愛と野望の果て

中国近代史において、いつも英雄たちの陰にいたのが、浙江財閥の代表といわれる「宋家」であった。
浙江財閥とは1920年代末から30年代後半にかけて上海を本拠に中国経済界を支配した浙江省・江蘇省出身者を中心とする資本家の一団である。
アメリカ資本との繋がりが深いのが特徴である。
創業の宋嘉澍(そうかじゅ)は海南島の商人の家に生まれた。叔父に連れられてアメリカで茶や絹の商いを学んだが、10代なかば、養父でもある叔父の元を飛び出し、密航を企てた。叔父は嘉澍が抱く学問への思いにつき無理解だったようだ。
幸い乗り込んだ船長の好意で、敬虔なキリスト教メソジスト教会の信者に預けられ、バンダービルト大学神学部に学び、14年間のアメリカ生活を終えて、中国の開拓伝道へと派遣されることになった。
帰国後同じくメソジスト教会の女性と結婚して生まれたのが、靄齢(あいれい)・慶齢・美齢の三姉妹および三兄弟(子文・子良・子安)である。
宋嘉澍は、当初聖書の出版・印刷で成功して、製粉業や製麺業に投資し金融業に進出した。
そんな宋家の運命は、ひとりの男の訪問によって急旋回していく。
中国は日清戦争で敗れるなと、予想外の弱さが露呈され、清王朝を倒して近代的国家を作ろうと志す若者たちが各地に現われていた。
そんなひとり孫文が、革命に必要な軍資金を集めるために、躍進著しい宋家を訪れたのだ。
孫文は医者を目指して、兄を頼ってハワイにいきキリスト教の洗礼を受けている。それは宋嘉澍と重なるものがあり、孫文の気宇壮大なビジョンに共鳴し、伝道よりも革命に命を注ぐべきことを決意し、事業の合間をぬって孫文を助けた。
そして、宋嘉澍の次女の宋慶齢は孫文の秘書となり、その二年後、亡命先の東京で二人は結婚する。
孫文の国民党は、そうした援助をうけて次第に大きな力を得て、ついに清朝を倒して辛亥革命を成功させ、「中華民国」が成立する。
慶齢は振り返って、「辛亥革命は20世紀で最も偉大な出来事です。4億の民が4千年の君主制のくびきから解放されたのです。私は中国を救うのを助けたいと思っていました。孫文博士はそれができるただ一人の人でした」と語った。
さて、国民党は「三民主義」に基づいて資本主義を目指すという方向性をもっていたが、その一方で社会主義を目指す「共産党」も勢力を伸ばしていた。
コミンテルン(ソ連の共産党の国際組織)の指導のもとに中国共産党が成立したのだが、コミンテルンは国民党にも積極的にはたらきかけていた。
何しろ「封建主義→資本主義→社会主義」という発展段階をへて社会主義は実現するという考えから、中国において封建制的な部分を倒すブルジョワ革命が必要であり、その点では国民党にも期待していたのだ。
理想家であるとともに現実主義者である孫文は、これに応えてコミンテルンの援助を受け入れ、共産党員が党籍を維持したまま国民党に入党することを認めた。
こうした「連ソ容共」の考えの下で、最初の「国共合作」が成立したのである。
しかしその翌年の1925年、孫文は病に倒れ、59歳でこの世を去った。
翌年、国民党は中国の軍事的統一を目指して、革命軍を広州から北上させた。北には国民党に服さない、封建制のなごりというべき「軍閥」が割拠していたからである。この時「北伐軍」の総司令官に任じられたのが蒋介石である。
蒋介石は、孫文の遺志を受け継ぎつつ「北伐」を続けるやに見えたが、上海に至るや突然にその矛先を共産党に向けたのである。
上海では、共産党に影響された労働者の騒動が絶え間なく起こっていたが、ここに至って蒋介石は、孫文とは明らかに違った路線を歩むことを内外に示すことになった。
この蒋介石の上海「反共クーデター」によって、700人もの血が流れた。
