江戸創業「歴史の料亭」

♪粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪 死んだ筈だよ お富さん 生きていたとは お釈迦様でも 知らぬ仏の お富さん エーサオー 玄治店♪
1954年に社会現象になるほど大ヒットしたのが、春日八郎が歌った「お富さん」の出だしである。
懐メロ番組で、たまに聞く「お富さん」は楽しげなお座敷小歌のようにも聞こえるが、その歌詞をよく聞けば尋常な内容ではない。
何らかの「故事」にちなんだ歌かと調べてみたら、「与話情浮名横櫛」(よわなさけ うきなの よこぐし)という歌舞伎「世話物」の名作を題材にしたもの。
歌舞伎でいう「世話物」とは、当時の"現代劇"で、庶民の生活を描いて、「時代物」と区別される。
江戸の大店の若旦那であった与三郎は木更津でお富に出会い、一目惚れする。
ところがお富は他の男の妾であり、情事は露見し与三郎は男の手下にめった斬りにされ海に投げ捨てられ、それを見て逃げ出したお富も手下に追われ入水を図る。
ところがなんと二人とも命をとりとめ、お富は別の大番頭の妾宅に引き取られ、与三郎は実家を勘当され無頼漢となり、三十四箇所の刃傷の痕を売りものにした「切られ与三」として名を馳せることとなる。
そして三年後、与三郎は新たな大旦那を強請ろうと、松の木が見える「黒塗りの塀」の家で「仇な姿の 洗い髪」のお富さんと出会う。
「久しぶりだな お富さん 今じゃ呼び名も 切られの与三よ これで一分じゃ お富さん エーサオー すまされめえ」。
歌舞伎では、与三郎の「しがねえ恋の情けが仇」の名セリフが出てくるが、「お富さん」の歌詞では「過ぎた昔を 恨むじゃないが 風も沁みるよ 傷の跡」と、この部分を実にうまくメロディにのせている。
そして、与三郎が「死んだはず」のお富と出会った場所こそが、「玄治店(げんやだな)」であった。
「玄治店」とは、徳川家の御典医・岡本玄冶に由来する地名である。
岡本玄冶は、3代将軍・家光が痘瘡を病んだ際に全快させて名を高め、幕府から拝領した土地に借家を建てて庶民に貸したことから一帯が「玄冶店」と呼ばれた。
現在の東京都中央区日本橋人形町あたりで、芝居関係者も多く住んでおり、人形町三丁目交差点には「玄治店由来碑」が建っている。
そして今も店の名に「玄治店」を冠した「玄治店 濱田家」が現存している。
「濱田家」の名は、花街として知られた現在の人形町周辺にあたる芳町の芸者置屋「濱田家」に始まる。
置屋としての「濱田家」は明治の末に店を閉め、三田五三郎が1912年(大正元年)に開業する際、貞奴から「濱田家」の名を譲り受けて料亭「濱田家」が誕生した。
初代三田五三郎は福井出身で、横浜「富貴楼」と飯田橋「富士見楼」で修行し、矢の倉「福井楼」で渋谷利紀太郎の後任として料理長に就いた。
「玄治店 濱田家」は、現在フジテレビのキャスターとして活躍されている「ミタパン」こと三田友梨佳の実家でもある。
1912年に創業で、令和4年の現在はなんと創業110年を迎えるミシュラン3つ星の老舗料亭である。
実は、「濱田家」は、我が福岡と少し繋がりがある。
「玄冶店 濱田家」の女将である母親の三田啓子は、1951年生まれで福岡市博多区出身、福岡県立福岡高校卒業後、青山学院大学に進学されている。
その後、日本航空に入社し、接客業を三年間経験し、学生時代の教授の紹介で、お見合いして「濱田家」後継者三田芳裕と結婚した。
三田友梨佳の父親の三田芳裕は、料亭「玄冶店 濱田家」代表取締役社長、「明治座」代表取締役社長、日本食生活文化財団理事長を兼任されている。
