聖書の教え(神の義は福音に表れる)

新約聖書の言葉に、「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ」(第1コリント13章)とある。
人々一般が思うところの愛と、神からくる愛との違いをとてもよく表している。
人にも、自らを犠牲にしてもよいと思う陶酔させるような愛は、あるにはある。
一体何が違うのか。パウロが示した「愛」には、一言でいえば「福音の影」が宿っているといことだ。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである」(ローマ人への手紙3章)
若い頃、本屋で「GOOG NEWS」というタイトルの本を見つけ、手に取ってみると、意外にもそれは「新約聖書」であった。
後に、「GOOD NEWS」が「福音」を意味することを知ったが、なぜ新約聖書が「よいニュース」なのかは、わからなかった。
後に宗教改革におけるマルチンルター立場を「福音主義」ということを学んだが、ルターは、聖書の中でもイエスの生涯を四人の立場から記述した「福音書」(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)を重視した。
そこで「福音」とは、イエスの生涯から導き出せるということ。
つまり、「神の子イエス・キリストが、人類の罪を担って十字架に架けられ三日目に蘇られた」。
我々はそれを信じる信仰を基に、聖霊の力によってイエスと等しく復活にあづかるということだ。
それでは旧約聖書は「福音」とは無関係かというと、そこには福音の影がいたるところに見出される。
それは、イスラエル民族の歴史や律法を含みつつ、「救世主(メシア)出現」が預言されているからだ。
それは、アダムとイブの子である「カインとアベル」の物語にも表れている。
彼らは、アダムとイヴがエデンの園を追われた(失楽園)後に生まれた兄弟で、カインは農耕を行い、アベルは羊を放牧するようになった。
ある日2人は各々の収穫物をヤハウェに捧げる。カインは収穫物を、アベルは肥えた羊の初子を捧げたが、ヤハウェの神はアベルの供物に目を留めたが、カインの供物は目を留めなかった。
これを恨んだカインはその後、野原にアベルを誘い殺害する。
アベルの捧げものがなぜ神に受け入れられ、カインの捧げものがなぜうけいれられなかったのか、ということがしばしば議論されるが、少なくともアベルの捧げもの「ほふった子羊」には、イエス・キリストの十字架という「福音」の影が宿っている。

1987年で湾岸戦争で、日本の政府関係者に深く突き刺さった言葉があった。
「日本人はカネは出すが、血は流さない」。
日本は多国籍軍に130億ドル、当時のレートでおよそ1兆8千億円もの資金を拠出しながら人的貢献がなかったことから小切手外交と揶揄された。
世界で一番お金(戦費)を出したのに、クウェート政府がアメリカの新聞に出した感謝の広告に日本の名前がなかったことから「日本の外交の敗戦」だといった声も上がった。
根本的な世界観の違いなのか、日本には憲法的制約があるといっても、世界には通用しなかった。
そして実際、この言葉が日本の外交の大きな節目となった。
日本は戦争の翌年、自衛隊のPKO・国連平和維持活動への参加を可能にする「PKO協力法」を成立させ、カンボジア再建のためのPKOに自衛隊が参加、その後もアフリカや中東に自衛隊が積極的に派遣されるようになった。
さて、エマニュエル・カントが国際連合の提唱者の一人であることはあまりしられていない。
カントが考える「人格」とは、人間を自律的な自由意志の主体として捉え、道徳の中心にあるような人間を「人格」と名づけた。
「汝の人格や他のあらゆる人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的としてあつかい、けっして単に手段としてのみあつかわないように行為せよ」。
「~のために人間を使う」というように、何かしらの手段のために使われるのではなく、「人間のために~が努力する」というように、人間を究極の価値(目的)として 尊重されるべきだと考えた。
そして人が人を手段とはしない究極の「目的の王国」を築くためにには、世界的な平和機関を創ることを提唱したのである。
さて、ヘーゲルとともにドイツ観念論を代表するカントの哲学的業績といえば、一般にはベーコンの経験論とデカルトの合理論を融合した点であり、近代哲学を確立したとされる。
カントが、その「実践理性」のなかで特に重視したのが「行為の動機」で、「行為の結果」を重視するベンサムとは対照的である。
そして真の道徳的価値がある行為とは、「義務」として行う行為のことで、その義務とは誰かに命じられた義務ではなく、自らが立てた命法に従う義務のことである。
そして、宇宙の法則のように明白な道徳法則、「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」と述べた。
カントは道徳的行為につき、次の「二つの命法」があるとした。
定言命法「××することで○○になりたい」というような無条件の命令。
仮言命法「もし○○なら××しよう」というような条件付きの命令。
最近の個人的な体験だが、スーパーの駐車場で警察官が我が車の横にたっていた。長時間駐車がとがめられたのかと思って尋ねると、隣の老夫婦が我が車にぶつけたと警察をよんで車の所有者(私)が帰還するのを待っていたのだという。
ぶつけられた箇所の傷はほとんど目につかないほどで、こんな善良な人が今時いるのかと感心し、彼らこそ、「定言命法」に従った人だと思った。
カントは神を持ち出すことなく「道徳法則」を尊敬する気持ちだけを動機として、その命令に従うことを義務と名づけ、義務にもとづく行為だけに道徳的な価値(道徳性)があると考えたのである。
その一方で、傾向性(同情による親切な行為や習慣となっている行動など)に道徳的価値はないと考えた。
つまり、カントは行為の結果を斟酌することなく、「行為の動機」こそが大切だと考えたである。自らの命法に忠実であるとき、人々は真の自由である(自律的ある)と考えたのである。
それは、ちょうどパウロが「もし愛なくば~」というかたちで、行為の純度を重視したことを想起させる。
そうしたパウロのいう「愛」は、ギリシア語で「アガペー」で、「エロース」の愛とは区別される。
最近、注目の「行動経済学」の世界に、人は自身の社会的イメージが損なわれないような行動を探るとする学説がある。
他人の命を守ろうといった利他的なメッセージにふれると、人は「そう行動するのが社会規範に適合しているのだ」と認識し、規範から外れた人とみられないような行動を選ぶ。
つまり、自分の社会的イメージを守ることが最優先される。
この説の描く人間像が利己的なのか利他的なのかは非常に曖昧である。
「利他的な人とみなされたい」という思いに駆動されている場合、行動は利他的に見える反面、動機は利己的だからである。
例えば、行動経済的な考察をコロナに対する「ワクチン接種」にあてはめると、人より先にワクチンを受ける行為には、周囲から「利己的だ」とみなされるリスクがともなう。
しかし、もし「それは他人を救う利他的な行動だ」というメッセージが発せられていれば、人は自身の社会的イメージがそこなわれることを恐れずに、足を踏み出すことができる。
人間はそもそも利他的なのか利己的なのかといった「究極の問い」をどう考えるかとは別に、人の利他性が発現しすい状況を作り出すことは可能。
「利己的とみられたくない」という利己的動機であるにせよ、その特性を踏まえた政策というものがある。
カントや行動経済学が教えるところは、人の行為の動機をよくよく吟味すれば、それほど純度は高くはないということ。それを、いちいちコトアゲする必要もないことかもしれないが。