武漢にあった国民党政府(汪兆銘中心)にいた宋慶齢ら国民党・中央執行部は、蒋介石に対し国民党からの「追放」を宣言したものの、実質的な武力を掌握していたのは蒋介石である。
何しろ蒋介石は軍人達がかつて学んだ「黄埔軍官学校」の校長で、誰も逆らえなかったからだ。
蒋介石は実質的な力を失った武漢政府にかわり、南京に新たに「国民党政府」を作りあげる。
蒋介石は宋慶齢に南京政府への参加を促したが、慶齢は「蒋介石を裏切りもの」と攻撃。蒋介石はもはや孫文博士の後継者ではなく、国民党は革命のための党ではなく、奴隷制度にとりついた太った寄生虫にすぎないとまで批判した。
さらに慶齢を苦しめる出来事がおきる。妹の美齢があろうことか裏切り者の蒋介石と結婚したのだ。
蒋介石に美齢との結婚を強く勧めたのは、三姉妹の長女・靄齢であった。
靄齢は当時妻帯者であっ蒋介石を説得し、離婚させた。
靄齢の夫は国民党政府の財政部長の孔祥熙(こうしょうき)である。
靄齢は美齢を蒋介石と結婚させることで宋家の権力を盤石なものとしようとしたのである。
靄齢は蒋介石にささやいた。「あなたはいまや重要人物になりつつある。だがその地位はもろい。宋家を通じて上海の銀行家から資金を引出しあなたに提供しよう。武器を買うためのお金も援助しよう」。
ニューヨークタイムズは、この結婚を「(蒋介石)が中国での影響力を高めるための政略結婚」と一面で報じた。
そして孫文の未亡人・宋慶齢はこの段階で、蒋介石と結んだ宋一族とは一線を画して、共産党ともコンタクトを保っていく。
ともあれ、妹の美齢こそが中国のファースト・レディーになったのだが、このころ中国は日本との全面戦争に突入していた。
国民党政府があった重慶は、日本軍の空爆で5年間も無差別攻撃を受けていた。
そこで「抗日」よりも「反共」に走る蒋介石政権に対する抗議運動は、各地で広がっていった。
そんな折、蒋介石が北方の視察のために西安にある楊貴妃の保養地(華青池)を訪問した時、晴天の霹靂ともいうべき事件が起きる。
北方軍閥の雄・張学良によって蒋介石が拘束されてしまったのだ。しばらくは蒋介石の生死さえ不明であった緊迫の時間が過ぎていった。
しかし父親(張作霖)を日本軍に爆殺された張学良の目的は、蒋介石を殺すことではなかった。国民党が共産党と戦うのをやめて、日本軍と共に戦うという「方向転換」を蒋介石に説得するためであった。
その西安には、共産党の周恩来や蒋介石夫人・宋美齢も急ぎかけつけた。突然現われた妻を見て、蒋介石がどんなにか驚いただろう。
この時にどのような説得が為されたのか、今から約50年前のNHKの単独インタビューで、立て板に水の張学良が、その核心に来ると急に押し黙ったのが印象的だった。
ともあれ、拘束から約10日後に解放された時、蒋介石は孫文がかつてた様に共産党と手を組み、日本軍と対決する(抗日)に方向転換したのである。
これが、第二次の国共合作で、第一次の国共合作と決定的に違うところは、張学良らの北方軍閥も「国民党」へと旗幟を変え「国民党」の旗(青天白日旗)を翻したという点である。
これで、北方軍閥を利用して中国東北部への勢力を伸ばそうとした日本軍の目論見ははずれることになる。
そして二度目の「国共合作」で、上海クーデター以降引き裂かれていた宋家の三姉妹も相まみえ、3人で日本軍の攻撃地域を視察した。その時の映像は世界に発信され、国際世論は中国に傾いていった。
日中戦争が長引く中、蒋介石の妻で三女の美齢は、さらなる手にうってでる。アメリカの軍事支援をえるためにワシントンに乗り込んだのだ。
