菅生事件~小説より奇なり

1940年代末から50年代にはじめにかけ、日本には「革命前夜」の雰囲気がなきにしもあらず、であった。革命とは「社会主義革命」のことである。
1949年11月、中華人民共和国の劉少奇は、中国共産党流の武装闘争方式を日本を含むアジアに広げる見解を打ち出した。
これはソ連のスターリンとの相談に基づくものだった。
毛沢東率いる中国共産党が農村を拠点として、中華人民共和国を建国成功したのに倣い、農村を起点にして社会主義革命を起こそうというものである。
本家ソビエトの方はどうであったか。1874年春、知識人は「人民の中へ(ヴ・ナロード)」という言葉通り、都市を出て村落へ向かい、小作農らに反乱を説得して回った。
これを「ナロードニキ」というが、彼らはほとんど支持を得ることはなかった。
近代化した都市部の文化から隔絶していた農民たちから不審者として扱われ、自警団に追われて農具で回復不能の暴行を受けたり、魔女と見なされて裁判にかけられ火刑に処された者も少なくなかった。
せいぜい農村に溶け込むために、衣装や踊りといった小作農の慣習を学んだくらいだった。
結局ナロードニキは、数千の小作農の支持を得て反乱を起こしたが、ただちに容赦なく鎮圧された。
この弾圧に対して、ロシア初の革命グループ「人民の意志」が組織され、ロシア革命への端緒を開いたものとみなされている。
日本の「山村工作隊」は、ソ連・中国の共産党の指導のもとに活動した日本共産党のテロ組織であったが、ナロードニキ同様に住民からの支持は得られなかった。
封建地主を攻撃する紙芝居などの芸術文化活動は住民に受け入れられず、新聞や情宣ビラは、そのまま警察官に渡された。
例外は派遣された医師班による巡回診療で、多くの無医村であった活動地域で好感を持って受けとめられたぐらいであった。
そして朝鮮戦争の勃発に伴い、連合国の日本占領政策は民主化・非軍事化から、反共の砦・再軍備へと大きく変化し「逆コース」といわれた。
1952年7月「破壊活動防止法」施行に伴い、「公安調査庁」が発足した。
結局、日本の農村で暴力革命への支持は広がらず、逆に日本共産党候補者全員落選などの反発を招いた。
日本共産党は1955年7月第6回全国協議会(六全協)で武装闘争路線を否定した。
党の方針に従い、学業を捨て山村工作隊に参加した大学生もおり、参加者は「六全協」の方針転換に深い絶望を味わった。その一方で武装闘争を引き継いだ者は「新左翼」を名乗り、国内外で事件を引き起こした。

柴田翔の小説「されど我らが日々」に山村工作隊や「六全協」が登場するが、こうした時代を背景にして起きたのが「菅生(すごう)事件」。
最近、大分から熊本に向かう豊肥本線に乗車して8番目の駅「菅生駅」に停車した時、名前だけ聞いたことのある「菅生事件」が脳裏に浮かんだ。
1952年6月2日、大分県菅生村の駐在所が何者かに爆破され、直ちに日本共産党員ら5名が逮捕・起訴された事件である。
被告人全員が事件との関係を否定したが、一審大分地方裁判所で全員有罪となる。
菅生事件を調べてみていえることは、「事実は小説より奇なり」ということ。
菅生の青年党員後藤秀生は、もう一人の党員とともに朝鮮戦争反対、軍事基地反対のビラを配って松井製材所の横を通った。その時、道路脇で20代半ばの青年が材木の整理をしていたので、その宣伝ビラを渡したところ、彼はこだわりなくそれを受けた。
その奥で十数人の労働者が働いていたので彼らに配ろうとすると、青年は自分が配ってあげようといった。
地主で村の大ボスの経営する松井製作所にシンパの青年ができたことは後藤を勇気づけた。
そんな後藤に、党地区委員会から「危険だからモグレ」という連絡があった。
