「花の生涯」および桜坂

日本を代表する花といえば「桜」で、国花といってよい、桜のもつイメージの広がりが多様であることが、そのことを何よりもよく物語っているかもしれない。
たとえば、秀吉の花見のように桜は「権勢」を示すこともあれば、はらはら散ることで「喪失」を表すこともある。
またいくつかの文学に描かれたように、人の意識に変調をきたす「妖気」のようなものもある。
そんな「サクラ」の語源は諸説あるが、そのひとつに田の依代(よりしろ)という意味がある。
「サクラ」の「サ」は田の神様のことを表し、「クラ」は神様の座る場所ということで、「サクラ」は田の神様が山から里に下りてくるときの依代を表すとされている。
また、サクラの花が稲の花に見立てられ、その年の収穫を占うことに使われたりしたため、「サクラ」の代表として桜の木が当てられるようになったという。
つまり、豊作を願って、桜のもとで田の神様を迎え、感謝する行事。その際に神様を迎えるための料理や酒を人も一緒にいただいたということが、本来のお花見の意味である。
日本のお花見は奈良時代の貴族の行事が起源といわれている。
奈良時代には遣唐使を介した中国との交易が盛んで、中国から伝来したばかりの「梅」が鑑賞されていた。
894年に遣唐使が廃止され、日本独自の文化が発展するにつれ、桜が花見の主役となっていく。
花見の宴は花の下に座ることによって花粉の生気を吸収する健康法であったという。
その一方、作家の坂口安吾は、桜の木に妖気を感じとっている。
「桜の森の満開の下」で、大昔は桜の花の下にいると人間が取り去られるという伝説があり、見渡す花びらの陰に亡くした子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう話を紹介している。
ところで、桜の名所といえば、隅田川や目黒川など「川べり」が多い。
日本からアメリカに送られて植えられた「ポトマック河畔の桜」は、世界的にも知られている。
それでは、なぜ「川べり」が多いのだろうか。
江戸時代八代将軍 徳川吉宗の時代、財政難で享保改革を行い、質素倹約が奨励された。
吉宗は時に町人に身をやつし、江戸の人々の生活ぶりを探っている。
吉宗は生活の向上のため新田開発に力を入れるも成果は上がらず、 それどころか追い打ちをかける出来事が起きた。隅田川が氾濫である。
当時の隅田川は日本三大河川の一つ利根川ともつながっていた。
そのため幕府は堤を造って水害を防ごうとしたが、その堤が簡単に壊れてしまう。
隅田川が荒川に名前を変える浅草辺りに「日本堤(つつみ)」という地名が今も残るが、そうした堤が壊れ犠牲者3500人余りという水害が起きた。
堤を再び造るしかないが、費用も人手も不足。
当時、堤は「蛸胴突き」という道具を使って盛られた土をタタキ固めるのが主流であった。
この方法で 隅田川の堤を改めて造るという大工事は人手も時間も かかりすぎて、現実的ではない。
更にお金もないとなると、一案を講じた。それが「桜」を川沿いに桜並木を植えることである。
人が集まれば、地面は踏み固められ結果 自然に丈夫な堤防が造れるというわけだ。
こうして吉宗の指示で隅田川や玉川上水に、奈良の吉野山などの桜が植えられたのである。
しかし、なぜ 数ある木々の中で桜だったのか。
花見に人が集まるといっても、花見のシーズンは短い。
その理由は、桜が他の木々に比べると根の広がりと量が圧倒的だったからである。
根を広く張ることで土砂の流出も防げるので堤防を造るにはうってつけだった。
河川の氾濫が増えるのは梅雨の時期、あるいは台風の来る秋シーズン。
