耕さない文化

ヨーロッパ中世までの科学者達は、自然のうちに神の霊妙さを見出そうと自然のしくみを知ろうとした。
つまり、科学の動機は子供が玩具の仕組みを知りたいといった好奇心と、幾分かの宗教心であった。
そして自然には原因と結果を繋ぐ法則があることを知り、原因を操作すれば結果が変わることを知った。
そこに神の働きの入る余地はなく、様々な実験を繰り返して、望んだ結果を得られることに気がついた。
そして人間は、自然を制御したり、結果を予測をすることを、あたりまえに行う存在となった。
産業革命以降は、自然のコントロールがビジネスとして成り立つことも知って、勢いがついた。
最近では、空中に物質を噴霧して、必要な時必要な場所に雨を降らせたり、空中に粒子の覆いをかけて日除けにしようということまでするようになった。
それは、環境そのものを意図をもって作りかえようという時代にはいった感がある。
そうした時代を、新たな地質年代として「人新世」とよぼうという提起もある。
ここ10年では、AIであらゆるものを完全コントロール下におこうというしている。エネルギー管理や交通システムのコントロールをともなうコンパクトシティの登場などである。
「バカの壁」(2003年)で著名な脳科学者の養老猛によると、「人は思うようにならないと気がすまない」という。
自然も人生も計算出来て「予測と制御」が出来ると思っていて、徹底的に人工的な環境に住んで、努力すればそれだけの報いがあるという社会を作った。
「脳のくせ」として面白いのは、ある臨床心理士の言葉で、人間が毎日のように続けている行動は、習慣か依存かのどちらかだという。
例えば毎日ランニングする人は、習慣化するほど楽に走れているか、走ることで得られる「快」に依存しているか、なのだという。
それ自体は悪いこととはいえないが、例えば「叱る」ということにも依存性があるらい。
心の中の奥では、子どもが自分の言葉に反応し、思いどうりに動いて欲しいと思う。
そういう意味では「叱る」という行為は即効性があるばかりか、「相手が自分に従う」という自己効力感がえられる。また、「悪いことをした人を罰する」という正義感に近い感情も満たせる。
こんなご褒美があれば、「叱る」に依存性があってもおかしくない。
またそれは「耕す」という行為にもあてはまあり、額に汗して働いて収穫を得た、努力が無駄じゃない、生きがいが感じられる「ご褒美」のある状況を無理やり作っているようにも思える。
スポーツの世界で、コーチがいじり過ぎて才能ある選手をだめにすることがよくある。自然は無理をしないようにできているので、そのままにおけばよいのに、人はそれが気に入らない。
病気は、体がひとりでに直す。しかし、医者はどうしても手を入れようとするし、薬という異物をいれて早く直るように勧められ、処方される。
患者もそう思いたいので、余計なことする。
しかし昨今の災害やウイルスの発生をみれば、人間の「制御と予測」とは正反対の現象がますます拡大しているようだ。

