「勝者と敗者」のリアル

アメリカの大手おもちゃメーカーである「トイザらス」の国内1号店が、茨城県稲敷郡阿見町にオープンしたのは、1991年12月20日。
「大規模小売店舗法(大店法)」という法律が改正され、地元の商店街関係者からは「せめて売り場面積を減らしてほしい」などの声をうけての開店だった。
当時「トイザらス」の日本参入は「黒船」到来のような印象をもって受け止められていた。
実際、「トイザらス」は、日本の商店街から「おもちゃ屋」を壊滅させたといって過言ではない。
その「トイザらス」の日本進出については今でも奇妙に思えることがある。
1992年1月、ブッシュ・アメリカ大統領が日本を訪問した際、わざわざ奈良県橿原(かしはら)市にやってきて、「トイザらス」の日本2号店の開業式典に出席して、祝辞を述べたことだ。
アメリカ大統領が、おもちゃの一小売店の開業祝辞を述べるなど、前代未聞。1971年のマクドナルドの銀座1号店の開店にも、そんなことはなかった。
この背景を探ると、アメリカは日本に対して、貿易上の障壁や不公正な規制を撤廃するよう「日米構造協議」を通じて大店法などの撤廃を要求していた。
その結果、大店法が大幅に改正され、アメリカの大型量販店もようやく日本にも進出することができるようになった。
それならそれで、アメリカの大統領が、東京に近い、茨城県の「トイザらス」1号店のオープンで祝辞を述べてもよかったのではないか。
大統領サイドのスケジュール調整もあっただろうが、「橿原」の地に特別な意味があったのではなかろうか。
日本の初代天皇は神武天皇で、九州の宮崎から八咫烏に導かれて大和に移り「橿原宮」で即位したことになっている。
この「神武東征説」は、神武という「神話」上の天皇であるため、その信憑性が問われるにしても、倭の勢力が南九州から大和奈良に移動したということは、何らかの「史実」を映しだものであろう。
日本で実在の可能性が見込める天皇は、第10代の崇神天皇(すじんてんのう)。
崇神は、3世紀から4世紀初めにかけて実在した「大王」(おおきみ)で、神武天皇の「ハツクニシラススメラミコト」の称は、崇神天皇の称と一致している。
ともあれ日本創業の地「橿原」を舞台にして、ブッシュ前大統領は、全世界に「日米構造協議」の勝利を宣言したともいえる。
実際にこれ以後、アメリカの大型量販店が数多く進出することになる。
ただ栄華盛衰の理どおり、絶好調の売り上げをみせたトイザラスも、2017年に経営破綻に追い込まれた。
ウォルマートやターゲットといった大型量販店に加え、アマゾンなどのネット通販に客を奪われたためだが、日本での事業は継続することとなった。
我が地元福岡でも、香椎と百道で「トイザらス」の店舗が存続している。

1945年9月2日、太平洋戦争の「降伏文書調印式」は、戦艦ミズーリ号の艦上で行なわれ、重光葵外務大臣がその代表を務めた。
日本側は、政府の代表として外務大臣の重光葵が、軍部の代表として参謀総長の梅津美治郎が署名した。
日本代表団を米国戦艦、つまりアメリカの主権下に呼びつけるカタチをとった。
サングラスをかけ、パイプをくわえた大胆不敵なイメージを与える一方で、マッカーサーは非常に細かいところまで指示するタイプだった。
まず、ミズーリが停泊していた場所は、遡ること90年前にマシュー・ペリーが黒船ポーハタン号を停泊させた位置とほぼ同じであった。
米国は日本を開国に導いただけでなく、戦争にも勝利したということを90年越しに強調したのである。
そこで、アメリカ軍と連合軍にとっては最大限のパフォーマンス効果を狙った。
それは、白旗を上げた日本の代表が敵の軍艦に赴いてサインする儀式が日本国民の目の前で行われため、日本人全体に敗戦の屈辱感を味あわせる演出であった。
