政界と労働界「距離と向き」

岸田首相か就任当初令和版の「所得倍増計画」を掲げていたが、いつのまにか「資産」が冠され「資産所得倍増」とな ってしまった。
資産がない人にとってはあまり意味はなく、「分配重視」ならば「実質賃金」の上昇こそが求められている。
ここ30年間、日本の実質賃金はあまりあがっていない。これが他の先進国と比べても顕著な特徴で、これに対処する以外に「分配重視」などとはいえない。
実際のところ、日本の実質賃金の低迷はどこに原因があるのだろうか。
第一に、少子高齢化による人口減で、老後のための貯蓄が増え、手元にお金を置きたがるために、預貯金のニーズが高まり、デフレになり易くなった。
第二に、非正規雇用の増加による所得格差の広がり、将来の所得が不安定だと、働き手が頑張ってスキルを磨こうという動機がわかず、生産性も向上しない。
第三に、財政や社会保障への信頼が揺らいでいることによる将来不安。いつしか日本の財政が破綻するかもしれない不安があると、消費や投資が鈍る。
第四に、長期化する低金利政策は本当にプラスに働くのか、いまや検証が必要。
低金利は資産価格をひきあげ、企業の土地購入をむずかしくさせ、銀行経営を圧迫している。
日銀の低金利政策からの「出口戦略」のなさも、将来不安の材料となっている。
かくして日本経済の停滞は、混迷する政治が招いた「不安」ということがいえそうだ。

この夏の参議院選挙で「自民党大勝」は予想されたが、「維新の会」の議席増がめだった。
衆参両院で改憲勢力が維新の会を含め「3分の2」以上を占め、改憲の前提条件はそろった。
しかし皮肉なことに、旗振り役だった安倍晋三氏が失われたことにより、改憲論議が本格化するようには思えない。喫緊の課題が多すぎるからだ。
「維新の会」は、大阪に党本部を置き、府知事と市長が党を率いて、首長代表が実績をふまえて東京に改革を迫ってきたことで存在感を強めてきた。
しかし「大阪都市構想の挫折」以来、目ぼしい構想はなく、自民党にいれたくない人の「受け皿」となったかんじでしかない。
一方で、労働組合を支持基盤とする「立憲民主党」の没落と「国民民主党」の低調さが、目についた選挙だった。
それは多くの「ひとり選挙区」で「野党共闘」がなされなかったことが一番の原因である。
今、参議院選挙での総括が行われているが、参議院で全国に32ある「ひとり区」で野党候補の一本化が実現していたら、自民党にとって勝敗は「22勝10敗」になる可能性があったと試算した。
実際は野党が一本化した選挙区は11にとどまり、自民が大きく勝ち越す28勝4敗だった。
そんな野党の足並みの乱れのシンボルが、「国民民主党」が政府の「予算案」に賛成するという、野党としては「前代未聞」のことが起きたことであった。
従来、自民党が政策や選挙で連携してきた連立政権を組んだのが公明党であった。
もともと、自民党と公明党は、安全保障面でソリあわない。その一方で、創価学会を支持母体とする公明の集票力は切り離せない。
安全保障政策でいうと、自民党は敵基地攻撃能力保有など、公明党よりも日本維新の会や国民民主党と折り合える。
今の政治趨勢の中で「国民民主党」は大きな勢力ではない。しかし、自民党が「国民民主党」と連立を組むとなると、その政治的意味合いは小さくない。
なにしろ、「国民民主党」は、連合が結党を後押ししたという経緯があるからだ。
昭和の時代、労働者からすれば、社会党や民社党など野党が政権を握れば、それが生活改善と直結するという意識があった。
しかし今や人々の意識は多様化し、労働組合の加入率は急速に低下していく。
連合傘下の組合員の支持政党は割れている。
2019年の連合の調査では立憲民主と国民民主党への支持は合わせて34・9%。これに対し、自民は20.8%、無党派は36%に上った。
近年は旧民主系への支持が下がる一方で、自民の存在感が増しつつある。
実際に、自民党は、労働組合の中央組織「連合」と政策懇談を進めている。
安倍政権でも政府と経団連、連合の3者による「政労使会議」を設け、春闘交渉で経済界に賃上げを強く求めてきた。
「官製春闘」との批判もあるが、全体の賃金水準を引き上げるベースアップ(ベア)が復活し、大手で2014年が2・28%、15年は2・52%という賃上げを達成した。 それにしても、自民党の切り崩しもあって、野党が共闘を組めず、選挙で敗れ続けている。
遡ること5年前のしこりが今の続いているようだ。
2017年に民主党が下野して名前を「民進党」に変えるが、民進党(民社党)が、小池百合子率いる「希望の党」に合流をするという話が出た。
民進党という政党は、「保守」の自民党とは逆の立場にいる「リベラル」系の政党であった。
少し教科書的な話をすると、リベラルとは、保守にくらべ「大きな政府」(社会保障重視/軍備縮小)、「多様性重視」ということができる。
、 とはいっても、民進党は皆が皆リベラルというわけではなく、保守寄りな考えの人たちもいた。
そんな中でのこの「希望の党」合流」事件が起こった。
「希望の党」は保守系だったので、民進党の保守系の人たちは希望の党に行き、リベラル系の人たちは新しく「立憲民主党」という政党をつくった。
しばらくは「希望の党」として活動していたが、翌2018年に「国民民主党」に改名して、今に至っている。
立憲民主党と歩調をあわせてきた国民民主党だが、お互い新党となってからは国会対応で足並みが揃わない場面が増えてきた。