それよりも前に地面を踏み固める必要がある。
花を咲かせ人々が殺到する桜が満開となる頃は、そうしたタイミングも理にかなっていたのである。

JPOPには「桜ソング」という分類があるほど、「桜」とタイトルがついた名曲が多い。
思いつくだけでも、コブクロの「桜」、ケツメイシの「桜」、河口恭吾の「桜」、森山直太郎の「さくら」、いきものがかりの「SAKURA」。
個人的に、桜が植えられる場所としてイメージするのは、川ではなく「坂」である。
その理由は、福山雅治のヒット曲「桜坂」のイメージがあるからだが、きっと坂が多い場所に「富士見」の地名が多いように、「桜坂」という地名も多いのではないだろうか。
福山雅治が長崎から上京して住んだのが東急多摩川線沼部駅近くに「桜坂」という処がある。
また、福山の故郷・長崎の西海市松島にも、650メートルにもおよぶ250本が植えられた「桜のトンネル」ともいうべき「桜坂」がある。
東京の「桜坂」の方は、大田区田園調布の「旧中原街道」にあり、江戸時代には大名も通った坂道であった。
当時は多くの茶屋が軒を連ね、名の参勤交代や、歴代将軍の鷹狩り道としても利用された坂道である。
この「桜坂」の桜は昭和になって植えられ名付けられたもので、石垣が「旧中原街道」の情緒をとどめる。
現在は恋人たちの定番スポットになっているが、この桜坂の界隈には、北条政子ゆかりの「東光院」がある。
源頼朝の妻北条政子の守り本尊が浅間神社に祀られ、その観音菩薩像が新政府の政策により、1871年に東光院に移され祀られている。
また福山の家族を原爆から救ったという長崎・稲佐山にある「稲佐山公園」は、桜の名所でもある。
太平洋戦争が勃発し、1945年になると 長崎もたびたび空襲を受けるようになる。
そのため 住宅密集地では火災の延焼を防ぐため「建物疎開」が行われ、福山家も自宅を取り壊され引っ越しを余儀なくされる。
新たな住まいは 元の場所から1キロほど離れた稲佐山の麓で、眼下に三菱重工の造船所を見下ろす斜面にあった。
そして運命の日がやってくる。8月9日、長崎は原爆の悲劇に見舞われる。
福山家全員が助かったのは、「建物疎開」が大きくものをいった。原爆の爆風が直接的に来ることを稲佐山が防ぎ、その威力がいくぶん減じられたからだ。
福山雅治は、節目節目の年にはふるさと長崎で大規模なライブを開催してきた。
その会場は 福山自らの歌で「約束の丘」と呼んだ「稲佐山」である。
ところで、「桜坂」という地名はついていないものの、「桜」と「坂」の結びつきが印象的なのが、東京の「愛宕(あたご)山」である。
東京虎ノ門と芝の間辺りにある都心の愛宕山は、海抜26メートルにすぎない。
それでも、都内随一の高さを誇り、「桜」と見晴らしの名所として江戸庶民に愛され数多くの浮世絵にもその姿を残している。
今日のように周囲に高層ビルが立つまでは、山頂からの眺望がすばらしく、東京湾や房総半島までも望むことができたらしい。
NHK大河ドラマ第1号は、舟橋聖一原作の「花の生涯」(1963年)である。
それは幕末に日米和親条約を結び、水戸藩浪士により暗殺された井伊直弼の生涯描いたものであった。
その放送は愛宕山から内幸(うちさいわい)町に移ったNHK放送局から放映されたものである。
実は、桜田門外で井伊直弼の暗殺が行われた際に、志士たちが集結し成功を祈願したのが「愛宕山」だった。
また1868年3月13日、官軍代表西郷隆盛と旧幕府代表勝海舟は官軍による江戸城総攻撃について会談した際、この愛宕山に登って江戸の町を見渡し、江戸を「火の海」にすることの無益さを語り合い、悟ったと伝えられている。