また、芸者置屋「濱田家」のNO1貞奴(さだやっこ)は総理大臣・伊藤博文など元勲からも贔屓にされた芸妓で、のちに日本初の女優川上貞奴として知られ、博多の大衆演劇座長・川上音二郎の妻となっいる。

♪夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂る あれに見えるは 茶摘ぢやないか♪
の歌い出しで知られる「茶摘(ちゃつみ)」は、1912年に発表された日本の童謡・唱歌で、京都の宇治田原村の「茶摘歌」を元に作られたとされる。
歌詞の二番にある「日本」は元々は「田原」だったという。つまり、「茶摘み」は、日本の茶摘みの風景を切り取った歌ということだ。
八十八夜は、立春の日から「八十八日目」であることからその名がついた。
いち早く芽吹いた茶葉を収穫してつくった新茶(一番茶)は、その後に摘まれる茶葉よりも栄養価やうまみ成分が多く含まれている。
昔の人は、成分を調べるまでもなく、経験的に「新茶」が優れていることを悟っていたのであろう。
もう1つは、「お米」と「お茶」の関係で、八十八夜はちょうど田に籾を蒔く大切な時期。そして、「八」は末広がりな姿をしていることから、縁起のいい数字とされている。
また、「八」「十」「八」の3つの字を組み合わせると「米」という字になるため、農業に携わる人びとに大切にされてきた。
というわけで、その時期に採れる「新茶」は、縁起がいいとされているのである。
「八十八夜といえば茶摘み」というイメージが定着し、八十八夜の数日後には、暦の上での夏の始まり「立夏」を迎える。
実は、静岡がお茶の産地となったのは、大政奉還によって徳川家が駿府すなわち静岡に来たことと関係している。
江戸から宇治の間を往復した「お茶壺道中」というものがあった。
それは、将軍家用の宇治茶を「取り寄せる」ためのもので、歌詞にでてくる「茶壺」には、宇治茶が収められていて、その茶壺を掲げて行列が行われたのである。
これが大名行列をもしのぐ規模で行われ、一行の総数は、500名以上にのぼったといわれている。
このお茶壺道中を始めたのは、三代将軍・家光であるが、家光は、お茶ごときに、なぜそんなモノモノしい行列をしつらえたのか。
徳川家の「士気高揚」および諸大名が徳川家に服従するかを試してやろうと、将軍家用の「茶壺に権威」をもたせて通行させたのだ。
5代将軍の綱吉の「生類哀れみの令」にも似た権力者の「身勝手さ」で生まれたものある。
これがすっかり制度化されてしてしまって、以後「お茶壺道中」は幕府の「権勢」を世に問う一大イベントになったのである。
さて、我々も馴染んだ♪~すいずい ずっころばし ごまみそ ずい~♪で始まるわらべ歌は、まったくの意味不明であるが、この歌の「情景」を書くと次のとうりである。
「ある農家でずいきのゴマミソあえを作っていたところ、表を将軍様に献上する"茶壷道中が"通りかかった。
驚いた家の人たちが急いで奥へ隠れる。静まりかえった家の納屋の方では、ネズミが米俵を食べる音。井戸端ではあわてた拍子にお茶わんを欠く音。息を殺している中でのいろいろな音。やがて茶壷道中は去って行く」。
そんなことで、毎年、新茶のシーズンにお茶壺の一行が通るときは、田植えや畑仕事も一切禁止させた。
「下にい」「下にい」の言葉が聞こえると、庶民は土下座。諸大名も駕籠から降りて、道を譲らなければならなかった。
それに気をよくしたのは、お茶壺道中の一行は、「権威」をカサに着て各地で「狼藉」も働いたとか。
その恐ろしさを歌ったのが、♪茶壺に追われて、戸ぴっしゃん♪である。
さて、「茶摘み」は当時から重労働でもあるが、宇治の旅館や料理屋は当然「宇治茶」と縁深い。
そしてこうした地に育った人々の心に、権威への反骨心が養われたとしても不思議ではない。
