として出演させ、俳優として自身も映画に出演。美輪明宏と妖艶なキスシーンを演じました。
この作品は深作欣二が映画化して、海外でも高い評価を受けています。 では、実際に二人の関係はどうだったのでしょう。美輪明宏は「私は三島由紀夫の愛人ではない」と否定しています。一方で三島は「君には一つ欠点がある。それは俺に惚れないことだ」との名言を遺しました。
三島由紀夫亡きあと真相は藪の中ですが、もしかすると、二人の愛とは、黒蜥蜴と明智小五郎のように禁断の愛でありながらも妖艶で甘美な、そして肉体や精神をも超えた「魂の繋がり」だったのかもしれませんね。
三輪は長崎市出身。本名及び1971年までの芸名は丸山 明宏(まるやま あきひろ)、海星中学を経て国立音楽大学附属高校中退。
1957年、シャンソン「メケ・メケ」を日本語でカバーし、艶麗な容貌で、シャンソンを歌い上げ、一躍人気を博す。
1967年、寺山修司の演劇実験室・劇団天井桟敷旗揚げ公演で、寺山が美輪のために書き下ろした舞台作品『青森県のせむし男』や『毛皮のマリー』に主演する。
--------------------------------------------------------------------------------------------- 1964年の東京オリンピックの公式服装のデザインは、石津ではなく望月——。こうした資料や証言があることについて、石津事務所はどういう見解なのか。事務所の広報担当者によると「監修者としてデザインに関わったが、デザイン画は描いていないと聞いている」と説明した。しかし、当時の公式服装のデザインの監修者として石津謙介の名前が記されている資料は見つからなかった。 望月靖之は2003年に他界している。彼はこうした事態を把握していたのか、把握していたとすれば、それに対して何か抗議をしなかったのか。東京オリンピックの前年から望月のもとで働いてきたという男性(75)はこう話す。 「そりゃ怒ってましたよ。でも、知ってる人は知ってるからいいんだということで過ごしていたんです」 安城寿子(あんじょう・ひさこ) 1977年東京生まれ。服飾史家。JOA(日本オリンピック・アカデミー)会員。学習院大学文学部哲学科卒。お茶の水女子大学大学院博士後期課程単位取得満期退学。博士(学術)。文化学園大学、横浜美術大学、上田安子服飾専門学校ほか非常勤講師。専門は日本の洋装化の歴史研究。共著に『ファッションは語りはじめた――現代日本のファッション批評』(フィルムアート社、2011年)がある。 [写真] 撮影:幸田大地、岡本裕志 1964年の東京五輪開会式で日本選手団が着用した帽子は、男女ともウール地の白。男性用が縄リボン巻きの中折れハットで、女性用が左サイドに日の丸のアクセサリーが付いたチロル風ハットだった。内側には男女とも「Tokiohat」のブランドロゴ。製作を手がけた東京帽子(現…  1964年の東京五輪開会式で日本選手団が着用した帽子は、男女ともウール地の白。男性用が縄リボン巻きの中折れハットで、女性用が左サイドに日の丸のアクセサリーが付いたチロル風ハットだった。内側には男女とも「Tokiohat」のブランドロゴ。製作を手がけた東京帽子  1964年の東京オリンピックの舞台で活躍したのは、競技に出場する選手だけではありません。その裏では、93の国と地域からやってきたおよそ7000人の選手とコーチなど関係者への食事を提供するために、全国から集まった300人の料理人たちが日々奮闘を重ねていたのです。  選手村に作られた食堂は3つ。そのうちのひとつで、日本、アジア、中東の選手団向けに用意された富士食堂の料理長として腕を振るったのが、のちに帝国ホテル総料理長となった村上信夫さんです。そこで今回、今は亡き村上さんから東京オリンピックのレガシーを継承する、帝国ホテルの現総料理長の田中健一郎さんに、村上さんから聞いた当時のお話を伺いました。 料理を教える村上信夫さん(中央) 【写真提供:帝国ホテル】 ――世界中から人が集う場が東京オリンピックですが、そのような特殊な場所で料理をつくるにあたって、準備段階で大変だったことはどんなことでしょうか?  まずは料理の内容を把握することですね。東京オリンピックで用意しなければならない料理は、多岐にわたります。