オマージュをこめて

長崎の観光地といえば、グラバー園。グラバー邸の隣にあるリンガー邸の形、どこかで見た感じがした。
リンガー邸にしばらく佇んでて思い浮かべたのが、チャンポンの「リンガーハット」である。
リンガー邸は、チャンポンの店のカタチとよく似たカタチをしているのだ。
まさかと気になったので、リンガーハット本社広報部にメールで問い合わせると、会社の創業者が長崎で繁盛した「リンガー商会」のような会社になりたくて、「リンガーハット」と名づけたのだそうだ。
辞書で調べると、英語の「ハット」は帽子のスペル(hat)とは少し違う、「屋敷」(hut)だった。
リンガーハットとは、つまり「リンガー邸」という意味で、「リンガー商会」にオマージュ(リスペクト)をこめてつけた名前なのだ。
リンガーは、グラバー商会の幹部であったが、グラバー商会が没落すると独立して、長崎市内に「ホーム・リンガー商会」を設立した。
この会社は現在も営業中で、門司港レトロの一角に「ホームリンガー商会事務所」を見ることができる。
1868年、イギリス人の貿易商フレデリック・リンガーがエドワード・Z・ホームとともに設立した「ホーム・リンガー商会」である。
イギリスはトワイニング・ティーなど「紅茶の国」として知られるが、フレデリック・リンガーは「茶の鑑定士」としてイギリスの会社に所属しつつ、中国で働いていた。
その彼が、グラバー商会のスカウトを受け、長崎で茶の貿易の監督官として勤務するようになった。
その後、同僚だったエドワード・Z・ホームとともに「ホーム・リンガー商会」を立ち上げる。
、第一次産業革命による日本の運輸、石炭、軍需産業の急成長とともに、製粉、石油備蓄、発電などに事業を拡大する。
リンガーは、長崎に渡った当初から外国人居留地の政界・社交界に積極的に関与した。1874年に居留地会議住民代表(行事)に選出され、アメリカのグラント大統領が辞職後の世界旅行中に日本を訪れた際にはホストを務め、「長崎内外倶楽部」の設立を先導した人物のひとりでもあった。
当時、日本の二大大財閥である三菱・三井はともに膨大な量の石炭を輸出していたが、九州における主な仲介業者はホーム・リンガー商会の支社である下関の「瓜生商会」に他ならなかった。
リンガーの成功を示すのが、日刊英字新聞「ナガサキ・プレス」を創刊や「長崎ホテル」の建設がある。
リンガーは1906年に健康上の理由でイングランドへ帰国し、翌年11月、69歳で故郷ノリッジで死去した。
リンガーは長男フレッドと次男シドニーの2人の息子を残した。フレッドは1940年に長崎で56歳で死去した。
シドニーは、1940年10月に「ホーム・リンガー商会」の長崎本社を閉鎖するよう命じられ、上海への亡命を余儀なくされた。戦後、シドニーは、日本に帰化したが、長崎の財産をほとんど売り払って、イングランドに渡り、1967年に死去した。
戦中閉鎖されていた「ホーム・リンガー商会」は、かつての日本人従業員によって再開され、現在も北九州市門司などで船舶代理業などを商っている。

「蔦谷書店」といえば、レンタルショップ「TUTAYA」が浮かぶが、最近そのイメージが随分変わったことを感じる。
Tポイント、T-SITE、蔦屋家電まで、佐賀では図書館など、従来にない店舗やサービスを次々に生み出している。
これらの仕掛け人は、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)の増田宗昭でああある。
増田社長は、自ら企画する経営者で、ライフスタイルの提案というのが一貫していている。
大阪府枚方市生まれで、同志社大学経済学部に進学し、在学中ファッションデザイン関係の仕事をしようと洋裁学校にも通う。
しかし天才肌のデザイナー・高田賢三や三宅一生の登場で考え直し、卒業後にファッションメーカーである株式会社「鈴屋」に入社。
