スコットランドの風景から

2022年9月8日、イギリスのエリザベス女王が亡くなったが、その亡くなった場所がスコットランドと聞いて少し意外だった。
イギリスといえば「連合王国(UK)」であり、それを構成する4つの国スコットランド・イングランド・ウエールズ・北アイルランドは、すべてが同じ方向を向いているわけではない。
エリザベス女王は、スコットランドのアバディーンシャーにある「バルモラル城」でお過ごしであった。
「バルモラル城」は現在、イギリス王室の離宮として、王室一家が毎年夏の避暑地に使用しており、在位中所有者であった女王エリザベス2世とその夫エディンバラ公フィリップも生前毎年夏の避暑地としていた。
エリザベス女王崩御ののニュースの少し前NHKBSの番組で、空からクルージングで「スコットランドの風景」が流れていたのを思い出した。
この映像の中に、「パルモラル城」を探してみたが、そこには登場していなかった。
パルモラル城のある「アバディーンシャー」は西の北海に位置している。
というのも、この番組のタイトルは「スコットランド・ハイランド横断紀行」で、ハイランドはスコットランド北東部の地域で、島嶼部が多い地域である。
そんな島々でも「アルサグレイグ島」は無人島ではあるものの、「カーリング発祥の地」スコットランドにとっては貴重な島である。
なぜなら、この島で産出する超高級の花崗岩は、カーリング・ストーンで使用されているからだ。
クライド湾に面したこの島は、18世紀半ばスコットランド宗教改革においてカトリックに避難所になっている。
「カーリング・ストーン」は、この島からの花崗岩しか使われず、一石160万円という高額である。
さてスコットランドの北西部の高地「ハイランド」は、スコットランド人にとっての「心のふるさと」といわれる。その所以は、そこに壮絶な歴史が秘められているからだ。
古くよりハイランド地方に定住したケルト人は、「タータン」と呼ばれる羊毛の織物を普段着としていた。防寒性・実用性に優れたタータンをまとった"ハイランダー"は、古来より勇猛果敢な戦士として知られていた。
NHKBSの「スコットランド・ハイランド横断紀行」には、そんな勇猛なハイランダーを忍ばせる遺跡が次々に登場した。
「ゴーター城」は、シェークスピアの「マクベス」の舞台と知られる、14世紀に建てられて以来ずっとゴーダー伯爵家が所有している。
この「ゴーター城」には、どういう趣味なのか庭園は植木を使って入り組んだ迷路を作り、その中心にはギリシア神話の「ミノタウロス」の像が立っている。
「ミノタウロス」とは、迷宮といわれたギリシア・クノッソス宮殿に住むといわれた「半牛半人」の怪物である。
ハイランド西部の「インヴァネス城」は、古い要塞跡に1835年に建てられ、現在は裁判所として使われていて、庭園には「フローラ・マクドナルド」の像が立っている。
後述するが「フローラ・マクドナルド」は、スコットランド独立のために戦ったプリンスの逃亡を助けた女性として知られている。
日本では、福岡の勤王の女流歌人である野村毛東尼と高杉晋作の関係を、幾分思い起こさせる。
また、ハイランドを流れ北海にそそぐ「スペイ川の流域」には、スコッチウイスキーの醸造所が密集している。
「スコッチウイスキー」といえば、「マッサン」こと竹鶴政孝を思い起こす。
竹鶴政孝は、当時洋酒業界の雄であった大阪市の摂津酒造に入社し、希望どおりに洋酒の製造部門に配属され、入社間もなく主任技師に抜擢される。
19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで「純国産」のウイスキーは作られていなかった。
そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画する。
1918年、竹鶴は社長の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学んだ。
スコットランドに滞在中、竹鶴はグラスゴー大学で知り合った医学部唯一の女子学生の姉であるジェシー・ロバータ・カウン(通称リタ)と親交を深め1920年に結婚した。
同年、リタを連れて日本に帰国するが、摂津酒造はいよいよ純国産ウイスキーの製造を企画するも、不運にも第一次世界大戦後の「戦後恐慌」によって計画は頓挫してしまう。
1922年竹鶴は摂津酒造を退社し、大阪の桃山中学(現:桃山学院高等学校)で教鞭を執り生徒に化学を教えるなどした。
1923年、大阪の洋酒製造販売業者「寿屋」(現在のサントリー)が本格ウイスキーの国内製造を企画、社長の鳥井信治郎が竹鶴の存在を知り、竹鶴は破格の給料で寿屋に正式入社した。
1924年京都に山崎工場が竣工され、竹鶴はその初代工場長となる。