中でもアフリカやイスラム圏で食べられている、当時日本では名前も知らなければ料理書にも載っていない料理を作るのはすごく大変だったとよく村上が話していました。そのために日本にある各国の大使館を訪ねて、駐在員の奥さまに作り方を教えてもらったり、頂いたルセット(レシピ)をもとにホテルで料理を作り、それを奥さまたちに食べていただき、その出来栄えを確認したりしたようです。  また、海外で働いている日本人に話を聞いたり、料理研究家の力を借りたりしながら、料理の情報を集める作業がとにかく大変だったと村上は言っていました。作り方が分かっても食材そのものの入手に苦労するケースも多かったようです。当時の日本は、生のフォアグラですら入手困難だった時代ですから。 大勢のゲストで賑わう試食会 【写真提供:帝国ホテル】 ――料理の量も尋常ではなかったですよね?  そうですね。最も苦労したのが大量の食材を保存することだったようです。オリンピックの期間中に必要な食材の量は、「ピーク時には1日に肉15トン、野菜6トン」と聞いております。当時は、冷凍食品の評価が高くなかったようですが、かといって生鮮食品だけで賄おうとすると、東京都の消費者物価に影響を及ぼすのではないかという声もあったそうです。  そこでニチレイと冷凍技術の開発を行い、従来以上によく冷える冷凍庫を導入して、選手村で提供する食材を冷凍保存して使っていくことにしました。最終的には試食会を行い、生鮮と冷凍それぞれの素材を使った料理をそれとは告げずに食べていただき、あとからそのうち一部が冷凍だと種明かしをしたそうです。  すると当時オリンピック担当相だった佐藤栄作さんが「どちらもおいしい」と太鼓判を押してくれた。その結果、正式に冷凍品の導入が決まったそうです。これをきっかけに冷凍技術が日本全体に広まっていきましたし、これからの時代は冷凍品も活用していくべきだという意識改革にもつながったと思います。 選手村食堂試食会の様子 【写真提供:帝国ホテル】 ――全国から集まった300人の料理人が料理を作るにあたって工夫したことは?  ルセットの統一です。当時、ルセットは料理人の秘伝ともいえる大切なもので、他人に教えることは到底考えられませんでした。しかし村上は日本のためにすべての料理のレシピをまとめ、300人の料理人が同じように料理を作れるようにしたんです。オリンピックの食事において一番大事なことは、選手たちが最高のコンディションで競技に臨み、ベストの結果を残してもらうこと。そのためにはなすべき事を全力でなしとげたのでしょうね。 1964大会で使用されたメニュー、食堂サービス手帳、入場券 【1000 DAYS TO GO! COLLECTION 編集部】 ――食堂の運営の成功に関して、村上さんだからこそできたのではないかと感じていることはありますか?  村上は厳しい人ではありましたが、同時に懐の広さと包容力をも兼ね備えていたように思います。この人についていけば間違いないというオーラをまとっていて、そばにいてくれるだけで安心できるような人でした。だからこそ、全国から集まった料理人たちの気持ちをひとつにできたのではと思います。  また村上は常々“料理は愛情と工夫と真心の3つが大事”だと口にしていました。最初は戸惑いも多かったであろう初対面の料理人たちの気持ちがひとつになり、最後はお互いに心を通わせた兄弟のような間柄になったのは、村上の信念ともいえるこの言葉の力も大きかったのではないかと思います。 代々木選手村閉村式終了後の村上信夫シェフの胴上げ(1964年11月5日) 【写真提供:帝国ホテル】 ――選手村の食堂での料理によって、日本が海外にアピールできたものはあったと思いますか?  日本の食材のおいしさや料理のきめ細やかさは、外国の選手や関係者にしっかりアピールできたと思います。それまで日本についてあまり知らなかった人たちが、日本はこんなにおいしい食べ物がある素晴らしい国だという認識を持っていただけたということは、とてもうれしいことだと思います。 ――東京オリンピックが今の日本にもたらしたのは、どんなことだと思いますか?  日本人がこれだけできるんだという自信ではないでしょうか。戦争によって、それまで負い目を感じていた日本人が胸を張って暮らしていけるようになったのは、東京オリンピックのおかげだと思います。