ロシアの「二つの顔」

ロシアのプーチン大統領の中に、ウクライナがロシアから離れんとすることについて「憎悪」に近いものを感じる。一体その背景になにがあるのか。
それはロシアがもつ「二つの顔」の存在が、大きくかかわっている感じがする。
ウクライナが大国であることは、経済面での世界的影響の大きさからも、うかがい知ることができる。
ウクライナは、旧ソ連最大の穀倉地帯であり、鉄鉱石の大産地である。黒海への出口であるクリミア半島には軍港セバストポリをもつ。
ロシアがウクライナを容易に手放そうとしないのは、経済面からもよくわかる。
実は「ロシア語」そのものの中に、両者の関係を仄めかす言葉がある。
まず、ロシアの源流は9Cに現れた「ルーシ」(スラブ原義:船を漕ぐ人)が、これが「ロシア」の起源となっている。
当時においては「ルーシ」のひと言で済んだが、キエフ(キーウ)を中心とした東スラブ人の都市の連合国家が「キエフ・ルーシ」(キエフ公国)とよばれる。
次に両者の言語だが、ウクライナ語の文法はロシア語に、語彙はポーランド語に近い。
キエフ・ルーシで用いられた「古期ルーシ語」が、8~14世紀の間にウクライナ語やロシア語、ベラルーシ語に分岐したのである。
ただ源は同じなので基礎語彙や日常の挨拶などに共通点も多く、特に学ばなくても初歩的な会話は可能であるという。
現在のロシアの通貨t単位「ルーブル」の語源は「切り取られた」という意味で、13世紀頃よりキエフ・ルーシで使われた銀塊を「切り取って」使った単位が「ルーブル」であった。
またロシア料理として知られる「ボルシチ」も、もともとはウクライナ料理である。
さらに時々TVなどで「コサックの踊り」を見ることがあるが、もともとは「ウクライナ・コサック」の踊りからはじまった。
さて「ルーシ」の時代に遡ると、9世紀に北欧に起源をもつノルマン人の族長のひとりであるリューリックが艦隊を率いてバルト海を渡り、ロシアの先住民であるスラブ人を征服して「ノブゴロド国」を建てたことにはじまる。
リューリックの息子イーゴリは、ドニエプル川さらに南下し、現在のウクライナの首都キエフに都をおく。
これがキエフ大公国(キエフ・ルーシ)として発展するが、その過程でノルマン人達は徐々にスラブ人と混血し、スラブ語(ロシア語)を使用するようになった。
10世紀になるとキエフ大公ウラジミール1世は、マジャール人やブルガール人など東方からの遊牧民に対抗するためにビザンツ帝国と同盟を結び、ビザンツ皇帝の妹を妃に迎えた。
そしてギリシア正教会の宣教師を迎え入れてキリスト教に改宗した。
このことによってロシアはノルマン人およびキリスト教を通じて「西側」に連なることとなる。
ところこがそんなロシア人に、とんだ災難がふるかかる。13世紀になると、フビライの従兄のバトゥ率いるモンゴル騎馬軍団が、南ロシアに「キプチャク・ハン国」を建てる。
それによって「キエフ・ルーシ」は滅び、これ以降200年にわたるモンゴルの支配を受け、「タタールのくびき」と呼んでいる。
当時、ロシア人はモンゴル人のことを「タタール人」と呼んでいたためだ。
そしてキプチャクハン国の支配によりウクライナの西部は、ポーランドとリトアニアが分割された。
キプチャクハン国は、北のモスクワ大公国と共に、ポーランド王国、リトアニア大公国などを間接支配した。
これらの中で、ポーランドとリトアニアは、ローマ・カトリック教会の影響を受けつつ、ロシアとは文化的にも分化していく。
一方、ウクライナはポーランド王国やリトアニア大公国の支配下にあってカトリックの影響を強く受ける。
ウクライナの語源は「辺境」ということだが、それはポーランドやリトアニアから見て「辺境」という意味である。
そして1453年、いわば「ロシアの母」ともいうべき「ビザンツ帝国」が、イスラームの「オスマン帝国」に滅ぼされるという出来事が起きる。
その際に、最後のビザンツ皇帝の姪を日に迎えたモスクワ大公イヴァン3世が「皇帝(ツァーリ)」の称号を受け継ぎ、ビザンツ皇帝の「後継国家」としての「ロシア帝国」が誕生したことを意味する。
