予期せぬ「架け橋」

NHK「映像の世紀/バタフライエフェクト」は、元ドイツのメルケル首相の誕生とベルリンの壁崩壊に至るドイツ史を重ねた番組であった。
ところで、この番組のタイトルとなった「バタフライエフェクト」とは何か。
はるか離れたバタフライ(蝶々)が翅をひらひら動かすと、それがいつしか大きな波動となって、巨大な山さえも突き崩すような広がりをみせることを「バタフライ効果」とよぶ。
「映像の世紀」においては、東ドイツの若き科学者メルケルが、同国のロック歌手ニーナ・バーゲンの曲に未だ知らざる自由の空気を感じたことが、「バタフライ効果」の始まりとなった。
ニーナ・バーゲンは、後に西ドイツに亡命し「パンクの母」とよばれるが、メルケルは自らの退任式における送別曲に、ニーナの曲「カラーフイルムを忘れたのね」を選曲し演奏させている。パンクロック歌手の曲を選んだ首相なんて、前代未聞である。
東西ドイツを隔てていたベルリンの壁は、厚いあつい壁に思われていたが、この壁を崩すバタフライは様々な所に潜んで居て、はるか遠い日本も、例外ではなかった。
さて、秋田県大曲(おおまがり)といえば日本一の花火大会で知られるが、佐藤はもともとは映画監督志望だが、花火師の道を歩きはじめる。
ところが昭和30年代には、テレビなどの普及により花火が飽きられ始めていた。
そこで大曲市は大曲の花火大会の主催権を大曲商工会に任せることにし、その時の商工会実行副委員長兼企画員として活動していたのが佐藤勲であった。
1978年、大曲市長の最上源之助が、西ドイツのボン市を農業視察の目的で訪れた。
その際に最上源之助市長はボン市長に対し、「大曲は日本一の花火大会で有名です。ライン川の古城を背景に打ち上げたら楽しいでしょう」と述べた。
最上市長はこの時、社交辞令的な意味合いで発言したそうだが、ボン市長は「それはいいアイディアだ」と真に受けて日本の花火を打ち上げようという事になってしまい、翌日の現地新聞で「大曲から花火を呼ぶことになった」という風に報じられた。
そして冗談ごとではなくなって、実際にドイツでの日本花火打ち上げが実施されることとなり、この時に指揮をとったのが佐藤勲である。
1979年に、ボン市での花火打ち上げを成功させると、今度は西ベルリンから「市政750年の記念打ち上げ」を依頼される。
佐藤勲は再び、西ベルリンで花火の打ち上げを成功させる。
佐藤はその時の記者会見で、「ベルリンの地上には壁がありますが空には壁はありません」。
「日本の花火はどこから見ても同じように見えます。西の方も東の方も楽しんでください」と、人々の魂に響く言葉を残している。
その言葉が花火の写真と共に、翌日の新聞の紙面を飾った。それは次第に大きな波動となっていく。

小椋桂(おぐらけい)は、名曲「シクラメンの花」を創った時、あえて現実には存在しない「真綿色したシクラメン」という歌詞をいれた。
ところがこの曲のヒットのおかげで、「白いシクラメンの花」が開発され現実のものになった。
「作り話」がひとり歩きして現実になることもある。
東京文京区音羽のランドマークといえば地下鉄の駅名ともなっている「護国寺」である。
「護国寺」といえば、あの「犬公方」とよばれた徳川綱吉が母親のためにつくったお寺。意外にも、NHKの番組などに童謡歌手をたくさんに提供した「音羽ゆりかご会」が、この護国寺内の幼稚園において誕生したことはあまり知られていない。
当時東京音楽学校の学生であった海沼実はアルバイトのつもりで子供達を集めて歌唱の指導をはじめたのであるが、これが日本における「児童合唱団」のはしりとなった。
この音羽に隣接した街が豊島区大塚だが、「ゆりかご会」創立から遡ること約20年の1915年に「大塚講話会」なるものが創設された。
「大塚講和会」は、童話を巡回して子供達に読んで伝えようという口演会であり、「音羽ゆりかご会」もそうした延長上に出来たように推測される。
「大塚講和会」を創立したのは、福岡県士族・井上喜久蔵の子として生まれた下位春吉(しもいはるきち)という人物である。井上家は「士族反乱」に加担したため没落するが、春吉は下位家の養子となり、旧制東筑中学に学んでいる。
東京高等師範学校英語科に進学し、詩人・土井晩翠に師事し、春吉は土井らの影響で、1911年に「大塚講話会」を設立する。
下井は、童話の創作やその語り口(口演活動)を行うと共に、「お噺(はなし)の仕方」という本を出している。
また、師範学校などで教鞭を取る傍ら、東京外国語大学伊太利語科に学びイタリア語を身につけた。
下井は1915年、イタリア文学研究のために単身でナポリに渡り、国立東洋学院(現在のナポリ東洋大学)の日本語教授となった。
ここで日本語を教えながら、イタリアの若い文学者と交流しつつ、与謝野鉄幹・晶子、泉鏡花、吉井勇などの作品をイタリア語訳する。
そして第1次世界大戦末期の1918年、下井はアルマンド・ディアズ将軍と知り合い、将軍から前線の取材をすすめられた。
