サラエボから日本へ

ヨーロッパ東南部のバルカン半島に、かつて「ユーゴスラビア」という国があった。
ユーゴスラビアは連邦制の国家であり、その中には6つの共和国が存在していた。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、モンテネグロ、セルビア、マケドニアである。
戦後最大の「人道危機」とよばれたのが、1990年ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争である。
この紛争で起きた「非人道的」な出来事を知るならば、現在のウクライナで起きていることも、そう驚くほどではない。ただ、当時はSNSが普及していなかっただけのちがいだ。
つまり人間は、いにしえから今日に至るまで、ほとんど進歩していないということである。
さて、ユーゴスラビアは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれた国家であった。
ユーゴスラビアの大統領がチトーだったとき、民族主義者は弾圧の対象となり、そのため、ユーゴスラビアは民族同士の衝突が起きそうになりながらも、チトーの政策によって平和を保っていた。
なにしろチトーはソ連の侵攻をパルチザンの戦いで追い出した英雄としてのカリスマ性があった。
チトーの時代、これらの民族同士で暮らし、民族間で結婚したりと、民族間の対立はほとんどなかった。
しかし1980年にユーゴスラビアを平和におさめていたチトー大統領が亡くなり、ユーゴスラビアで抑え込まれていた民族主義が各地に噴出していく。
たとえば、スロベニアはユーゴスラビアのなかで経済的に豊かだったので、他の共和国に自分たちのお金が使われることに不満を感じていた。
これらのような事情から、連邦の構成国であることに不満を持つ国がどんどん現れ、ユーゴスラビアからの「独立」を望むようになる。
しかしセルビアはこうした「独立」の動きに反対であった。そしてセルビア人の民族主義者ミロシェビッチがセルビアのトップになると、「大セルビア主義」というセルビア民族主義をかかげる。ちなみに、「セルビア」とは「南スラブ」という意味である。
一方で、1991年にスロベニア、クロアチア、マケドニアが独立を宣言し、スロベニアとクロアチアでは紛争が起きる。
これが2001年まで続く「ユーゴスラビア紛争」の始まりで、1992年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナが「独立」を宣言する。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、ボシュニャク人(40%)とクロアチア人(30%)が独立を望んでいたが、セルビア人(20%)は独立に反対であった。
だからといって、イスラム教徒のボシュニャク人と、ギリシア正教のクロアチア人とが仲が良いというわけではなかった。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナが「独立」を宣言した後、EC(欧州共同体)が独立を承認するや、セルビアは、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに対して軍事的行動を起こす。
こうしてボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人による三つ巴の紛争「ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争」が始まる。
特にセルビア人によるボシュニャク人への攻撃はとどまることを知らず、何の罪もない子供を含む一般市民がたくさん亡くなった。
そして、ムスリムが多数派を占める首都サラエボはセルビア人勢力によって周りが包囲され、必要なモノを外から運ぶことができなくなり、水道・電気・電話回線も断たれた。
戦禍は既に最悪なものとなっていたのだが、1995年7月には「スレブレニツァの虐殺」という虐殺が行われる。
「民族浄化」の名で約7000人のムスリムを虐殺、それに伴って極めて非道な行為が行われたのである。
2001年 ついに国連は「人道介入」の名で行われたセルビアを空爆し、事態は終息に向かった。

ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都はサラエボであるが、周知のように第一次世界大戦は、セルビアの一青年がオーストリアの皇太子を狙った「一発の銃弾」から始まる。
それからわずか1周間で戦火はヨーロッパ全土に広がった。「一寸先は闇」という言葉がこれほどあてはまる事例はあまり知らない。
第一次世界大戦の構図は、学校の教科書的にいうとパンゲルマン主義とパンスラブ主義の対立である。
「パンゲルマン主義」は、国外のドイツ人も全部合わせた大帝国をつくろうというドイツの思想。
ヴィルヘルム二世は若くして皇帝なり、歳をとりすぎたビスマルクを降ろし、世界帝国をつくろうした。
一方、「パンスラヴ主義」は、バルカン半島のスラヴ系の人々を統一しようというものである。