これによって、ロシアの中心がキエフからモスクワにシフトする。
前述のように、モンゴル王(キプチャク・ハン)は、服従したロシア人貴族を通じて間接統治を行ったが、そんなロシア貴族の代表だったモスクワ大公は、モンゴル風のファッションに身をつつみ、ハンの娘を妃に迎えている。
、ロシアの首都にあるクレムリン宮殿は、もともとモスクワ大公の居城であるが、「クレムリン」の語源は、モンゴル語の砦(とりで)を意味する「クリム」が語源である。
その後、モンゴルが衰退してキプチャクハン国から独立して「モスクワ大公国」を名乗るが、各地に残存するモンゴル系諸部族を従えるために、モスクワ大公イヴァン4世は「ハンの後継者」を称する。
その際に、正統なハンの直系子孫だったサイン・ピラトをクレムリンの玉座に座らせ、彼から再び譲位させるという演出を行っている。
つまりロシアは、「ビザンツ皇帝の後継者」としてのヨーロッパの顔と、「モンゴルのハンの後継者」としての「ユーラシア」の顔を持つに至ったのである。
ちなみに「ユーラシア」はユーロとアジアを融合した言葉。その意味でいうと、かつてユーラシア支配した「モンゴル帝国」の再来が「ロシア帝国」ということになる。

キプチャクハン国の進出によって、ウクライナの運命は大きく変わった。土地は荒廃し、無法者や逃亡農民が住み着いて、ポーランド王国やリトアニア大公国の支配を受ける。
16世紀の初期にはキプチャク・ハン国は衰退するものの、モンゴルの残党がクリミア半島にすみついて「クリミアハン国」を名乗り、ルーシ人の町や村を襲って「奴隷狩り」など行った。
しかしウクライナの自由と豊かさゆえに危険を顧みずに居残った者達は、タタールの奴隷狩りに備えて自衛をするために結束するようになる。
ウクライナやロシアの南部のステップ地帯に住み着いた者たちが出自を問わない自治的な武装集団となって、「コサック」とよばれるようになる。
コサックとは、トルコ語で「分捕り品で暮らす人」という意味である。
モスクワ大公国は南下してウクライナを支配する。コサックはモスクワ大公国の支配下にあって、ギリシア正教の擁護者を任じ、クルミアハン国で奴隷にされていた正教徒のルーシ人を解放することに熱心であった点で、タタールと異なっていた。
17世紀にウクライナの西部では、「ポーランド・リトアニア共和国」の支配下にあった。
ウクライナは、キエフ・ルーシの時代以来、ポーランドの本土とは異なる民族、宗教、言語が存在していたため、ポーランドによる同化政策が行われた。
現地の貴族を積極的にポーランド化し、ポーランドのカトリック教会とウクライナの正教会を合併することによって東方典礼カトリック教会の一派である「ウクライナ東方カトリック教会」を成立させて宗教問題を解決しようとした。
こうした中、ウクライナのコサックの将軍であるフダン・フメリニツキーが蜂起した。
「フメリニツキーの乱」は、ウクライナ民族解放戦争、コサック・ポーランド戦争とも呼ばれたが、1620年代から30年代における彼らの蜂起はポーランド政府軍と貴族軍によって鎮圧された。
16世紀初頭にウクライナ・コサックの興隆とともに出現した舞踊が「ホバーク」である。
その原型は13世紀半ばに古ウクライナ国家たるキエフ大公国を滅ぼしたモンゴル人によって持ち込まれた「東洋武術」だった。
この武術はウクライナの軍人階級によって受容されて簡素化され、銃の普及によって体を鍛える「曲芸的テクニック」へと変容していったのである。
ウクライナでコサック国家(へーチマン)が誕生すると、ウクライナ・コサックの舞踊文化はウクライナの各町村で流行し、「ホパーク」はコサックのみならずウクライナの町人や農民の間でも広く演奏されるようになった。
1935年にロンドンで行われた国際民族舞踊演奏会で発表され、最高賞を受賞したことから世界でしられるようになる。
18Cの初頭、バルト海の制海権をめぐり、スウェーデンとロシアが争った「北方戦争」が起きる。
