南の島でインスパイア

2022年4月からスタートしたNHKの連続テレビ小説が『ちむどんどん』。
沖縄に生まれ育ったヒロインと兄妹たち家族の50年の歩みを見つめる家族とふるさとの物語である。
タイトルの「ちむどんどん」とは、沖縄方言で「胸がワクワクする気持ち」を表していて、ヒロインがさまざまな胸の高まりを経て成長していく姿が描かれた。
「ちむどんどん」は、沖縄では若者たちまで知っている言葉で、前向きで肯定感に満ちた、わくわく感、という意味合いがある。
「ちむ」は「肝」という言葉がなまった言葉。「肝」とは、心情や気性などを指す。
そのため、「ちむ」の後ろに「どんどん」を付けると、胸が高鳴る様子を指し、胸がドキドキする、心が落ち着かない、という意味になる。
さて、福岡県は全国的にもめずらしく西海岸(福岡市周辺)と東海岸(京都(みやこ)・行橋周辺)とがある県である。
西海岸の「博多」は、大陸に近く広く多くの物資が集積するという意味でつけられた。東海岸の方は文化的な面でいえば、豊後水道を隔てて瀬戸内にも繋がっている。
福岡出身のミュージシャンといえば、ほとんど西海岸出身であるが、東海岸にも「いぶし銀」の輝きを放つミュージシャンがいる。
その一人が京都郡豊津町(現みやこ町)出身の永井 龍雲(ながい りゅううん )である。
中学時代は野球少年でピッチャー、フォーク愛好会を作って音楽活動もしていて、存分にセイシュンしたようだ。
豊津高等学校(現・育徳館高等学校)から大学進学を目指したが、受験した大学全てに失敗し本格的にミュージシャンを目指すこととなった。
1978年に「想い」でデビューし、5枚目のシングル「道標(しるべ)ない旅」がグリコアーモンドチョコレートのCMソングとなりヒット。
1980年代には「オールナイトニッポン」パーソナリティーを担当するなどもした。
イメージからして 少し意外なのは、1989年五木ひろしの「暖簾(のれん)」の作詞で日本作詩大賞「優秀作品賞」を受賞している。
永井の母親は奄美大島(鹿児島県大島郡瀬戸内町)出身で、奄美大島で数回コンサートを開くなどしている。
鹿児島出身で福岡での大学生活で音楽活動を行った長淵剛が故郷の現・日置市の母校グランドでのコンサートを恒例化しているのに似ている。
永井は、上京して主に神奈川県の横浜市で暮らしていたが、夕暮れの日課は自宅から近い湾岸沿いのコースを10キロ近く走るジョギングだったという。
夕日の美しさを眺めながら、「どこか、島に住みたい」という願望が芽生え始めた。
永井には母への思慕を込めた「母さんの唄)」があるが、母親の話などから南への志向が胸の中で芽生え、育っていたのかもしれない。
永井は結婚して子どもを持ったのをきっかけに、こどもを自然の豊かなところで育てたいと、1999年に、横浜市から沖縄に移住することを決意した。
沖縄の音楽家、喜納昌吉の歌「花-すべての人の心に花を」にも心を動かされ、沖縄に実際に住んで「ゆったりしたいい曲」を体感したいと思うようになったという。
南の島を目指した根本には、ミュージシャンという表現者としての停滞からの脱却という思いもあった。
実際に、沖縄に移って内省的になって、ゆっくりと物事を大きく考えるようになったという。
またそんな思いに弾みをつけたのが、沖縄尚学高校が春の選抜高校野球で優勝で、沖縄勢としては春夏通じて初の快挙であった。
2006年に、沖縄在住の集大成としてアルバム「沖縄物語」をリリースした。
ジャケット写真には沖縄の伝統的な衣装を着た自分の子どもたちが映り込んでいる。
歌詞カードには、「この1枚の写真が僕にとって何よりの宝です」という言葉を添えている。
