ロシアンレストラン

2021年5月、福岡市・天神の一角に店舗を構え、長く人々に愛されてきたロシア料理店「ツンドラ」が、60年の歴史に幕を下ろした。
2019年、創業者の母親初美さんが亡くなり、後継者の不在で先行きが見通せなくなったところに、新型コロナウイルスの感染拡大が追い打ちをかけた。
社長の徳永哲宥(てつひろ)氏は「断腸の思いだが限界だった」と語った。
また、街も大きく変貌した。昔は路面電車が通っていて大名小学校もあった。しかし8年前に141年の歴史を閉じ、跡地では「天神ビッグバン」によるビル建設が進んでいる。
ツンドラの開店は1960年12月。初美さんが東京のレストランで出会ったロシア料理に感動し、1カ月の修業の後にその味を福岡にもち帰った。
初代の店は繁華街・天神のビルの地下でオープンした。当時、高校生だった哲宥氏が開いた地理の教科書の「ツンドラ地帯」の文字が母子の目に留まり、そのまま店の名前にしたという。
1973年に今の場所に移転し、当時ロシア料理店はまだめずらしく、瞬く間に人気店になった。
一番人気はボルシチ。本場では根菜のビーツでスープが赤色になるが、開店当初はビーツは入手困難で、トマトベースになった。
その味こそが「ツンドラの味」として愛されてきた。
ロシア料理の代表といってよいボルシチは、ウクライナ伝承の家庭料理で、レシピは町の数ほどあるが、要するに牛肉と野菜のスープ。
主な種類としてウクライナ風、モスクワ風、ポーランド風、コープ風などがあり、ビーツという野菜やトマトなどを使用しスープに赤みを出している。
ところで、「ツンドラ」の創業者である徳永初美さんが東京で出会ったロシア料理を出したレストランとはどこだろううか。
その可能性のひとつとして、現在もJR新宿駅東口すぐ近くで営業中の「新宿中村屋」を思い浮かべる。
新宿中村屋は、紀伊国屋書店の向かい、新宿歩行者天国の起点にも位置して、我々にとっても「お中元」「お歳暮」で馴染みの店だが、この「新宿中村屋」こそは、日本人にもっとも早くボルシチを提供したレストランなのだ。
「中村屋」の創業の地は、東京の本郷であるが、単なる料理の提供をするだけの店ではなかった。
ヨーロッパの「サロン」といえば「女主人、オーナー」が登場しするが、中村屋の女主人・相馬黒光(そうまこっこう)も、時代の先端を行くように、中村屋にあってそうした役割を務めた。
明治の終わりから大正・昭和にかけて、中村屋を舞台に日本の近代芸術・文化に影響を与えた多くの人々がいる。
今日になって振り返ると、それは大正期を代表する大きな芸術の流れであり、「中村屋サロン」は美術史や演劇史に、その名前を残している。
特に中村屋の創業者である相馬愛蔵の故郷である長野県・安曇野出身の画家たち(萩原守衛や中村彝)。さらにはインドやロシアから国を追われた革命家や亡命家達を匿っていた点でも突出した存在で、現在の「新宿中村屋」のビルには、まるで歴史博物館のように、彼らとの物語をしめす写真が展示されている。
また、中村屋のメニューの中にも彼らとの出会いが反映されている。
中村屋では、1927年喫茶部(レストラン)開設当時、「純印度式カリー」と「ボルシチ」はは2大メニューとして一緒に発売された。
新宿中村屋は、本格インドカレー「発祥の店」としても有名であるが、店員の制服としてはロシア風の「ルバシカ」が採用されていることにも注目したい。
「本格インドカレー」を伝えたのが、インドから逃れたラス・ビハリ・ボーズであり、「中村屋のボーズ」の名で知られる存在である。
ボーズはインドを植民地支配しようというイギリスに武力で反抗し、官憲に追われて日本に逃れてきた。
日英同盟の関係から危険人物であったボーズを、中村屋では自らの危険を顧みずに匿う。
そればかりか、ボーズは相馬愛蔵・黒光夫妻の娘と結婚している。
また「ボルシチ」の料理法を相馬夫妻に教えてくれたのが、ロシアの反体制詩人のワシリー・エロシェンコであった。
エロシェンコは、ウクライナ生まれであるが、麻疹により、親が宗教上の理由から病院に行かせなかったことが原因で、4歳で失明してしまった。
9歳の時にモスクワに行き盲学校に入り、15歳のころからエスペラント語を学んでエスペランティストになったと推定される。
1912年にはイギリスの盲学校へ最初の旅をした。その後、世界各地をエスペラント協会の助けを借りて旅した。
両親は、「この子には好きなことをさせておくよりほかない」と思ったらしく、あっさり承諾したという。
彼は盲目でありながら優れた詩人で、日本では視覚障害者がマッサージ(あんま)により自立していると知り、1914年日本の盲学校で学ぶために来日する。