美齢は米国議会で「あなたがたは中国とともに、情熱をもって協力し、侵略者たちが人類を血塗られた運命に導かれないように平和世界びための楚を築くことに尽くさねばなりません。これは我々のためだけでなく、すべての人類のためです」と訴えた。
美齢は留学先のジョージアでみにつけた流暢な英語と凛とした美貌とでアメリカ人の心を掴んだ。
美齢の支援要請により、アメリカの中国への軍事支援が本格化した。
後のカイロ会談の際、蒋介石・チャーチル・ルーズベルトに並んで通訳の宋美齢もテーブルについた。
チャーチルは「カイロ会談で美齢はとても魅力的で彼女の印象しかなかった。蒋介石が何は話していたのか、ほとんど覚えていない」とまでいった。
チャーチルのユーモアかも知れないが、実際この頃、世界が宋美齢ペースで動いた感じさえあった。
こんな言葉が語られた。「ひとり(慶齢)は国を愛し、ひとり(美齢)は権力を愛し、ひとり(靄齢)は富を愛した」。

新しい国家の誕生と共に、上海の共同租界では、これまで禁じられてきた女性の散髪が大流行する。「東洋のハリウッド」とよばれた上海映画界にひとりの女優がデビューする。
「藍蘋(らんぴん)」のちに江青と改名し、毛沢東の妻となる女性である。
藍蘋は女優としては大成せずスキャンダルを起こし、上海の映画界から追放される。
藍蘋が流れ着いたのは、上海から1300キロ離れた共産党の根拠地・延安である。
蒋介石の弾圧から逃れた共産党は、ここで農民を主体とした革命を目指していた。
藍蘋はこれまでのスキャンダルを隠すために、「江青」と名前変えた。
共産党は識字率の低い農民に共産主義の思想を教えるために「演劇」を利用した。江青はここで演劇の指導者となり、再びスキャンダルを起こす。
相手は共産党の指導者毛沢東である。当時毛沢東には妻がいた。江青はその妻が療養で不在の間に毛沢東に接近する。
やがて毛沢東も江青にひかれ妻と別れて結婚したいと言い出した。
党の幹部たちは猛反対したが、毛沢東は江青と結婚できないなら共産党を離れると言い出すしまつ。
仕方なく幹部たちは条件付きでその結婚を容認した。その条件とは、「今後、江青が公に毛沢東夫人を名乗らないこと。そしてその地位を利用して政治に参加しないこと」であった。
そして1945年8月、日本が敗れ終戦、宋姉妹(慶齢・美齢)は共に勝利の喜びを分かち合った。
しかしその喜びも長くは続くかなかった。
日本軍という共通の敵がいなくなると、国共の再び内戦がはじまり、宋姉妹は再び敵と味方に分かれることになった。
最終的には共産党が内戦に勝利し、敗れた蒋介石は美齢および100万の国民党軍とともに台湾に逃れた。
長女の宋靄齢は一家の不正が発覚しアメリカに渡っており、中国に残ったのは慶齢だけだった。
共産党は孫文の未亡人宋慶齢を国家副主席の一人にした。それは、孫文の正統な後継者は共産党にあることを示すためだった。
新中国建国の8年後、毛沢東国家主席がソ連を訪問をする。社会主義国どうしの同盟を結び、ソ連と軍事協力を約束するためであった。この時、毛沢東とともに外交団の顔となったのは慶齢であった。
しかし、慶齢と毛沢東との信頼関係はすでに崩れていた。
きっかけはこの年、毛沢東がが共産党を批判する知識人を弾圧する「反右派闘争」を始めたことだった。
宋慶齢は、共産党の機関紙「人民日報」に毛沢東にあてた手紙を公開する。
「かつて中国では、市民」が自分たちの意見を述べたり抗議したりすると、デマゴーグ扇動者とみなされ逮捕されたり、拷問されたり、処刑された。しかし社会主義国である我々はそのようなことをしてはならないのです。 経済や社会の法則を使いこなし、人間らしく問題を解決すべきです」。