「文化」は英語でカルチャーという、「耕作(カルティべーション)」を語源としている。
したがって、文化は人間が土地を耕作し始めたことから始まったといえる。
そんな農業が、近年「温室効果ガス」の大きな排出源の一つだという認識が広がっていて、その解決策として「耕さない農業」が期待されている。
つまり「文化」の価値観を根底から覆す考え方が生じているのである。
ところで「農業」とは、人間にとって都合のいいものだけを育てようとする試みである。
狩猟から農耕に移った時、人類はたくさん種子を得られる単年生作物に注目し、単年生作物が生き残れるようには工夫をしなければならない。
その一方で、その土地や環境に最も適応した植物が雑草で、ハンディキャップなしで競争すれば、作物の分が悪い。
そこで人はすきなどを使って耕すことで、土壌環境を一変して雑草を根絶しようとした。
「耕す」ということは、土壌を白紙状態にすることで、土の中から他の植物を一掃し、育てたい作物が生き残るための最良の機会を与えることである。
ほかの植物が群生していると、必要とする水、栄養、日光を奪われてしまう。
水分と栄養を確保し、日光があたるようにすることで、単年草は潜在能力を最大限に生かせるようにした。
「耕す」ことで、雑草を抑え、種をまく苗床を準備し、肥料を土に混ぜ込む。これにより作物の種子は、雑草よりも早く発芽して競争に勝てるというわけだ。
確かに、こうした効果は短期的には農家にとって利益になるが、長期的には土壌の侵食や有機物の減少をもたらし、土を劣化させていることが、ますます明らかになってきた。
地球は46億年の歴史のうちの最近の5億年で土ができている。
最近、小惑星「リュウグウ」の写真にみられる、地球は元々は岩石砂漠だったといわれている。
ただ「リュウグウ」と何が違ったかというと、地球には生物がいたことである。
その生物とは主に植物であるが、それが海から陸上に上がって、岩を耕して、土になった。
植物が「岩を耕す」ということは、どういうことか。
土は、単に岩が細かくなっただけのものではなく、そこに植物の落ち葉が落ちて、それが微生物に食べられて、細かくなっていったものが混ざる。
さらにその混ざったものをミミズが食べて、糞として固り、それが土になっていく。
つまり土は、岩と植物、微生物とかミミズとかが、複雑にかかわりあって出来あがっている。
したがって、下の層にいくほど岩に近く、表面に近づくほど養分が豊富なのが一般的である。
日本は、アフリカなどと比べて土ができるのがかなり早いのだという。日本だと、火山活動や地震や土砂崩れがあるからで、それは人間にとっては災害だが、見方を変えると、新しい「土の材料」が地面に供給されていることになる。
ちょうど、時折起こる山火事が、「森の保全」にとって大事なように。
「土壌の力」をまざまざと見せるのが、屋久島で、豪雨が降っても川が濁らないという。
自然の土は塊の構造を持っていて、降った雨はその塊の間を流れるので簡単には土が溶け出さない。
その土の構造をつくっているのが地下の生態系で、大事なことは根を土に残すこと。
つまり、人間が引っかき回さない限り、土はやすやすとは流出しないということだ。
植物は勝手に生えているように見えるが、実は地下でつながっていて、生態系としての網の目が地下で成立している。人はそれを耕すことで、一生懸命、壊してきた。
生態系の網の目が壊れると雨が降った時に土が流れてしまう。
我々は、地球の温暖化といえば、化石燃料の使用と思い「脱酸素社会」を目指しているが、実は「土を耕す」ことそのものが、「地球温暖化」の原因なのだという。
国連気候変動に関する政府間パネル(IPCC)によると、世界の温室効果ガス排出量約520億トン(CO₂換算)のうち、農林業などの土地利用によるものは4分の1を占める。
土壌は巨大な炭素の「貯蔵庫」で、大気には約3兆トン、森林などの植生にはCO₂に換算すると約2兆トン分がたまっているとみられているが、土壌にはその2倍以上の5.5兆~8.8兆トンがあるという。
表土だけでも約3兆トンを貯蔵している。
「耕す」ことで、植物の根や微生物が地中にため込んだ炭素が大気中に放出されるのである。
全世界の土壌中にある炭素の量を、毎年0.4%ずつ増やすことができれば、人為的な活動による大気中への温室効果ガスの排出を帳消しにできるという。

アメリカのジョン・スタインベックの小説「怒りの葡萄」には、1930年ごろの中西部の荒れた農地を捨て、西へ西へと向かう農民が描かれている。
この小説の冒頭の「砂嵐」の描写は圧巻であるが、工業化のもたらした負の遺産が「ダストボウル」と呼ばれる砂嵐となって現れたのである。
米中西部に入植した白人農民は、作物を植えるため大平原を耕した。
そうした家族の物語がNHKで放映されたTVドラマ「大草原の小さな家」だが、「耕作」という人間の営みによって、いつしか地表が乾燥し、干ばつと強風で土壌侵食が進んだ。
そして人々は、工業化をやり過ぎてしまったと立ち止まる。
「農業は工業ではない」「土壌の力をないがしろにしていいのか」という危機感が、急速な工業化と同時代に示されていく。
巨大な土ぼこりが黒い雲となって東海岸にまで到達し、これをきっかけに「不耕起運動」が起こりった。
そして、アメリカ政府は「土壌保護局」をつくって、この時期に「循環」を重視する様々な農法が誕生していることは、注目に価する。
ところが、第2次世界大戦後には、もう一度「農業の工業化」に向かうアクセルが踏まれた。
それは、「トラクターの登場」という20世紀に決定的ともいうべき変化が起こったためである。
トラクターは内燃機関を持ち、非常に短時間でかつダイナミックに土を深く耕すことができるようになった。
トラクターは化学肥料とセットで20世紀初頭から世界中に広まり、その結果、収量が劇的に上がり、それによって世界人口は増えたのである。
それまで、ウシやウマなどの家畜は牧草からエネルギーを得て、糞尿を堆肥にして土壌に変えることもできた。
つまり、村落の中でエネルギー循環ができていた。
しかし、トラクターの登場はその循環を断ち切り、世界各地の産油国と結びつくことになった。田園をトラクターが走っている風景はのどかですが、その背景には「油田」の存在がある。
具体的には、アメリカのメキシコ湾に面した油田地帯と、南西部の大平原がこうして繋がるのである。
日本はアメリカから様々な穀物を輸入しており、我々の食生活が、化石燃料を使わなくてはいけない循環の仕組みの上にあるということは、重大な変化ではありつつも、なかなか気がつかない点である。
アメリカのホラー作家に、ステーヴン・キングがいる。キングは西海岸のメーン州の生まれだが、コロラド州デンバーに棲み、作品を書いた。
穀倉地帯を舞台にしたホラーなども、人間と自然の不調和が作品の背景にあるのではなかろうか。
「トラクターの世界史」などの著書がある、京都大学人文科学研究所の藤原辰史准教授によれば、人間はトラクターがもたらす生産力に魅せられ、(従来の)循環が途切れることに対する意識があまりにも希薄であった。土壌と人間の接地面に機械が入り込み、土から人間が離れてしまったということのである。