また、選手村で働いた全国の料理人たちが、オリンピック後に地元に戻り、選手村で学んだ料理を広めてくれたことで、本格的な西洋料理が全国に浸透していったこともオリンピックレガシーのひとつだと思います。日本の食文化のレベルアップにつながったと思います。 田中健一郎(たなか・けんいちろう) 株式会社帝国ホテル専務執行役員・総料理長。1950年生まれ、67歳。48歳の時に第13代料理長に任命された。 東京の真ん中にあったアメリカ村 代々木公園のはずれに、ぽつんと一軒の家がある。原宿門から入って右側、明治神宮の杜を背にした木造平屋建てだ。 中を覗けば、壁や天井は剥がれ落ちているが、外側の壁は白く窓枠はエメラルドグリーンに上塗りされ、新しい柵がその家を囲んで、横にはこう書かれている。 「オリンピック記念宿舎と見本園」。 そう、代々木公園は、東京オリンピックの選手村だった。昭和39(1964)年、オランダ選手が使用した建物が、ここに残る古びたプレハブである。いまでこそピカピカの柵に覆われているこの家は、石原(慎太郎)元都知事がオリンピック東京誘致を言い出すまで、実にみすぼらしい、ボロ家として放置されていた。それもそのはず、この家が建てられたのは、昭和21(1946)年だった。 では、東京オリンピックまでの18年間、誰が何の目的で、この家を使っていたのか。東京都が設置した札には、一切そのことが触れられていない。 実はここは、米軍施設ワシントンハイツだった。米軍の駐留家族が暮らす住宅地で、日本人が足を踏み入れることが許されない禁断のエリアだったのだ。827戸の家々(後には独身寮も増設)に加え、学校、教会、クラブ、劇場、グラウンドを有した〝アメリカ村〟が、東京の真ん中にあった。現在の沖縄と同じ状況と考えていい。つまり、各国選手団が使用した家々には、オリンピック直前まで、米兵とその家族が暮らしていたのである。 WATCH Bリーガー・田中大貴(アルバルク東京)の人生に欠かせない10のアイテム | 10 Essentials | GQ JAPAN なぜ、そうなったか。日本が戦争に負けたからである。昭和20(1945)年8月30日、玉音放送から約2週間を経て、ダグラス・マッカーサーが厚木に降りたち、連合国軍は旧日本軍の施設を次々に接収した。ここ代々木公園にも米軍テントが張り巡らされたのは、NHKや国立代々木競技場とともに、戦前はこの一帯が大日本帝国陸軍代々木練兵場だったためである。 74年前のいまごろ、昭和20(1945)年5月25日夜、東京で大空襲があった。表参道の安田(現みずほ)銀行前には、黒焦げの遺体が山積みとなっていたのを住民が見ている。この日、3月10日(下町空襲)の倍近くの焼夷弾が落とされ、一晩で東京が壊滅状態となった。原宿代々木界隈はもちろん一面の焼け野原。それから3カ月、人々はバラック小屋を建てて、飢えに飢えながら生活していた。そこへいきなり米軍がやってきて、住宅を建てたのである。 青い芝生に白い家々。鮮やかな色の大型車に乗った金髪の婦人たち。モノクロームの焼け野原に忽然と現れたワシントンハイツが、日本の庶民にとって、どれほど眩しかったか。日本政府によって調達された暖房設備の中、彼らは冬もTシャツで過ごした。家々では、冷蔵庫から調理器具にいたるまで、アメリカ本土と同じ生活が営まれた。この豊かさを享受するためには、デモクラシーを受け入れるしかない。少なくとも、ワシントンハイツ周辺の人々は、素直にアメリカ的価値になじんでいった。 残留した米軍家族 日本が連合国軍に占領されていたのは昭和27(1952)年までである。にもかかわらず、昭和30年代になっても、ワシントンハイツは当たり前のように存在していた。あらゆる特権を有したまま、米軍家族は快適な生活を営んだ。ワシントンハイツは未来永劫、東京の真ん中に存続するのではないか。そんな空気だった。 東京オリンピックの開催が決定したのは、昭和34(1959)年、あの空襲から14年+1日後の5月26日だった。戦後復興のシンボルとしてオリンピックを東京へ。招致活動は成功し、デトロイト、ウィーン、ブリュッセルを圧倒して56票中34票を集めた。戦前、オリンピック委員会会長をしていたマッカーサーが動いたことも勝因のひとつだった。 誘致対策として、すでに千駄ヶ谷の神宮外苑に国立競技場を完成させていた(現在、隈研吾氏設計の新しい競技場を建設中だが、イラク人の女性建築家ザハの計画が頓挫した経緯は、私たちの記憶に新しい)。