後藤は身の危険を感じたものの、阿蘇山系の300戸そこそこの村のどこに身の隠し場所があるのか。
後藤の苦境に同情してくれたのは、元校長で村長もやった老人で、この旧家である菅家で昼間にビラを作り、夜に村内を廻ってビラをまくことぐらいであった。
そんな後藤に、夜10時半ごろ「後藤君じゃないですか」と突然声をかける者があった。暗闇の中から呼び止めたのは、松井製材所でビラ配りを手伝ってくれた青年だった。
初めて「市木春秋」を名乗った青年と後藤は、人気のない菅生神社の境内で話をした。
市木は大牟田の三井染料に勤めていてたが、病気でクビになった。兄の友人が竹田にいて、その人の紹介で松井製材所に勤めることになったが、後藤の活動には本当に敬服しているという。
松井製材所は就業規則もなく16時間働かされ、みな不満を抱いているので、労働組合を作って待遇改善を要求したいのだが、相談に乗って欲しいというもののだった。
二人は協力を誓いあい、市木は豆腐屋の工藤祐次という中学生が毎日製材所に燃料を買いに来るので、この少年を連絡係にすることを提案した。
以来、市木から後藤へ連絡が来るようになり、やがて後藤から「入党申込み」の相談さえあっった。
さてその年の5月1日は「血のメーデー」とよばれ、皇居前は騒然たる空気に包まれていた。
メーデーの晩、元校長の菅宅に身を寄せていた後藤は、受験勉強中の菅家の末男と連絡係の中学生、そして市木春秋を交えてラジオのニュースを聞いていた。
10時を過ぎて帰ろうとすると市木が、全国の仲間たちは、警察の弾圧をけって戦っている。それなのに菅生では何もしていないことを申しわけなく思う。
警察は、農民組合員をおどかしたり、仲間割れをつくるために卑劣なスパイ活動をしている。巡査のやり方には我慢できないので、警察に抗議しようという。
みな賛意をしめしたものの誰も抗議文を書こうとしないので、市木は自ら脅迫文を書き、三人を誘って駐在所にしのびより、窓からそれを投げ込んだ。
「血のメーデー事件」の背景には、その3日前に発効した日米安保条約への不安・反発があり、朝鮮戦争を背景に米軍基地・演習地問題が各地に緊張を引き起こしていた。
阿蘇・久住一体実弾演習場とするために、二万町歩の土地接収が行われるかもしれないというニュースに、久住町の農民1500人がムシロ旗を押し立て、この集会に菅生の農民組合とともに後藤も加わった。
久住から菅生に返ってきた後藤秀生はさっそくビラの原稿を書く必要を感じた。
ちょうど市木が差し入れをもって訪ねてきたので、模造紙が必要だというと、市木は近く竹田に用事があるから買ってくるといって帰って行った。
そんな時、孤軍奮闘の後藤の地下活動の応援に、坂本久夫が派遣されてきた。
その頃、菅生のシンパの女性がいる洋裁店にも市木が頻繁に通っているという情報があり、坂本は後藤に、「市木は本当に大丈夫か」と尋ねた。
後藤もその点を市木に直接問い正そうと思った矢先、市木から少年を通じて、竹田でポスターカラーを買ってきたので、夜12時に中学校に来てくれという連絡がはいった。
後藤と坂本は、どこか落ち着きのない市木と会ってポスターカラーを受け取った後に中学校の正門を出ると、後方の駐在所付近でドカンという音がした。
本能的に逃げようとすると、「後藤待て、坂本待て」の声が聞こえて、道の両側から多数の人影が寄ってきて暴行の上押さえつけられ逮捕された。
逮捕の理由は、駐在所に爆弾を投げんこんだという容疑だったが、もちろん二人には身に覚えのないこと。
前後の状況から見て100人近い警官隊の出動があって、その厳重な監視下で菅生警察署に爆弾が投げ込まれたらしいことがうかがわれる。
そして不思議だったのは、市木春秋が闇にかき消されたように、以後その姿を消し去ったことである。