農業の工業化で、自然が持っている回復力を発揮できず土壌が劣化していることに気づき始めた人々も多くいた。
その中のひとりの農場経営者ゲイブ・ブラウンが著した「土を育てる;自然を甦らせる土壌革命」(2022年)はベストセラーになり、日本語にも翻訳されて「土を育てる」として出版された。
ブラウンさんの掲げる基本原則は、「自然のまねする」ということに他ならず、6つの原則からなる。
その第1の原則は「土をかき乱さない」。放っておけば土の中で微生物をはじめとした生物が良い環境を作ってくれる。耕すと土壌の構造が崩れるからである。
第2の原則は「土を覆う」ということ。畑を植物で覆うことで、土は風や水による流失から守られる。
被覆する植物は土壌生物の栄養になり、水分の蒸発や雑草の発芽も抑えられるからである。
第3の原則は「多様性を高める」こと。自然の中で単一の品種が生えているところはない。
ブラウンさんの農場では数十種類の穀物や野菜、草花が育てられ、花粉を運ぶ虫や鳥、ミミズを始め土壌生物も極めて多様であり、それらは、お互いに良い作用をもたらす。
第4は「生きた根を保つ」こと。冬の間も何かしらの作物を育てていて、生きた根は土壌生物にエサとなる炭素を供給し、土壌生物は土を豊かになる。
第5は「動物を組み込む」ことで、農場では牛と豚、羊、ニワトリを飼っている。
第6はその土地の「背景」を大事にする。気候や環境、経済状態などは人によって違い、自分の事情や条件に合わせて仕事をしなければならない。この農法で疑問なのは、生産性はどうかだが、世界中で砂漠化が加速している時代を背景として生まれた考え方だ。
条件によっては想像以上の豊かさを生むかもかもしれないし、場合によってはスーライフ・スローフードに行き着くこともあろう。

先土器文化の「岩宿の発見」で知られる、赤茶けた関東ローム層というものがある。この関東ローム層は、農業という点にかんしては不向きなのだという。
作物に必須のリンを鉱物として土中に固定してしまうため、作物が吸収できない。
そのため徳川五代将軍の綱吉が、リンを多量に含む下肥を市中から引き取るシステムを作り、リンが豊富な干鰯(ほしか)も費用として利用した。
ちなみに、豪雪地帯の新潟県が日本で最大の米どころになっている理由は、冬の大雪が空気中のリンや窒素を地表に固定するためだ。
それを思うと「風土」とはよくいったものである。 世界で一番肥沃な土を「チェルノーゼム」という。ウクライナには世界のチェルノーゼムの3割が集中している。
ロシア語「チェルノ」の部分は「黒」を意味するようだ。現在のウクライナを中心に東西に延びる肥沃な黒土地帯がチェルノーゼムと呼ばれている。
「土が黒い」のは、枯れ草などの有機物を微生物が分解したあとに残る「腐植」という物質が多いからだ。
腐植は養分を蓄える力を持っていて、ウクライナは大麦、小麦、トウモロコシ、油の原料となるヒマワリの種などの世界有数の産地だ。
ナチスのヒットラーが貨物列車で「チィルノーゼム」を運んだということでも知られる。
しかし、そんな「土の皇帝」ともいわれる肥沃なチェルノーゼムにも「疲れ」が現れ始めているという。 首都キエフの近郊でも、黒い土が失われて白っぽくなった農地や、すでに資材置き場などにされている元農地などが広がっている。
首都キエフから特急で5時間の東部の古都ハリコフの近郊の農場には、一面に冬小麦が広がっている。
土の保水力が高く、夏場は2カ月ほど降雨がなくても小麦が育つという。
しかし、傾斜地にできた畑では、うまく管理をしないと水で土が流れ出ていってしまうという。
さらに、畑にしたまま土を風にさらしておくと貴重な表土が飛んでいってしまう。
このためウクライナでは伝統的に「シェルターベルト」と呼ばれる「樹林帯」を畑の周りにつくり、土を守ってきた。
ところがシェルターベルトの中には手入れが不十分なところや、切り倒されてしまったところもあり、土がダメージを受けているという。
戦争も災害もウイルスも、つまるところ「自然の劣化」「土の疲弊」と繋がっているように思える。
人は1万年の間、さんざん土を掘り返し、それが農業だと思ってきた。
しかし、農業とは元気な土壌を保ち、育てるものだ。
「耕さない文化」という発想は、すべてをコントロールしたがる人間にとって、農業にとどまらず、社会のパラダイムの転換に繋がるようにも思えてくる。