日本が軍国主義に向かいつつある時代の風潮にあって、それに抗い右翼に刺殺された国会議員に山本宣治という人物がいる。
山本宣治の実家は、宇治の歴史ある割烹旅館である。
山本は、「生めよ増やせよ」の国策の時代に、人口増による貧困を訴え産児制限を唱えたが、右翼によって暗殺された。
学者出身の国会議員・山本宣治の死は、弱冠39歳の時であった。
山本宣治は若い頃アメリカ大陸に渡って、当時の日本には無かった「自由と民主主義」の思想を身につけ、学者になってからも、ただ学生に学問を教えるだけで満足せず、貧しい労働者・農民にまじって世の中をよくする運動に身を投じた。
やがて労農党の代表として衆議院議員に当選し代議士になってからも、戦争へ戦争へと国民を引きずって行こうとしていた政府の政策に真っ向から反対し、軍国主義者から命を狙われた。
実は、人々が「山宣」と呼ぶほどに親しんでんだその人は、宇治川のほとりにある1894年創業の料理旅館「花やしき浮舟園」の若主人でもあったからだ。
今でも、宇治の町ではの命日である3月5日、善法の墓地で「山宣墓前祭」をひらき、彼の意志を受け継ぐことを誓い合う集いをもっている。
墓碑銘にある「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には大衆が支持しているから」は、官憲によって塗りつぶすまで建立を許されなかったものである。
しかし何度塗りつぶされても、いつのまにか誰かに彫りとられ、「山宣ひとり孤塁を守る」の墓碑銘が浮き出したという。

♪鎌倉よ何故 夢のような虹を遠ざける  誰の心も悲しみで 闇に溶けてゆく 砂にまみれた 夏の日は言葉もいらない  日陰茶屋では お互いに声をひそめてた♪
この歌は、サザンオールスターズ「鎌倉物語」の出だしであるが、歌詞の中にある「日影茶屋」は、三浦半島・葉山の料亭で、その創業は江戸時代まで遡る。
ちなみに、桑田圭祐夫人の原由子の実家は、横浜関内(かんない)駅前で、高級料理屋「天吉(てんきち)」を営んでいる。
「天吉」は、1872年創業で何度か移転をしながらも、横浜の人に愛されてきた。
現在の店主で、原由子の父親にあたるのが四代目。サザンの初期の楽曲「今宵あなたに」で、この店のことが歌われており、ファンにとっても聖地的存在となっている。
さて、「日蔭茶屋」の名を聞いて、サザンの「鎌倉物語」ではなく、無政府主義者・大杉栄の三角関係にからむ刃傷沙汰を思い浮かべる人もいるであろう。
三浦半島西部に位置する神奈川県葉山町は、人口3万人程の小さな町。皇室の「葉山御用邸」で知られるこの町は、夏は海水浴客で賑わい、狭い海岸道路は常に渋滞する。
国内指折りのセーリング・スポットがあり、石原裕次郎・北原三枝の主演の映画「狂った果実」(1956年)の舞台としてもよく知られている。
数年前、海岸道路沿いの森戸神社から海岸を見渡した時、「狂った果実」のモノクロームの映像がカラーで眼前に拡がっているように見え、昔ながらの風景がそのままそこにあるのかと感動を覚えた。
そして、ふと足元を見るとそこに「石原裕次郎記念碑」が立っているではないか。
この場所こそは、葉山海岸の映像を撮ったカメラが設置された場所に違いない。
磯辺より沖合に浮かぶ小さな島があり、そこに映画のハイライト場面となった「灯台」が建っていた。
自分より二まわりほど上の世代「太陽族」にとって懐かしさを覚える灯台ではなかろうか。
さて三浦半島といえば、その浦賀沖にペリーの黒船が来航したことはよく知られるところである。平成の時代に「黒船来襲」と喧伝されたのが「スターバックス」の日本上陸である。
「スターバックス」の日本進出が「黒船来襲」といわれた所以は、現在で世界65カ国に2万1000店舗以上を展開する巨大コーヒーチェーンであるからだ。