さらに第2会場としての駒沢競技場、ボートレースの戸田競艇場、羽田空港の整備拡張がこの時すぐに決定した。これで東京を国際都市に改造できる。誰もが浮足立った。 そこに立ちはだかったのが選手村誘致である。米軍施設の返還と密接にリンクして、日米安保が絡んでくる。自治体レベルで解決できる話ではない。とはいえ、自治体にしてみれば、選手村に利用してもらえれば、米軍から土地が返還される。跡地をどう利用しよう。米軍施設を有する自治体は各々、皮算用を始めていた。 当初の読みは、選手村は埼玉県朝霞市に作られるというものであった。朝霞は戦中から帝国陸軍の施設が集中していた軍都で、戦後すぐ米軍4千人が駐留してキャンプドレイクが作られていた。そこにはワシントンハイツのような家族住宅も併設していたのだから、選手村はそこに設営されると信じられていた。競技場からの距離は約20キロ。これは高速道路建設で賄える。そう考えた東京都知事(当時)の東龍太郎は、着々と道路整備に乗り出した。環状七号線はこの時に計画され、住民は立ち退きを余儀なくされていた。 ここでワシントンハイツが候補にならなかったのは、アメリカが簡単に手放すはずがないと思い込んだためだ。実際、米国防総省は市ヶ谷に米軍司令部を置くと決めていたし、赤坂には駐日米国大使館もある。双方から近いワシントンハイツはアクセスに便利だ。返還があるとすれば一部で、水泳などの室内競技場を作るのがせいぜいと、駐留軍と日本政府双方の見立ては一致していた。 「1960年安保」が与えた影響 ところが突然、アメリカ側が「ワシントンハイツを全面返還したい」と言って来た。当然のように、80億円の移転費用は日本政府が負担せよ、中身を収容する移転先は日本政府が用意すべき、候補地としては米軍水耕農園がある府中・調布・三鷹がいい、という条件付きで。 背景には、前年に盛り上がった日米安保闘争があった。60年安保の担い手は戦争を知っている世代が中心だった。岸信介総理が新安保条約締結を機にまた戦争を始めるのではないか。若者を中心に反政府感情が高ぶった。そんな機運の中、東京の中心にワシントンハイツがあるのは危険だ。反米感情を強めかねない。アメリカはそう判断したのだった。 かくして、ワシントンハイツは全面返還された。明治神宮の鳥居から山手通りへ向かう道路が日本人に開放されたのはこの時が初めて。その道路を境に、まずは南側半分をとり壊し、渋谷区役所と渋谷公会堂(後のC.C.レモンホール)が建設され、後者は重量挙げの会場となった。しばらくしてNHK放送センター東館が建ち、奇抜でセクシーなフォルムで話題を集めた丹下健三デザインの国立代々木競技場が姿を現した。 ワシントンハイツの北半分、現在の代々木公園こそ、オリンピック選手村として生まれ変わるのであるが、その敷地面積は前回のローマ大会の約2倍を誇った。宿泊施設は、戦後すぐに建設された木造のアメリカンハウス250軒と、後に増設された独身用鉄筋アパート14棟があてられた。かつての将校クラブはダンスホールに、アメリカンキッズが通った学校は、インフォメーションセンターとして使われた。その様子は世界中に報道され、ワシントンハイツは形を変えて脚光を浴びたのである。 昭和39(1964)年11月。15日間の会期を終え、選手村は閉鎖された。翌年、ワシントンハイツは完全に姿を消した。戦争の副産物として誕生したワシントンハイツにとって、オリンピックが最後の花道となった。 謙介は,1911年,岡山の裕福な紙問屋の次男として生まれた。子供の頃から,食や服にはこだわりがあり,金の7つボタンの詰襟が着たいがために,小学校を転校したという逸話もある(Udagawa, 2006, p. 23)。慶應義塾大学に進み,家を継ぐことを拒否した長男に変わり,謙介は,3年の東京生活と引き換えに家を継ぐことを了承し,明治大学に進む。親の仕送りを十分に受け,遊び倒したという。大学では様々なスポーツに興じ,ファッションセンスを磨き,ダンスホールに通った。3年後昭和モダニズムを満喫した謙介は,契約通り岡山に戻り,結婚をし,紙問屋を継ぐが,その後も道楽ぶりを発揮する。学生時代から乗り物好きであった謙介は,ドイツからグライダーを取り寄せ,組み立て,最終的にはパイロットの免許を取得する。