聖書の言葉(主の大庭・シオンの大路)

イエスの12弟子のひとりヨハネが信徒に出した手紙に次のように書いている。
「愛するものよ あなたがたのたましいがいつも恵まれていると同じく、あなたがすべてのことに恵まれ、またすこやかであるようにと、わたしは祈っている」(ヨハネ第三の手紙2節)。
ヨハネはここで、信者が「たましいが恵まれる」ことを土台にして、すべてが恵まれることを祈っていることに注目したい。
聖書によれば、人間は「たましい/こころ/からだ」で出来ているが、人は一般には「こころ」の楽しみと充実を求めるにとどまる。
確かに、芸術を鑑賞したり、友人と語らったり、スポーツなどの楽しむ「心弾む」体験はなによりだ。
ところが、「たましいが恵まれる」ことについては、人の力ではどうしようもなく、これこそ「救い」に関わるものである。
それは「霊の恵み」であり、パウロが信徒達に「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたにやあなたの心と思いを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(ピリピ人への手紙4:6)と書いている心境といってよい。
そうした心の平安はなにものにも代えがたく、西行法師の言葉「なにごとのおわしますかはしらねども、かたじけなさに涙あふれる」という感謝の思いにも通じるものがある。
それは目に見えぬ大きなものに包まれていること、自分が小さな存在であっても生かされている思いが、自然にこみあげてきて、喜びに満たされているような状態こそが、「たましいが恵まれている」ことといえるであろう。
こころが弾んだり楽しいことはいいことだが、それで一生が満たされる人は、おそらく「たましいの喜び」については生涯、無縁であるかもしれない。
イエスが「山上の垂訓」の冒頭で語った「心が貧しい人は幸いである」(マタイ福音書4:3)とは、そういう意味ではなかろうか。
実際に人は歳をとるにつれて、「心で楽しむ」ことは次第に制限されてくる。
旅行にも行けなくなるし、友人との交流は減り、趣味もそれほどあるわけではない。
年金だって減らされるし、加えて健康までも損なわれたら「こころ」までも蝕まれてしまいそうだ。
だが、歳をとって一番惨めなことは、金がないことでも、友人がないことでもなく、たましいが恵まれていないことではなかろうか。
それは心の平安が得られないことで、古代イスラエルの王・ソロモンは、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、”わたしにはなんの楽しみもない”というように ならない前に」(伝道の書12:1)と警告している。
老年に至って、現役の時輝かしい業績を残した人であっても、「自分の人生は何もなかった、徒労にすぎなかった」という気分に沈んでいく人は案外と多いことに気づかされる。
さて、前述のソロモン王でさえも「すべては空(くう)の空(くう)」「日の下に新しいものはない」という言葉を何度も繰り返している。
「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。 しかし地は永遠に変らない。
日の下には新しいものはない。 "見よ、これは新しいものだ"と 言われるものがあるか、 それはわれわれの前にあった世々に、 すでにあったものである。前の者のことは覚えられることがない、 また、きたるべき後の者のことも、 後に起る者はこれを覚えることがない」。
結局、ここで伝道者とはソロモン王のことだが、過去の業績の輝かしさが、逆に今の惨めさを際立たせることもありそうである。
チェーホフの小説「たいくつな話」は、そんな老年の心境を見事に語っている。
「死の予感や不眠症は「私」を苦しめる。しかし格闘すべき困難が病苦や死だけなら、「私」はこれまでの幸運な人生に感謝し、満足して死に向かう覚悟を持てただろう。死を目前にして、「私」は家族が突然他人のごとく不可解な存在になってしまったと感じる。「私」が無名だったころ溌剌として愛らしかった妻は、「私」の得た名士の肩書に圧倒され、いつの間にか世間体と家計のことばかり気に病むような人間になった。
「名士」としての体面をとり繕った暮らしは家計を圧迫し、一家は始終借金に悩まされた。
元気で学問に取り組んでいるうちは、そんな心配事もさほど「私」を苦しめなかった。
しかし死を目前にした今、かつて愛した妻が自分にとってこれほど遠い存在になってしまったことを、「私」はしみじみ不思議に感じる」。
人間にとって大切なことは「今」であり、過去の業績の「記憶」にすがって生きるのは、なんとも寂しいかぎりである。
老年に至って「死」そのものに希望がもてないのは自然であり、問題はそこからどうにか救われるかだが、「ぼける」ということは自然の知恵なのかもしれない。
問題は、人間は死に向かうことに対して「希望」がもてるかどうかである。