新聞社の「通信員」として前線に赴いた下位は、まもなくイタリア軍に志願入隊し、戦闘行為に参加した。
下位がイタリアへ向かうことを決意した1915年は、前年7月にオーストリアがセルビアに宣戦布告し大戦が勃発していたのだが、1915年5月にイタリアもオーストリアに宣戦布告している。
この時期にイタリア行きを強行するのは、おそらく戦争が起きることを覚悟の上だったとしか思えない。
下位は最初、日本大使館から「通信員資格」で派遣されたようだが、イタリア文学に魅せられ、イタリア軍義勇兵として、日伊の友好のために死を賭して戦う勇猛さは、「誰が為に鐘は鳴る」の作者ヘミングウェイのスペイン人民戦線参加を彷彿とさせる。
しかも下井の所属したのは、「アルディーティ」と呼ばれる最前線部隊。下井はその一員として、有名なグラッパ峰攻防戦にも参加して約3ヶ月の従軍、イタリア政府から栄誉ある勲章を授与されている。
つまりイタリア政府より下井は「戦友」であり「最も親しいイタリアの友人」と認知されたのだ。
そして戦線での戦いの中、下井はダンヌンチィオという世界的詩人と友人となる。
ムッソリーニは優れた状況判断と調整能力を発揮し、フィウメにおいて占領軍を降伏させ、戦いは終息していく。
日本に1924年に帰国してからの下位は、一時的に国士舘大学の教授と国士舘中学の校長となっている。
その後、NHKのイタリア語部長や国際連盟教育映画部日本代表、日伊学会評議員、日本農林新聞社長などを歴任した。
イタリアとダンヌンツィオ、そしてムッソリーニとファシズムを紹介する講演活動を頻繁に行った。
1929年にはムッソリーニの主要演説29本を翻訳し、イタリア各地の聖人伝説をわかりやすく説くエッセイ風の文章を書いていたという。
しかし戦後、下位は「枢軸陣営」への支持活動により公職追放となり、不遇の中1954年12月に亡くなった。
しかし、下井春吉の「イタリア熱」は、思わぬカタチで実を結ぶこととなる。
それを示すのが、福島県会津若松の「白虎隊の自刃」で知られる飯盛山に立つ、「古代ローマ宮殿」の石柱を象った記念碑である。
下井によると、ムッソリーニが詩人のダヌンツィオを通じて「武士道」や「白虎隊士」の話を聞く機会を得て、白虎隊の顕彰の為に「記念碑」を贈ってもよいという意向をもらしたといい、それが日本の新聞に掲載された。
だが、第二次世界大戦の戦局は日本・イタリア両国にとって悪化の一途をたどり、記念碑の話には具体的な進展が見られず沙汰止みとなる。
しかし後に東京大学の学長となる会津出身の物理学者山川健次郎がこの話しを聞き、郷土会津の誇り「白虎隊」の墓所にイタリア記念碑を建てるという話を両国親善のために推し進め、古代ローマの碑が白虎隊士の眠る飯盛山に建てられることになったのである。
「白虎隊」は、会津戦争に際して会津藩が組織した16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。新政府軍との戦いで、城から上がる煙をみて落城と思った彼らは「もはやこれまで」と自刃して果てた。
それは誤認であったが、あまりに純粋一途な彼らの精神は、イギリスで誕生した「ボーイスカウト精神」にも取り入れられた。
ただ、下井がいう「ムッソリーニが白虎隊の話に感動した」というのは、下井一流の”お噺”のひとつだったかもしれない。
とはいっても、下井の話が新聞報道がなされて有力者からの賛助金も集まったため、やむなく外務省がムッソリーニに打診し、1928年にイタリアから送られた「記念碑」が会津若松市の飯盛山に建立されたのが真相のようだ。
若き日の下井春吉の口演技術は非常に高く、長編の「ロビン・フット」や創作「ごんざ蟲」や「黄金餅」などの童話が知られている。そして、その指導書は、全国の教師たちから絶大な支持を受け、「童話のお父さん」とさえ呼ばれたこともある。
ところがその「童話のお父さん」は、実はとんでもない激情家でもあり冒険家でもあった。
飯盛山のイタリアから送られた記念碑は、福岡冒険野郎の「口演術の証(あかし)」といえるかもしえない。
ともあれ、それが「イタリアと会津」との予期せぬ「架け橋」となったのである。

♪名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ♪の歌い出しの「椰子の実」は、島崎藤村が、1898年に柳田國男の話をもとに作詞したもの。
この椰子の実がどこから流れ着いたのか定かではないが、アラビア半島の東端に位置する処には、「椰子」で知られる国々がある。
特に、日本のタンカーの通過するホルムズ海峡に近いオマーンやイエメンは、日本にとって地政学的に重要度が高いにもかかわらず、その実態が日本にはほとんど知られていない。
しかし、その重要度を早くから認識して架け橋になった人がいる。
その人が、大正期の地理学者であり思想家であった志賀重昂(しがしげたか)である。
