「三すくみ」の思想

「じゃんけん」といえば、グー・チョキ・パー。
他愛ない子どもの遊びで、幼いころから馴れ親しんできた。他愛ないものだからこそ、かえって人の思考を支配しているのかもしれない。
たとえば、ひとり勝ちなんてそうあるもんじゃない、というような。
また、日本人は「三」という数字に特別な意味を込めるようだ。「三人寄れば文殊の知恵」という諺がある。「一人では困難でも、多数で協力すれば成功する」という説明では、なにかもの足りない。
二人だけでは対立しがちでも、第三者の視点で新たな視野が開けるといった感じを示している。
ちなみに、「文殊」は知恵に優れた菩薩(ぼさつ)。菩薩とは悟りを得て仏になるために修行をしている人を意味する仏教用語である。
また中国地方の戦国大名・毛利元就が子供たちに教えた「三本の矢の教え」もある。
こちらはシンプルに、「力を結集すれば容易には折れない」という解釈でよい。
広島のJ・リーグチーム「サンフレッチェ広島」は、「三」(サン)と「矢」(イタリア語でフレッチェ)を合わせで出来た名前だが、三本ではなく「束(たば)」になると問題がある。
イタリア語で「束」は、「ファシスタ」つまり「ファシズム」の語源となるのだ。
ちなみに、イタリア語で「食堂」が「タベルナ」で、ローマ法王を選ぶ会議が「コンクラーベ」で、日本語の発音に符合していて面白い。
さて、「じゃんけん」の由来はどこからか、もともと中国で酒宴の座興で「本拳」というものがあった。
江戸時代の元禄初期「本拳」が日本に伝わってきた。これがもとになって「藤八拳(とうはちけん)」が生まれ、庄屋、狐、鉄砲の三つの形があり、そのうちのどれ一つをとってみても、他の一つには勝がもう一つのものには必ず負けるという仕組みになっていた。
この「三すくみ」とは、中国古来の、蛙は蛇に恐れをなし、蛇はなめくじをこわがり、なめくじは蛙をおそれる、という「いい伝え」に拠るのかもしれない。
これを「拳」にとり入れたのが「虫拳」で、互いに指先でこの三つの虫の形をつくって勝負を決めた。
そしてこの「虫拳」が、やがて石と紙と鋏の形に改変されて「石拳」になったとされ、じゃんけんとは石拳(じゃくけん)の音がなまったものではないかといわれている。
とすれば、三すくみは中国古来のいい伝えでありながら、われわれ日本人はこれを拳のなかにたくみにとり入れ、今日最もシンプルで大衆的な「じゃんけん」として定着さたということがいえる。
ちなみに、イタリアにも「じゃんけん」に似た「モーラ」という遊びがある。右手の親指、人差し指と小指の三本をつかい、親と子に分かれておこなう。
三本の指のうち一本を出し、双方同じ指なら親の勝ち、違ったら子の勝ちで、親は三回、子は五回つづけて勝つことが条件になっている。
ここには「三すくみ」の要素はなく、「三すくみ」はアジア的なものの考え方なのかもしれない。

18世紀半ばにモンテスキューが考えたといわれる「三権分立」は、立法・司法・行政にわけたばかりではない。相互に抑制と均衡をさせた、まさに「三すくみ」の思考で出来たものである。
ヨーロッパ的思考といえば「二項対立」で、ソクラテスの「弁論術」やヘーゲルの「弁証法」のように、「正と反」を対立させる思考である。
コンピュータのデジタル化も、究極的には「0と1」の二項対立の無限の組み合わせで出来たものである。
そういう西欧思想にあってモンテスキューの思考は、「突出」しているのかもしれない。
モンテスキューは長期にわたりヨーロッパを旅行した。その旅行記が残されているのが、その中でイタリア滞在中に、モンテスキューは次のような一節を書き残している。
「町に着いたとき、私はいつも一番高い鐘楼か塔に登る。部分を見る前にすべてを全体として見ておくためにである。また町を離れるときにも、同じことをする。自分の考えを確実にするためにである」。
モンテスキューが「法の精神」を発表する前の出世作が「ペルシア人への手紙」というものである。
「ペルシア人の手紙」は、ヨーロッパとアジアを往復する書簡体の小説で、フランスの社会と絶対王政を風刺・批判した書で、最初は匿名で出版された。
フランスの腐敗と混乱を書いた本書は驚異的な売れ行きを示し、本書によってモンテスキューの名は広く知られるようになった。
ペルシアの政治家ユスベクは、果てしない政争に疲れ果てて友人のリカとともにフランスへ渡る。
ペルシア人からすれば首都パリは異文化の町。
見るもの聞くもの全て珍奇に満ちたものばかり。
彼は故国の愛妾や召使たちにせっせと手紙を送り、自らの近況を伝えるとともに、フランスの政治や文化、果てはパリのコーヒー店に至るまで「異人の私にとって到底理解できない滑稽なことばかりだ」と揶揄する。
つまり、モンテスキューは主人公ユスベクに自分の考えを語らせ、絶対王政末期の不条理に満ちた政治や思想を滑稽に風刺したのであった。
モンテスキューは、1689年にフランス南西部で生まれた。彼の実家は貴族階級で、経済的にも非常に裕福だったといわれている。