そして、秋田雨雀という人物と偶然出会い、中村屋と接点をもった。
秋田雨雀(うじゃく/本名 秋田徳三)は、現在の青森県黒石市に出身、父は産科医であったが眼疾のため失明しており、子供の頃から父の俳句の代書をしたり、医学書や科学書を読んだりした。
早稲田大学卒業後、作家生活を送ったり「新劇運動」に参加したりした秋田は、1915年の初春、東京目白の鬼子母神の森を散策していた盲目の詩人 ワシリー・エロシェンコに出会う。
苦しい劇団運営のため絶望的になっていた秋田は、盲目でありながらエスペラント運動を熱心に行っているエロシェンコのひたむきな姿勢に打たれ、深い交流を持つようになる。秋田33歳、エロシェンコ26歳の時であった。
そして、この年9月に秋田は新聞記者の神近市子と共に、エロシェンコと共に東京大学に向った。学生に請われてエロシェンコの講演をするためであった。
エスペラント語の講演を秋田が通訳し、講演後、当時中村屋があった東大近くの本郷の店先で たまたま相馬黒光が3人を見かけ、店に呼び込んだ。
こんな偶然が、相馬黒光とエロシェンコの出会いである。当時、黒光はロシア文学に傾倒しており、本国からの送金が途絶えほそぼそと暮らしていたエロシェンコを自宅に住まわせ、彼からロシア語を習うことにしたのである。
秋田とエロシェンコが出会い同様に、黒光とエロシェンコの出会いも相互に啓発的なものとなる。
また、中村屋が提供する料理や店員の衣服にも影響を与えることになる。そしてエロシェンコは、恩義のある中村屋に母国仕込みの「ボルシチ」のレシピを教え、ボルシチがレストランの人気メニューとして定着していった。
しかし1921年5月1日メーデーと日本の社会主義者の会合への参加を理由に逮捕され、国外追放となり、敦賀からウラジオストクに送られた。
そこからハルビン、上海、北京と移動し、魯迅などの知己を得て、1922年には北京大学でロシア文学について講演したり女子師範学校で講演したりした。
その後、モスクワに行き8年ぶりに家族と再会する。そこで、モスクワ盲学校などで教育関係の仕事をし、晩年は故郷ウクライナに帰り、1952年に62歳で亡くなった。
こうしたエロシェンコとの出会いに刺激を受けた相馬黒光は、文学や演劇の世界でも支援活動を行い、千代田区平河町にあった相馬家の自宅を解放し「朗読会」の会場を設たばかりか、自宅の二階に「劇場」まで作ってしまった。
建物が土蔵だったので「土蔵劇場」と命名し、劇団名は「先駆座」とした。
ここで、秋田雨雀の作品が上演され、1923年4月の申し込み順で一番が島崎藤村、二番が有島武郎と名だたる名前が連なり、女優の松井須磨子や水谷八重子も集った。
さて、日本とロシアとの文化的接点といえば、東京・帝国劇場での芸術座によるトルストイ原作「復活」の上演を抜きに語ることはできない。
「復活」はロシアの文豪トルストイが1899年に発表した小説。これを原作に芸術座の主宰者・島村抱月が作った劇の中で、主人公カチューシャ役の女優・松井須磨子が歌うのが「カチューシャの唄」である。
松井須磨子扮する主人公カチューシャが歌った劇中歌がそれ以来、大流行している。
作曲者は東京音楽学校卒業生の中山晋平。「西洋音楽と日本の小唄の間を狙って欲しい」との島村の注文に応じて作った。
♪カチューシャかわいや 別れのつらさ せめて淡雪 とけぬ間と  神にねがいを ララかけましょか♪。
相馬黒光は大正初期から早稲田大学教授 島村抱月主催の「藝術座」のメンバーと親交を結んでいた。
優れたロシア文学に接し、単調で勧善懲悪型から脱しきれない日本の演劇に失望していた黒光が、「藝術座」に興味を示したことは、自然のなりゆきであったといえる。
そのメンバーの中でも、夫・愛蔵の故郷である長野県の北信出身の松井須磨子は特にひいきの女優であった。
松井須磨子(本名 小林正子)は、現在の長野県松代町生まれであるが、幼少期を養子先の長野県上田で過ごし、姉の嫁ぎ先であった東京・麻布の風月堂に身を寄せ、裁縫の学校に通った。
一度は結婚に失敗するが、1908年に俳優養成所で教鞭をとる前澤誠助と再婚する。
夫の勧めで文藝協会演劇研究所に通い、次第に演劇の稽古にのめりこむようになり、熱中のあまり家のことさえしなったた正子に対し前澤は愛想を尽かす。
夫と別れた正子は、以前にも増して熱心に芝居に取り組み、“松井須磨子”の芸名をもらう。
そしてロシア劇「人形の家」で“ノラ”を演じた須磨子は、敬愛する舞台監督の島村抱月に認められ、意志を同じくする2人は結ばれ、女優としての階段を上り始める。