スポーツメーカーの美津濃(現・ミズノ)から声がかかり,グライダー・パイロットの教官として招かれたほどである。 1939年,戦時色が濃くなってくると,謙介は,大川照雄(のちのVAN創業者の一人)に誘われ,天津への移住を決断する。紙問屋をたたみ家族で天津に移ると,大川兄弟の会社,大川洋行(洋品店)に入社する。当時の天津は,日本,イギリス,アメリカ,フランス,ドイツなどの居留地のある国際都市で,空襲もなく,人々は比較的余裕のある暮らしをしていたという。ここで謙介は,初めてファッション・ビジネスに携わり,営業や宣伝をしながら,各国の文化や,英語・中国語を習得する。天津ではグライダーの軍事教官として特別待遇を受け,戦地への招集は免除になっていた。このまま家族と天津で敗戦を迎えることになるが,当然財産は無くなったものの,米軍の通訳となり,持ち前の社交性と語学を使って人脈を広げた。 2. 終戦後 引揚げ後,大阪でレナウンに就職するが,高木一雄と大川照雄と3人で始めた洋服づくりが評判を呼び,3人でレナウンを退社して石津商店を立ち上げる。謙介は,デザイナー,プランナー,ライターとしての才能を発揮した。当時あったVANという風刺雑誌を見て,これだ!と思った謙介は,使用許諾を取り,社名をヴァン・ヂャケットに改称,雑誌の表紙さながら赤と黒のロゴを作成する。スウェットシャツのことを「トレーナー」,ハリントンジャケットを「スウィングトップ」,半袖ワイシャツを「ホンコンシャツ」,紳士服の洋品店を「メンズショップ」と名付けたのも謙介である。道楽のおかげでファッションだけでなく音楽,映画,グルメ,車,海外の知識も幅広く,様々なペンネームを使い分けて多彩なコラムを書いた。若者がどんな洋服を必要としているのか,どんな情報を欲しているのか,その時代を見抜く力を持っていた。 謙介は,ユニフォームのデザインも積極的に行った。警視庁(1963年),東海道新幹線や東京オリンピック(1964年),大阪万博(1970年),札幌オリンピック(1972年)などを手掛けている。1957年に立ち上げたファッション十三人会(現・日本メンズファッション協会)は,メンズファッション界全体をプロモートしていくことを目的に結成され,ファッション・ジャーナリスト,評論家,デザイナーと業界を束ねた環境作りを行った。72年からはベスト・ドレッサー賞を,82年からはベスト・ファーザー賞を発表している。「流行は作らない,風俗を作りたい」(Hanafusa, 2018, p. 28)という言葉通り,謙介の野心はVANという会社を超えて日本の文化に影響を与えていった 青山には,KENTショップなどの直営店の他,VANが出資したイタリア家具のアルフレックス,生活雑貨のオレンジハウス,インテリア植物のグリーンハウス404が続々とオープンする。原宿のパレフランスの地下には,大阪から全国展開したスコッチバンクができた。サントリーの佐治敬三とVANとのコラボレーションにより創業したバーである。ファッションを楽しむ人々のいこいの場を提供しようというコンセプトで,ボトルキープに真鍮の鍵を用い,重厚感のある洒落たバーであった。謙介は,「ファッションとはライフスタイルのことであり,明日をどのように生きるか,ということを考えること」「明日への楽しみ,喜び,意欲,こんな生活を考えること,それがファッションだと思っている」(Ishizu, 1983, p. 155)と述べている。VANは単なるアパレル企業ではなく,アイビーというファッションを通して,VANカルチャーという日本にはなかったライフスタイルを提案し啓蒙していくミッションを掲げる会社であった。青山はその中心地であり,新しい文化を創造するVANタウンとなっていった。 真紅のブレザーに白のスラックス。1964年の東京オリンピック開会式で日本選手団が着用した「日の丸カラー」の公式服装(開会式用ユニフォーム)は、服飾デザイナーの石津謙介がデザインしたとされてきた。「石津デザイン」の記述は、現在もJOC(日本オリンピック委員会)や公的機関のホームページに掲載されている。ところがその通説とは異なり、実際にデザインしたのは東京・神田で店を構えていた望月靖之という洋服商だという資料や証言が数多くある。望月とは誰か。なぜ石津デザイン説が広まったのか。(服飾史家 安城寿子/Yahoo!