歴史と文化の「商店街」

新型コロナウイルスの自粛規制が緩くなり、商店街にも人々が戻りつつある。 そこを通れば誰か顔見知りに会える「約束の場所」、会話はなくともちょとした挨拶を交わす。
そこが、遠くまで車で出かける巨大商業施設で買い物をするのとは違う。
商店街は、人々を孤立化から守る、いわば人生のセーフティーネットのようなものではないか。
しかも、個人商店には、スーパーやコンビニとの競争を生き抜いた知恵や技がある。
客も客で、「兄ちゃん、今日は1000円にしとこ、な?」などど勝手に値段設定をして強引に値切ってしまう。時には、そんなおおらかさがある商店街。
どこかを旅すると、時間に余裕があれば、見知らぬ街の商店街を歩くクセが身についた。
それは、学生時代を過ごした「商店街」の温かみが、今も心に残っているからであろう。
その商店街とは、東京の中央線沿線の「高円寺銀座商店街」、今は「高円寺純情商店街」と変わっている。
現在はすっかり規模が大きくなった「阿波踊り」も始まっていた。
高円寺は徳川家ゆかりの寺で、この寺名がそのまま地名になっており、歴史的にも由緒正しきところ。
この街を若者の人気に町にしたのは、音楽スタジオが数多くあり、ミュ-ジシャン志望の若者が多いこと。
1970年代までフォ-クロックの全盛期を飾った国分寺、吉祥寺とともに時代を代表する町でもあった。
伝説のロック喫茶「ムービン」は洋楽の新譜をいち早くかけたことで有名で海外の最新のヒット曲を聴こうという音楽好きの若者たちで賑わった。
やがて客同士で自然発生的にジャムセッションが行われるようになり、この店は都内のライブハウスの先駆けとなった。無名だった山下達郎がデビューのきっかけを掴んだのもこの店。
吉田拓郎の初期にも、「高円寺」という歌がある。
商店街のミュージシャンといえば、小田和正の実家は横浜の金沢文庫北口のすずらん通りの「小田薬局」。
「金沢文庫」は、鎌倉時代の中頃に、北条氏の一族(金沢北条氏)の北条実時が今の金沢区の邸宅内に造った武家の文庫に由来する地名である。
また、東京で商店街の規模NO1のよび声が高いのが品川に近い「戸越(とこし)銀座商店街」。
ギタリストのCHARこと竹中尚人(ひさと)の実家は商店街の一角、「竹中耳鼻咽喉科医院」で、母親が経営する。
竹中の父親は医者ではなくサラリーマン。父親は戦争を語りたがらなかったが、シンガポールで暗号兵だった時のことを話してくれたという。
終戦をシンガポールで迎え、帰国して数年後の23歳の時、新橋のダンスホールで同い年の母と知り合った。
薬局で育った小田和正も親に医者になることを期待されたが、東北大学建築学科に進みミュージシャンとして生きる道を選んだ。
さて1980年代に高円寺の町が注目されたのは、時をほぼ時を同じくして二人の直木賞作家を生み出したことにある。
実家が商店街で乾物屋を経営している「高円寺純情商店街」のねじめ正一と、古本屋を経営している「佃島ふたり書房」の出久根達郎。
この本を読むと、当時5~6軒あった古本屋の店内や客の描写など、古本の匂いとともに高円寺の空気が漂ってくる。
直木賞作家どうしの家(店)がここまで近いのは全国的に例を見ないであろう。
詩人でもあるねじめ正一の小説「高円寺純情商店街」が、高円寺北口商店街の名前の由来となった。
昭和30年代の商店街を舞台にした短編小説で、小説版の「オールウェイズ三丁目の夕日」といったかんじである。
魚屋や呉服屋、金物店などが軒を並べる賑やかな通りである。正一少年は商店街の中でも「削りがつをと言えば江州屋」と評判をとる乾物屋の一人息子だった。