しかし、7歳の頃に母が亡くなり、その莫大な遺産をそっくり継承する。
やがて成長してボルドー大学法学部を卒業したモンテスキューは、父の訃報に伴って帰郷し、次いで伯父の死もあってモンテスキュー伯爵を継承。
その後は裁判所の役人となり、25歳の若さでボルドー高等法院の判事となり、次いで院長となる。
仕事上では出世の階段を上っているが、その間たびたびパリに赴いてサロンに出入りしながら思索を深めていたモンテスキューは、37歳の時に高等法院を辞職。その後は思想研究と執筆活動に専念する。
1728年にアカデミー・フランセーズの会員に選出されて以降は、3年間イギリスに滞在。立憲君主制の元での議会政治を研究した。
そして「ローマ帝国という大帝国がなぜあっさりと滅びたのか。それは共和制(議会制)から帝政(絶対王政)へ政治体制が変わってしまったからではないのか」という命題をもって、暗にフランス王政を批判した「ローマ人盛衰原因論」を出版している。
そして1748年に、ついに社会政治哲学のバイブルともいえる大著「法の精神」を出版する。
この本こそ「三権分立」の思想が語られるが、モンテスキューの研究は社会学的内容を含み、「社会学の祖」ともよばれるに至る。
モンテスキューは、「法の精神」の中で、こう述べている。
「すべて権力を持つものは、それを濫用しがちであり、それをなさぬようにするためには、権力が権力を牽制し、抑制することこそが肝要なことだ」。
ただ、彼は立法に関しては「貴族的共和政」を念頭に置いて考察していた。
一般選出の人民代表と、貴族出身の代表双方に同じ権限を与え、「二院議会制」をもって立法を司らせる。
いわば「貴族共和政」で、国民の中から選ばれた議員もいる代わりに、旧態的な権益を持つ貴族議員も存在している。
ちょうど衆議院と貴族院があった戦前の日本の帝国議会によく合致している。
モンテスキューの三権分立の考え方は、「権力の暴走」を防止するという効果があり、日本をはじめ多くの先進国で取り入れられていることとなる。
それでもモンテスキューの考え方が最初に取り入れられたのは、彼の死後およそ40年経ってから。
フランス革命中の1791年、フランス初の憲法が出来上がる。
そこには普遍的な人間の権利を承認した「人権宣言」が発表されるが、その16条に「権利の保障が確保されず、権力の分立が規定されていないすべての社会は、憲法をもつものでない」としている。
しかし、「三権分立」が一番純粋なかたちで実現したのは本国フランスではなく、アメリカであった。
しかしそんな彼も、晩年には視力の低下に悩まされて執筆活動も思うままにいかず、1755年にパリで没す。66歳であった。

中江兆民といえば、明治時代に活躍した土佐出身の思想家で、「日本のルソー」とも呼ばれている。
明治政府に出仕してからフランス留学を経て東京外国語学校長に任命されるなどしている。
しかし、官吏勤めは性に合わなかったようで、すぐ校長を辞任し、以後政府には出仕せず民間の一言論人として生涯を終えている。
ここまで書くと、モンテスキューと似ているようでもあるが、中江家は裕福な方ではなくフランス留学も、コネを使ってもぐりこんだという。
ただフランスのパリでは、後の首相となる西園寺公望と友情を育むなどしている。
西園寺は、京都の公家出身で当時「日本のミラボー」になるといって中江と共に新聞を発行したりしたが、さすがに明治政府はそんな西園寺の自由思想を許容しなかった。
中江兆民は、帰国後には自由民権の論客として明治政府と闘う側に立つが、西園寺と直接対決する場面はなかった。
ともあれ、中江は本場フランスで鍛えたフランス語と漢文に対する深い造詣で、明治の言論界にあっても異彩を放つ存在となっていく。
中江はルソーばかりではなくモンテスキューの書とも親しんで、モンテスキューの「ペルシアへの手紙」を髣髴とさせる名著を残している。
それが「三酔人経綸問答」で、本書はタイトルどおり、3人の登場人物が議論を交えていくことで話が進んでいく。
登場人物は「南海先生」・「洋学紳士」・「豪傑の客」の三人である。
南海先生は中江兆民を思わせる隠者で、政治を論ずることと酒を飲むことが何よりも好き、最後まで聞き役といったところ。
物語の舞台は南海先生の自宅で、洋学紳士と豪傑の客が南海先生を訪問し、3人で酒を飲みながら議論が盛り上がっていくという体裁をとる。
三人が論じたのは、これからの日本の進むべき道についてで、日本という国家はどうあるべきか、どのように国際社会のなかで生きていくべきか、といった大問題。
洋学紳士のキャラクターは、理性や道徳、品性などの無形のものに対する信仰があること。
洋学紳士によれば、日本は文明におくれた小国で、その日本が文明化に向かって鋭意努力し、学問を深め、道徳を修め、工業化を達成し、軍備を撤廃したならば、そのような文明化した日本をどこの国が攻めてくるというのかと主張する。