ところで沖縄に「まれびと」という観念があることを発掘したのが民俗学者が折口信夫である。
この言葉へのオマージュなのか、デビュー40周年の2021年、還暦記念アルバムとして「オイビト」を発売した。
「オイビト」の意味について龍雲はこう説明している。
「夢を追い求めるうちにいつしか年老いて、それでも夢を追い続ける人」。
ところで永井が演歌歌手に提供した曲には「暖簾」以外にも、坂本冬美の歌に提供した曲に「うりずんの頃」がある。
沖縄に移住して、いくつか沖縄の言葉を覚えた。その一つが「うりずん」であった。
「うりずん」語源は「潤い初め」といわれ、春分が終わり、梅雨に入る前の季節のことである。
この言葉のきれいな響きと、沖縄の初夏をイメージさせるこの言葉が気に入っ曲のタイトルにした。
龍雲は移住後、4回目のうりずんを過ごし、沖縄の歳時記が身についたころの作品で、「うりずんの頃」は龍雲のアルバム「沖縄物語」にも収録されている。
♪恋破れ 夢破れ 今宵(こよい)もまた涙 目を閉じて思い出す 赤花 青い空…帰りたい 故郷(ふるさと)は今 うりずんの頃♪。
坂本は父の死や体調不調などもあり、2002年に芸能活動を休止した。
約1年後に活動を再開する。復帰計画の中で、坂本のディレクターから永井に「沖縄テイストの歌を書いてほしい」という要望があった。
永井は、故郷を離れて暮らす女性をイメージして、主人公を沖縄の女性に決めた。
沖縄に住居を映した永井であるが、2020年に地域の小学校4校が統合された現在の犀川小校歌も作詞・作曲している。
また思わぬカタチでふるさととの繋がりをもつこととなった。
広島原爆の被爆者から贈られた福岡県みやこ町の「平和の木」がある。
「平和の木」は広島原爆で焼けた後も生き続けた「被爆エノキ」の2世で、みやこ町立犀川(さいがわ)小の講堂脇に植えられている。
ことの始まりは1983年、旧犀川町(現みやこ町)の町立鐙畑(あぶみはた)小が修学旅行で広島市の平和記念公園を訪ねた際、児童らが作った折り鶴をささげた。
被爆体験の語り部をしていた福田安次さん(故人)は、折り鶴が新聞の折り込みチラシで作られていたことに感心する。
同小にお礼の手紙を送り、その後も交流が続いた。
しかし、鐙畑小は児童が減り続け、1998年3月末での閉校が決定。
それを聞いた福田さんは1997年12月、翌春から鐙畑小の児童が通う犀川小に「これまでの交流と平和への思いを託したい」と「被爆エノキ2世」の苗木を寄贈し、それが「平和の木」と呼ばれることになった。
2021年に植樹25周年を迎えることから、犀川小の校長らは「これまでの道のりを知り、次の世代に語り継ぐことが木を預かった自分たちの責務だ」と、企画展や記念式典を開く「折り鶴が運んだ『平和の木』プロジェクトを企画。
その一環で犀川町出身の永井に楽曲作りを依頼したところ永井が快諾し、人づてにマネジャーを通じて相談した原田信二も快く引き受けてくれた。
原田はかつて「キャンディ」「タイム・トラベル」などのヒット曲で一世を風靡した。
被爆地・広島の出身であることから平和活動にも携わってきていて、2013年には国連本部の国際平和会議に招かれ、広島から世界平和を呼びかける「ひろしまから始めよう」を披露した。
また、環境保護や「心の優しさ」をテーマにしたチャリティー活動にも力を入れている。
瀬戸内で繋がる永井と原田のコラボで「平和の木」プロジェクトが広がった。

沖縄を舞台に「花」や「島唄」「サトウキビ畑の歌」などの数々の名曲が生まれた。
意外なことに、1954年に春日八郎の歌で大ヒットした「お富さん」の作曲者である渡久地(とくち)政信は沖縄出身で奄美大島育ちである。