1924年2月28日にオマーンを訪問した志賀は、オマーン国王に拝謁をした。
志賀がイスラム国への旅を思い立ったのは日本の人口増、石油の確保、世界の東西対立への日本の立ち位置を探るためであった。
そして、国王から「よくもここまでこられた。アラビアも日本も同じアジアではないか。何故日本人はアラビアにこないのか。アラビアに来て商売をし、工業を興し、親交を促進し、アラビアが改善・復興できればお互いのためになるのではないか」との言葉をいただき、志賀は「陛下の言われたことは私がまさに申上げようとしていたことです」と応じ、そして「いつの日か日本においでください」と語った。
それは社交辞令のような言葉であったかもしれないが、志賀の言葉を記憶にとどめていたのか、国王タイムールは退位後、実際に日本にやってきた。
神戸に滞在していたある日のこと、ダンスホールを訪れたところ、タイムールの目に、仕事帰りに職場の仲間とダンスホールに遊びに来ていた、ひとりの女性に目に留まった。
神戸税関で働く大山清子という当時19歳の長身の女性であった。兵庫県の山間の村で、厳格な大工職人の長女として生まれた。
細面でいかにも日本的な美しさを持った清子に、タイムールは惹かれていったようだ。
タイムールは毎晩のようにダンスホールを訪れ、 言葉の壁はあってもその優しさは清子に伝わっていた。
そんなある日、タイムールは清子に交際を申し込んだ。タイムールと清子の年齢差は、なんと47歳。
清子は、さすがに躊躇したものの、タイムールは猛アプローチを続け、その熱意と真剣さに、いつしか清子の方も心惹かれていく。
そして出会って3ヶ月、2人は結婚を誓いあう。
しかし、清子の両親は、当然のように2人の結婚を認めようとはしなかった。
当時、国際結婚は珍しかったし、 聞きなれぬ中東のオマーン。しかも、「一夫多妻」の国で、タイムールには、すでに3人の夫人が母国にいるという。
しかしタイムールも諦めず、その真剣な姿に、清子の父親は「結婚するなら日本に住むこと」という「結婚の条件」を出した。
ところがタイムールはそれに即答することが出来ず、「もう少し待ってくれ」といい残し、日本を去って行った。
それから半年、 彼は忽然と清子の家族の前に姿を現した。タイムールは清子と結婚するためにオマーンを離れ、日本で一緒に暮らすことを決意したのだという。
その覚悟に、両親は結婚を認めざるをえず、出会ってからおよそ1年後、2人はついに結婚した。
お金には不自由しなかったタイムールは、神戸市内に洋館を構え、清子と優雅な生活をスタートさせた。
戦前の日本では考えられない、舶来の電化製品。 給仕やメイドも3人いた。
だが、タイムールはなぜ、これほどまでに裕福な生活を送ることができるのか。本当の身分を明かしていないため不思議に思ったのは当然。
清子が聞いても、自分はオマーンの資産家であり、蓄えが十分にあると言うだけ。 何不自由ない暮らしをさせてくれる夫に不満はなかったため、清子や両親はそれ以上詮索しなかったという。
1年後、2人の間に愛娘「節子」が誕生する。この日、ある一団の人々がタイムールと清子の家を訪れた。
そこに立っていたのは、アラブの民族衣装に身を包んだ男たちだった。
なんと男性はオマーン国王・サイード王だという。しかもタイムールは彼の父親。つまり、タイムールは「第12代オマーン国王」、 その人だったのである。
国王の座はすでに5年前、息子に譲っていたものの、王室にいたタイムールだけに「結婚の条件」に即答できる立場にはなかった。
タイムールが国を離れ、日本に住むということは、必然的に王室を離脱することを意味する。
あの時、オマーンに一時帰国したタイムールは、宮殿に親族をはじめとする多くの関係者を集め、 それまでの清子との経緯すべてを、包み隠さず語った。
そして、オマーンにいた3人の夫人にも理解を得て、 少しの資産とその身一つで、清子との結婚のために日本へと戻ってきたのだった。
そして、父の「娘の誕生」を聞きつけたサイード国王がお祝いにかけつけたのだった。
タイムールは自分の身分を明かさなかった理由を「権威とか身分で飾った自分ではなく、裸の自分を愛してくれる人と結ばれたかった」と語った。
しかし、二人の幸せは長くは続かなかった。清子は結婚からわずか3年後腎臓を患い、23歳という若さでこの世を去った。
タイムールは、清子の死後、娘の節子が将来、王族の相続権を得られるよう、彼女を連れオマーンへと帰国した。
節子は新たに「ブサイナ」と名付けられ、王族の身分を与えられた。タイムールは、その後、第二次世界大戦の影響などもあり、日本に戻ることなく、1965年に亡くなった。
兵庫県加古郡稲美町にある墓石には、「清子アルサイド 享年23」と刻まれている。2015年、ブサイナ節子さんが母親の墓参りに訪れた。
「椰子の実」の奇遇のように出会った二人は、日本とオマーンの「架け橋」となった。