例えば、ミズーリ号の甲板ににはためいていた二つの星条旗、ひとつはポーハタン号に掲げられていたもの、もう一つは真珠湾攻撃の際にホワイトハウスにあったものを、わざわざ持ち込んで飾った。
調印のために準備されたペンもペリーが使用していたものと同じタイプのものであった。
そして、甲板の最前列には190センチ近い体格のいい米国側の兵士を整列させ、日本人がより小さく見えるように演出した。
こうして、式典は2分遅れの9時2分に始まり、23分間に及ぶ模様は全世界に放送された。
これらすべて調印式の陣頭指揮を執ったマッカーサーのアイデアによるものであったという。
戦艦といえば思い浮かべるのは、太平洋戦争中に活躍した「戦艦長門」の扱いである。
「戦艦長門」は、1945年8月30日に、連合国軍のひとつの国のアメリカ軍に接収される。
その後、アメリカのビキニ環礁における水爆実験のターゲットとされたのである。それは人間でいうならば、いわば「公開処刑」のようなものだった。
その一方でマッカーサーによって処刑を免れたのは昭和天皇であった。マッカーサーと昭和天皇の二人が写った写真が思い浮かぶ。
直立不動の天皇と横並びで、リラックスしたマッカーサーの姿は、日本の国民に「敗戦」を深く印象付けた。
マッカーサーは、この写真を配信するこにより連合国側の権威を強調したと言われている。
日本の新聞社各社は「あまりにも不敬である」と、GHQに新聞掲載を控えるように要望したが、マッカーサーの命令により撮影から2日後にこの写真は各紙に掲載された。
当時虎の門にあったアメリカ大使館で撮られた写真だが、マッカーサーは昭和天皇とのこの初会見で、天皇の「自分の命はどうなっていいから、日本国民を助けてほしい」という言葉に感銘をうけた。
そしてアメリカ国内で渦巻く天皇処刑論を退けて、占領支配に天皇の存在を生かそうとした。
一方で東京裁判でA級戦犯となった重臣7人の処刑は東京巣鴨の刑務所で行われた。
GHQはその執行日を皇太子の15歳の誕生日(12月23日)をねらっておこなったのである。
いずれ、昭和天皇をついて天皇になる皇太子は自身の誕生日を、日本の敗戦と重ねながら思いをめぐらすことにあるからである。
東京裁判におけるA級戦犯が収容され処刑された「巣鴨プリゾン跡地」には、1980年代初頭に「サンシャインシティ」が完成し、すっかり若者の街に変貌した。
皇族の一等地を買い取って「プリンスホテル」をたてたブランド志向の西武グループが、こういう場所を買って「サンシャインプリンスホテル」を建てたというのも面白い。
今、刑場跡地は僅かにサンシャイン60ビルの麓の東池袋公園の一角に、その記憶をとどめる簡単な石碑のみを残すだけとなっている。
我が地元、福岡出身で東京裁判でA級戦犯となった広田弘毅元首相は、一言の弁明もすることなく従容として処刑された。
その広田弘毅像が福岡市の大濠公園の南端にあるが、護国神社を仰ぎ見るように建っている。それは、あたかも「東京裁判史観」を打ち消すかのようでもある。
実は、東京タワーが竣工式を迎えたのも、皇太子の誕生日の12月23日なのである。
A級戦犯処刑から数えてちょうど10年、皇太子は25歳になる。前述のように、順当にいけば天皇となるであろう皇太子に、因果をふくめるように戦勝国は処刑日を皇太子の誕生日に定めた。
ならば、日本側も死の穢れを一身に帯びた皇太子の影を払うかのように、東京タワー竣工式をその誕生日に定められたのである。
ちなみに、東京タワーの3分の1は朝鮮戦争で使われた戦車のスクラップで作られた。

「勝者と敗者」のリアルをひとつ言えば、勝者は敗者に対して「そこまでやるか」というほどの屈辱を与えること。その典型が「ドイツ帝国」の成立である。
何しろそれは、フランスのベルサイユ宮殿「鏡の間」で行われたのである。