四分の四拍子のリズムのなかに八分の六拍子をアクセントとして加えたブギウギのリズムを基に、手拍子や軽快なヨナ抜き(ファとシ抜き)音階など沖縄音楽・カチャーシーの要素と、チンドン屋のリズムの影響を受けた奄美新民謡の要素を織り込みながら曲を書いたという。
この曲の作詞は山崎正によるが、戦前・戦中の諸芸能の世界では定番だった歌舞伎の『与話情浮名横櫛』からセリフを大量に取り入れている。
「粋な黒塀」「見越の松」「他人の花」といった仇っぽい名詞句などが含まれ、そのアウトロー的な歌詞を子供まで歌って、教育上問題ありと社会問題となるほどであった。
渡久地政信には、他に「上海帰りのリル」や「島のブルース」などがある。
渡久地は、日中戦争の最中応召され、陸軍に入った。
中支戦線・従軍中、右胸貫通銃創の大怪我を負い、傷痍軍人となる。
入院中、音楽の道に進むため日大に入学するも、学費の援助中止され困窮のどん底におちてしまう。
そんな時彼を救ったのが、故郷・奄美の先輩である大審院長、泉ニ新熊(もとじ しんくま)で、当時の朝日新聞に「大審院長、歌の兵隊を救う」と記事がでたという。
その後、傷痍軍人出身の片肺歌手としてビクターの専属歌手としてデビューする。
8年間の下積み後の1950年、その専属を解除され、またもや苦境に陥ってしまう。
それを救ったのが作曲家の利根一郎であった。
利根は「星の流れに」「星影の小径」でヒットを出した先輩で、キングに日参し、渡久地を専属にすべく「死にかけている渡久地を友人として見過ごせない。専属料の問題なら、自分の専属料をその分減らしてくれ」と体を張ってくれた。
利根の努力は実り、渡久地はキングから再デビューできることとなった。
それでも、渡久地の歌手としての評判は上がらず、絶望する。遂に歌手を諦め、作曲家への道を進み、作曲家・渡久地としての4曲目がこの「上海帰りのリル」であった。
♪海を渡ってきた 一人ぼっちできた のぞみ捨てるなリル 上海帰りのリル リル  暗い運命(さだめ)は 二人で分けて  共に暮らそう 昔のままで リル リル 今日も逢えないリル 誰かリルを 知らないか♪
作詞は東条寿三郎であるが、渡久地の人生が重ねられているようだ。
そして「上海がえりのリル」によってキングレコードの不況(給料遅配)か、一気に解消したとか。
さて、渡久地作曲の「お富さん」は、曲調といい歌詞といい、あらゆるジャンルの音楽が溶け込んだ曲であることから昭和の「ハイパーお座敷ソング」とでも呼びたくなるが、平成の時代にも沖縄の伝統音楽とファンクミュージックが溶け込んだ「ハイパー・エイサー・ミュージック」とでもいうべき曲が生まれた。
「ダイナミック琉球」(2008年制作)は、作曲者であるイクマあきらの力強い歌声、バックのエイサー(沖縄の伝統舞踊)やテーク(太鼓)の音色、フェーシ(エイサーの掛け声)があいまって出来た、沖縄の現代版組踊、舞踊楽曲でもある。
この曲の歌詞に、「ちむどんどん」や「うりずん」などの沖縄の言葉がちりばめてあって、この曲の魅力を倍増させている。
「ダイナミック琉球」は数々のアーティストにもカバーされリリース後10年以経った今でも勢いが衰えていない。
『ダイナミック琉球』は、沖縄のみならず全国のエイサー演舞、全国の現代版組踊舞台、運動会などの定番曲となっており、最近ではスポーツや高校野球の応援歌として歌われ流行している。
2017年 、高校バスケットのハーフタイムの応援合戦で女子高生が歌う動画がSNSで話題となり、また同年夏の甲子園大会において仙台育英高校が応援曲として演奏したことで注目を浴び、他校も取り入れるようになったことで高校野球の応援曲として一気に定着した。