愛宕山にまつられている「愛宕神社」は、徳川家康が江戸に幕府を開くにあたり江戸の防火・防災の守り神として将軍の命を受け創建されたものだ。
この愛宕山で、なんといっても有名なのが「出生の階段」。降りるのが怖く、手持ちで下るための鎖がついているほどの急勾配の階段である。
その名の由来は、寛永11年、三代将軍家光公の御前にて、四国丸亀藩のが騎馬にて「正面男坂」(86段)を駆け上り、日本一の馬術の名人として名を馳せたからである。
さらに、日本でラジオ放送が始まった1925年3月22日。当初は東京・芝浦の仮放送所からラジオ放送が行われていたが、同年7月には愛宕山で本放送が始まり、愛宕山は“放送のふるさと”と呼ばれるようになった。
現在は、愛宕神社の隣接した地に「NHK放送博物館」が立っている。
1936年の226事件の際には、放送局が襲われるかもしれないという心配から、騎兵隊に警護されるといった出来事もあった。
愛宕山からの放送は、1939年に東京・内幸町の「放送会館」に移転するまであしかけ14年余り。
さらに、NHKが内幸町から現在の渋谷区神南のワシントンハイツ跡に移ったのは、東京オリンピックの年1964年のことである。
個人的な体験だが、この内幸町で福山雅治に遭遇したことがある。
2004年、銀座に近くの同地を歩いていた時に、女性ばかり20人ほどの集団をみかけた。
好奇心に駆られ、何事かと思って聞いてみると、ラジオの番組に福山が生出演中であるとのこと。
ちょうど番組が終了した頃で、白いスーツをまとった福山が現われ、車に乗り込む姿を目撃、そして集まった女性達と共に手を振って福山を見送った。その時、福山は思ったはずだ。「あのおじさん、だれ?」

福岡には、学校の教科書にも載った「桧原(ひばる)桜」のエピソードがある。
1984年、福岡市は高度経済成長の恩恵を受け大きく発展し、都市部も拡大していた。そこで市内のある道路の拡張計画が持ち上がり、道路脇にある桜並木rの一部を伐採しなければならななった。
住民の反対にもかかわらず、同年3月10日に、9本あった桜のうち1本が伐られてしまった。次の日の朝、その木に1枚の札が貼り付けてあった。
「花あわれ せめては あと二旬 ついの開花を ゆるし給え」。
二旬とは20日間のことで、せめて最後の開花だけは見せてほしいという旨の歌である。そのことが知られるとかなり多くの共感の歌が寄せられた。
その中にこんな歌もあった。
「桜花(はな)惜しむ 大和心の うるわしや とわに匂(にお)わん 花の心は」。
「香瑞麻(かずま)」という名が付されたこの歌は、近くに住む進藤一馬福岡市長(当時)が詠んだものあった。そして道路拡張計画は変更され、桜は伐採を免れたのある。
この桧原坂から北西に4キロほどに、福岡市の植物園や動物園がある小笹の山がある。
この山を博多湾側へ下るとそこに「桜坂」がある。かつては住宅街であったが最近では洒落たカフェやレストランなどがめにつく。
この「桜坂」の地名は、同地にひっそりとある「桜ケ峯(さくらがみね)神社」の名に由来する。
この辺りは、筑紫女学園の通学路となって往来も多いが、坂の上の奥まった処にあるため、この神社の存在自体気づいてもいないようだ。
そして、この神社のすぐ隣に今も現存する巨大な敷地は今は私有地になっているが、もとは加藤司書(かとうししょ)のお屋敷跡である。
加藤司書は図書館とはなんの関係もなく、黒田藩の家老の生まれ、末期福岡藩(筑前藩)の家老として、勤皇改革派(筑前勤皇党)の首領として知られている人物である。
加藤家は代々中老職に列せられた藩の重臣であった。先祖の加藤重徳(又右衛門)は、藩祖黒田官兵衛が荒木村重により有岡城に幽閉された際に、その救出を援助したことでも有名である。
