マクシミン原理とパシュート

最近の韓国の大統領選で、候補がかかげた公約がなかなかユニークだった。若禿げ治療へ補助金をだすという。ただ、この公約をした候補は現大統領に僅差で敗れている。
若者受けを狙ったのかもしれないが、韓国の若者が直面している苦境を考えれば、対策のプライオリティは、もっと他にありそうだ。
日本でも学費が上がり、物価も上昇。さらに、コロナ禍でアルバイトが出来ず、困窮する学生も多い。
そこで、若年層にアピールしようと、「ユニークな奨学金」の導入が検討されることになった。
国の奨学金は現在、住民税非課税を年収の目安とする「給付型」と、「貸与型」に大別される。
民間の奨学金も含めると、利用する大学生は全体の半数に上っている。
「給付型」は返済不要だが、「貸与型」は卒業時に借金を抱える形になり、返済に苦しむ学生も多い。
給付型奨学金を受けた学生へのアンケートでは、奨学金がなければ進学をあきらめたという回答が3割に上ったことからも、奨学金が果たす役割は大きい。
経済的な不安を感じずに学べ、教育費の負担が軽減されれば、少子化の改善につながる。
ただ「貸与型」奨学金の返済率はかなり低下して、このままでは制度として立ち行かない。
そこで岸田首相を議長とする「教育未来創造会議」が新たな奨学金の創設に向けた検討を始めた。
新しい奨学金は「出世払い」方式と呼ばれ、国が大学などの授業料を肩代わりし、学生が卒業後、一定の年収を超えたら、所得に応じた額を返済する仕組みだ。
「出世払い方式」は親の収入に関係なく、どの学生も利用できる仕組みが検討されている。
海外の事例をみると、オーストラリアは1989年にそれまで無償だった大学教育を有償化することに伴い導入した。
卒業後、年間の所得などが460万円を超えた場合、1%から10%までを授業料として源泉徴収する。
日本の場合、返済の開始時期は、「年収300万円以上」に達した段階とする案が検討されている。
所得が低ければ返済が猶予されるため意欲をそぐという問題点が指摘されているが、もともと最近の若者は出世を望んでいないという結果がでている。
最近のアンケート調査で、若者は皆が平等であること、目立たないこと、大きな責任がかからないことの方を望む傾向が出ている。また20代の8割近くが「役職者になりたくない」と回答している。
悪徳企業は、若者を労働時間に規制のない「管理職」に無理につけるケースさえもある。
こんな日本社会で、「出世払い方式」の奨学金制度は、若者の心理にフィットするであろうか。
ともあれ「出世払い奨学金」は、社会的な公正を考えるうえで、興味深い問題を提示してくれる。

中国の前漢・元帝の時代、宮女たちはそれぞれ自分の似顔絵を美しく描いてもらうため、似顔絵師に賄賂を贈っていた。皇帝に目を留めてもらうためだ。
折しも匈奴の王(単于)が入朝し、元帝の所有する宮女の一人を嫁に所望した。
元帝は宮女たちの似顔絵を見て、ひとりの女性を匈奴へ送ることにした。
そして選ばれたのが王昭君であった。王昭君はただ一人賄賂を贈らなかったため、似顔絵師は王昭君が絶世の美女でありながら、普通の女性として描いたためである。
皇帝に別れを告げるための式で王昭君を初めて見た元帝は、王昭君の美しさに仰天した。
しかし、この段階で王昭君を匈奴へ贈る約束を撤回すれば匈奴との関係が悪化することは明らかである。
そのため、元帝は悔しがりながらもしぶしぶ王昭君を匈奴へ送り出したという。
その後の調査で、宮女たちから多額の賄賂を取り立てていた似顔絵師の不正が発覚したため、元帝は似顔絵師を斬首の上、さらし首に処した。
出世欲だらけの宮女にあって、真の美貌の主・王昭君は元帝の目に留まることなく、異郷の地に追いやられたかたちとなった。
このエピソードはどこまで真実かはわからないが、この「王昭君の悲劇」を逆バージョンにして、「出世払い型」奨学金について、考えてみた。
ひとり出世欲の若者がいたとしよう。周りは、大学ぐらいは出ておきたいが、そこまで働いて出世しようなどとは思わないケース。
出世欲(所得欲)のある若者は、自分の社会的成功を思い描きながら努力するであろう。
しかしそんな若者は、「出世払い型」という威勢のいい名に魅かれてすんなり希望するだろうか。
政府の制度設計として、「出世払い奨学金」の狙いのひとつのは、「貸与型」では返済できないことがあり、それを解消しようということある。
すると社会的に成功した者は、そうでない者の分の授業料までカバーすることになってしまう。
自分が成功できると確信できるほど若者ほど、「出世払い型」よりも「給付型奨学金」もしくは「貸与型奨学金」を選ぶだろうということだ。
反対に、大学さえ出れば満足という人は、奨学金の返済をしなくてもよい。
したがって「出世型奨学金」を志望する者は、出世を望まない者ばかりになってしまう。
ひとつの思考実験としてだが、出生払い型奨学金は結局、制度設計として失敗することになりかねない。
