聖書の場面から(それぞれのサマリア)

イエスはユダヤから、サマリアへの道を通ってガリラヤにむかった。ユダヤ人は当時、異民族と混血し偶像崇拝に陥っていたサマリアの人々と口をきくことさえしなかった。
しかしイエスは、通りかかった井戸の傍らで休んでいた時、人目を避けながらも神を求めていた一人の女性と出会う(ヨハネ4章)。
実際、人は望みもせず、できたら避けたい道を通らなければいけないことが多い。しかし、後から振り返ると、その道を通った経験により、神の恵みを知り感謝を知るということもある。
そんな意味を込めたのが「サマリアを経ざるをえず」(ヨハネ4章4)という言葉で、人それぞれに通らざるをえない「サマリア」があるのかもしれない。
実際、聖書の中の信仰者はみな「サマリア」を通ったということがいえよう。
あるいは、「日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい 」(ルカ9章23)からすれば、「各人の十字架」ともいえる。
アブラハムに長年子が生まれず、妻サラ同意の下で奴隷ハガルに子を産ませたのがイシマエルである。
正妻のサラは、いい気になった奴隷ハガルに苦しめられるが、サラの「自分の子」が欲しいという切なる訴えは神に届き、生まれたのがイサクである。
「イサク」とは「笑う」という意味で、子どもが与えられたのがよほど嬉しかったのであろう。
さて今度はサラによって、奴隷ハガル・イシマエル母子が苦しめられる番で、結局追い出されるハメになる。
それでも神は、荒野をさまようハガル・イシマエル母子を見捨てず、「立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」(創世記21章)と預言する。
そしてハガル・イシマエル母子は、流れ流れてアラビア半島のメッカに移り住み彼らの子孫はアラブ人となる。
一方、念願のイサクを得たアブラハムに、にわかには信じがたい神の言葉が臨む。
「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」と。
アブラハムは神の支持どうりイサクを連れてモリヤの山を登るが、道すがらイサクは父アブラハムに問うた「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。アブラハムは、「神みずから燔祭の小羊を備えてくださる」とのみ応えて一緒に行った。
彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。
そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、主の使が天から「アブラハムよ、アブラハムよ」と声がかかった。
そして「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」と語った。
この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。
アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。
そして再び神の声がアブラハムを呼ぶ。「あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする」(創世記20章8)。
このイスラエルに対する預言以上に、アブラハムにとっての「サマリア」は、「神みずから燔祭の小羊を備えてくださる」という救世主の預言ともなった。

イエス・キリストの系図は「アブラハム イサク ヤコブ」と続き、ヤコブ(イスラエル)の12人の子供のうち、11番目のヨセフと12番目のベニヤミンは、ヤコブの最後の妻ラケルとの間に出来た子である。
ヨセフはヤコブが年老いて出来た子なので、父親に溺愛された。そんなヨセフは、あるとき夢をみた。
畑で束を結わえていると、ヨセフの束が起き上がって、兄たちの束がまわりに来て、ヨセフの束を拝んだという夢である。
普通なら、こんな夢は胸にしまっておくのだが、ヨセフはその夢を兄弟たちに語って聞かせた。
兄弟達には面白かろうはずはない。彼らは「おまえはわれわれの王になるというのか。実際われわれを治めるつもりか」と怒った。
そして、兄弟達はヨセフを陥れる計略を行う。
荒野を遊牧していた時、ヨセフを落とし穴に落とした。そして父ヤコブに切り裂かれた服を見せて、ヨセフがライオンに食われたという嘘の報告した。
ヤコブは、悲しみを隠そうともせず号泣した。
しかし、死んだと思われたヨセフはラクダの隊商に発見されエジプトの役人に売られていたのだった。
その売られた先で、ヨセフは特異な能力を発揮して主人の信任を得て、重用されるようになる。
ところがまたもや"落とし穴"が待ち受けていた。
主人の妻に誘惑され、それを拒んだヨセフはその女の虚言により主人の怒りを買い、獄屋につながれる。