ニュース編集部) 望月が東京オリンピックの公式服装をデザインしたことを裏付ける資料と望月の自伝(自伝は祖父の代から望月と懇意にしてきたという深澤一正氏提供) 望月がヘルシンキ大会のためにデザインしたのは、紺色のブレザーとグレーのズボンだった。それが「ブレザーでなくユニフォームだ」という秩父宮の言葉はどういう意味だろうか。 ブレザーは、19世紀前半、ケンブリッジ大学のボート部の部員たちが、オックスフォード大学との対抗試合で、ジャケットの色を彼らのカレッジカラーの燃えるような赤(blazing red)で統一したことに起源があると言われる。それは本来、ある集団にとって特別な意味を持つ色でなければならない。紺色は日本を象徴する色ではないし、望月も何か意味があってそれを選んだわけではなかったから、日本選手団にふさわしいブレザーであるとは言えない。秩父宮はそのことを指摘したのだと望月は理解した。 望月の自伝によると、さらに、「よく日本の歴史を調べて日本の色をブレザーに表してみてはどうだろう」という激励を賜り、この時から、望月は、日本のナショナルカラーを探し始めた。日大図書館長だった法学者の斎藤敏に古文書の調査を依頼したり、身延山久遠寺に大僧正を訪ねて法衣(僧侶が身に着ける衣)の色の由来を聞いたり、様々なことを試みたようである。 身延山久遠寺へと至る287段の石段。望月もこの石段を上り大僧正を訪ねた 日之本の国(ヒノモトノクニ)の赤と白 ある時、望月は、歌舞伎の鑑賞中に、「我が日之本の国(ヒノモトノクニ)は」という台詞に耳を奪われた。そして、日本と太陽の強い結び付きを発見する。望月の自伝にはこんな一節がある。 「そうだ日本のマスコットは桜の花ではない、富士山でもない、『太陽』だ、真赤に燃えた太陽だ、だから我々の先祖は太陽を国旗に取り入れたのだと思う。世界各国の国旗を見ても、ほとんど星で、丸い太陽を取入れ国旗に表わしたのは世界で唯一日本だけだ。例えば日時でも、日本が正午と仮定すれば台湾は11時、バンコックは10時、フランスは午前4時、更に日付で日本が10日と仮定すれば、アメリカはまだ9日だ、日出ずる国のマスコットは世界に誇れる太陽だ、その太陽の深紅の色だ」 (望月靖之『ペダルを踏んだタイヤの跡』栄光出版社、1985年) ブレザーの内側には制作を担当したお店のタグが縫い付けられている(所蔵:ダイドーリミテッド) ヒノモトノクニ。太陽。日の出。日の丸。さらに、祝い事に紅白を用いる日本の伝統にも思い至った。こうして、望月は、赤と白こそ日本のナショナルカラーであると考えるようになったという。そして、それぞれの色に、日本の若き選手たちの「情熱」と「清潔」という意味を込めた。 しかし、こうして見つけたナショナルカラーを公式服装に取り入れようとする望月の提案はなかなか受け入れられなかった。実は、望月は、1956年のメルボルン大会でも、赤いブレザーを提案しており、後年の回想で、「JOCの理解が得られず、派手な紺の色となりました。しかし赤と白のまいたテープをブレザーの襟につけました」と語っている。(「オリンピック日本代表選手のブレザーの由来」日本体育協会編『体協時報』1988年11月号) 望月は、ヘルシンキ大会の公式服装の制作を分担で行うため、東京じゅうのテイラーを集めて「東京テーラース倶楽部」を結成。これが発展して、「ジャパンスポーツウェアクラブ」となる(所蔵:富士川町スポーツミュージアム) さらに、次のローマ大会(1960年)でも、望月の挑戦は続けられた。1960年3月26日の『東京中日新聞』の見出しには、「清潔か情熱かあなたはどちらを?服装委員会は白を採用」とあり、「望月靖之氏がこんどもローマ大会用のブレザーをつくった。そのデザインの基調になったのは日本の特色を生かして日ノ丸の赤と白の二色を使い、しかもよく目立つものということだ」という文章とともに、二種類のデザインの写真が掲載されている。 一方は襟に白い縁取りのある赤のブレザー。もう一つは襟に赤い縁取りのある白のブレザー。いずれも下は白のズボン。望月は、ローマオリンピックのために、二つのデザイン案を提出していたが、派手な赤には難色を示すJOCの委員が多く、白の上下が採用されたというのである。 東京オリンピックの赤いブレザーは、8年ごしの念願がかなってようやく実現されたものであった。