ただ、周りの奨学金志望者がどんな人々かを知っているかいないか、つまり集団の中での自分の位置づけをちゃんと認識しているか否かで、奨学金の選択が変わってくることが予想される。
人は大人になるに従って、社会の中の自分の位置を思い知らされていく。
学校で「君たちには無限の可能性がある」といわれても、だんだんしらじらしく思えてくる。
王昭君のケースでは、他の宮女とは違って出世意欲がなかったからというより、自分の真の価値を知っていたから、特に似顔絵師に賄賂を贈る必要性を思うこともなかったのかもしれない。
それが、想定外の結末を迎えることになったが。

経済学など社会科学は、真善美など特定の価値観に基づくことを徹底的に排除する。所与の目標を、どうすれば効率よく実現できるかを研究する。
例えば、戦争の良し悪しは問わず、どうしたら効率よく戦争を遂行するかを研究するということだ。
1970年代に、アメリカの最高水準の知能が、ベトコンひとりを殺すためにどれだけのコストがかかるかを研究していたことを暴いた「ベスト&ブライテスト」が反戦運動を高めたこともあった。
一方「社会哲学者」は、社会にとって何が公正か、その社会的正義を実現するためには、どのような条件が必要かを研究する。
ハーバード大学白熱教室で良く知られるサンデル教授もそうした一人である。
サンデル教授がしばしばその著書でとりあげるのが、アメリカの社会哲学者ジョン・ロールズである。
そのジョン・ロールズのかかげる「社会的公正」の基準が、とても興味深い。
幾つかの制度選択のなかで、社会の最下層の福利を最も高くする在り方を「公正」と考えた。
これをを「ミニマム」をマックスするという意味で「マクシミン原理」という。
ロールズは社会契約説のホッブズの「自然状態」にならって、自分が社会の中でどれくらいの価値(位置)があるかは、まったくわからない状態とした。
そして人間にとっての一番基本的な欲求「自由 生命 財産」を基本財とした。
成功者はこれらの基本財をたくさん享受でき、そうでない者はそれらを過少にしか享受できない人々といえるわけである。
ロールズによれば、人は何らかの「優越性」を求めて努力する存在であり、能力があって人より努力しても報われるものが同一ならば、人々は意欲を失うものである。そうした社会の在り方は公正とはいえない。
成長や発展のためには、努力する人がより多く報われる、つまり競争による勝者の保障のある社会でなければならない。
反面、一握りの金持ちだけがとんでもない利益を押さえてしまって、多くの人々がワーキング・プアや絶対的貧困に陥ってしまうと、最低限の「基本財」たる医療や義務教育の享受にまで「格差」が広がる事態もまた、「公正」な社会とはいいがたい。
そこでロールズの「マキシミン原則」は最低の層に資源を投入すべきというのだが、それが受け入れられる条件とは何なのだろうか。
まず、ロールズが仮定する「無知のベール」はどのようなものか、話を単純化するために2人の社会を考える。
AB二人の人間がいて、ABは二人で働きその成果を分かち合うとする。Aは能力が高くBは能力が低く、それでも成果を同じように「平等」に分配しなければならないのならば、Aの生産性は急に衰えるだろう。
そこで、Aにはやっただけ能力だけのことを保障しなければならない。
この時、Aはいわば成功者となるのだが、通常考えられることは、Bに分け前を与えて助けてやる必然性は何もないし、それどころか優位にたつAはBの利得のチャンスや生活資源を奪い取り、Bをさらなる貧困へおいつめる可能性さえもある。
ここでロールズは、初期においてAとBが互いの能力も、自分の社会的成功の可能性も知らない「無知のベール」に覆われているとした。
その情況の下では、どちらもAの立場になることもBの立場になることもわからないため、互いに「Bの立場」になる可能性を想定して、最低限の「基本財」を保障しようという誘引が働くとした。
個人的に、互いに「Aの立場」になるとは思いきれない「リスク回避」の考え方を生んだロールズの人生はどんなものだったか、興味が湧いた。
ロールズは、幼き日にジフテリアに罹病し、その結果、感染した弟二人が病死するという出来事が起こった。自分が生き残って、弟二人が死んだということは、だれも表立って言うことはなくとも、ロールズの心に深い影を落とすことになった。
ロールズはプリンストン大学に進み、花形選手だった憧れの兄を目指して、フットボールに没頭した。
大学卒業後、陸軍の士官として日本との戦いにニューギニア、フィリピンと転戦する。
そして、日本の全面降伏後は、占領軍の一員として広島長崎の原爆の惨状を目のあたりにした。
そして、それまで疑うこともなかったアメリカの正義に疑問をもちはじめ、社会にとっての正義とは何かを考えるようになったという。
ロールズにとっての「社会正義」とは「社会的公正」のことである。つまり誰もが等しく社会の豊かさを享受できる社会のことである。
