ショパン・コンクール

常々、不思議に思う国がある。それはポーランド。
世界史の中で明けの明星のごとく突然現れ、まるで星が点滅するように時々消えて、不死鳥のように蘇る。
最近、この国のことをもっと知りたいと思ったのは、昨年ショパンコンクールで第二位となった反田恭平氏のひく「ポロネーズ」に感動させられたからだ。
日本人がショパンが好きなのは、ショパンの曲が交響曲よりも「サロン向け」に作られていることにも関係する。
1984年、小林麻美のヒット曲「雨音はショパンのしらべ」を思い出すが、最近「ショパンコンクール」を舞台とした小説が話題となっていた。
中でも恩田睦の「蜂蜜と遠雷」は、行間から音楽が聞こえてくると評された。舞台は3年ごとに開催される芳ヶ江国際ピアノコンクール。
ここを制した者は世界最高峰のS国際ピアノコンクールで優勝するというジンクスがあり、第1次から3次予選そして本選を勝ち抜き優勝するのはいったい誰か。
そんなピアノコンクールをめぐる若者たちのピアノに対する思い、葛藤、友情、音楽愛を描いた小説である。
この作品は、直木賞と本屋大賞のダブル受賞したことでも話題となった。
実際の浜松国際ピアノコンクールがモデルだという。
また、一色まこと原作のアニメで「ピアノの森」は、中盤以降はショパンコンクールが舞台。演者についてはオリジナルだが、演奏曲そしてコンクールにまつわる国際情勢などかなりリアルに描かれているという。
天才ピアニスト役のピアノを担当したのが、かの反田恭平氏。
実際のショパンコンクールではピアノメーカーの争いも熾烈。調律師やメーカーにとってもショパンコンクールは特別な舞台となっている。
そんな「もう一つのショパンコンクール」というタイトルでピアノ調律師たちの闘いを描いて話題になったのが、2016年本屋大賞を受賞し映画化された「羊と鋼の森」(宮下奈都作)。
巽(たつみ)ピアノ調律所に勤務する蛭田敦士は、腕だけは超一流のピアノ調律師。どんなピアノでも蛭田の手にかかれば、再び美しい音色を奏でる。
ピアノは鍵盤を叩くと、内部にあるハンマーが弦を叩いて、音が鳴る。音色を決定する重要な要素は、ハンマーにかぶせる羊毛のフェルト。
ピアノの中に「鋼」を鳴らす「羊」がいるということ。そのイメージが、「森」のイメージと結びつてこの奇妙なタイトルとなった。

ポーランドといえば、「地動説」のコペルニクス、放射線研究のキューリー夫人、作曲家のショパン、ワレサ議長の「連帯」などが思い浮かぶ。
ショパンの代名詞というべき曲「ポロネーズ」は「ポーランド風」という意味だという。ヘレニズムがギリシアの英雄のヘレンから「ギリシア風」というのを思い浮かべる。
またポーランドには、「マズルカ」という4分の3拍子を基本とする特徴的なリズムを持つ民族舞踊、舞曲がある。
最近、新しい「原子」として「ニホニウム」が話題となったが、キューリー夫人が発見した原子には「ポロニウム」という名がついたのは、ポーランドの国名に由来している。
ショパンといい、キューリー夫人といい、ポーランドに対する「祖国愛」の強さを感じさせる。
では、彼らが愛したポーランドとはどのように出現し、今日に至るまで命脈を保つことができたのであろうか。
ポーランドではゲルマン民族が移動したあとにスラヴ人が住みつき、各部族はそれぞれの国家を築いた。
960年頃、ポラニエ族の族長ミェシュコ1世が部族を統一し、キリスト教に改宗してポーランド公国「ピャスト朝」を立ち上げた。
「ポラニエ」とはポランの複数形で平原の民という意味だが、領土が平地であった、まさにそのことが歴史を起伏に富んだものにしたのは皮肉だ。
ミェシュコの後を継いだボレスワフ1世が1025年、ローマ教皇からポーランド王に戴冠され、「ポーランド王国」が誕生した。首都はクラクフ。
1241年、突然バトゥ率いるモンゴル軍が侵攻し、クラクフ始め多くの都市が蹂躙された。これを「ワールシュタットの戦い」またはレグニツァの戦いといい、以後3度ののモンゴル侵攻でポーランドは壊滅した。
モンゴル軍が去った跡には荒れた国土が残り、その復興のためドイツ騎士団など多くの移民が入植してきた(東方殖民)。
14世紀になると国家の再統合への機運が高まり、カジミェシュ3世の時代にポーランドは発展しヨーロッパの大国になったが、カジミェシュ3世が没するとピャスト朝の血筋は途絶え、姉の子のハンガリー王ラヨシュ1世が王位を継いだ。
彼の娘がヤドヴィガ(Jadwiga)で1384年に10歳にしてポーランドの国王(女王)になった。
ヤドヴィガが12歳の時、リトアニア大公ヨガイラ(Jogaila、ポーランド名:ヤギェウォ)との結婚に伴い、ヨガイラはキリスト教に改宗し、「ポーランド・リトアニア王国」が誕生した。
ヨガイラはヴワディスワフ2世となり、ヤドヴィカとともにポーランドとリトアニアを支配した。これを「ヤギェウォ朝」という。
「ポーランド・リトアニア王国」は発展し、バルト海から黒海にまたがる大国となり、1558年からのリヴォニア戦争では、スウェーデンと連合してロシアを破ったことさえもある。