感受性豊かな一人の少年の瞳に映った父や母、商店街に暮らす人々のあり様を丹念に描き、「かつてあったかもしれない東京」の佇まいが浮かぶ。
それは、失われてしまった昭和の記録でもある。

地下鉄有楽町線の江戸川橋あたりにある「地蔵通り商店街」。
すぐ神田川が流れており、1丁目だけがほぼ低地となっているが、台地状の地形のせいで長い急坂があり、神楽坂に連なっていく。
神田川の北側は子供の「お受験」のために移り住むセレブが住む音羽という街。日本の有力政治家を数人生み出した丘の上の「鳩山御殿」をシンボルとする。
地蔵通り商店街を挟んで南側は「新宿区山吹町」があり、音羽とは雰囲気が全然異なる。
この周辺には、日本の近代化を学ぼうとやってた中国人留学生の、魯迅や周恩来の足跡が残っている。
当時、三菱銀行の江戸川橋支店の銀行員が、周恩来の下宿先の位置を確かめたというニュースがあった。
大ヒットしたアニメ映画「天気の子」の始まり部分で、手渡された名刺に「山吹町」という地名が出てきた時、この時の記憶が蘇った。
「関口」の地名は、江戸時代に神田上水(神田川)の水量を監視する監視所が設けられた場所で、江戸時代初期に、この神田上水の「水役」として出府した松尾芭蕉が住んでいた。
ここは「関口芭蕉庵」とよばれ、現在小さな公園となっている。
この「芭蕉庵」あたりは、目白台の椿山荘に上る入口で、関口から山吹町一帯は、南に位置する神楽坂のある市ケ谷の高台とも囲まれた場所なのだ。
この地が囲まれた土地(もしくは窪地)であることをはっきりと認識したのは、我が大学時代にたった一晩の大雨で神田川があふれ、アパートの一階が完全に冠水したことがあったためだ。
幸い2階に住んでいた自分は、1階の避難民数名を一晩受けいれたことがある。
新海監督が「天気の子」でこの辺りを舞台のひとつにしたのも、都市型の水害が頻発した地域だったからであろうか。

池袋から2つ目の駅巣鴨には「地蔵通り商店街」があり、通称「あばあちゃんの原宿」とよばれる。
全長約780メートル、店舗数は約200あるので、かなりの規模である。
巣鴨は、旧中山道にあり、江戸の中期から現在にいたるまで、商業や信仰の場として発展してきた。
とげぬき地蔵尊と江戸六地蔵尊の2つのお地蔵様と巣鴨庚申塚に守られている。
近年、この商店街をそぞろ歩いたことがある。そのの第一印象は他の商店街にくらべて道幅が広いこと、ただ新型コロナの影響で店は少なくなったかもしれない。
ここを訪れたのは、この商店街の末端に「明治女学校跡」があっためである。
樋口一葉、野上弥生子、伊藤野枝、羽仁もと子らも、ここで学んだ。
明治女学校は多くの著名教師と才媛と輩出したが、その歴史には悲劇の影がある。
1885に開設された明治女学校は東京都千代田区番町にあった校舎が火災で焼失した為に、1897に豊島区巣鴨の庚申塚の地に引越してきた。
この学校の教師には、当時の文壇をリードした島崎藤村、北村透谷、教育者の津田梅子、翻訳家の若松賤子らがおり、明治女学校が発行した『女学雑誌』からは雑誌『文学界』が生まれるなど「文壇」にも大きな影響を与えた。
こうした明治女学校の歴史に「悲劇」の影をなげかたのが、若松賤子(しずこ)である。
アメリカの作家バーネットの原作を「小公女」と題して翻訳した若松賤子(ペンネーム)は、会津出身で戊辰の役で敗れたために一家離散の憂き目にあった。
父・勝太郎は藩の隠密として働き、ほとんど家におらず、母親の手一つによって育てられた。
父は、開城後も脱藩して函館にまでいって戦い抜いた猛者(もさ)であった。
そのため1868年8月、官軍が会津若松城下に乱入した時、父親はおらず母子は戦火を逃げまどい、4歳の賤子に生涯消えることのない記憶を刻んだ。