ロシアは「バルト艦隊」を創設したピョートル大帝だが、 この戦争で、スウェーデンと結んだウクライナ・コサックの指揮者マゼッパがピョートル大帝と戦っている。
また女帝エカチエリーナ2世時代、女帝の寵臣の中に、グリゴリー・ポチョムキンがいた。
ノヴォロシアの総督となったポチョムキンは、国境を接するクリミアを併合する計画を立てた。
ロシアは1774年のオスマン帝国に対する戦いの勝利を皮切りに、ポムチョキンの下で長い歳月をかけ、トルコおよびクリミア住民と、クリミアのロシアへの無血併合について合意することができた。
そして1783年、ポチョムキンがクリミアハン国の首都バフチサライを攻撃し滅亡させる。
これはスラブ民族のタタールに対する最終的な勝利で、ロシアは全クリミア半島を領有することとなった。
これによってエカチェリーナは、「黒海艦隊」を創設する。
ところで、ポチョムキンは女帝をクリミアに案内した。宮廷全体がエカチェリーナと共に出かけ約3千人も参加する大イベントとなった。
女帝はクリミアで12日間過ごすが、その際に、川を下るエカチェリーナに対してポムチョキンは自分の統治の成果を示するため、映画のセットのような街を作った。
これが「ポムチョキン村」とよばれ、自分の功績をアピールする際のたとえとなっている。
この旅の後、ポチョムキンはクリミアに住むギリシア人が妻と一緒にトルコ人と勇敢に戦った様子をエカチェリーナに語った。
エカチェリーナが疑念を示すと、ポチョムキンは女帝に女性の勇気の証を見せると約束し、女性戦士100人から成る中隊の創設を命じた。
オスマン帝国の弾圧を逃れたギリシア人で構成される部隊で、その兵士の妻と娘がいわば「アマゾネス中隊」を創ったわけである。
中隊長は、ロシア帝国最初の19歳の女性将校である。
この「アマゾネス中隊」は、エカチエリーナのクリミアの旅にお供し、旅の後で解散された。この中隊は結局、いかなる戦いにも参加しなかった。
また1917年のロシア革命時でも、ウクライナはロシアから離反する動きをする。
ウクライナで独立や自治の機運が高まり、ロシアでボリシェビキ(共産党)が政権を握ると、学生中心とした「ウクライナ人民共和国」(中央ラーダ)の独立が宣言された。
しかし、ロシアの赤軍が侵攻し、学生主体のウクライナ側は敗北、キエフは占領されて鎮圧された。
また第二次世界大戦でもウクライナはロシアから独立した動きをする。
実は、第二次世界大戦でドイツ軍がウクライナに侵攻した時、ウクライナ人はこれを「解放軍」として迎えたのである。
ソ連共産党の支配下で餓死されるより、ナチスの人種差別の方がよほどましだと考えたのである。
ロシアは、ナチスと戦った大祖国戦争では「ファシズムから世界を救った戦いだ」と喧伝する。
戦場となったウクライナも犠牲を払ったが、ソ連からの独立を目指すウクライナ民族主義者がナチスに協力したため、ロシアはこの史実をもって、現在のウクライナの民族主義者を「ネオナチ」「ファシスト」と批判するのである。
1991年、ソ連解体にともなって、「ウクライナ共和国」が成立する。
しかし、ソ連共産党出身の独裁的な「親露政権」と、ロシアに対抗してEUやNATOへの加盟を求める「親欧米派」との対立が続いた。
その両者を二分するのが、かつてリューリックがノブゴロド国を創った際に下ったドニエプル川である。
リューリックの息子イーゴリがさらにドニエプル川を下ってみつけたキエウの丘には、「キエフ」の名前の由来となった一族の像がある。
船の舳(へさき)で両手を広げる女性の像がたっていて、彼女は三兄弟の下の妹であるという。
映画「タイタニック」のラストシーンそのままである。
タイタニックは、ギリシア神話の「タイタン」を語源としている。
そういえば、ロシアとイギリスはノルマン人が建国したという点で共通している。
9C頃にイギリスに侵入したノルマン人は「デーン人」とよばれるが、彼らこそが世界で始めてイギリスにおいて「議会制民主主義」をつくりあげた。
一方、東スラブ人達は20Cに世界初の「社会主義国家」ソ連をつくりあげる。