しばらくして、同じく獄屋に繋がれていた王家の料理番が奇妙な夢を見て気がふさいでいた。
そこでヨセフがその夢を解き明かすと、料理番の落ち度なきことが明らかとなって助かる夢だった。実際、料理番はヨセフの解き明かしどおりに免罪される。
その料理番は、ヨセフに大いに感謝して王へのとりなしを約束するが、無情にもヨセフのことをすっかり忘れてしまう。そして、2年の月日が経過する。
ところがある時、エジプト王が奇妙な夢を見て不安状態にあることを知った料理番は、ようやくヨセフのことを思い出し、王にヨセフの特異な能力について語った。
ヨセフは、王の夢の解き明かしのために獄屋から出され、王の夢がエジプトにまもなく起こる7年の豊作と7年の飢饉を示すものであることを解き明かした。
そして、王はその解き明かしに基づいて備蓄を行い、それに続く飢饉を乗り越えることができたのである。
この功績により、ヨセフは30歳にしてエジプトの宰相となる。
ヨセフにとっての13年におよぶ獄屋という「サマリア」は長く厳しいものだったが、それに耐えられたのは、ヨセフが「夢見る人」だったからかもしれない。
個人的には、南アフリカのネルソン・マンデラを思い浮かべる。
さて、7年間の飢饉はヨセフの家族が住むカナン(パレスチナ)の地にも及んでいた。
ヨセフの父ヤコブとヨセフの兄弟たちは、「エジプトの備蓄」のことを知り、食糧を買うためにエジプトの宰相に面会を求めた。
その宰相とは、誰あろうヨセフ。それとは知らぬ兄弟達は、地にひれ伏して彼を拝んだ。
その時、ヨセフは20年も前に故郷で見たアノ夢が現実になったことを知る。
そしてヨセフは、扉ごしに兄弟達が弟(つまり自分)に犯した罪の報いだと語り合っているのを聞いて号泣する。
ヨセフは素知らぬ顔を装いつつもついには自分を制しきれず、ついに「わたしは弟のヨセフです。あなた方がエジプトに売ったヨセフです」と告白する。
兄弟たちは、言葉を発することもできないほど驚く。
そして遠い昔にヨセフを陥れた罪につき、ひれ伏して詫びるが、ヨセフは兄弟に対して「恐れることも、悔やむこともありません。神が命を救うために、先にわたしをエジプトにつかわされたのです」と語った。
兄弟たちは父ヤコブのもとに帰り、すべての事情を話した。
ヤコブは気を失うほど驚き、なお信じられず、我が子の数々の贈り物を見て、ようやくそれを信じた。
そしてヤコブはエジプトに向かい、一族は「再会」を果たして抱きあった。
そして、ヨセフは兄弟に対して恨みをおくことがなかった。すべてが神の計画と配慮のもとに行われたことを悟ったからである。

モーセは、飢饉を逃れてエジプトにやってきたユダヤ人の子であったが、宮女に拾われて王位継承者として育てられる。
しかしモーセは、あることをきっかけに、自分がエジプト人ではなくユダヤ人であることを知り、王宮での空しい生活よりも、神に選ばれたユダヤ人として生きようと、奴隷の身として生きることを決意する。
ところがユダヤ人同士の喧嘩の仲裁にはいって人を誤って殺してしまう。
しかもそれを同胞に目撃されて、この場所にいられなくなりミデアンの野に逃れる。
モーセは、自分のミデヤンの地で結婚し、羊飼いとしての生活をして40年という月日がたつ。
ところが人生も終盤80歳になった頃、突然に神の声が聞こえる。
それは「エジプト人の圧政下にあるユダヤ人の嘆き苦しみの声が聞こえるか」という声であった。
そして神はモーセに「民を導き出せ」と語る。
そしてモーセはエジプト王パロの前に出て、イスラエルの民を去らせるように求めるが、パロは再三それを拒み、そのたびごとにエジプトに災いがふりかかる。
そしてエジプト中の長子が疫病に襲われ亡くなるに及んで、パロはついにイスラエルの民を解放する。
イスラエルの民は喜び勇んで故郷に帰還することになるが、パロは気が変わってイスラエルを追いかけてくる。その後、海が割れる「紅海の奇跡」などの体験をする。
こうした「サマリアを経て」て信仰を深めたイスラエルの民の神への思いが、ユダヤ教成立の契機となる。
さて源頼朝が、戦果をあげる源義経という存在に脅威を感じ決裂したのと同じように、ヘブライ王国初代のサウル王は、ダビデの存在に脅威を感じ始めた。
なぜなら、民衆は「サウルは千を撃ち、ダビデは万を撃つ」と語っていることが耳にはいったからだ。
そしてサウルは、狂ったようにダビデの命を狙うようになる。
サウルからヘブロンの荒野に逃亡したダビデの下には、600人の生活困窮者や不満分子たちが集まり、ダビデはその頭領として彼らの生活の面倒を見ながら、彼らに護衛の役にも当たらせていた。
ダビデの逃亡場所は、主として荒野であり、その間にはオアシスが点在していた。
家畜を飼う者は、この荒野に羊などを放牧していたが、時には、ベドウィンなどの攻撃を受け、家畜を奪われたり、命を奪われることがあった。
ダビデは、そうした敵から家畜を飼うものたちを守ってやることによって、食料や生活の必要なものをその代償として彼らから得て生活していた。