1929年4月、竹鶴が製造した最初のウイスキー「サントリー白札」が発売されるが、模造ウイスキーなどを飲みなれた当時の日本人にはあまり受け入れられず、販売は低迷した。
その後、竹鶴は寿屋を退社し、スコットランドに風土が近い北海道余市町でウイスキー製造を開始することを決意したが、ウイスキーは時間と費用がかかるため、「大日本果汁株式」として、事業開始当初は余市特産のリンゴを絞ってリンゴジュースを作り、その売却益でウイスキー製造を行う計画であった。
そして1940年、余市で製造した最初のウイスキーを発売し、社名の「日」「果」をとり、「ニッカウヰスキー」と命名した。
スコットランドでウイスキーの蒸留所があるスペイ川は、サーモンフィッシングでも有名であるが、それはちょうど、北海道のを流れるサーモンの棲む川々の風景に近いのかもしれない。
またスコットランド産の牛は、ウイスキーの蒸留所から出る麦のカスを餌にしており、こんなに広々とした草原で育った牛は、さぞや美味であろう。
そんな森と草原を走る「ストラススペイ鉄道」は、廃線になった路線を地元の人々が復活させた路線で、蒸気機関車の煙がたなびく風景は、この地方の風物詩となっている。

恐竜ネッシーで知られるハイランドの「ネス湖」は、イギリス最大の湖、東西36Kmで、最も深い処では水深227mにまでなるという。
その湖畔に佇むのが「アーカート城」。1230年築城で、1269年、イングランド軍に包囲され破壊された。
ネス湖の北に位置する町が「フォート・オーカスタス」。この町で有名なのが6つの水門で水位を調節しながら運河とネス湖を結んでいる。
また、ハートランド東南部の「クレンコー」は、スコットランドで最も美しいといわれる渓谷で、映画「ハリーポッター」の撮影が行われた。
渓谷にある「グレンフィナン陸橋」は、あの蒸気機関車が走る「ウエストハイランド鉄道」が通る。
またこの地方に立つ「グレンフィナンモニュメント」は、18世紀スコットランド独立のために反乱を起こした人々の記念碑である。
スコットランドは、「連合王国」(UK)に属しているものの、固有の法体系をもっており、ハロウイーン、キルト、バグパイプなどの独自の文化をもち、1707年までは独立した王国であった。
スコットランドの歴史は、イギリスからの独立をめざして反乱をおこすなどの繰り返しであった。
1684年「ピューリタン革命」の発端は、スコットランドの反乱である。
1637年、ステュアート朝(スコットランド系)のイングランド王チャールズ1世はスコットランドの長老派教会に対し、国教会の祈祷書を守るよう強制した。それに対してスコットランドの長老派は盟約を結び、イギリス国教会と対決すべく兵力を集め始めた。
それに対して、チャールズ1世は、スコットランドに進軍するも、あえなく敗北。
再度、スコットランド遠征をくわだてた国王は、その戦費を得るために1640年に議会を招集したが、国王と議会の対立が鮮明となり、1642年の「ピューリタン革命」へとつながっていく。
チャールズ1世は処刑され、革命を率いた護国卿クロムウェル亡き後、フランスに亡命していた息子のチャールズ2世が即位し、「王政復古」が実現。
そのチャールズ2世の死後、弟ジェームズ2世が即位するも、1688年に追放。ジェームズ2世の娘メアリー2世とその夫でオランダ総督ウィリアム3世がイングランド王として即位する。
これが「名誉革命」で、世界史の授業は、ここで「一件落着」。しかし、ハイランダーにとってはここからが「戦いの始まり」であった。
「名誉革命」の結末に納得ができなかった一派が「ジャコバイト」(「ジェームズ派」のラテン語)で反乱を起こす。
この「ジャコバイトの反乱」で、反乱軍の主力となったのは屈強の「ハイランダー」達だった。
「王位継承権は、ジェームズ2世の二男であるジェームズ3世にあるはずだ!」。
当人であるジェームズ(老王位僭称者)は、何度かの反乱に敗れたあと、フランスに逃亡するが、これで収まらなかった。
今度は、息子「チャールズ・エドワード・ステュアート」こそが正式な王位継承者であるとして、担ぎ上げられる。
彼は、イングランド側からは「若王位僭称者」と呼ばれ、ジャコバイトやスコットランド人からは親しみをこめて「ボニー・プリンス・チャーリー」(美しいチャーリー王子)と呼ばれ、ハンサムにして勇敢。
大変、魅力的な若者だった。
フランスで育ったボニーは、1745年の「ジャコバイト反乱」に呼応してスコットランドに上陸。 怒濤の進撃を続け、スコットランドの大半を手に入ると、そのまま南下してロンドンを目指す。しかしそれは、イギリスの間隙をついたものにすぎなかった。
イングランド軍が兵力を整えて反撃に出ると、たちまちボニー側は不利な状況に追い込まれる。
ボニーは、カトリック教徒ということもあって、期待したほどの協力も得られず、追い込まれたボニーは、ハイランドへと撤退する。