新約聖書に登場するペテロやパウロは明らかに、死に対する「希望」を抱いている。それは、イエスがサマリアの井戸端にで出会った女に語った「永遠に湧き出る水」(ヨハネ福音書4:13)を宿したからにほかならない。
パウロは次のように語っている。
「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(コリント人第二の手紙4:16)と語っている。
さらに、「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」と語っている。
そのようにいいきるパウロは、この世に留まる以上の希望を、死の向こう側に抱いているようだ。
「わたしの願いをいえば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実はそのことのほうがはるかのぞましい」(ピリピ人への手紙1:23)と記している。

旧約聖書の詩篇には「大庭」という言葉がしばしばでてくる。そして「大庭にあること」は「たましい」が恵まれることと深くかかわっているのがわかる。
「あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、あなたの大庭に住む人はさいわいである。われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の恵みによって飽くことができる」(65篇4)。
「わが魂は絶えいるばかりに主の大庭を慕い、わが心とわが身は生ける神にむかって喜び歌います」(84篇2)。
「あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います」(84篇10 )。
詩篇の作者がこれほどまでに慕った「大庭」とは何なのであろうか。
エルサレムの神殿の前の「囲い」なのであるが、その「大庭」への思いはなぜかくも深いのであろうか。
イスラエルの民は、「出エジプト」の後に、荒野の旅をする。その際、イスラエルの民は、移動式神殿たる「幕屋」の前で礼拝をなした。
幕屋には、聖所と至聖所があり、聖所には燔祭の羊をもって祭司がはいり、至聖所には年に一度だけ大祭司が入ることが許されている。
荒野をさまよったイスラエル人が故郷である「約束の地」(カナンの地)に入って後、古代イスラエルの王ダビデの子ソロモン王の時代に「エルサレム神殿」が完成する。
イスラエルには「過越の祭り」「五旬節」「仮庵の祭り」という大きな祭りがあり、人々はエルサレムに神殿に集まることとなっていた。
しかし、イスラエルの民は、何度も離散の憂き目にあって、エルサレムから離れ、長くそこに集うことが出来ない状態にあったのである。
エルサレムにはいつも神殿があり、それで確かにいけにえを捧げていたが、形式的になるにつれ、周囲にある異邦人の神々に興味が湧いて、それに仕えるようになってしまった。
そればかりか、その神々を宮の中に持ち込むにまで至って、いつしかバビロニアに攻められ、バビロンに捕え移される(バビロン捕囚)。
新バビロニアのネブカドネザル王の時代にようやく帰還が許され、失ったものの大切さ、つまり「主の大庭」に集うことの尊さを味わったのである。
その後、イスラエル人は自分たちの町々の会堂(シナゴーグ)で礼拝をしながらも、上述の三度の大きな祭りのうち、少なくとも一度は、エルサレム神殿の大庭にまでやってきた。
たとえ遠隔地にあっても、自分たちの収穫物を、神殿の「大庭」に携えてきて、家族とともに神の前で食事をし、神と共にあることを楽しんだのである(申命記12章7)。
また、イエスの父・ヨセフは貧しい生活をしながらも年に最低一度はエルサレム神殿の「大庭」に来ることを最高の喜びとしていた。
ヨセフが「過越の祭り」に少年イエスを伴って毎年、北のガリラヤ地方から1週間近くもかけてエルサレム神殿に上ってきたのはそのためである(ルカの福音書2章)。
イエスは成人し、「神の子」たることを自らを表す中で、律法学者との会話で、「自分はエルサレムの神殿を三日で建てる」(マタイによる福音書6章)と語り、律法学者たちは、「これ以上に神を冒涜している言葉はない」と憤った。
しかしイエスがいった神殿とは、「死んで3日後に蘇る」という復活のことを早くも預言していたのである。そしてイエスの十字架上の刑死の場面で、聖所と至聖所の幕がきって落とされたことには深い意味がある。(マタイによる福音書27:51)。
つまり、大祭司が年に一度はいることを許された至聖所に、誰もが入ることができることとなったのである。
このことは、マルティン・ルターの「万人祭司説」を思い起こさせるが、それよりも「イエスという完全ないけにえ」が捧げられたことにより、エルサレムの神殿は役割を終えたということを意味する。
パウロは信徒に「ただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現わしてくださったのです」(ヘブル人への手紙9章26)と書いている。