1587年ジグムント3世が即位し、ワルシャワに首都を移した。彼はスウェーデン王ヨハン3世の息子でスウェーデン王も兼ねた。
しかし、カトリック信者だったためプロテスタントのスウェーデン国民の反発を買いスウェーデン王位を追われた。
1611年ロシア・ポーランド戦争でモスクワを占領するも、正教徒のロシア人と宗教対立が起こり、ミハイル・ロマノフ率いるロシア軍に敗れる。
その後、新大陸からの銀の流入で起きた価格革命による「穀物輸出ブーム」でポーランドは豊かになり繁栄した。
クラクフを中心にルネサンス文化が開花し、天文学者コペルニクスや詩人ヤン・コハノフスキが活躍した時代である。
17世紀半ばになると穀物ブームは去り、ウクライナのコサックの反乱やスウェーデン、オスマン帝国との戦争によって国土は荒廃した。
そんな中、コサックの反乱鎮圧に活躍したポーランド軍司令官ソビエスキがヤン3世として国王に即位した。
彼は1683年のオスマン帝国によるウィーンを包囲に出陣しオスマン軍を破ってポーランドは名声を高めたが、ヤン3世没後は国内は分裂し暗黒時代に入った。
18世紀になると、衰えたポーランドに対してロシアを始めとする周辺諸国が侵略し始め、1772年、ロシア、プロイセン、オーストリアが「第1次ポーランド分割」を行い、国土の約4分の1が失われた。
続いて1793年に「第2次分割」を行い、1785年の第3次分割でポーランドは地図から消えた。
タデウシュ・コシチュシュコなどの愛国者たちは独立をめざして蜂起するも、いずれも鎮圧された。
1807年、ポーランドに進攻したナポレオンは、フランスの傀儡国家「ワルシャワ公国」を建国してポーランドを再建した。
しかし、ナポレオンの敗北後にワルシャワ公国は解体され、ロシア皇帝が国王を兼ねる「ポーランド王国」が作られた。
第一次世界大戦でドイツが敗れ、1918年にポーランドは独立したが、1939年9月、アドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツはポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が始まった。
同時にドイツと密約を結んだソ連が東部に侵攻し、ポーランドは再び地図から消えた。この占領時代に多くの人々が犠牲になり、ドイツ支配下での反ドイツ運動の犠牲者は数百万人を数えた。
終戦間近の1944年8月、ソ連軍の呼びかけでワルシャワ市民が蜂起した。
しかし、ソ連軍は裏切って進軍せず、20万以上のポーランド人がドイツ軍に殺された。そして、ワルシャワは徹底的に破壊された。
ところで「灰とダイヤモンド」などで映画史に名を刻むポーランドの巨匠といえば、アンジェイ・ワイダ監督である。
冷戦下、反体制運動にかかわるり、第2次大戦中の虐殺事件を描いた「カティンの森」(2007年)という作品もある。
この事件は、第二次世界大戦中にソビエト連邦のスモレンスク近郊の森で約2万2千人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部によって殺害された虐殺事件である。
また、ポーランドにいた多くのユダヤ人はアウシュビッツなどの強制収容所に収監され、数百万人が犠牲になった。
さてポーランドは第2次世界大戦後、ロンドン亡命政府と共産主義系解放委員会は挙国一致政府を作って独立した。
しかしソ連の手先である「統一労働者党(共産党)」が実権を握り、一党独裁の社会主義国家となったものの、ソ連に奪われた東方領土は戻らなかった。
1980年、食肉価格の値上げが発端となり、全国的な労働者のストライキが起こった。
「自主管理組合連帯」はワレサを指導者に選び民主化運動を始めた。
1989年に大統領制が復活し、6月には自由選挙が行われ連帯が勝利を収め、憲法が改正され、国名が「ポーランド共和国」に変更された。
これが、1989年11月「ベルリンの壁」崩壊の序曲であることは、この時誰も知る由もなかった。

フレデリック・ショパンは1810年にポーランドの首都ワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。父親は、ロレーヌ出身のフランス人。
ショパンは4歳でピアノを弾き始め、7歳にして初めてピアノの曲を作曲している。
その曲とは、ポーランドの村人たちの踊りの音楽「ポロネーズ」で、その後も何度か「ポロネーズ」を作曲する。
みるみるピアノの腕を上げたショパンは、デビューコンサートでも成功を収め、天才と讃えられた。
ショパンは20歳で、ウイーンに演奏旅行に出たが、直後にワルシャワで独立運動が起きた。
というのも、当時のポーランドは、プロシア・オーストリア・ロシアに分割されていたからである。
フランス革命は、ロベスピエールが共和政を樹立するが恐怖政治に陥り、再びブルボン王政復古。