加藤司書は、ロシア艦隊が長崎に来航した際にはその対応にあたり持ち前の交渉力で引き揚げさせたり、幕府の長州征伐を取りやめさせたり、多くの実績を残している。
1863年3月、宮廷守護に当たっていた長州が解任され、尊攘派の7人の公卿も京を追放され、うち5人を福岡の太宰府の「延寿王院」で藩が預ることになった。太宰府天満宮の参道から正面に見える建物である。
翌年7月、蛤御門の戦いで長州は敗退するが、幕府は長州を討つために、広島に各藩の藩兵を参集する。
藩主・黒田長溥(ながひろ)は「外国艦隊の脅威を前に国内で戦っている時ではない、国防に専念すべし」という考えを元に、加藤に「建白書」を持たせ、徳川総督に提出している。
そして加藤司書と西郷隆盛が「参謀会議」を止戦へと導き、長州の恭順を条件に解兵が実現したり、西郷隆盛や高杉晋作などの勤皇派の志士とも交流を持ち、薩長同盟にも尽力したと言われる。
もし長く生きていたら、彼らと比肩できるほどの人物であった。
その加藤司書の運命を大きく左右したのが「犬鳴(いぬなき)御別館」の建設である。
県道21号(福岡直方線)を福岡市から、東に向かうと、久山町と宮若市の境に犬鳴(いぬなき)山(584メートル)と、犬鳴峠がある。
司書は1854年7月、犬鳴(字金山・同多田羅)に藩営の製鉄所「犬鳴鉄山」(日原鉄山)を開いた。大砲・武器製造など海防・軍備強化の目的で、中国地方の石見津和野のたたら製鉄技術を参考にし、職人も呼び寄せた。
「犬鳴御別館」は、福岡城下が外圧による有事の際に、藩主が避難する場所として、加藤司書の推挙によって犬鳴谷の丘陵地に建設された。
犬鳴山は天然の要害であり、その丘陵地は犬鳴峠や薦野峠から福岡城下へも通じたためである。
その後、犬鳴御別館は藩主の「犬鳴御茶屋」として完成し、1869年、最後の福岡藩主、黒田長知が領内巡見の際に一度宿泊したこともある。
しかしこの犬鳴御別館建設は、思わぬ波紋を福岡藩内に投げかけた。
藩内佐幕派の讒言(ざんげん)により、司書の御別館築城が、「藩主の押し込め」「藩乗っ取り準備」の嫌疑をかけられたのである。
福岡藩は、第二次長州征討後に逃れた「五卿」を預かる微妙な立場から幕府の意向を過度に「忖度」したのか、1865年に「勤王派」の弾圧をはじめる。
加藤司書はじめ野村望東尼など140数名もの維新で活躍が期待される有為な人材が、ことごとく断罪・流刑された。
加藤は、家老職を解かれた上、切腹を命じられ現在の博多区祇園の天福寺で没した。
この天福寺は、現在は城南区南片江に移転し、天福寺あとには第一生命ビルがたっている。
その敷地内には加藤司書の歌が刻まれた石碑が設置されている。加藤司書もまた糸島の姫島に流された野村望東尼と同様に「勤王の歌人」であった。
その歌は、加藤司書と西郷隆盛が長州の恭順を条件に解兵が実現した時に詠んだ歌である。
「皇御国(すめらみくに)の武士はいかなる事をか勤むべき ただ身ににもてる赤心を君と親とに尽くすまで」が刻まれている。
さて加藤司書ゆかりの地「犬鳴峠」の犬鳴ダムの奥には、今でも犬鳴御別館跡の大手門と搦手(からめて)門跡、高石垣や庭園跡などの遺構や、加藤司書の「忠魂碑」が残っている。
また、「犬鳴ダム」の別名は「司書ダム」、ダム湖は「司書の湖」とも呼ばれ、付近には「司書橋」という名のバス停(JR九州バス)までもある。
そして福岡市中央区「桜坂」に居を構えた加藤司書だが、知名度はそれほど高くない。
しかその生涯は、「桜田門外」で命を散らせた井伊直弼とともに、もう一つの「花の生涯」といえよう。