この地に「羊三千匹、山羊千匹」を所有する非常に裕福な牧畜事業をしていたナバルという人物がいた。
彼に雇われ家畜の世話をしていた多くの牧童は危険な目にたびたび遭っていたが、ダビデは彼らを何度も盗賊たちの手から守り、余分な代償を求めることもなく、彼らの平和に大いに貢献していた。
ダビデはナバルが「羊の毛を刈っている」と聞き、10人の従者を送った。「羊の毛の刈り入れ」は、羊飼いの収穫祭にあたり、貧しい隣人たちに何がしかのものがふるまわれるのが常で、ダビデはナバルの家畜を飼う者の危機をたびたび救ってきたため、それなりの報酬を期待したのである。
ところがナバルは「ダビデとは何者だ」「わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」と答えて、ダビデの従者を追い返した。
ナバルは「最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった」という言葉から、サウル王のもとから逃亡して来たダビデのことを知っていたはずだ。
ダビデはナバルの対応を使者から聞いて激怒し、直ちにナバルに報復の攻撃を加えるように命じ、直ちに進軍を開始した。
ところがその情報を得たナバルの妻アビガイルは、贈り物をロバに背負わせ、自分もロバにまたがってダビデのもとへと急ぎ向かった。
そして「夫ナバルは愚か者でございます」と切りだし、神がダビデについて約束されたすべての良いことをなし、ダビデがイスラエルの王になったとき、無駄に血を流したり、自身で復讐されたりしたことが、汚点になりませんように、そしてあなたが幸いを得た時自分を思い出してくださいという訴えをなした(Ⅰサムエル24章)。
ダビデはアビガイルの訴えを受け入れ兵を出すことを踏みとどまった。
一方、アビガイルは夫ナバルのもとに帰ったところ、夫ナバルは能天気にも、宴会を催し話さえできる状態ではなかった。
そこでアビガイルは翌朝まで酔いの冷めるのを待って状況を話した。
そしてナバルは、妻の語る報告を聞くと、ナバルは卒倒するほど青ざめた。その後、「主はナバルを打たれ、彼は死んだ」とのみ告げている。
その後、ダビデは、聡明で神を恐れ、自分を若気のいたりから救ったアビガイルを妻として迎えた。
ヘブロンの荒野は、ダビデ王にとっての「サマリア」であったが、そこでアビガイルという聡明な妻を得ることができたのである。

ダビデは、エルサレムではなくヘブロンの荒野にあって古代イスラエル2代目の王となった。ダビデ王に油を注ぎヘブライ王国2代目の王としたのは、サムエルという預言者である(サムエル記上2章)。
このサムエルの母はハンナといい、アブラハムの妻サラと同じような苦しみを味わっていた。
当時、一夫多妻の時代であったため、ハンナはエルカナの妻であたが、エルカナにはもう一人ペニナという妻がいた。
ハンナは子供が与えられない悩みを神に訴えた。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげします」と誓った。
ハンナが長く祈っているのを見ていた祭司エリは、ハンナが心のうちで祈っていたため、唇だけが動いていたので、酔っているのだと思ったという。
しかしハンナは、「いいえ違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。 はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです」と、エリに語った。
そして神の言葉が預言者エリを通じてハンナに告げられた。
「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように」と答えた。
ハンナは、それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。そしてハンナにとっての「サマリア」は終わりを告げる。後の時代、余命なきことを告げられたヒゼキヤ王に神が「あなたの涙をみました」(イザヤ38章)と語った時のように。
実際ヒゼキヤは、寿命を15年間増し加えられている。
ハンナはしばらくして男の子を与えられ、「サムエル」と名付け、サムエルが乳離れしたあと、神の用に用いられ、ヘブロンの地でダビデ王に油を注ぐ。
そして、彼女が訴えた祈りは、「ハンナの祈り」(サムエル記上2章)とよばれるが、受胎告知を受けた「マリアの祈り」(マタイ2章)を髣髴とさせる。
さて、人は何のためにサマリアを通らされるのか。パウロは信徒への手紙で次のように励ましている。
「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
そして、「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル人への手紙12章)。