また、2019年10月に起きた「首里城火災」を受け再建支援のために「ダイナミック琉球」のカバー制作は、チューニングキャンディーによって行われ、楽曲の収益の一部は寄付されている。
このチューニングキャンディーは、2013年に沖縄のタレントスクールで結成された女性アイドルグループであり、2018年にメジャーデビュー後、日本レコード大賞「新人賞」を受賞している。
ひとりひとりがモデル系で、沖縄の伝統所作を取り入れたオリジナルダンスを踊る姿と力強く透き通る歌声に人気を博し、PVの総再生回数は、1000万回越えるなど驚異的な数字を記録している。
沖縄という独自の島国の文化を強く連想させる楽曲であるが、沖縄人(ウチナーンチュ)のみならず、沖縄県外の日本人である内地人(ナイチャー)までもを懐かしく感じさせ、忘れてはいけない日本の文化を強く思いださせてくれる楽曲となっている。
個人的に驚いたことは、この曲の作曲者イクマあきらば、沖縄生まれでもなんでもなく、福岡県の久留米出身で、九州芸術工科大学(現・九州大学に統合)を卒業していることであった。
イクマあきらの知名度はそれほど高くはないが、著名アーティストに楽曲提供した上でのプロデューサー的な活動で高い評価を得ている点で、永井龍雲と共通している。
もともとイクマあきらは、アフリカ黒人系の16ビートのファンクミュージックを中心とした音楽活動をしていて、福岡「博多」でファンク好き繋がりで意気投合して1990年に結成したのが「E-ZEE BAND」である。
イクマはこの「E-Zee Band」のボーカリスト/ギタリスト/作曲者としてメジャーデビューした。
ニューヨークのブルックリンで多国籍セッションを重ね、ひとり完成させた「SWINGIN」が最後の「E-ZEE BAND」のアルバムとなった。
バンドの名付け親は、ロンドン在住のファッション・ディザイナーのコシノミチコである。
「E-Zee Band」は結成当初7人で上京してのデビューだったが、のちに4人組の「E-ZEE BAND」として96年まで活動した。
1993年のシングル「My Girl」は関西、九州、金沢でチャート1位を獲得する。
イクマは「E-ZEE BAND」は解散後に、ポップス作曲家として新たな歩みををはじめようと沖縄旅行をして、東京へは帰らず2000年に移住を決意する。
ストリートライブ等を行いつつ作曲活動をして、沖縄移住の第一弾「風のメロディー」をリリース。
そして沖縄で出会ったバンド「D-51」をプロデュースして2005年に生まれた曲が「NO MORE CRY」が、仲間幸恵主演のTVドラマ「ごくせん」の主題歌となって大ヒットした。
「Dー51」はこの年に紅白歌合戦にも出場した。
日本での活動の傍ら、音楽の修行の旅(ニューヨーク、ジャマイカ、トリニタード・トバコ)を幾度も繰り返していく中で、世界の音楽のエッセンスを貪欲に自己の音楽に取り入れ続けてきた。
ファンクをベーシックにした躍動感あふれる楽曲の評価は日本国内のみならず、マドンナ等のプロデュースで知られる世界的プロデューサーからもコネチカットの自宅に招かれるなど絶賛を受ける。
あらゆる音楽ジャンルを取り入れ、沖縄から世界に発信した独自のダンスミュージック「ハイパー・エイサー・ミュージック」は評判を呼び、エイサー、現代版組踊のみならず日本の「よさこい祭り」にまで飛び火し、ベトナム、インドネシア、ペルーなど世界へと広がりつつある。
福岡の西海岸のイクマあきらは、東海岸の永井龍雲と、沖縄でインスパイアされた点でも共通している。