大分県中津市に住む清源(きよもと)敏孝弁護士は、翌日の新聞を読んで「これは完全に仕組まれた事件ではないか」と直感し、すぐに大分市に飛んで被告たちに面会した。
果たして後藤秀生、坂本久光の二人の被告は口をそろえて、「自分たちはやっていない」と清源弁護士に訴えた。
結局、主犯格と目された後藤秀生は、大分拘置所に送られ、既決囚の独房に収監された。
外部とのいっさいの接触を断たれたこの独房で、25歳の若者をかろうじて支えたものは、市木春秋という「謎の人物」の正体を明かさねばならないという使命感だった。
独房生活も1年になろうとする1953年の春、後藤の秘められた情熱が天に通じたのか、「夢のような」ことが起きた。
山村工作部隊の事件と相前後して、朝鮮戦争を背景に、在日朝鮮・韓国人の団体のあいだで、各地に”南北戦争”がまき起こり、大分県でも大規模な抗争が繰り返されていた。
ある日、空房を隔てた隣の房に朴某と名のる民団系の幹部らしき人物が放り込まれてきた。コンクリートの壁を鳴らして互いに声をかけあい、巡回看守のすきをねらって話をした。
後藤が竹田から来たというと朴は驚くべき話をした。
「豊後竹田なら菅生事件が起きているのを覚えているか。市木というサツの送り込んだスパイがいて、幹部の一部しか知らないので、現場で市木が捕まるという滑稽なことが起こった。幹部が大慌てで、この男は福岡に余罪があるということにして警察の車にのせて移送してしまった。そして裁判の経過をみはからって東京へ送った」という。
後藤は一条の光を見出し、弁護士を通じて市木春秋の存在を浮き彫りにするために必要な証人の申請を行ったが、ことごとく法廷で却下された。
そして1955年7月、33回の公判を重ねて大分地裁にて、「後藤被告懲役10年、坂本久夫被告懲役8年」という判決がでた。
翌日、清源弁護士の無縁の陳述が地方紙の紙面に掲載された。
菅生事件の控訴審は場所を福岡高裁に移して開かれ、事件がようやく世論の注目を集めるようになった。
というのも、爆破の科学鑑定や細かい現場検証などで冤罪事件(つまり警察の自作自演)の疑いが深まっていたからだが、核心は「市木春秋」を探し出すことにかかっていた。
九州各地の労働組合により、九州方面にあって事件の起きた日から突然姿を消した警察官はいないか、よびかけが行われた。そんな中、後藤の身辺から耳よりの情報が上ってきた。
それは被告団のガリ版刷りのボランティアをかってくれた青年の兄からの伝言だった。
「自分は高校教師の立場上、直接面会には行けないが、遠縁にあたるもので3年前にぷっつり姿を消したものがいる。まさかとは思うが、ひとの噂では東京に行き、警視庁にいるといわれている」。
その男の名は「戸高公徳(とだかきみのり)」までわかったが、後藤だけしか知らない「市木春秋」と同一人物であることを確かめなければならない。
写真が手に入らないならば、裁判はひっくり返せぬまま、論告・求刑へと進んでいってしまう。
そして運命の9月28日結審の日がやってきた。
まさにその日、山村工作隊の活動で逮捕・保釈中の人物が、一枚の写真をもって法廷に駆け込んできた。
別府に戸高公徳の同級生がいて、15年前の鶴崎工業学校の卒業写真をもってきたというのだ。
小さな写真ながら、法廷で後藤は、鼻と口など市木の特徴を見出し、「この男が市木に間違いありません」と弁護団に断定した。
検察側は「そんなバカな、市木などデタラメだ。写真を見せてほしい」と喰い付いてきたが、後藤はそれを拒否した。
必要な証拠がそろうまで、この写真は見せるわけにはいかない。今写真を見せると権力によって隠滅される恐れがあると判断したからだ。