アメリカとの冷戦の時代をへて、ソ連はゴルバチョフ書記長の民主化路線により、ソ連は解体され、ロシア共和国を中心に西側寄りの国づくりが行われてきた。
そしてロシアは今でも制度上は、民主主義国家である。憲法には三権分立も明記されているし、国を率いる大統領や、立法を担う下院議員は選挙で選ばれる。
しかしプーチンは、ゴルバチョフとは違いロシアを東向き(ユーラシア向き)の国にしようとした。
それはかつてユーラシアを支配したモンゴル帝国のイメージとも重なる。
そのため、プーチンが政権について20年あまりの間に、ロシアの民主主義はすっかり形骸化し、メディアへの規制を強めてきた。
プーチンが、西側に背を向け東向きに顔を向けた背景には、自らがKGBのメンバーだった旧ソ連崩壊後、ロシアが冷戦の「敗者」として扱われてきたという「屈辱感」がある。
また、かつて社会主義国家の宗主はソ連であった。
しかし、社会主義国家の中心は今や中国であり、その経済的・および軍事的な力の台頭は、アメリカをしのぐほどの勢いである。
ロシアの外交は「西欧志向」と「ユーラシア志向」がある。
前者はゴルバチョフやエリツィン、後者はスターリンやプーチンで、これはもはや「情念」の問題、あるいは「血の問題」といえるかもしれない。
皇帝(あるいは大汗)の意識で国を統治するプーチンからすれば、「ソ連」時代からすれば力がそがれたロシアが、西側の末端に加わるのは、「恥辱」以外のなにものではないのではなかろうか。
そのうえ、イラク戦争やアフガニスタン戦争における米国やNATOの行動は、容認しがたい。
旧ソ連陣営のポーランドやバルト三国が次々にNATOに加盟していき、裏切られたと感じたプーチンは、ついに「西側のパートナー」となることを拒絶したのではなかろうか。
その前兆は、ロシアのオリンピック出場選手の相次ぐ国際ルール違反(ドーピング違反)にすでに表れていた気もする。
ウクライナやベラルーシは、歴史的経緯からしてもロシアに近い存在であることがかる。
しかしウクライナでは大統領選の結果をめぐる民主化運動で親ロシア政権が倒れた2004年のオレンジ革命、そして14年のクルミア併合に帰結したマイダン革命がおきた。これは、ロシア側から見るとアメリカの策動に見えるにちがいない。
プーチンからすれば「西の毒りんご」を食べてロシアから離反しようとするウクライナを到底許すことができないのであろう。

いわば自身を正当化する「プロパガンダ国家」になってしまった。
さて、ロシアの外交政策は、旧ソ連時代から「西欧志向」と「ユーラシア志向」という二つの軸の間で揺れ動いてきた。
前者は欧米に対して、後者は閉鎖的で対立も辞さない。
自分たちは「東ローマ帝国」(ビザンツ帝国)から文化と宗教の伝統を受け継いだ、欧米とは異なる独自の文化をもつ文明国なのだという自負がある。
また、プーチン大統領に忠誠を誓い、巨万の富で政権で政権を支えるロシアの富豪たち「オリガルヒ」は、だが、オリガルヒは、「少数者が権力を握る体制」を意味するギリシア語に由来する。
1905年,ロシア海軍で発生した反乱。日本海海戦11ヵ月後に、ロシア黒海艦隊の新鋭戦艦『ポチョムキン』(乗員約 750人)において腐肉のスープに抗議したボルシェビキの水兵バクレンチュークを将校が射殺したため,水兵が一斉蜂起し、その将校と艦長を射殺。
ほかの将校を監禁し,水兵マトゥシェンコを長とする委員会が艦の指揮権を握った。艦は赤旗を掲げてゼネラル・ストライキの行なわれていたオデッサに入港。しかし反乱側に有能な指導者と明確な方針がなかったため動揺がつのり官憲に降伏した。
『ポチョムキン』は燃料,食料が欠乏してルーマニアのコンスタンツァに寄港。ルーマニアはロシア側からの反乱分子引き渡し要求を拒否し,多くの水兵はルーマニアや南北アメリカに逃れたが,ロシアに帰った数十人は死刑あるいは重労働の刑に処された。
これはロシアの軍隊における最初の集団反乱で、タイトル「戦艦ポチョムキン」名で映画化された。