時代を創った冊子・ガイド

スティーブ・ジョブズが立ちあげたアップル社は初期において、当時ペプシコーラの副社長であった37歳のジョン・スカリーをヘッドハンティングしようとした。
スカリーは、マーケティングの達人として知られていたからだが、ペプシでの輝かしい未来が約束されていたため、なかなかイイ返事をしなかった。
そこでスカリーの気持ちを翻させたのが、ジョブスの有名な言葉である。
「残りの一生を砂糖水を売って過ごしたいか、それとも世界を変えるチャンスを手にしたいのか」。
このエピソードを、自身の仕事を「水商売」と謙遜したサントリーの二代目社長の佐治敬三との「対比」として思いだした。
というのも、佐治は、会社帰りにバーで一杯という「文化」をわが国に根づかせ、「サントリーオールド」を生産量世界一のウイスキーに育て上げた。それは単なる「アルコールの入った水」ではなかったのだ。
初代社長の鳥井が赤玉ポートワインとウイスキーを作り、ビール事業で失敗。後を継いだ次男の佐治敬三が勝算が薄いと思われたビール事業に再チャレンジし、サントリーの代名詞といっていい「ザ・プレミアム・モルツ」を生みだし、45年もかかって事業を黒字にしていく。
佐治はバーでウイスキーを飲むという文化から作っていくというコンセプトを現実のものとしたのは、サントリー「宣伝部」を中心とした「イメージ戦略」があった。
サントリー宣伝部は、ひとりひとりが違った方向を向いたとても素直に社長のいうことの聞きそうもない異能派集団。
在職中に芥川賞をとった開高健、直木賞をとった山口瞳やイラストレーター柳原良平らは、数々の伝説的な広告をつくってきた。
サントリーがまだ「寿屋」と呼ばれていた時代、佐治は開高健を拾い上げ、伝説のPR雑誌「洋酒天国」の編集長として活躍する場を与えた。
とはいっても、「洋酒天国」にウイスキーの宣伝があるわけではなく、小説、ファッション、車、女性の口説き方まで面白いと思えるものはなんでものせた。
佐治は自分の力量を超えるような異質な才能をも抱え込み、宣伝部に負けたように見せながら、「やってみなはれ」と上手にのせて使っていたともいえる。
当時コマーシャルで流れた「アンクルトリス」は柳原良平が生んだキャラクターだが、爆発的にヒットし、サラリーマンの仕事帰りの一杯は赤ちょうちんでの一杯ではなく、バーでウイスキーをたしなむという文化を生んだ。
そして、彼らの存在がなければ現在の銀座の風景もちがっていたにちがいない。
サントリーという会社もしくは佐治敬三という人物を解するキーワードが「断絶」である。 それは、1つの成功体験にとらわれず、絶えず過去からの「断絶」を繰り返して成長した。
ウイスキーの売れ行きが好調な時、佐治は突然大手三社(キリン、サッポロ、アサヒ)が占める「ビール業界」へと打ってでる。
社内では、それに対する反対もあったが、佐治は社員が苦労することによって会社の体質を強化しようという狙いがあった。
壁があってそれを超えようという努力と挑戦が生まれる。壁がない時はあえて壁をつくる。それが「断絶」が意味するところである。
開高が芥川賞を取ったのは1958年1月のことだったが、佐治はその4ヵ月後、寿屋を退職した開口を破格の給料で週二回勤務の嘱託にしてくれた。
生活の安定と書くための時間を確保したい開高にとって、願ってもない厚遇である。
こうして高度成長期、経営者と作家が友情で結ばれ、「やってみなはれ みとくんなはれ」のたぐいまれなタッグを組んで、次々とヒットを飛ばした。
そんな二人の関係について、佐治は次のように述べている。「弟じゃあない。弟といってしまうとよそよそしい。それ以上に骨肉に近い、感じです」。
また、二人は「戦場」を共有したともいえる。
佐治は勝算なき「ビール事業」に挑み、開高はベトナム戦争の最前線に身を投じ、戦時下のベトナムに従軍し、「真実」を見ようとした。
ところが、彼を待っていたのは、200人の大隊のうち、生き残ったのがわずか17人という「本物の戦場」であった。
そこでの体験が、開高健の傑作「輝ける闇」となる。この本につき、三島由紀夫は「想像力で描いたのなら偉いが、現地に行って取材してから書くのでは、たいしたことではない」と評している。