最後まで幕府軍について敗れた会津の人々は、青森斗南に強制移住させれる。
賤子の父・勝太郎も斗南に移されるが、母は病弱のため同行できず、母と姉妹2人は若松城下に残った。
その後、父は行方不明となり、一家は離散状態となる。
また、生活上の労苦を一身に背負った母親は、賤子が7歳の時に28歳の若さで亡くなる。
そんな時、横浜の織物商・山城屋の番頭の大川甚兵衛が、たまたま商用で会津若松に来ていた。
そして賤子の才に惚れ込み、養女に迎えることにしたのである。
賤子は養女として横浜に移り住み、経済的に恵まれ、当時としては珍しい女学校に入学ができ、その才能が開化する。
そして自宅近くのプロテスタント宣教師メアリー・エディ・キダーの英語塾に入学し、聖書の教えや賛美歌を通じて英語を学んだ。
実は賤子は、都会のなれない環境と言葉にふさぎがちだったが、新しい言語との出会いは新しい世界との出会いを意味し、一気に明るさを取り戻した感があった。
しかし、山城屋が突然に倒産したため、その番頭だった養父とともに賤子は東京へ移りすんだ。
ところがキダー先生の英語塾が寄宿制のアイザック・フェリス・セミナリー(フェリス和英女学校)として開校したのを幸いに、再び横浜に戻り、フェリス和英女学校でキダーの下で学業に専念することになった。
その頃の賤子は、教会に通って英文の書物をんだり、教会新聞の編集を手伝ったりして見聞を広めていった。
17歳の時師と仰いだ初代校長・キダーが帰国するが、後任に就いたユージーン・サミュエル・ブース も彼女の才を見抜いていた。
彼女が会津で儒教で培われた美徳に、キリスト教精神が加わり、フェリスの高等科を優秀な成績で終了し、晴れて第一回卒業生となった。
そして卒業式では、英語の卒業講演を行なったが、この頃には、父の隠密名であった「島田」を名乗った。
そしてブースの強い要望を受け、母校フェリス・セミナーに残り、教壇に立つここととなり、生理学・健全学・家事経済・和文章英文訳解の4教科を教えた。
また20才にして、フェリス和英学校の増改築での落成式では、女子教育と社会的地位向上について演説し、来賓たちはその明快な主張に驚きをもって聞き入ったという。
この頃、養父が死去するが、行方知れずだった実父が妹と共に東京に住んでいることを知らされ復籍したものの、このころから肺結核を病んで吐血するようになった。
そんな折、「女学雑誌」の編集者として名を知られた巌本善治(いわもとぜんじ)が、講演者としてフェリス和英学校に来校し、賤子と知り合うことになった。
蔵本善治も、キリスト教の洗礼を受けており、女性に対する考え方への共感から、その思いは信頼から愛情へと発展していった。
そして巌本の勧めにより、「女学雑誌」にペンネーム「若松賤子」で初の紀行文を発表した。
「若松」は故郷の名称から、「賤子」は“神の恵に感謝するしもべ”という意味であり、この発表が後の「小公子」へとつながる。
賤子は、海軍士官との婚約を破棄し、巌本と結婚したのだが、その結婚式で「花嫁のベール」という詩を夫に贈っている。
「われはきみのものにならず、私は私のもの、夫のものではない。あなたが成長することをやめたら、私はあなたを置き去りにして飛んでいく。私のこの白いベールの下にある私の翼を見よ」。
結婚を機に若松賤子はフェリス・セミナーを退職し、夫が教頭を務める明治女学校で教壇に立つようになった。
巌本善治(いわもとぜんじ)は、明治女学校創立の発起人の1人で、1885年東京飯田町に開校し、2代目の校長となっている。
その頃、賤子は二葉亭四迷等の言文一致体に出会い、それを活用した文章を雑誌に投稿し、女流文学者としての名を高めていった。
