何がプーチンに起こったか

1962年のアメリカ映画『何がジェーンに起ったか』は恐ろしい映画であった。妹のジェーンは一世を風靡するほどの天才子役だったが、大人になるとすっかり落ち目になり、酒を手放せないアル中となる。
一方、落ち着いた雰囲気の姉ブランチは年長になるにつれ、大女優となって活躍する。
そしてジェーンは、そんな姉を車でぶつけ下半身不随にさせてしまう。ブランチはベッドから離れることができなくなるが、2人の生活費はブランチがかつて稼いだもの。
ジェーンは自らの嗜虐性におぼれるかのように、身動きがきかない姉をいたぶりつつ世話をする。
最も印象的な場面は、自分が用意したネズミの死骸のランチを運び、絶叫するブランチにジェーンは高笑いをしたりする。
そしてジェーンの狂気は、ついに一線を超える。
二人の間にある事件が起き、隠されていた真相が明らかになる。
この映画の恐ろしさはジェーンが常軌を逸していく姿ばかりではない。ジェーンを狂気に陥らせた過去の出来事が、見る者の予想をまったく裏切るものだったからだ。
さて最近、中国による香港の非民主化、ミャンマーでの軍事クーデターなど、民衆が「専制的(軍事的)な力」にねじ伏せられる出来事を映像を通じて目にする。
しかし、民衆の力で巨大な権力をなぎ倒した例は過去にいくつもあった。
1986年、フイリピンのマルコス体制崩壊では、体制を保持すべき軍が、民衆の勢いに押され、ついには民衆の側についてマルコス夫妻は海外亡命を余儀なくされた。
旧「ソビエト連邦」といえば、ロシアやウクライナやなど「15の共和国」を束ねた連邦で、共産党の一党独裁に基づく中央集権体制であった。
そのソビエトの民主化という偉業をなしたソビエト連邦最後の最高指導者がゴルバチョフは、現在、モスクワ郊外の一軒家で一人静かに暮らしている。
ゴルバチョフは西欧に比較して生産の停滞などの面で追いつくために、「ペレストロイカ=改革」と、「グラスノスチ=情報公開」を旗印に改革を断行した。
しかし1986年4月26日ゴルバチョフにとっての「最大の悲劇」が起きる。
チェルノブイリ原発事故である。
結局、ゴルバチョフ書記長が強力に推進してきた「情報公開」とは、停滞したソ連の経済社会を活性化するためのインセンティブにすぎず、国内の事故から国民を守るものではなかった。
つ 事故直後の1986年5月1日、ソビエト各地で、市民によるメーデーのパレードが行われた。
ニュース番組では、事故が起きたチェルノブイリ原発があるウクライナ共和国のキエフも映し出され、あたかも、事故など何もなかったかの如く、ほかの街と同じように市民が行進していたのだ。
このことがゴルバチョフ政権の大きなイメージダウンとなったことは間違いない。
そして1991年8月19日、ゴルバチョフ連邦大統領が病気で職務執行不能となったという衝撃のニュースがあった。
それはゴルバチョフのの失脚を予想させるもので、実際に ゴルバチョフはこの日を境に政治の舞台から姿を消した。
これは、ソビエト共産党、軍、治安機関の「保守派」が、「民主化の流れ」を止めようとした事実上のクーデターであった。
また国営テレビやラジオはクーデター側が抑えていて、クーデターは、完全勝利であるかにみえた。
しかし、民主化を支持する市民が立ち向かった。
モスクワの「ロシア最高会議ビル」の周りに、特殊部隊が制圧に来るとの情報が流れる中、数万人の群衆が恐怖にひるむことなく集まっていた。人々は自由がなかった時代に戻りたくないという思いの一心であった。
ロシア共和国のエリツィン大統領のもとには19日朝の時点で、10人に満たない警護しかなく、武力の面では軍と治安機関を握る連邦のクーデター側が圧倒していた。
19日昼、ロシア最高会議ビルに軍の戦車が近づいてくるとエリツィン大統領は、側近の制止を振り切り、兵士たちと話をしたいと外に出て、戦車の上に乗っかって顔を出した兵士に話しかけたかと思うと、国民への「呼びかけ」を読み上げた。
「テレビもラジオも放送してくれない。合法的な連邦大統領が失脚させられた。これは右翼反動勢力による非合法なクーデターだ」。
国家非常事態委員会を「非合法」と決めつけたこの演説はクーデターに対する民衆の抵抗に法的基盤と勇気を与えた。
戦車の上に立つエリツィンは巨大なソビエト体制への「抵抗のシンボル」となった。
ほかの共和国の指導者が日和見を決め込む中でこの時のエリツィンの決断力は、確かに傑出していた。
当時は今とは異なり、インターネットも携帯もなかったものの、市民は様々な伝達手段を使い"情報封鎖"に穴をあけた。
特に、外国メディアの情報を受信する衛星放送。 また国営テレビでも記者がコメントバックとして抵抗する人々の映像を流した。
民間ラジオ、ファクシミリを使った民間通信社も現れ、20日夕方には数万人の人々が最高会議ビルの周囲に集まった。