「サントリー宣伝部」といえば、数々の伝説的な広告をつくってきた。
在職中に芥川賞をとった開高健、直木賞をとった山口瞳やイラストレーター柳原良平らがいて、ひとりひとりが一筋縄ではいかない異能派集団といってよい。
サントリーがまだ「寿屋」と呼ばれていた時代、社長の佐治敬三は開高健を拾い上げ、伝説のPR雑誌「洋酒天国」の編集長として活躍する場を与えた。
とはいっても、「洋酒天国」にウイスキーの宣伝があるわけではなく、小説、ファッション、車、人とのつき合い方まで、面白いと思えるものはなんでも盛り込んだ。
要するに、社長・佐治の「やってみなはれ」精神で、自由にやらせたのである。
また、当時コマーシャルで流れた柳原良平が生みだしたキャラクター「アンクル・トリス」は、なんともコクのあるキャラで、爆発的なヒットとなった。
サラリーマンの仕事帰りは赤ちょうちんでの一杯ではなく、バーでウイスキーをたしなむという文化を生み、銀座の風景をも一変させた。
「サントリー宣伝部」をみると、企業が文化を創造するという意味がよくわかる。そこで思い浮かべるのは、「ミシュラン・ガイド」である。
さて、「ミシュラン(Michelin)」とは、フランスに本拠地を持つ世界規模のタイヤメーカーである。
世界で初めてラジアルタイヤを製品化し、長年にわたり世界最大のタイヤメーカーとして君臨した。
日産のゴーン会長も、1978年にパリ国立高等鉱業学校を卒業後にミシュランに入社する。
1985年、30歳の時に南米ミシュラン、1990年に北米ミシュランの最高経営責任者(CEO)に昇格し、1996年に、ルノーの上席副社長にヘッドハンティングされている。
そして我々がタイヤ以上に馴染んでいるのが、前述の「ミシュランガイド」である。
創設者のミシュラン兄弟がいち早くモータリーゼーションの時代が到来することを確信し、同社の製品の宣伝をかねて自動車旅行者に有益な情報を提供するためのガイドブックとして、1900年に3万5千部を無料で配布したのが「ミシュランガイド」の始まりである。
現在ではヨーロッパを中心に多種の地図やガイドブックを出版しており、年間およそ100万部におよぶ。
2007年11月にはアジア初となる東京版が発売された。これにより、日本は22カ国目の対象となった。
ガイドには、独自の調査を行ってマークを付して掲載するが、基本として「料理のみ」が判定の対象なのだという。
0から3つの「*(アスタリスク)」で示される「星」、あるいは「マカロン」と呼ばれる格付けの「影響力」は絶大なものがある。

ノーフォークのセットフォードにコルセット製造業者の子として生まれ、グラマースクールの第6学年から第14学年まで在籍し、歴史・数学・科学を学び、13歳から父親の店で職人としての修行をする。
16歳の頃に船乗りになるため家出をし、その後船員・コルセット製造・収税吏・教師と職を転々とする。22歳と34歳の時に結婚し、両方とも離婚している。1772年に収税吏の賃金の実情についてパンフレットを執筆し、文人のオリヴァー・ゴールドスミスと知り合っている。
1774年6月にロンドンでベンジャミン・フランクリンに紹介され、人物証明書を持たされてアメリカに移住する。月刊誌『ペンシルベニア・マガジン』の編集主任となり、1775年1月には600人だった購読者を2ヶ月後には1500人に増加させている。植民地の政治問題に触れ、クエーカー教徒の完全な平和主義を批判し、若者への就職準備金や老人への年金支給を含む最低限所得保障が必要なことを説いた論文『農民の正義』(Agrarian Justice)などが書かれたのと同時に、ペンシルベニア州議会に対し独立要求をけしかけている。
1776年1月10日、フィラデルフィアでペインが執筆した政治パンフレット『コモン・センス』(Common Sense、「常識」の意)の初版が1部2シリングで販売され、1000部印刷された初版はたちまち売り切れた。
その後3ヶ月で12万部を売り切り、その年の末までに56版を数え15万部が売れたという。民主的平和論を説き植民地の権利を守らないイギリスの支配から脱し、アメリカが独立するという考えは「Common sense」(常識)であると説いた。独立宣言発布直後にペンシルベニア連隊に入隊し、将軍付の秘書・副官となる。ワシントンに紹介されて2年間その下で働き、『危機』(Crisis)と呼ばれる一連の小冊子や論文記事を出版し続けた。
1777年4月から1779年1月まで連邦議会外務委員会の書記をつとめ、1779年11月、ペンシルベニア州議会の書記に任命された。このとき滞納されていた賃金1690ドルを支払われると、ペインはそのうちの500ドルをワシントン軍に寄付したため、この例にならう者が続出し、議会が銀行を設立することを可能にしたという。
1780年3月にペンシルベニア州議会が可決した奴隷廃止法案の前文を書き、7月4日にペンシルベニア大学から名誉博士号を贈られている。1784年には、独立に対する貢献により、ニューヨーク州よりニューロッシェルの農園を贈られている。