その後、パリの7月革命が飛び火して市民が蜂起するも、翌年にはロシア軍に鎮圧される。
ショパンがパリに移住したのは、こうした混乱の最中であった。
「革命」とよばれるエチュード(練習曲)は、1831年、パリに行く途中のシュトゥットで接したニュース「ロシア軍、ワルシャワに侵入」に怒りを込めて書いた曲といわれる。
パリにでたショパンを好意的に受け入れたのはシューマンで、ショパンのエチュード(作品25)を次のように評している。
「これは練習曲というよりむしろ詩である。ここかしこでペダルが新たに踏まれるたびに、高い波頭が打揚がるといった風に思われた」。
実際、ショパンは「ピアノの詩人」とよばれ、マズルカやポロネーズは「国民学派」のはじまりとなる。
また、カフェを通じて文壇とも通じたショパンは女流作家のジョルジュ・サンドと交際、恋愛関係に陥る。
本名はオーロール・デュパンで1804年にパリで生まれた。ショパンより6歳年上で、ショパンの生涯の中で最も影響を与えた女性といってよい。
18歳の時にカジミール・デュドヴァン男爵と結婚し、モーリスとソランジュという二人の子供をもうけるものの、やがて別居。その後、オーロールは「ジョルジュ・サンド」という名前で小説を書き始める。
サンドは、男女関係や社会のあり方に対して、当時としては非常に革新的な考え方を持っており、今でいうフェミニストの先駆けであった。
さて、ショパンはポロネーズを生涯にわたって作曲し続けたが、その代表作として、ポロネーズ第6番が挙げられる。
男らしく勇ましい魅力を持つことから、ポロネーズ6番「英雄」という通称で呼ばれている。
この作品は、ショパンが亡くなる7年前の1842年、32歳のときに作曲された。
フランス中部の村ノアンにあるサンドの館で、作曲と体調の回復に集中したのち、ショパンはパリに戻った。
ショパンは自分のマンションで朝から夕方まで作曲とレッスンをして、終わったら馬車でサンドのマンションに行き、夕食をともにした。
こうして数年間、春・夏・秋はノアンで作曲に集中し、仕事もはかどり、男らしく勇ましい「英雄ポロネーズ」や、甘く抱かれるような「子守唄」が作曲されたのである。
1838年の冬、ショパンとサンドは、サンドの子供たちと共にマヨルカ島への逃避行へと出かける。
地中海の西にあるマヨルカ島は気候の温暖な美しい島で、健康を害していたショパンにはうってつけの療養地で、着いた当初は爽やかな空気と輝く太陽に満たされ幸せな日々を送った。
しかし、やがて島が雨季に入ると湿気と寒さのため、ショパンの病状は急激に悪化してしまう。
ショパンは苦しみながら作曲を続け、そんなショパンをサンドは献身的に介抱した。
1839年6月、マヨルカ島を出たショパンたちはノアンにあるサンドの館に落ち着き、以後1846年までショパンは夏をノアンで過ごすようになる。
バラードやノクターン、ピアノ・ソナタ第2番「葬送」や第3番など、数々の傑作がこの地で生み出された。
以後二人は人生のパートナーとなった感があり、その関係は10年近く続いた。
しかし、二人に別れがやってくる。二人が別れる原因となったのは、サンドの二人の子供たちの存在が大きく関係している。
兄のモーリスは父親のように振る舞うショパンを毛嫌いするようになり、一方、母親に愛されていないと感じていたソランジュはあからさまにショパンにすり寄るような態度をとったため、サンドとショパンとの間が次第にギクシャクしていくことになる。
そして1847年に、娘ソランジュと彫刻家オーギュスト・クレザンジェとの結婚をめぐって二人の破局は決定的なものとなる。
ところでショパンの祖国ポーランドは、近世に至り前後三回にわたって、その存在が世界地図上から消えている。
そして、ポーランドが独立国として再復帰するのは、いずれもヨーロッパあるいは世界史上の大変動が生じた直後であった。
1918年にポーランドは独立を宣言するが、国境をめぐっては敗戦国のドイツや、戦勝国ながら革命が起こったロシアと交渉あるいは戦闘が続いた。
東西の国境が確定したのは1922年の終りのこと。
ショパン・コンクールが始まったのは二度目の復活期である第二共和制の真っただ中のことである。
1925年、ショパン音楽院教授でワルシャワ音楽協会で活動していたイェジ・ジュラヴレフが、ショパンの作品のみを演奏するピアノコンクール開催を申し出た。
その時期は、第一次世界大戦の終了後も国内の不安定な政治状況と慢性的な不振が続いた情勢にあった。
しかしながら、真の独立は人々の気持ちを前向きにさせ、教育文化の発展に大いなる意欲が注ぎ込まれるようになった。
当時、ショパンは既にポーランドが輩出した世界的に最も有名な存在の一人であった。まさにこの時期は、彼の名を冠したコンクールを創出するまたとない好機だったのである。
ポーランドの民族音楽「ポロネーズ」と「マズルカ」をベースにしたショパンの名曲が、絶えず不安定な情勢にあったポーランド人の民族の絆となったことは、想像に難くはない。