一方、島村は彼女との不貞関係を非難され、文藝協会を脱退。新しい劇団「藝術座」を1913年に旗上げ、次々に興行を成功させる。
中でもトルストイ作「復活」の上演では、須磨子が歌った「カチューシャの歌」が大ヒットし、須磨子は大女優としての地位を確立する。
しかし、世界中で大流行したスペイン風邪(インフルエンザ)で愛する島村を失い、翌年正月、「カルメン」を演じていた須磨子は島村の後を追った。
いまだ32歳。あの帝劇の歌声からまだ5年も経っていなかった。須磨子の当たり役はいま、「カチューシャ」と呼ばれるヘアバンドにその名をとどめている。

新宿にある「スンガリー」はロシア料理の店で、シンガーソングライターの加藤登紀子の両親が創業した店である。
フィギュアスケーターのエフゲニー・プルシェンコが東京でもっとも気に入っているロシア料理店なのだそうだ。
もともとレストランは1957年に新橋でオープンしたが、その後京橋に移転し、1960年に現在の新宿に移っている。
加藤の両親が結婚してハルビンという町に行って、その時にロシア人と一緒に暮らしていた。
「スンガリー」というのはハルビンの「松花江」の名前で、ロシア料理店だが、スンガリーという夫妻の故郷の名前がついている。
加藤の父がどうしてもロシアの文化が大好きで、このレストランを作ったという。加藤は中学の頃にはいつもここに来ていて、ロシア語で話しかけてくれるコックと、一緒に遊んでいたという。
現在、レストランは加藤の姪の暁子さんが経営しており、東京にいくつもの店舗を構えている。
加藤の父親にとって、ロシアとの友好親善はとても大切な人生の事業だった。
元々自分も歌う人だったけれど、「スンガリー」をやりながら音楽のビジネスもしていた。
戦後は、ロシア料理店協会というものに参加して、何度も何度もソ連に旅行に行って、ソ連との交流も一生懸命に行った。
加藤によれば、歌舞伎をロシアで広めたことは、父親のもっとも大きな功績の一つだったとか。
加藤は、こうした父親のロシア文化への愛を受け継ぎ、1968年、24歳の時に初めてソ連でツアーを行った。
その時、バルト三国からジョージア(グルジア)まで、7都市にコンサートで行った。
バルト三国のタリン、リガ、ビリニュス、それから、今のサンクト、その当時のレニングラード、ミンスク、モスクワ、そして最後に今のジョージアの町スフミでコンサートをやった。
そして1982年にラトビアの歌謡曲「ダーヴァーヤ・マーリニャ」と出会う。
原曲の作曲はライモンズ・パウルス、作詞はレオンス・ブリアディスによるもので、その歌詞は大国にその運命を翻弄されてきたラトビアの苦難を暗示するものだった。
アーラ・プガチョワの歌唱で知られるロシア語版の作詞は、アンドレイ・ヴォズネセンスキー(ロシア語版)によるもので、多くのテレビ番組やラジオ番組で取り上げられ、ソビエト連邦の崩壊まで長きにわたって絶大な人気を博した。
内容はグルジア(現:ジョージア)の画家ニコ・ピロスマニがマルガリータという名の女優に恋したという逸話に基づいている。
ラトビアの作曲家が書いた曲に、ロシアのその歌詞の内容はラトビア版と異なり、ある詩人がグルジアの画家ピロスマニのロマンスを元に詞をつけ、モスクワ生まれの美人歌手が歌うというものだった。
2007年にはロシアの文化テレビ局が放送したピロスマニについてのドキュメンタリー番組でパリでの個展の際の出来事が紹介された。
そしてこのバージョンを加藤登紀子が訳詞を行い、1987年に「百万本のバラ」というタイトルのシングル盤として発表された。
加藤によると、ロシアのポピュラーソングがこんなに日本人の皆さんに愛されるとは夢にも思っていなかった。なによりも自分が大好きだったのでずっと歌っていたら、その強い気持ちが伝わってきて、90年ぐらいから大ヒット曲になっていった。40年近く経っても親しまれているのはこの曲の秘めた力以外のなにものでもないと。
加藤は、ロシアの有名な女性歌手アーラ・プガチョワのレコードで、初めてこの曲を聞き、その後、プガチョワを東京に招いた。
1987年、2人は一緒に東京の中心部にある日比谷公園の大きなステージでこの歌をうたった。
このときから、「百万本のバラ」は日本人の心を魅了し、「日本の歌」になったという。
2000年、加藤は返礼訪問としてモスクワに行き、プガチョワとともに2カ国語でこの歌をうたい、大きな成功を収めた。
加藤は現在の心境を、レストランでいえば、仕込みが終わっていつでも料理を出せますよという状態。
世界中のものが自分の中に体験としてあり、楽しめる材料をいっぱい自分の中で準備してきた。
歌手として今できることを無駄にすることなく、コンサートもずっと続けたいという。