軽井沢ベルコモンズの開発の他、店長・販促ディレクターなどを歴任した。
1983年2月に同社を退社し、「蔦屋書店」を3月に枚方市で創業した。
その3年後に、カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社を設立と同時に代表取締役社長就任している。
さて「蔦谷書店」という社名を聞いて、個人的に気になったのが、江戸時代に蔦谷重三郎が開いた「蔦谷書店」である。
蔦谷は、寛政の改革で財産没収の憂き目にあっているのだが、それは写楽の生きた時代でもあった。
松平定信の寛政の時代は、奢侈や贅沢への取り締まりも強く社会生活への取り締まりの厳しい時代であった。
前科をもつ出版元「蔦谷」から依頼されて「大首絵」を描いた「写楽」と名乗る人物は、一体なにものであろう。
それとも「大首絵」は「起死回生」策として生みだしのだろうか。
ともあれ、大きな顔に人間の様々な感情をはらませた「大首絵」は大人気となった。
役者のよじれた笑顔の裏には、媚び、卑屈、傲慢さなど「役者の内面」をもを波だたせたため、モデルとなった役者から、何もそこまえ描かなくてもといった気持ちが起きたのではなかろうか。
当時、狂歌で知られる大田南畝が、写楽はあまりにリアルに描いていたため、「絵師生命」を短くしたといううようなことを書き残している。
そのことと関係があるかは知らないが、写楽は作品を「大首絵」から役者の全身を描く「姿絵」に転換させ、結局「大首絵」は全体の5分の1にしかない28点にすぎない。
写楽の作品発表は1794年の5月から翌年の2月までおよそ10ヶ月間、作品は140にものぼる。
ただ写楽はその後、忽然と姿を消した。
一切の「記録」に写楽の名前が登場しなくなるので、「ゴースト」のような存在なのだ。
写楽の謎を解くためには、浮世絵の「制作過程」を追うことも一助となる。
浮世絵(錦絵)の製作は、版元の依頼にがよってまず絵師が原付大の版下絵をつくる。
これをそれぞれの絵師と息のあった彫師がウケテ版木に糊ではりつけ、生乾きのところで紙をはがして墨線だけを残して、小刀、ノミで彫って墨線を彫り出す。
こうしてできた墨板は摺師に渡されて墨摺絵ができあがる。
絵師は必要な色の枚数だけ一色ずつ彩色してまた彫師に渡す。
彫師はこれをウケテ色ごとの版をつくる。摺師はそれに合わせて一色ずつ摺りだす。
紙をのせて馬連で摺るのである。こうして大体、一つの板で200枚ぐらいを刷るというのである。
つまり浮世絵の制作は絵師・彫師・摺師の共同作業であるのだ。
ということは写楽が活躍した時に、多数の人々がソノ制作に「有機的に関わりあった」ということなのだ。
その名前に、江戸末期、写楽の浮世絵を大量に売り出した「蔦谷書店」の名前が頭をよぎった。
東京恵比寿のガーデンヒルズに本社があるTSUTAYAにファックスで問い合わせところ、TSUTAYAの創業者・増田宗昭の祖父が、江戸時代の蔦谷重三郎創業の「蔦谷書店」の名にあやかって店名をつけたということであった。
実はこれだけの共同作業を束ねたのが、ビデオショッップ「TUTAYA」の社名の由来になっている版元・蔦谷重三郎という人物である。
「版元」というのは絵師と彫師と刷師とを束ねる総合プロデューサーである。

自動車メーカー「マツダ」の名は会社の創業者でもある松田重次郎氏の姓にちなんでいる。
そのことに何の疑問もなかったが、TVで「マツダ」のロゴをみる、「matuda」ではなくて「mazda」なのである。
違和感を覚え、会社のホームページをみると社名は西アジアの文明の発祥とともに誕生した神、アフラ・マズダー(Ahura Mazda)に由来する、とあった。
さらに、マズダーを東西文明の源泉的シンボルかつ、自動車文明の始原的シンボルとして捉え、また世界平和を希求し自動車産業の光明となることを願って名付けられたという。
tまり、ゾロアスター教の神に由来するとは驚きだが、それは古代イラン(ペルシア)のゾロアスターがはじめた宗教。