フランスとドイツという国は、9世紀のフランク王国にまで遡る。フランク王国は偉大なカール大帝の死後、西フランク・東フランク・イタリアに三分割される。
西フランク王国がフランスの祖型、東フランク王国がドイツの祖型になった。
東フランク王国のザクセン公オットー1世は、カール大帝をライバルとみなし、大帝と同じ伝統を自ら築こうとした。
オットー1世は若くしてそれを公言し、諸侯による選挙によって王位につくことができた。
オットー1世以前には、各地の諸分族があるのみで、いつの日か「ドイツ人」として集結することになるとは、当時誰も想像していなかった。
だがオットー1世にはその王位を保持する戦いに加え、アジア系マジャール人との戦いが待ち受けていた。
だがマジャール人との戦いは、ゲルマン諸部族の結束をもたらしたばかりか、「キリスト教の救い手」としてカール大帝の後継者とみなされ、ローマ教皇ヨハネス12世より「神聖ローマ帝国」皇帝に任命された。
つまりドイツ王がローマ皇帝の理念的な継承者となったのだが、実際にキリスト教世界の支配者となったわけではなく、フランスやイギリスなどの国王は皇帝の優越権を認めてはいなかった。
特にヨーロッパの覇権をめぐって、神聖ローマ帝国を世襲することになるハプスブルク家と、フランス王(ヴァロワ家)との間で長い戦いが起きる。
そして17世紀の30年戦争はプロテスタントとカトリックという宗教を口実とした領土争いにおいて、フランスはカトリックでありながらハプスブルク家(スペインおよびドイツ)との対抗から新教側につくなどしている。
この戦いでは、最終的にはドイツの方が敗北し、1648年にウェストファリア条約が結ばれて、フランスはドイツから「アルザス地方」を獲得する。
「アルザス」は神聖ローマ帝国成立以降700年間ものドイツに帰属していた資源豊かな地域であった。
それ以後ドイツは低迷し、「絶対王政」を基礎として近代国民国家形成に向かうフランスやイギリスに遅れをとることになる。
ドイツ弱体化の要因としては、皇帝を選挙で選ぶなどに表れるように、国としてのまとまりが保てず、政治的な不安定さがつきまとっていたことがあげられる。
フランスのルイ14世(ブルボン家)は、そうしたドイツの弱点を見透かしたように、ドイツ内のファルツ選帝侯の継承権を主張して戦いをしかける。
この時、ドイツはイギリス・スペイン・オランダの力を借りてなんとか撃退する。
また1700年に、スペインのカルロス2世の死去により、スペイン・ハプスブルク家が断絶するや、ルイ14世はそこに自分の孫をスペイン王にしようとした。
そのため「スペイン継承戦争」が起きるが、最終的には、スペインとフランスは同じ君主が収めるひとつの国にはならないと いう条件で、スペインにおけるブルボン家の即位が認められた。
さて、ルイ14世といえばベルサイユ宮殿を築いたフランス絶対王政のシンボルといってよい。
この時代、フランスのユグノー(新教徒)がドイツへ亡命してきて、フランス文化のドイツへの流入が起きている。
18世紀初めにルイ14世が亡くなった一方で、ドイツではプロイセンが台頭し1701年に「プロイセン王国」が成立する。
そして啓蒙専制君主の代表的存在、プロイセン王フリードリヒ2世は、フランスかぶれでフランス語を重用し、フランス出身のヴォルテールやディドロと積極的交流し、ポツダムに「サン・スーシ宮殿」を建設した。サン・スーシというのは「憂なし」を意味するフランス語なのである。
フリードリヒ2世は、 七年戦争の「ロスバッハ」にてオーストリア(ハプスブルク家)とフランス軍を破る。
これはドイツ人にとって新たな国民精神を喚起する契機となった。