そして、「スターバックス」の本拠地はシアトル・マリナーズのあるシアトル。シアトルは、もともと捕鯨で栄えた町で、現在もホェール・ウオッチングが観光スポットとなっている。
「スターバックス」の名は、アメリカの作家メルヴィルの「白鯨(はくげい)」に登場する「白鯨」のコーヒー好きの一人の航海士が登場する。その航海士の名にちなんだもので、映画「白鯨」ではグレゴリー・ペックが鬼気迫る「船長役」を演じた。
スターバックスの日本進出の仕掛け人が、葉山に住んでいた兄弟である。ただ兄弟が出会った当時の「黒船」は、いまだ小さな船にすぎなかったのだが。
その兄弟こそは、あの映画「狂った果実」の若者達に描かれたように、10代の頃には石原裕次郎や石原慎太郎と遊んでいた地元のお金持ちの子供であった。
ところで、石原慎太郎は24歳で「太陽の季節」が芥川賞を受賞したが、戦後間もない1950年代に突然現れた豊かで自由な若者風俗は、世間を驚かせる。
そんな若者群像の一人が湘南の老舗スーパーマーケットを営む家に生まれた鈴木陸三である。
若い時に俳優の石原裕次郎とヨットレースなどに興じる仲であった。
鈴木が高校生1年生の16歳の頃、石原裕次郎氏が25歳、石原慎太郎氏が27歳ということになる。
鈴木家は、創業100年のスーパー「スズキヤ」を営む地元の名士で、陸三はその鈴木家の三男である。
その兄(次男)の雄二は、前述の「日蔭茶屋」に養子に入った角田雄二である。
鈴木陸三は1972年に、株式会社サザビー(現在はサザビーリーグと改称)を設立した。
設立当初は、古家具の輸入販売を目的としていたが、「ひとつ先のライフスタイル」をコンセプトに、サザビブランドで、バッグ・アクセサリー・生活雑貨・衣料品などの企画・販売、飲食店の運営などをグループで行っている。
兄の角田雄二も、学生時代は湘南ボーイとして地元では知られた存在だったが、前述の「日蔭茶屋」のオーナーの娘と結婚し、婿養子に入った。
社長の座につくと、料亭の経営を多角的なものにした。
さらに「日影茶屋」の経営から手を広げ、1981年からロサンゼルスでフランス料理店「チャヤ・ブラッセリー」を開業し、今はロサンゼルスの他に、サンフランシスコ、ベニスビーチ、ビバリーヒルズにも出店している。
アメリカ西海岸のベニスビーチでレストランを経営していた頃、1ブロック先にオープンしたコーヒーショップに興味を持ち、立ち寄ってみたのである。
「なんか、いいにおいがする」と、角田の商売人としての嗅覚を刺激したのは、コーヒーのいい香りだけではなかった。
その洗練された店舗デザインや、バリスタたちのフレンドリーな接客である。
角田が、このコーヒーショップ「スターバックス」と、自分たちサザビーが組めば、最高のチームになると直感した。そして、すぐに弟の鈴木隆三に連絡を取り、ロスに呼び寄せた。
それから、米スターバックス会長のハワード・シュルツ氏に「日本で経営したい」と手紙で訴え、1996年、日本1号店をオープンさせたのである。
角田雄二CEOの下、1996年8月2日東京・銀座の松屋通りに「スターバックス」の日本1号店がオープンした。
その発端となったのは1992年のこと。当時、米シアトルのローカルなコーヒー会社だったスターバックスは、シカゴやポートランドなど北米の他の都市に店舗を出し始めたところであった。
ようやく100店舗を超えた頃、カリフォルニア州の最初の進出先としてロサンゼルスを選び、代表的な観光スポットであるベニスビーチに同州1号店をオープンした。
その1号店と出会い、その価値を見出したのが、鈴木(角田)兄弟だった。
彼らが育った葉山は、時折「流れクジラ」で騒ぎがおきるらしい。アメリカ西海岸のシアトルと、どこか似た風土を感じさせる。