日本社会において、雇用、医療、教育など人間にとって生存の要件において、大きな格差が出ていることからも、ロールズの考え方は、現代的な意味が大きいと思われる。
ではロールズのいう「公正さ」を、具体的な政策たとえば累進課税や相続税、社会保障の制度設計を考えるうえで、どのように活かしたらよういだろうか。
ここで、累進課税制度の設計について考えてみたい。
例えば、富裕層の税率を上げ、貧困層の税率を下げるなどして、累進課税率の傾斜を大きくすれば、格差は縮小するものの社会全体としての向上意欲が減少し、全体のパイの大きさが減る。
一方、累進課税の税率の傾斜を低くすると、格差は広がるかもしれないが社会全体のパイは大きくなる。
この時、最低所得層の平均値の”絶対値”が最も上がった水準が、もっとも望ましい累進課税の傾斜ということだ。
誰もが底に陥るか可能性のある「無知のヴェール」が前提なら、底は高いほどよい。
だが、人間が大人になっていくにつて自分の社会的な位置や能力をの現実を知らされていくのならば、ロールズのいう「無知のヴェール」は、自然状態という仮説的想定とはいっても、現実ばなれしている気がする。
しかし、ロールズの前提を少し読み替えると、「無知のヴェール」は、現実的に思えてくる。
自分の社会的位置づけをよく知っていたとしても、現代ではそれがとても不安定であることが認識されるようになったからだ。
かなり極端なケースだが、最高の地位から最低の境遇に落ちる人もいる。
韓国のように大統領になった者は、退任後に汚職で逮捕されるということが通例になったかのようだ。
そこで文在寅前大統領のように、自分の在任期間中に、汚職が追及されにくい法律を作ったりする。
また、受刑者の人権をかかげて、刑務所の環境改善をはかるかもしれない。
まさかそこまではと思うかもしれないが、安倍政権において刑事訴追されないように、安倍首相寄りの裁判官の定年延長をはかったりしている。
また南米には、自分がはいる豪華な刑務所を、政府に寄付した麻薬王さえもいる。
「無知のヴェール」を自分も最低に落ちるかもしれないという可能性として読み直せば、ベイシックインカムの考え方やセイフティネットの充実が受け入れられやすいということは、充分に推測できることである。
「出世払いの奨学金」も、成功者がそうでない人を助けるという発想だが、これも「無知のヴェール」によって成り立ちうる。
戦争、ウイルス、災害、SNS上の中傷などの不安を抱えている今日、最底辺に多くの資源を投入するというロールズの「マキシミン原則」は、社会的合意が得られにくい「絵モチ原則」ではない。
成功者を優遇するより、全体に安心感のある制度設計こそが、日本社会の一番の活力源となり得るのではなかろうか。
その意味で、ロールズの「マキシミン原則」は正義の基準、公正の規範といったものではなく、「現実的な基準」として追求されてしかるべきだと思う。
最近、ウインタースポーツの中の「パシュート」こそが、「マクシミン原理」の好例であると気がついた。
「パシュート」は1チームは3人で構成され、400mリンクの内側のコースのみを使い、日本がメダルを競った女子の場合は6周でのタイムを競う。
3人目のブレードの先端がゴールした時点のタイムが記録される。つまり、チームの中でラストの順位を競うというもの。
この競技の起源は、ノルウエー人とフィンランド人の軍人が始めたといわれる。
つまり、一番弱い選手を引き上げていくという発想は、落後者をださないという意味合いもあろう。
実は北欧諸国のPISA(OECDび学習到達度調査)が世界でトップにあることはよく知られているが、その理由は成績の上位者が多いのではなく、成績の下位者が少ないからだという。
ノルウエー発祥のクロスカントリーという競技は、もともと速さを競うのではなく、いかに目標地点に到達できるかを考えるものであった。
その目標地点は、ひとりひとりの個性や能力で定められるもので共通のものでなくてよい。
背景に、ノルウエーの森で育まれた「落後者を出さない」というマインドがあるように思われる。
重要なのは、皆が目的地にちゃんとたどり着くこと。
それはひとりの落後者を出すことが、社会にとって潜在的な「ヘルパー」を失うことであり、大きなロスとして受け止められているからであろう。
あまりの便利さ故に、多くの人々の雇用を奪った感じさえあるアマゾン。現在、世界一の大金持ちであるアマゾンCEOのジェフ・ベゾスは、「宇宙ビジネス」に力をいれている。
地球が破壊されては、自分の富の基盤が失われるので、宇宙のどこかに移住先を考えているかもしれない。
また「不老・不死」のビジネスに莫大の投資をしているのだという。なにしろこれだけの富を来世にもっていけないというのは、なんとも悔しいに違いない。
世界中の富を集めても、平安を見出すことの難しさを教えてくれる好サンプルである。
マクシミン原理にも通じるパシュートの発想こそ、社会に活力を与えていくのではないだろうか。