ルイ14世の威光の中で感じてきた劣等感が吹き飛ばし、ドイツ人の間では神聖ローマの圏外に起源をもつプロイセンに王国託して「ドイツ統一」を果たそいうという気運が生まれることになったからだ。
18世紀末、フランス革命が起きると、危機感を強めたオーストリアとプロイセンは、「王政の打倒はヨーロッパ国王への挑戦」と、フランス革命政府との戦いが起きる。
ヴァルミーの戦いでフランスがオーストリア・プロイセン連合軍を破って以降、フランスの大陸制覇戦争へと変容して行く。
以後ドイツはフランスにやられっぱなしとなる。1795年のバーゼルの和約でプロイセンがフランスと単独講和をし、フランスは「ライン左岸」を獲得する。
1790年代後半になると、ナポレオンが頭角をみせ初め、それに対してドイツ軍は敗北を重ねる。
特に、南西ドイツの弱小領邦がナポレオンによって優遇され、「ライン同盟」が形成されたことによって、1896年「神聖ローマ帝国」が消滅し、ナポレオンのベルリン入城を許すことになる。
結局、ドイツは1814年までナポレオン・フランスによって支配され、これはドイツ人にとって「民族的恥辱」以外のなにものでもなかった。
ただナポレオンが、イギリスに対抗するためにベルリンで発した「大陸封鎖令」は、ヨーロッパ諸国の反感をかい、プロイセンは、ロシア・オーストリア・スウェーデンと同盟を組み、1813年のライプツィヒの戦いでフランスに勝利することができた。
また、バイエルンやバーデンがフランス側の戦線から離脱し、ナポレオン寄りの「ライン同盟」も瓦解する。
ナポレオン没落後、フランスは王政復古、共和政、第二帝政へすすみ、そのプロセスにおいて1870年までの仏独関係の争点となるのは、「ライン左岸」(ラインラント)であった。
ナポレオン3世の第二帝政では、フランスは緒戦に勝利し、そのの威光を高めるが、フランスがニースとサヴォイアを併合したことで、次は「ライン沿岸」を攻めるのではないかという不安をドイツ側が抱いことは重要であった。
プロイセンの宰相ビスマルクはこの外圧のフランスの脅威を利用して、「ドイツ統一」をなしとげんと企図することになる。
その後、フランスとの間で「スペイン王位継承問題」が火種となって「普仏戦争」が起こり、用意周到だったプロイセン軍が圧勝。ナポレオン3世はセダンで捕虜となっている。
ナポレオン3世は解放されるものの、フランスに対して「アルザス=ロレーヌ地方」のドイツへの移譲や50億フランの支払いなど苛酷な要求をつきつけた。
さらに、普仏戦争でともに戦ったプロイセンと南ドイツ諸国は「ドイツ帝国」の成立を宣言し、ついに「統一国家」が実現したのである。
そして、この宣言はなんとフランスのシンボル「ヴェルサイユ宮殿」で行われたのである。
その後の第一次世界大戦において、ドイツは同盟国側として、フランスは連合国側として戦い、1919年1月からパリ講和会議が始まり、6月にヴェルサイユ宮殿で「ヴェルサイユ条約」が結ばれる。
この条約では、フランスによるドイツに対する「報復」という面が強く現れ、「アルザス=ロレーヌ」のフランスへの返還や膨大な賠償金を課す。
このドイツにとって屈辱的な条約が結ばれた「ヴェルサイユ宮殿」は、普仏戦争後にドイツのヴィルヘルム一世が戴冠式(ドイツ帝国成立)を行った場所であることを鑑みると、「勝者と敗者」のリアルはなんとすさまじきものか。
その後、賠償金の支払いが出来ないドイツに対して怒ったフランスはドイツのルール地方を占領する。
そうした中、ヒットラーがミュンヘンで決起し政権打倒を企てるも、これは失敗。だがその17年後に、ナチス・ドイツのヒットラーがフランスを占領する。

日本トイザらスはその2年前、アメリカのトイザらス社と日本マクドナルド社の合弁会社として設立された。
「トイザラス」ではなく、「トイザらス」なのはそういうことなのだろう。