毛沢東は激怒し、「もし中国の変化をみたくないのならば、台湾でも香港でもアメリカでもいきたいところにいけばよい。私はとめません」と応じ、慶齢はやがて政権中枢から遠ざけられた。
1959年、毛沢東にかわって新たな国家主席が誕生する。毛と同郷の序列2位であった劉少奇である。
ファーストレディとなったのは23歳年下の王光美である。
大学で原子物理学を学んだ才媛で、英仏露語が堪能で夫の通訳として活躍し、その優雅な立ち居振る舞いが賞賛をあびた。
その姿をみて嫉妬の炎をたぎらせたのが江青であった。
この頃毛沢東は「大躍進」の失敗で劉少奇らに主導権を握られていた。毛沢東は権力の座に返り咲くための工作を密かに江青に命じた。
毛沢東との結婚の際になした党幹部との約束を破って、江青はついに政治の表舞台に出た。
北京大学をはじめ大学をまわり、毛沢東が若者による「新たな革命」を待望していると煽った。
紅衛兵大会に出た学生達は、「父達が成し遂げた革命に我々の世代は参加できなかったが、再び革命を甦らせよ」と皆興奮して、喜びの涙さえ流した。
これが文化大革命のはじまりで、毛沢東夫妻の真のねらいなど知る由もなかった。
江青に先導された学生達は「紅衛兵」を名乗り、「毛沢東語録」を反共分子に突きつけた。
そして紅衛兵の暴走は、エスカレートしていく、伝統文化を破壊し、旧い思想の持ち主をブルジョアとののしり、時には死に至らしめた。
攻撃の矛先は支配層、知識人、教師、果ては自分の親にまで及び、紅衛兵大会からわずか1か月で1万人以上の命が奪われた。
そして毛沢東と江青は、国家主席・劉少奇と王光美夫妻の失脚という本来の目的にむかう。
江青は紅衛兵の前で涙を流して「王光美は外遊の際、私の進言を無視しネックレスをつけた。ネックレスはブルジョワ的で、悪い女だ」と批判した。
江青のよびかけで王光美の批判大会に30万人の紅衛兵が参加した。王光美も学生達がピンポン玉で創ったネックレスをかけられた上で罵倒された。
そしてアメリカのスパイと濡れ衣を着せられ12年間投獄される。夫の劉少奇も紅衛兵に容赦なくつるし上げられ、裏切り者として党から除名され、1年後に幽閉先で亡くなった。
この頃政治の表舞台から遠ざかっていた宋慶齢は、毛沢東に手紙を送りその理不尽さを訴えた。
実は慶齢も江青によって「打倒すべき人物」の筆頭にリストアップされていたが、周恩来の働きでかろうじて免れていた。
1972年、ニクソン大統領の電撃訪問で世界の目が中国に集まった。
江青は病気の毛沢東に代わってホストを務め、かつての王光美よりも多くの目が自分に注がれたこの時、江青は得意の絶頂にいた。
しかし、夫の毛沢東が1976年7月に亡くなった。
江青を中心とした4人組が密かに政権奪取のための蠢動をみせたが、先手をうったのは、毛沢東に不満を抱いていた党幹部達であった。
毛沢東の葬儀からわずか半月後に4人組が逮捕された。
江青は文化大革命を主導し国を混乱させた罪に問われ、裁判の傍聴席には12年間の獄中生活から釈放された王光美の姿があった。
四人組に死刑判決が出て、その後江青は自ら命を断った。「毛主席 あなたの生徒、あなたの戦友が、今あいにゆきます」というメモを残して。
文革終了の3年後、劉少奇の名誉が回復され、劉少奇追悼式典では宋慶齢と王光美が抱き合う姿があった。
また、宋美齢は蒋介石の死後台湾を離れ晩年の38年間をアメリカで暮らし105歳までも生きた。
晩年美齢は、台湾の若者の海外留学を支援する活動に尽力し、私財を投じて台湾の若者に海外で学ぶチャンスを与えた。
その中に2016年に台湾初の女性国家総統となった蔡英文がいた。彼女のイギリス留学にあたり、書類にサインしたのは宋美齢であった。