このとき彼の兵力といえば脱走兵が多く出て、すでに崩壊状態であった。
もはや決着はついているようなものであったが、イングランド軍は、それを指をくわえて見守るほど気が長くはなかった。
ボニーの軍勢は、カロデン・ムアの地に追い詰められていく。
そして1746年4月8日、カンバーランド公ウィリアム・オーガスタス率いる政府軍は、容赦なく彼らに攻撃を仕掛ける。
銃や大砲を装備したイングランド政府軍に対して、ジャコバイトの装備は貧弱で、 槍や剣、あるいはせいぜい農具のような棍棒のみ。
これでは、まるで勝負にならなかった。
ボニーは命からがら戦場を抜け出すが、この攻撃があまりに悲惨であったため、カンバーランド公は「屠殺者」という名で密かに呼ばれるようになるほどであった。
カンバーランド公の配下は、ボニーを追いかけてスコットランド中を探し回ったが、一向に行方をつかめなかった。
一方、ボニーは、「ヘブリディーズ諸島」にたどりつき、そこで、友人を訪ねて来ていたフローラ・マクドナルドという勇敢な娘に出会う。
普通ならば迷惑な話であったが、ボニーはきっと一目でフローラをひきつけたのかもしれない。
フローラは、ボニーを女装させ、「ベティ・バーク」というアイルランド人の侍女だと名乗らせる。
そしてボニーを小舟に乗せ、ヘブリディーズ諸島北方の「スカイ島」へ導き、ボニーはそこからフランスに亡命する。
フローラ・マクドナルドは、その後逮捕されてロンドン塔に収監されてしまう。
しかし、後に釈放され、夫ともに天寿を全うする。
勇敢なジャコバイト女性として、歴史に名を残した。
一方、フランスに亡命したボニーを慕い続け、ジャコバイトの人々の集まりでは、乾杯をするとき「水の向こうの王へ乾杯」と言い合あった。
その「ボニーに乾杯」は、「マイ ボーニー オーバー  ジ・オーシャン」のフレーズで馴染みとなった「スコットランド民謡」である。
日本語のタイトル「いとしのボニー」の曲でも知られている。

チャールズ・エドワード・ステュアート(ボニー・プリンス・チャーリー)の逃亡を助けたフローラ・マクドナルドの墓は、スカイ島にある。
ちょうど高杉晋作の逃亡を助けた野村望東尼の胸像が、糸島半島沖の姫島にあるように。
NHKBSの「スコットランド・ハイランド横断紀行」では、スカイ島の風景が広がり断崖から60m落下する「ミルトの滝」やキルト模様に見える「キルトロック」の断崖絶壁を映し出していた。
我々には馴染みの「キルト」や「ペイズリー」といった言葉は、スコットランドに由来する。
イギリス人のおじさんが、腰にスカート状の布をまきつけて、バクパイプを吹く姿をスコッチ・ウイスキーのコマーシャル。あのスカート状にまいた「キルト」のデザインこそは、タータン・チェックなのだ。
ところで「キルト」はスコットランドのスカート状の伝統衣装で、通常はタータン柄である。
キルトは英語名で「巻く」の意味で、ゲール語では「フェーリア」と呼ばれる。
いわゆる「タータンチエック」とよばれるデザインだが、スコットランドに関わりが深いもうひとつのデザインが「ペイズリー」模様。
「ペイズリー」は、日本では卑弥呼も身に着けていたと推測される勾玉(まがたま)に形が似ていて、「勾玉模様」ともいわれる。
ペイズリーはペルシア起源と言われ、インドのカシミール地方のカシミア・ショールに使われていた伝統文様である。
この植物文様の起源として西アジアに古くから伝承される“生命の樹”がモチーフとする説がある。
19世紀になると、ヨーロッパでカシミア・ショールのコピー製品が作られるようになり、その代表的生産地こそがスコットランドの港町「ペイズリー」だったので、一般的にも 「ペイズリー」 と呼ばれるようになった。
ところで、ヨーロッパで"バロック様式"が最盛を極めた17世紀は、イギリスやオランダの東インド会社が設立により東洋の産物が西洋に流れ込んだ時期でもあり、オリエンタルな影響が非常に強い時期だった。
日本は鎖国の時代であったが、長崎出島の東インド会社支店を通じて日本の文物はヨーロッパにかなり拡がり「ジャポニズム」とよばれる文化現象も起きた。
例えばマリー・アントワネットの母親のオーストリア君主マリア・テレジアは、「伊万里焼」の愛好者であった。
ヨーロッパで17世紀頃つまりエリザベス1世の時代より普及したバロック芸術の「バロック」は、ポルトガル語で「歪んだ真珠」のことをさしている。
とはいえ、歪んだり窪んだりしていればなんでもバロックというわけではなく、それはまさしく"ペイズリーの形"をしたものが多い。
その「ペイズリー」と「バロック」とが、どこでどう影響しあったのかは、よくわからない。
ただ、「ペイズリー」と「バロック」が、共に普及力をもちえたのは、ひょっとしたら「エンブリヨ」、つまり”胎児”を思わせる形象に秘密があったのかもしれない。
それは、日本の弥生時代の「勾玉」にもいえそうだ。