第一次世界大戦当時、名門ハプスブルク家の皇帝を戴く「オーストリア帝国」が存在した。
かつての「ハプスブルグ帝国」すなわちオーストリア帝国は、今でこそ小国だが当時は多民族を抱えもつ大国であった。
ギリシアを先端にもつバルカン半島は黒海から地中海へ出て、アフリカ・アジア・中近東へと連絡するために、オーストリアにとっても重要な拠点であった。
この地域には6~7世紀ごろよりスラブ人が住み着き、ボスニアやセルビアといったスラブ人の小国が存在していた。
当時、オスマントルコがバルカンを支配していたものの、もはや「死に体」に近く、オーストリアはオスマントルコの弱体化に乗じてバルカンへの進出をねらい、オスマントルコ領のボスニアを青年トルコ党による革命の混乱に乗じて「併合」していた。
このため、隣国のスラブ人の国セルビアでは、「反オーストリア」の民族主義が高揚していった。
そればかりかオーストリアの領内にも、スラブ民族を含む多様な民族が同居しているため、隣国セルビアの民族主義の高まりには、警戒を強めていた。
そんな折1914年6月28日、オーストリア皇太子フェルディナンド夫妻が、併合したボスニアに駐屯するオーストリア軍の陸軍演習を閲兵するためにやってきた。
セルビアからすれば、皇太子夫妻は「オーストリア専制主義」のシンボル的存在。そして、ボスニアの首都サラエボで「一発の銃声」が響いた。
皇太子夫妻は自動車で通過中に暗殺されたのである。
逮捕された犯人はセルビア人の青年であった。
当時名門ハプスブルク家の「皇位継承者」を殺されたオーストリアの世論は激昂した。
そしてオーストリアはセルビア政府に疑惑の目をむけた。青年の背後にセルビア政府があるならば、逆にバルカン半島に進出する口実ともなるからだ。
調査団は証拠を見出せなかったものの、オーストリアはセルビア政府に、反オーストリアの運動を弾圧することに加え、オーストリア皇太子暗殺の裁判に関与することを求める「最後通牒」をつきつけた。
それはセルビアの「主権侵害」にもあたるものだったが、セルビアはオーストリアの要求の大半を受けいれた。しかし両国間の関係は悪化の一途を辿っていた。
そこにロシアが登場する。ロシアはセルビアのスラブ人民族主義運動をこの地域への「勢力伸張」の口実にしようとした。
ロシアは南に「不凍港」を確保すし、エーゲ海や地中海への航路を確保する必要あり、それが歴史的に繰り返された「南下政策」だった。
一方、サラエボの銃声後、オーストリアとともに「汎ゲルマン主義」を打ち出すドイツは、さすがにロシアも皇太子暗殺には批判的だろうから、ますロシアが介入してくることはないとタカをくくり、オーストリアへの全面支持を打ち出したのである。
そしてオーストリアは、こうしたドイツの支援をあてにしてセルビアに「宣戦布告」した。一方、ロシアも「スラブ人の保護」を名目にしてオーストリアに宣戦布告をしたのである。
1853年の「クリミア戦争」など何度も「南下政策」を頓挫させられたロシアにしてみれば、今度もセルビアの「スラブ人保護」に失敗したとなると国の威信は地に堕ちる。
そこでロシアはバルカンの「パンスラブ主義」の動きに乗じてオーストリアに宣戦布告したのである。
これはドイツ側の大きな「読み違え」だったといええる。
ロシアが介入したとなると、オーストリアにつくドイツも宣戦布告。
フランスは普仏戦争で敗れた屈辱から、ドイツを挟み撃ちするかのようにロシアと同盟関係を結んでいた。
そしてドイツがフランスを攻撃するためにベルギーに侵入すると、同じくドイツを警戒するイギリスもフランス・ロシア側に立って宣戦布告。
またイタリアはアフリカでフランスと対立していたため、「イギリス・フランス・ロシア」(三国協商)対「ドイツ・オーストリア・イタリア」(三国同盟)という戦いの構図があっとう間にヨーロッパに形成されたのである。

第一次世界大戦期のオーストリア皇帝はフランツ・ヨーゼフで83歳の老齢であったが、このフランツ・ヨーゼフが24歳の時に結婚したのが、「絶世の美女」といわれたバイエルン公女・エリザーベトである。
しかしヨーゼフ皇帝は、皇太子ルードリヒをマイヤーリングの「情死」で失い、それ以来喪に服するかのように、常に黒衣装を身にまとっていた皇妃エリザーベトを暗殺によって失っている。
そしてメキシコ皇帝となった弟でさえも革命勢力による銃殺というかたちで非業の死をとげている。
その弟の子供こそがフェルディナンドだったのだ。
つまりフェルディナンドは皇帝の甥にあたり、次の「皇位継承者」になっていたのである。
日本はこのフェルディナンド夫妻を迎えるというオーストリアとの接点をもっている。それは「オーストリア皇太子の日本日記」によって知ることができる。
皇太子は当時29歳で1892年12月~1893年10月まで10カ月の世界旅行を行い、日本には約1カ月ほど滞在している。
当時のオーストリア帝国は、かつてのハプスブルク家の栄光は傾きかけており、東アジア地域における商業上の権益の確保などのための視察と推測される。
その時「通訳者」として随行したのが、あのシーボルトであった。
オーストリア皇太子一行を乗せた船は1893年8月3日に長崎に入港、それから日本の軍艦に乗り換えて熊本に向かった。