日本が軍備を撤廃したのにつけこんで、たけだけしくも侵略して来たとしても、こちらが身に寸鉄を帯びず、一発の弾丸をも持たずに、礼儀ただしく迎えたならば剣をふるって風を斬れば、剣がいかに鋭くても、ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか」。
いわば「無抵抗主義」で、1970年代まで「非武装中立」なんてことを主張していた政党があった。
ここには道徳や学問などの無形の文化的パワーが戦争そのものの「抑止力」となるというある種の「宗教的信念」が吐露されている。
洋学紳士の議論で特徴的なのは、階級に対する嫌悪で、先祖の能力に差があっただけだという。それなのにその特権を継承していく子孫と、特権にあずかれない子孫が存在するのは不当だという。
世界は進歩しており、人間もまた進化する。権益を子孫にわたって固定するのは「進化の理法」に反する、というのが洋学紳士の主張である。
世界中の国が立憲制度を完備した民主国となったとき、世界から戦争はなくなるという。ではもし、万が一、凶悪な国があって攻めてきたらどうするのか、という「豪傑の客」の問いかけに洋学紳士は次のように答えている。
「私は、そんな狂暴な国は絶対ないと信じている。もし万一、そんな狂暴な国があったばあいは、私たちはそれぞれ自分で対策を考える以外に方法はない。(中略)彼らがなおも聞こうとしないで、小銃や大砲に弾をこめて、私たちをねらうなら、私たちは大きな声で叫ぶまでのこと、君たちは、なんという無礼非道な奴か。そうして、弾に当たって死ぬだけのことだ」。
こうした洋学紳士の議論が理想論とすれば、豪傑の客の議論はいわば現実論である。
洋学紳士が道徳によって戦争を防止できると考えるのに対して、豪傑の客は力には力でなければ対抗できないという見解を表明する。
豪傑の客によれば、戦争は学者の理論でどうにかなるものではなく、自然の勢いだという。
「豪傑の客」の議論は、まず現実を正しく認識すべきことを主眼とする。洋学紳士のように「進化の理法」に帰依していないため、長いスパンでの観察よりもまず目前の事実を尊重する。
そして、豪傑の客は次のようにいう。
「もし争いは悪徳で、戦争はくだらぬことだと言う人があれば、ぼくは答えて言いたい。個人に現に悪徳があるのを、どうしようもないではないか。国が現にくだらぬことをやっているのを、どうしようもないではないか。現実というものをどうしようもないではないか」。
「世界中が軍備拡張に邁進しているときに、手をこまねいていては強国の餌食になるだけだ」というのが豪傑の客の認識である。
そしてこの認識から、日本の進むべき道として「海外進出」の議論がでてくる。
後年の日本の大陸進出を見越していたかのような議論であるが、ここまで聞き役に徹していた南海先生の立場はどうなのか。
南海先生は、洋学紳士の説は「思想上の瑞雲のようなもの」という。
つまり、「はるかに眺めて楽しむばかり」のもの。頭のなかで考えただけの夢で、生活に息抜きを与えてはくれるが、生活の指針とはなりえない。
また「進化の理法」についても、進化は一直線に進むとは限らず、寄り道もし、曲がり角もあり、ときには後退することだってある、と諭している。
南海先生は、なんでも民主制というが、政治の本質とはなにかわかっているのかと、次のようにいう。
「国民の意向にしたがい、国民の知的水準にちょうどみあいつつ、平穏な楽しみを維持させ、福祉の利益を得させることです。もし国民の意向になかなかしたがわず、その知的水準に見あわない制度を採用するならば、平穏な楽しみ、福祉の利益はどうして獲得することができましょう」。
結局、洋学紳士の議論は、所詮独りよがりな自己満足にすぎないという批判である。
「豪傑の客」の議論については、南海先生は「今日ではもはや実行し得ない政治的手品」である。
これもまた洋学紳士と同じく、見て楽しむもので、役には立たないという。
また南海先生は、豪傑の客がいう日本の「進出先」というのは中国のことだろうと指摘しつつ、次のように言う。
「やたらと武器を取って、かるがるしく隣国を挑発して敵にまわし、罪もない人民の命を弾丸の的にするなどというのは、まったくの下策です」。
その後の日中関係を予見するかのようだ。
さらに、「こちらが相手を恐れ、あわてて軍備をととのえる。すると相手もまたこちらを恐れて、あわてて軍備をととのえる。双方のノイローゼは、日月とともに激しくなり、そこへまた新聞というものまであって、各国の実情とデマとを無差別にならべて報道する。はなはだしいばあいには、自分じしんノイローゼ的な文章をかき、なにか異常な色をつけて世間に広めてしまう。そうなると、おたがいに恐れあっている二国の神経は、いよいよ錯乱してきて、先んずれば人を制す、いっそこちらから口火をきるにしかず、と思うようになる」と語る。
まるで、今日の「新冷戦」を見越したかのようだ。

彼の領地はボルドー近郊のラ・ブレードにあって、現在も居城のラ・ブレード城が観光スポットの一つになっている。