今年元旦のTV番組(NHK/BS1)の「江戸無血開城」は、新政府軍と旧幕府軍が激突直前にいかに回避されたかを明らかにした。
西郷隆盛を総大将とする新政府軍が総攻撃にむけて江戸に迫る一方、幕府側の勝海舟は新政府軍の提示した条件を拒否し、「開戦必至」とも思われた。
ところが開戦寸前、西郷と勝の和平会談が実現し、旧幕府は戦うことなく官軍に江戸城を明け渡す。
100万都市・江戸は焦土とならず、インフラと巨大市場が残され、日本の急速な近代化を可能となったのである。
従来、勝海舟と西郷隆盛の「直談判」の背景に、公武合体で朝廷から13代将軍家定に降嫁した「和宮」や、その姑にあたる島津家から14代家茂将軍に嫁いだ「篤姫」、すなわち天璋院らの「必死の説得」が、西郷と勝の和平会談を導いたともいわれている。
しかしこの番組では、もうひとり陰に隠れた「功労者」の存在を明らかにした。
その人物とは、アーネスト・サトウ。新政府・旧幕府双方の事情に通じたイギリス人通訳官アーネスト・サトウの存在は、両者の和平に、欠かせないものだった。
ちなみに、サトウはハーフでも日系でもなく、「純粋なイギリス人」で、ロシア系の名前だという。
勝は、江戸を新政府軍に開け渡すにしても、「火で焼き尽くした江戸」を開け渡す腹づもりで、そのための準備に抜かりなかった。
NHKの番組では勝が、ナポレオンのモスクワ進攻の際に、モスクワを焼払ってロシア軍が撤退した出来事を参考にしていたことを明らかにした。
江戸っ子は火事は慣れっこであるにせよ、勝は用意周到にも、船を総動員して逃げ場を確保させ、その復旧費を支給する準備までしていたという。
サトウは新政府軍とイギリス大使パークスの連絡役を勤めながら、自身が老獪な西郷にイギリスの新政府軍支援の約束を引き出すよう操られていることに気がついていく。
しかしサトウは、西郷を総大将とする新政府軍が江戸を攻撃するというのなら、自分にも「ある考え」があることを西郷に匂わせる。
その「考え」とは、開戦直前にパークスから西郷の下に派遣された人物を通じて語られる。
旧幕府軍がすでに「降伏」を宣言しているのに、後を追って攻撃するのは「国際法違反」であり、それでも江戸総攻撃をするというのなら、イギリスは新政府軍を支援しないというものだった。
またサトウは、江戸から始まる内戦の長期化が、虎視眈眈とアジア侵略を狙う列強を利するだけであることを両者に説いた。
ここに至って西郷は総攻撃をとどめ、勝も新政府軍の条件を幾分修正し、それを「落とし所」として受け入れる。
ところでアーネスト・サトウの存在は、「江戸無血開城」の功労者であることに留まらない。
サトウの来日直後に生麦事件と薩英戦争が起きているが、倒幕間際の1866年には英字新聞ジャパン・タイムズに論文を連載したところ、日本語訳が「英国策論」として出版された。
この「英国策論」が、西郷隆盛はじめ倒幕に一役買った人々の読むことになり、事態はサトウの書いた筋書きに沿って展開していったのである。
つまりこの冊子は「倒幕のビジョン」を提示し、明治維新に与えた影響ははかりしれない。
サトウは日本人の妻をめとり3人の子を残している。イギリスに帰り、1929年に86歳の生涯を終える。

大阪に行くと何箇所かで五代友厚という人物の石像と出会う。実業の世界で「東の渋沢栄一、西の五代友厚」と言われるだけのことはあると実感する。
五代友厚は薩摩の人だが、その五代が「大阪の父」と呼ばれているのは、五代が分裂・瓦解寸前の大阪の復興を支えた「大恩人」だったからである。
五代友厚が薩摩に生まれたのは1836年。14歳の時、人生を変える貴重な資料を目にする。
それは五代家がその「複写」を請け負っていた、藩が外国商人から購入した詳細な地図であった。
その地図を見て五代は、アジアの隅々にまで勢力を伸ばしていたイギリスが日本と同じような小さな島国だったという事実に着目する。
この頃から五代にとって、日本も世界有数の国になれるというのが、一生を貫くテーマとなった。
その後、日本が開国に踏み切ると五代友厚は薩摩藩の貿易係として長崎に派遣された。
この地で五代友厚はイギリス商人と交渉し、近代兵器の輸入や薩摩の特産品の輸出事業で頭角を表す。
さらに、貿易により培われた経済センスと、藩の命を受けて上海、イギリスなどに渡航する中、外国人と対等に交渉できる英語力も備わっていった。
そして、西郷隆盛や大久保利通らが倒幕運動を進める中、五代友厚は軍備や財政面から藩を支え明治維新に大きく貢献する。
明治の世となり、政府は五代友厚を「大阪府権判事」として派遣し、五代は弱冠34歳にして日本第二の都市であり商業の中心でもあった大阪の近代化を任される。これが、その後17年に及ぶ「経済改革」の始まりであった。
さて日本で「造幣局」が最初におかれたのが大阪だが、五代が日本最初の近代的な貨幣を作るにあたり、海外から輸入したのが圧印機であった。つまり、日本で最初の「円」は五代が生み出したものだった。
少し話がそれるが、戦争がおきて相手をやっつけるには、武器は不要で血を流す必要もない。
相手の国の紙幣の印刷機または印刷工場