イエスの十字架と復活で、「いけにへ」が必要がないものとなった以上、エルサレム神殿は不要となったということだ。ただし、イエスを救世主とは認めないユダヤ教徒にとっては、エルサレムの神殿は依然として「信仰の拠点」であり続けている。
しかし、「新しい葡萄酒は、新しい皮袋にいれよ」(マタイ福音書9章17)というたとえにあるとおり、キリスト教徒にとっては、神殿に代わる「新しい皮袋」が用意される。
イエス自身、弟子たちに「わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます」。さらに「その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一人の牧者となるのです」と語っている(ヨハネの福音書10章)。
神と人との「新しい契約」においては、イエスの血によって贖われしものの共同体(教会)が、神殿に代わるものであり、イエスがかつて律法学者に「この神殿を三日で建て直す」と語ったのは、キリストの体である「教会」をさすのである。
イエスの十字架の死と復活による「新しい契約」のもと、「来たれ 主の門に 主の大庭へと」という言葉は、むしろ地上の神殿ではなく、「天のエルサレム」を指すようになる。
また、イエスは弟子たちに「私は羊の門である」(ヨハネ10:7)と語っていた。
そして「わたしは門である。私を通って入る者は救われ、また出入りし、牧草にありつくだろう」と語っている。
ところで旧約聖書の「イザヤ書」には、世界に散らされたユダヤ人が大路を通って、エルサレムに戻ってくる預言が書かれている。
この預言こそが、第二次世界大戦中に澎湃と起こった「シオニズム運動」の根拠となり、1948年パレスチナにおける「イスラエル国家」の実現をする。
しかし、地上のエルサレムは、そんな平穏さとは無縁で、しばしば戦闘さえもおきている。
「シオニズム」という言葉が、シオの山にエルサレムの存在することから、エルサレムにめざすことを意味する。
ソロモンが建設した神殿は、イスラム教徒に選挙され、イスラエルの民の「たましい」たる神殿は今なお復興されていない。しかしその神殿は、あくまでも「旧い契約」のシンボルでしかない。
旧約聖書の時代には、人々は「主の門」を通って神殿の「大庭」に至る。
新約聖書では、シオンとは地上にエルサレムだけでなく、むしろ天にあってやがて地上にくだって「神の国」として実現するもの。
「その心、シオンの大路にあるものは幸いである」(詩篇84篇)とは、前述の「大庭を慕う者」と符合している。
また、「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは、力から力へと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます」(詩篇84篇)とある。
そして、イザヤ書には「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る」(イザヤ書35章8‐10 )とある。
さて、イエスの周りには、日常的な悩みや苦しみをもった人々が集まり、具体的に「何をして欲しいか」と聞いた上で、イエスは「汝の信仰のようになれ」といい、さらには「あなたの信仰があなたを救った」とも語った。
パウロは信徒に、「感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(ピリピ人への手紙4章5)としたうえで、「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに称賛された」(ヘブル人への手紙紙11章)。
パウロは続けて、旧約聖書の信仰者が数多く紹介しているが、その土台はアブラハムの信仰に代表されることがわかる。アブラハムが「信仰の父」とも称されている所以である。
アブラハムは、メソポタミヤの最古の街ウルで暮らしていたが、神より親族や知人から離れて、パレスチナのカナンの地へ行けといわれ、いまだ見ぬ地に信仰だけをたよりに、向かっていった。
聖書の深遠さは、旧い契約が新しい契約の影としてあるということである。
その点で驚くべきことは、全く違う年代の違う記者が書いたことが、「整合性」を保っていることである。
イエスが語った「いっさい誓ってはならない。天を指して誓うな。そこは神の御座であるから。また地を指して誓うな。そこは神の足台であるから」(マタイの福音書5:34)という言葉がある。
この言葉は、天のものが地に下ってくることを、すでに暗示しているように思える。ちょうどモーセの時代、荒野に下った「マナ」のように。
また聖書は、我々の生きる時代より先に起きることを預言している。
天のエルサレムが下って、そこに「新しいエルサレム」が現れ、そに通じるシオンの大路が出来る。
つまり、神の国が地上に現れるということである(ヨハネ黙示録21章)。