世界史の教科書には絶対に出てこない時代区分、それは「いけにえを求められる時代」から「いけにえが必要ない時代」に転じたこと。
キリスト教において、イエス・キリストが十字架により「完全ないけにえ」となって、「律法の時代」から「福音の時代」への転換とも言い換えられる。
さて、ヘブライ民族やアラブ民族の祖アブラハムに長年子が生まれず、高齢になってようやくイサクが生まれる。よほど嬉しかったのか、イサクは「笑う」という意味である。
そんなアブラハムに、にわかには信じがたい神の言葉が臨む。
「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」と。
アブラハムは神の支持どうりイサクを連れてモリヤの山を登るが、道すがらイサクは父アブラハムに問うた「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。
アブラハムは、「神みずから燔祭の小羊を備えてくださる」とのみ応えて一緒に行った。
彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から「アブラハムよ、アブラハムよ」と声がかかった。
そして「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」と語った。
この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。
アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
そして再び神の声がアブラハムを呼ぶ。「あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする」(創世記20章8)。
このイスラエルに対する預言以上に、「神みずから燔祭の小羊を備えてくださる」という「救世主(メシア到来)の預言」ともなり、「良き知らせ」(福音の影)がみられる。
また旧約聖書「創世記」の「カインとアベル」のエピソードは、「神の義」と「人の義」に対比することもできる。
カインもアベルも神に同じような捧げものをしたが、「神の目」にかなったアベルのささげものと、そうとは認められなかったカインのささげもの。
カインはそんな「神の義」にへりくだることをせず、自らの義を立てたがゆえに、アベルを殺してしまう。
パウロは、手紙の中で次のように述べている。
「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである」(ローマ人への手紙10章1~3)。
さてイエスの時代における、民衆はそれまでパリサイ人や律法学者の「正しさ」を恐れ、苦しめられていた。彼らは神の義ではなくおのれの義を立てていた。
イエスは、「自ら背負いきれない重荷」を貧者に担わせながら、みずからを「律法」を立派に守って神に仕えていると自認する律法学者を厳しく批難した(ルカ11章)。
イエスが気をつけよと語った「パリサイ人の種」、それは形式的な基準で人を貶める「人の義」である。
イエスの前に、片手の萎えた人が現われた。
人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか」と尋ねた。
そこで、イエスは言われた。「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」。
そしてその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、もう一方の手のように元どおり良くなった。
パリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。
イエスが「安息日の主」であるかのような発言をしたからだが、どこかアベルを殺したカインを思わせる。
パウロは次のように書いている。
「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった」(ローマ人への手紙3章19~29)。
この言葉こそは、「神の義は福音に表れる」ということを示している。
つまり、人間が律法ではなく、イエスの「贖い」によって義とされるということである。
とはいえ現代人の多くは十二弟子のひとりトマスが「イエスの復活」を疑ったように、「見えないものをどうして信じることができようか」(ヨハネ福音書20章)という思いを共有している。
イエスはトマスに、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」とも語っている。
またイエスは「見ないで信じる者は幸いである」とも語っている。
イエスは「最後の晩餐」で弟子たちに「あなたがたを決して孤児にはしない」と言われ、「私は父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせてくださるであろう」(ヨハネ14章16~20)という約束をした。
そしてその約束どうり、イエスの十字架の死後、50日目(ペンテコステの日)にして聖霊がくだり、エルサレムで初代教会が成立している。
現代においてなお、初代教会と等しく信者に聖霊が下ることこそが、最高の「良き知らせ」といえようか。