熊本で第六師団を視察後、水前寺公園に遊び、陸路を経由して福岡に到着。その後、船で京都に向かい京都での宿泊は大宮御所であった。
大阪から奈良に行き春日鹿園で自ら鹿に餌を与えたりして京都に戻った。
その後、東京に向かい箱根の富士屋ホテルに宿泊、東京新橋で熱烈な歓迎を受けた後、浜離宮で休憩。その後、正午過ぎには皇居に参内している。
日光や横浜などを訪れ、8月25日にはカナダに向けて日本を離れている。
またサラエボと日本の接点といえば、日本サッカーチームの監督にイビチャ・オシムを迎えたことである。
オシムは1941年5月6日に旧ユーゴスラビアのサラエボで生まれた。
彼の父親は鉄道で働く肉体労働者で、ボディビルの選手。しかし、賃金は安く彼にとって子供時代の娯楽と言えば、ボロ布で作ったボールを裸足で蹴る路上サッカーだけであった。
14歳でジュニア・チームに入った彼は勉強とサッカーを両立させながら大学の入試にも合格。特に数学の成績は抜群で、大学教授の道も夢ではなかったという。
しかし、家庭のことを考えたオシムは大学を中退して本格的にサッカーに集中、地元のトップ・チームに迎えられると大活躍を始める。
現役時代のオシムは、天才的なドリブラーとして知られ、1964年に開催された東京オリンピックにユーゴ代表として出場している。
1966年には、ユーゴのフル代表のメンバーとしてヨーロッパ選手権に出場し、準優勝。27歳で、フランス・リーグのストラスブールに移籍し、海外へとその活躍を移していく。
ところが膝の慢性的な故障もあり、12年の現役生活後にはあっさりと引退し故郷のサラエボに戻った。
オシムは、すぐに指導者となる道を歩み始め、古巣のチームの監督に就任して好成績をあげ、1985年には早くもユーゴ代表チームの監督に就任する。
1990年のイタリア・ワールドカップにおいて、「ユーゴ史上最強」と言われたチームを率い、予選を首位で突破するも、母国ユーゴスラビアは民族紛争による国家分裂の危機のただ中にあった。
5月13日リーグ優勝が決まった消化試合にも関わらず、クロアチア人サポーターとセルビア人サポーターの間で乱闘となり、150人に近い怪我人を出す騒動となったこともあった。
それは民族対立の「代理戦争」のような異様さであった。それでも決勝リーグでスペインに勝利してベスト4に進出し、前回優勝のマラドーナ擁するアルゼンチンと対戦することになった。
お互いに一歩も引かない闘いは0-0のまま延長に突入し、延長戦でも決着がつかず、PK戦に突入する。
ところが、選手達の心の中で「民族紛争」の火種がくすぶり出した。PK戦を前にメンバーのうち二人を除いて、ボールを蹴りたくないとシューズを脱いでしまった。
それぞれの民族を代表する立場でキックして、自分のせいで試合に負けたら、自分だけでなく家族までもが危険にさらされるからだった。
結局、監督はキッカーを自ら指名するが、PK戦という非情な緊張の中、シュートをミス連発。
戦わずしてユーゴ代表チームの敗戦は決まっていたともいえる。
さらに1992年、スウェーデンで開催されるヨーロッパ選手権の予選に参加したが、もうこの時はクロアチア、スロベニア、セルビアの民族対立は実質的な「内戦」に発展していた。
長い間セルビア人、クロアチア人、ボスニア人など「民族融合」の象徴であったセルビアの街は完全に孤立状態となり、サラエボに生まれ育ったオシム監督自身にも火の粉が降ってきた感さえあった。
市民にとって危険と隣り合わせであっても、サラエボに居座わることこそが、ひとつの抵抗を意味していた。女たちは皆、いつも綺麗な洋服を着て、お化粧をしていた。それは爆弾が落ちて、死ぬ時もせめて美しくありたいという思いからだという。
オシムが代表監督の新チームであったが、有力選手は民族分裂ゆえに新チームへの参加を断ってきた。
オシムは代表監督を辞任、その後ギリシャやオーストリアのチームの監督に就任し、欧州クラブ・チャンピオンズ・リーグにも出場して、一躍チームの名前を世界に知らしめた。
1994年、オシム2年半ぶりに家族と再会を果たすものの、サラエボには未だ平和を訪れず、家族と平和に暮らせる国への移籍を決意した。
それが極東の日本プロリーグ。それも予算規模の小さな「ジェフユナイテッド市原」(千葉)であった。
そして、その「ジェフ市原」はオシムによって強豪チームへと生まれ変わり、天皇杯での優勝という快挙を成し遂げる。
オシムはその手腕を高く評価され、2006年神様ジーコの後を受け、日本代表チームの監督に就任し、日本人に愛される「名将」としてチームを率いた。
しかし脳梗塞に見舞われ、無念にも志半ばで故郷サラエボに帰国せざるをえなくなった。
しかしオシムは自らの人生をそこでリタイヤさせなかった。祖国ボスニアのサッカー協会はムスリム、クロアチア、セルビアの民族ごとに分裂しており、国際サッカー協会(FIFA)の規定により、国際大会から締め出されていた。
オシムは不自由な身体を動かし、3つの民族の政治家達と対話を重ね、サッカー協会を統一。ひとつになったボスニア代表チームは2014年のブラジルW杯に初出場をきめた。
2022年5月、ウクライナ紛争のただ中、オシムの訃報が届いた。