3世紀のササン朝ペルシアでは、国の宗教として広く信仰されていた。
ゾロアスター教の最高神は、光(善)であるアフラ=マズダー (Ahura Mazdā) 。ゾロアスター教は「マズダ教」と呼ばれることもある。
最高神アフラ=マズダの象徴として「火」を神聖視することから、「拝火教(はいかきょう)」ともいう。
しかし7世紀にペルシアがイスラームに征服されてから、ゾロアスター教は衰退していく。
そして、たくさんのゾロアスター教徒がインドに逃げこんできた。今でもその子孫がインドのムンバイにいて、ゾロアスター教の信仰を守っている。
今のインドでゾロアスター教徒は「ペルシア人」に由来して「パールシー」と呼ばれているが、インド最大の財閥「タタ」の創始者がパールシーなのだ。
タタ財閥といえば、アジア最大の製鉄会社を保有しているので有名だが、まさに「火」によって成り立つ業種を営んでいるのである。
ゾロアスター教では、火を操る祭司を「マギ」といい、英語の「マジック」という言葉の由来となっている。
そして「火を操る」のではなく、「電気を操る」ことでマジシャンとよばれたのが、ニコラ・テスラである。
テスラは1856年現クロアチア共和国のリエカ地方に生まれた。
わずか5歳で小型水車を発明するなど、幼いころから神童ぶりを発揮し、特に数学では飛び抜けた成績を修めていた。
グラーツ工科大学に入学し、ある授業で「グラム発電機」(発電機とモーターの機能を併せ持つ直流電流の発電装置)がモーター回転時に火花を発しているのを目にする。
テスラは、そこにエネルギーの損失が起こっていることを見抜き、発電方法の改善を考えはじめる。
そのわずか5年後には、世界ではじめての「交流電流」の発電装置を発明する。
これが「二相交流モーター」で、テスラは、これをもとに交流電流による発電・送電のアイデアを発展させていった。
テスラは1884年に、「交流の送電方法」を世界に広めたいという夢を抱いて渡米する。
当時、革新的な発明品を次々と世に送り出していたエジソンの下で働くチャンスに恵まれる。
しかし、当時のアメリカでの電力供給の仕組みは、エジソンが開発した「直流電流」を使用していたため、エジソン自身はテスラの案に否定的であった。
それでも、テスラの「交流方式」への信念は揺らがず、ふたりの確執は深まる一方であった。
結局、翌年にテスラはエジソンの会社を去ることとなった。ややグラバー商会を去ったリンガーを思わせる。
その後、テスラは職を転々としながらも徐々に協力者を得て、電力供給の仕組みをさらに改良し電気工学者協会でこれまでの成果を発表すると、たちまち世界的な注目を集めた。
「交流支持派」が増えるにつれ、エジソンは直流電流の優位性を保つために、交流電流は危険だと広める活動を活発化させる。
たとえば、死刑用の電気椅子に交流電流を採用させなどして、イメージダウンをはかった。
対するテスラも、100万ボルトの交流を自身の体に通すなどして、安全性をアピールした。
この泥沼の戦いは「電流戦争」として数年にわたって続く。
その後、テスラの努力の甲斐あって、交流電流の有用性と安全性は次第に人々に認められていく。
1893年、シカゴ万博やナイアガラの滝での発電事業に交流電流が採用されると、世界中が交流へと大きくシフトしていくことになった。
発明王エジソンに真っ向から挑み、その戦いに勝利したテスラ。現代でも送電には「交流電流」が使われており、遠くまで安定して電気を送れる仕組みを世の中に定着させたのである。
さて最近EV社として有名になった「テスラモーターズ」の社名は、発明家であり電気技師であったニコラ・テスラに「オマージュ」をこめてつけられたものである。
「テスラ」のCEOであるイーロン・マスクは、最近ウクライナ紛争における通信システムの構築やツイッター社の買収で注目されている。