国際社会もエリツィン大統領に呼応して「非常事態委員会」は認めないとの厳しい態度を明らかにした。
モスクワの抵抗が各地に広がる中、軍や治安部隊が命令を「拒否」する事態も相次ぎ、軟禁されていたゴルバチョフ大統領がモスクワに戻り、クーデターの参加者は逮捕され、わずか3日で失敗に終わった。
このことにより、エリツィンの存在感が急に増すことになる。
これ以後、ソ連邦大統領ゴルバチョフとロシアの大統領エリチィン、双方の"綱引き"が焦点となっていく。
1991年当時、ゴルバチョフの「改革(ペレストロイカ)」は行き詰まりを見せていたが、軍事クーデターが起きた時、ゴルバチョフは何をしていたのだろうか。
独立の動きを進めるバルト三国、一方最大の共和国ロシアも国家主権を宣言、エリツィンが大統領に就任し、ウクライナなどほかの共和国と連携を強めていた。
ゴルバチョフは「連邦を維持する」ためロシアやウクライナなど9つの共和国と、共和国権限を大幅に拡大した新たな「連邦条約・主権国家連邦条約」で合意した。
そして、その調印は8月20日に行われることになっていた。
その前日に、軍と治安機関のトップを含む連邦の保守派が「国家非常事態委員会」を組織して事実上のクーデターを起こしたのである。
彼らは、社会主義もソビエトという言葉もない「新連邦条約」の内容に激怒し、既存の「連邦」を守ろうとした。
クリミアの別荘に休養中だったゴルバチョフ大統領を病気として「軟禁」、19日秩序と国の統一の回復を訴えて「全権掌握」と「非常事態」をテレビで布告、モスクワには戦車部隊を導入した。
つまり、ソビエトを構成する民族共和国が、それぞれ独立する動きを強めたことを受けて、ゴルバチョフの改革は”行き過ぎ”だと、危機感を抱いた保守派が、彼を軟禁したののである。
しかし前述のとうり、ロシア共和国のエリツィン大統領をはじめ、数万人の市民が抵抗のために立ち上がり、クーデターの試みは3日間で失敗に終わった。
保守派や軍のの「クーデター未遂」事件は、想像以上に「民主化の弾み」をつけたといってよい。
ゴルバチョフは、解放されてモスクワの空港に降り立ったまず社会主義運動の中心だった「ソビエト共産党」が消滅した。
自然の流れで、ゴルバチョフ大統領が共産党書記長を辞任した。
組織的にクーデターに関与していたとしてソビエト共産党中央委員会に解散を命じた。
その一方で、新たな「連邦条約調印」の可能性は消え、各共和国の自立は一気に進み、8月24日ウクライナの最高会議が「独立宣言」を採択し、またそれまで自立に消極的だった中央アジア諸国も「主権宣言」を行った。
「ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国に加えて、カザフやウズベクなど8つの共和国も加えて、「CIS(独立国家共同体)」を創設する協定が調印された。
結局、 共産党の消滅と「連邦の形骸化」の中でゴルバチョフ大統領の権力基盤は無くなった。
ゴルバチョフは、その後も「新連邦条約」を生き返らせようと必死の努力を続けるが、最終的には12月に「ソビエト連邦」は崩壊する。

ソビエトが崩壊した当時、プーチン現大統領は当時レニングラード・今のサンクトペテルブルクで「民主派市長」の側近として働いていた。
そのことが、NATO担当のGB機関員プーチンに「エリツィン派」としての出世する道を開き、エリツィンは、自分の後継者にプーチンを指名する。
とはいえプーチンにとって皮肉なことは、かけがえのない「祖国ソビエト連邦」を喪失したという気持、それは連邦を守ろうとした「保守派」の心情と相通じるものがあったことだ。
特に90年代の混乱の中で自由よりも安定と秩序を求める国民の意識が強まった。その上に安定と秩序を優先するプーチン体制が築かれている。
ソ連の崩壊後に、旧ソ連は15の独立国となった。西側ではソ連を民主化したゴルバチョフの評価は高い。一方、ロシア国内ではソ連邦崩壊のきっかけを作ってしまった人物として評価は二分している。
今やプーチンは、「ソビエト連邦の崩壊は悲劇だった」といってはばからない。
ところで、国際合意や密約がいばしば反故(ほご)になることは歴史が示すところである。文書にしてもそうなら、口約束や覚書で、国民に公開されてもいないものなら、なおさらのことであろう。
例えば、香港返還後90年も、既存の自由体制を認めるといった「香港返還協定」の内容など守られると思う方がどうかしている。
東ドイツが民主化されて「統一ドイツ」ができる時、アメリカのベーカー国務長官がゴルバチョフ書記長と会談した。
その際、「NATOの東方へ拡大しない」ことを約束したという記録が残っている。
この東方が何を意味するか、双方に共通理解があったわけではない。
そもそもNATOはソ連を対象につくられた軍事同盟である。冷戦も終わり、ソ連崩壊後にもなぜ拡大する必要があるのだろうか。