若松賤子は1893年、小公女を「セイラ・クルーの話」という題名で雑誌「少年園」に発表し、連載が行なわれた。
「小公女」の日本での紹介はこれが初となる。
また、夫婦の間に1男2女 を授かるものの賤子の病は進行し 賤子は病と闘いながらも創作意欲は衰えず、病床から作品を送り続けた。
ところがそんな巌本夫妻を悲劇がおそう。
1896年2月 深夜に明治女学校の校舎・寄宿舎・教員住宅の大半を焼失した。このとき巌本は病の賤子を背負って脱出している。
しかし賤子はこの学校焼失に 大変な衝撃を受け生きる意欲を失ったかのようで、その5日後に心臓麻痺で亡くなっている。
その後、明治女学校は現在の豊島区巣鴨に校舎を移転するが、ついには1908年に閉校においこまれる。結局、巣鴨に学校があったのはわずか4年間のみであった。
「小公女」の連載は若松の死により中断され、未完のままで終わった。
若松賤子は妻として、3人の子供の母として、教育者として、言文一致の口語訳文の文学者として生きた。
また、単なるの外国文学の翻訳者だけでなく、近代文学の開拓者でもあり、樋口一葉にも多大な影響を与えた。天才バイオリニスト巌本真里は、長男・荘民の娘である。

日本は都市化がすすみ、「公助」と「自助」しかなくなってしまった感がある。
そこで、税金を払っているのだから、すべて自治体がやってくれというクレイマーが増える。
一方、それがない領域に入った途端、すべて自己責任だから自分で何とかしなさいという風潮もある。
公助と自助の間にあるはずの「共助」がやせ細っている。
かつてのムラ社会において「共生」は強制にほかならず、都会に逃げれば自由はあっても孤立してしまい、他人を頼れずオカネでしか物事を解決できなくなった。
コロナ禍は、商店街の価値をあらためて教えてくれた。好きな店を応援したい。あの時間をまた味わいたいと訪れる消費者の存在が店を勇気づける。
高齢になった店主の給付金申請を手伝い、感染症対策の備品を手配するなどの起きている。
コロナ以前は商品の展示会に通っていた文具店主は、オンラインの展示会を知恵をくして鮮度のいい商品をを仕入れている。
入荷した商品をSNSで紹介すると全国方注文がいるようようとする。
つまり、個々の店も変化に対応して動いた。
ところで「格差」が生まれるのはオカネの有効期限が無限大だからともいえる。
オカネに有効期限をもうければ、オカネがまわるスピードがあがる。
加えて、地域限定にすれば、違うまわり方をする。
「地域通貨」の導入は、苦境に立たされる個人商店を応援することにつながる。
それも、経済的メリットではなく、共感性にに訴えかけるような「共助」の財布として。
従来、地域通貨といってもその発行コストは高く、経済的メリットがなくなれば色褪せてしまう。
紙きれでしかない通貨が価値をもつのは「信用」ということだが、地域通貨の場合にはコミュニティを活性化したいという人々の思いである。
しかし、スマホ決済が普及して発行コストも劇的に低下している。ただし、この場合には高齢者にスマホ決済を教えるのがカギとなる。
商店街は、買い物で行きかう場所であるばかりではなく、その界隈には、人を引き付ける歴史や文化が数多くあるにちがいない。
そこが郊外の巨大商業施設との違いである。
そのあたりも発信していけば、新たな装いのコミュニティとして再生できるのではなかろうか。

経済学の父アダムスミスは、スコットランドのグラスゴー大学で「道徳感情論」を教えていた。
学校の教科書では完全に抜け落ちているが、経済社会は市場原理と「同感の経済」との両輪で成り立っている。
また ところで