現在世界一の富豪ともいわれるマスクは、南アフリカ人の技術者・実業家の父親とカナダ生まれ南アフリカ育ちのモデル兼栄養士の母親との間に、南アフリカに誕生した。
マスクは10歳の時にコンピュータを買ってもらい、プログラミングを独学した。12歳にして最初の商業ソフトウェアである「Blaster」を販売する。
母親がカナダのサスカチュワン州の生まれであったため、多くの親戚がカナダ西部に住んでいた。そこでカナダ国籍を持つマスクはカナダに移住し、サスカチュワン州スウィフトカレントにあるいとこの小麦農場で働き、穀物貯蔵所の清掃をしたり野菜畑で働いた。
また、ブリティッシュコロンビアの製材所でのボイラーの清掃やチェーンソーで丸木を切る仕事などもしていた。
その後、アメリカへの移住を希望しアメリカ合衆国のペンシルベニア大学ウォートン・スクール等へ進むための奨学金を受け、同校で経済学と物理学の学位を取得した。
1995年に高エネルギー物理学を学ぶためスタンフォード大学の大学院へ進むが、2日在籍しただけで退学、弟のキンバル・マスクとともに、オンラインコンテンツ出版ソフトを提供する「Zip2社」を起業する。
この会社はのちにコンパック社に3億7百万ドルで買収され、マスクは2200万ドル(約25億円)を手にする。
オンライン金融サービスと電子メールによる支払いサービスを行会社の共同設立者となるも、この会社は1年後にコンフィニティ社と合併し、これが2001年に「PayPal社」となる。
同社は2002年にeBayに買収され、マスクは1億800万ドル(約200億円)を手にした。
2002年に3つ目の会社として、宇宙輸送を可能にするロケットを製造開発する「スペースX社」を起業し、CEOに就任している。
「スペースX」社は民間による宇宙旅行を実現するベンチャー企業として、世界中から大きな注目を集めた。
2003年7月にマーティン・エバーハードとマーク・ターペニングによって「テスラモーターズ」として設立された。
2008年よりCEOを務めるイーロン・マスクは、創業期に資金の大半を提供した人物である。
テキサス州オースティンに本社を置いて、電気自動車、家庭用からグリッドスケールまでのバッテリー電動輸送機器、ソーラーパネル、ソーラールーフタイルなどの製品を創る。
そして「テスラ」は、世界で最も売れているプラグインおよび二次電池式電気自動車の乗用車メーカーとして位置づけられている。
マスクによると、テスラの目的は、電気自動車や太陽光発電によって得られる持続可能な輸送とエネルギーへの移行を促進することにあるという。
そして「テスラ」は2009年に最初の電気自動車モデルであるロードスターの生産を開始。その後も開発をすすめ、「Model3」は、2020年12月までに80万台以上が納入されており、世界で最も売れている電気自動車である。

「交流」とは、電気の流れや電圧が変化する特性があり、現代の家庭用コンセントから供給される電流のことをさす。
一方の直流は、同じ電圧を維持したまま一定方向に流れる乾電池やバッテリーなどで発生する電流のことである。
テスラが考えた交流電流による送電方法は、直流電流よりもコストがかからず、利用者の扱いやすい電圧に変圧できるメリットがある。
た下関にある「旧リンガー邸」はリンガー商会の社長令息の住宅で、現在は「藤原義江記念館」となっているのも面白い。
1941年12月、日本陸軍がイギリス領マラヤに侵攻したとき、マイケルとヴァーニャは、英印軍に加入しマラヤに駐屯していた。
ヴァーニャは第14パンジャブ連隊第5大隊(英語版)に属して戦い、イギリス側が壊滅的な被害を蒙ったスリム川の戦い(英語版)で1942年1月7日に戦死した。マイケルは日本語話者だったおかげで、陥落前にシンガポールから脱出できたが、スマトラで捕えられ、終戦まで同地で捕虜として過ごした。マイケルは戦後、日本軍の残虐行為の証人として法廷に召喚されている。