ソ連解体の時の核兵器の多くがウクライナにあり、米英ソの仲介で、ウクライナの自治と領土保全は保障するという約束で、そのロシアへの移送がなされた。
これが、「ブタペスト合意」であるが、ロシアは2014年のクルミヤ併合とこのたびのウクライナ侵攻で自らそれを破ることになった。
しかし、ロシアはそれほど危険な国だったのだろうか。ロシアを危険にしたのは、むしろアメリカおよびNATO側にあるという面が否定できない。
それは、1989年11月9日の「ベルリンの壁」崩壊に遡る。プーチンはNATO担当のKGB職員であったので、その混乱を目の当たりにした。
ベルリンの壁崩壊から、東西ドイツの統一により、ドイツとNATOとの関係をどうするかが大きな問題として浮上した。
これに最初に言及したのは西ドイツのゲンシャー外相が演説で、東欧の変革とドイツ再統一がソ連の安全保障利益を損なうことがあってはならず、「NATOは東への領域拡大を排除すべきだ。すなわちソ連国境に近づくようにすべきではない」と述べた。
さらに、ベーカー米国務長官が1990年2月にゴルバチョフ・ソ連党書記長と会談した際、NATOを「東方へは1インチたりとも」拡大しないことを保証すると述べた。
ドイツ再統一は同年9月に東西ドイツ、米国、英国、仏、ソ連の6カ国外相が調印した「最終解決条約」で決まった。
この条約には外国軍つまりNATO軍は東ドイツ地域に配備されないことが合意され盛り込まれている。しかし、それ以外の国への不拡大の約束はない。
「東方不拡大」の約束を明示した条約はなく、あるのは当時交渉にあたった者の会談でのやり取りや演説での言及にすぎない。
ただソ連崩壊後、アメリカを含めNATO諸国の拡大を支持していなかった。
ロシアへの配慮もあったが、NATOの結束力が弱まるとか、加盟国が増えると政策決定過程が煩雑で長くなるといった理由が考えられる。
しかし、東欧諸国はその後もNATO加盟にこだわり、米国でもそれへの支持が広がった。そしてクリントン米大統領は、NATOが欧州安全保障の中核であり、どの国の加盟も排除しないし、どの国もそれを止める拒否権を持たないと述べ、これはそれまでとは明らかに違う姿勢を示した。
これに対しエリツィン大統領は、NATOの範囲をロシアとの国境まで広げることは重大な間違いだと強調した。
エリツィン大統領はクリントン大統領や当時のウォレン・クリストファー国務長官に裏切られたと思っていただろう。
こうした経緯が、エリツィンがKGBのNATO担当プーチンを後継者に選んだことにも関係するかもしれない。
ロシアは長年、NATOの東方拡大を自国の命運がかかった重大問題だと訴えてきた。なにしろバルト三国がNATO、そしてEUに加盟している。
今回のウクライナ侵攻のロシアの口実は、「ミンスク合意」が守られていないということであった。
「ミンスク合意」とは、ロシアのクリミア併合後の安定を取り戻す交渉で、ウクライナ東部ドンパス地方に強い「自治権」を認めることが、全欧安全保障機構を中心にまとめた。
ウクライナのゼレンスキー大統領がロシア寄りの「ミンスク合意」を無視しようとしたことが、プーチンの国境への軍隊配備を誘発したと言える。
しかし、その履行がなかなか困難なのは、ロシアの要求通りにすればウクライナが東西に割れる可能性をウクライナ政府は心配するからである。
ロシアがウクライナへ侵攻する姿勢を示すのは、隣国ウクライナがロシア敵視の軍事同盟であるNATOへの加盟を阻止するためである。
元々ウクライナとロシアは非常に近い関係にあり、ロシアには必要な国でもある。そこに、米国の核ミサイルが並ぶことだけは阻止したいのである。
それにしても、NATOの東方不拡大を公言してきたアメリカが、何故それを撤回したのか。
クリントンの時代、アメリカがIT革命により好景気を呈した。
東欧諸国は自由化する一方、市場は未成熟であり、アメリカの企業からみてビジネスチャンスの宝庫といって過言ではない。
ロシアの新興財閥を「オリガルヒ」というが、ウクライナに多いエネルギー「オリガルヒ」から、プーチン下「産軍複合」で富を得たオリガルヒもいる。
複雑すぎて理解が難しいが、ウクライナの「オレンジ革命」「マンダン革命」といった”色つき”の革命が東欧諸国であいついで起きている。
そうした民衆蜂起の背後に、クリントンと繋がりが深いハンガリー系投資ファンド「ソロス財団」の存在が噂されている。
資源大国ウクライナが独立した共和国である以上、アメリカがロシア主導からアメリカ主導の経済に組み込むために、わざわざウクライナに内部対立を引き起こすよう仕組んだのではないか。
「核兵器使用」まで言及したプーチンのウクライナ侵攻を正当化することはできないとしても、西側の執拗な分断政策が、冷静なプーチンを「狂わせた」という側面も、否定できないのではなかろうか。