とはいえ卒業記念写真の力は大きかった。結審は取り消され、後藤と坂本の証拠集めには「保釈」が欠かせないという申請も、すんなりと認められた。

後藤秀生は、市木春秋の実像をあばく必要があった。15年前の市木と推定される不鮮明で小さな写真では証拠として不十分であったからだ。
卒業写真がだめなら結婚写真ならどうであろう。
そう絞り込んで探そうとした矢先、またもや幸運の女神がほほえんだ。
後藤がシベリアで一緒にいた元憲兵隊の男が別府のシンパで、その男の奥さんが婦人警官だった。
彼女が、地元新聞に卒業記念写真からとって拡大した市木春秋の写真が掲載されたのを見て、アレッと声を出したのだという。
後藤は「彼女に会わせてくれ、それもふたりきりで会わせてほしい」と訴え、この元婦人警官に会うことができた。
なんと彼女は婦人警官時代に市木春秋こと戸高公徳を知っていたどころか、思いを寄せていたのだという。そして戸高の夫人となった女性とは女学校も同期、婦人警官も同期だったのだ。
後藤はさりげなく、いわば「恋がたき」だった戸高夫人のことに話題をしぼり、戸高について聞き出した。
そして戸高夫妻の結婚をとりもったある警察署長のことが話題に上った時、警察署長の処にいけば結婚式の記念写真があるにちがいないと閃いた。
今更ながら、公判で戸高の名を秘していたのは賢明だったこと思った。まだ誰も、戸高が菅生裁判の焦点にたっているとは気づいていないからだ。
戸高夫妻の媒酌人の宅を訪れた後藤は、戸高夫人の「昔の知り合い」を装った。
長いことシベリアに抑留された者だと語り、戦争に行く前に戸高夫人となっているA子とは隣づきあいの間柄であったが、一目会いたいと思いながら住所がわからず困っている。お宅に伺えば何かわかるのではと。
それは迫真の演技だったようだ。一晩泊めてもらい、ごく自然なかたちで結婚写真を借りだし、気づかれもせずに複写まで出来たのだという。
事件の2年前、大分市内の春日神社で写されたその写真は、百万の証言にまさる有力な証拠品となった。
保釈1か月余、「市木春秋」の実像を描く証拠はほぼ出そろい、12月4日に行った記者会見は翌日の新聞の社会面を埋め尽くした。
だが戸高公徳の所在は依然不明で、マスコミは「消えた警察官」の行方を追った。
そして共同通信特捜班が新宿番衆町のアパートにいる戸高をつきとめ、福岡高裁の控訴審に戸高が証人として喚問されることになった。
1958年6月9日ついに判決が出た。「原判決を破棄する」。言い換えれば菅生村駐在所爆破事件は無罪となった。
しかしながら、判決は交番内部に爆発装置を仕掛けた「真犯人」を特定することなく終結した。
2012年 菅生事件60年の節に事件のことを風化させないということで有志によって事件現場の直ぐ近くに「記念碑」が建てられた。
碑文には「謀略、暴力、弾圧のない社会を 菅生から日本、世界へ」とあり、説明書きには「 菅生事件は1952年6月2日深夜、菅生駐在所が権力の手によって爆破された政治的謀略事件であった。5年に渡る裁判は広範な人々の運動によって、5名の被告全員が無罪を勝ち取った。二度と権力による謀略、暴力、弾圧を繰り返させないために、これを建てる」とある。
ちなみに、戸高公徳はその後、有罪となるも刑を免除され警視庁において異例の出世をとげている。
菅生は現在大分県竹田市に含まれるが、竹田といえば「荒城の月」の岡城跡があまりにも有名である。
また、大友宗麟がキリシタン大名であったためにキリシタンが多く、禁教令以後は山中だけに多くの隠れキリシタンが身をよせた処でもある。
方向も信条もまったく異なる「山村工作隊」の活動であったが、その冤罪を晴らした当事者そしてマスコミの働きの上に、天が微笑んだということだろうか。