「連合」とは労働組合まとめる全国組織、正式名は「日本労働組合総連合会」。
平成元年の結成直後に、旧総評系が社会党、旧同盟系が民社党をそれぞれ支持していた。
しかし、自民、社会、新党さきがけ3党による「村山富市政権」では、社会党が与党、民社党が野党という深刻な分裂状態を経験したこともある。
現在、連合は業界ごとに分かれた48の産業別労働組合(産別)と、中小零細企業や個人を主な対象にした47の地方連合会から成り立っている。
組合員は約704万人。経営側の経団連が自民党を支援するのに対し、連合は立憲民主党、国民民主党両党の最大の支援組織である。
とはいっても、各企業の労使関係、労働条件の改善に取り組むだけでは生活は良くならない。
働く人、生活者の立場に立った政治勢力の拡大が、政策を実現するためには重要で、政党の支持基盤となって、組織内メンバーが国会議員となったり、組織票を提供したりしている。
ところで、労組と言えば「野党支持」で知られるが、ある有力労組が与党との連携を模索し始めた。
その労組とは、トヨタ自動車をはじめとするトヨタグループの労働組合。
組合には、立憲民主党に抵抗感を持つ人が増えているという。
正式名称は「全トヨタ労働組合連合会」で、トヨタ自動車、デンソー、アイシン精機など、トヨタグループ各社の労働組合で作る組織で、組合員は35万7000人。
圧倒的な組織力と活動量で国政選挙に影響を与えてきた。古くは旧民社党。その後、旧民主党や旧民進党を支援し、かつて「民主王国・愛知」と言われた構図を築き上げた。
その「全トヨタ労連」による与党との連携模索の情報が広がった。
これまで連携してきた野党側に加え、自民・公明両党も加えた「政策協議の場」を設ける検討に乗り出したという。
野党の幹部は相変わらず「桜を見る会」とか「学術会議の任命問題」などで、政府の揚げ足を取って反対だけしているような野党では、雇用を守り、政策を実現することはとてもできない。
トヨタはハイブリットからEV車への転換、AI化からコンパクトシティの推進も構想している。そこに広がるのは大きな「雇用不安」である。
「全トヨタ労連」の関係者は、「現状のままでは、業界の変化の速度に政策実現が追いつかず、党派を超えた活動が必要だ」と説明した。
その一方で「選挙と直接結びつく動きではない」という点も強調した。
「政策協議で協力を求めるが、選挙は協力しない」とはいっても、政策協議で協力を求める先には「選挙協力」があるのではと、臆測されても仕方がない。
こうした動きは「全トヨタ労連」だけにとどまらず、別の自動車メーカーの組合や、電力や電機、それに流通といった処に広がりつつある、
立憲民主党が「原発ゼロ政策」を掲げていることへの批判がくすぶり続けている。「原発ゼロ」というのは産業への影響が大きすぎて、野党第一党が経済や雇用の実態を踏まえた現実的なエネルギー政策に転換しないのであれば、これ以上はついていけないということである。

2021年10月、連合初の女性会長が誕生したというニュースがあって、正直驚いた。
驚いたのは、労働組合のリーダーは「男性」というジェンダーに基づく偏見が我が内にあったからだ。
世界に目をむければ「労働組合」を味方につけて権力を握ったアルゼンチンのエバ・ペロン(通称エビータ)のような女性もいる。
エビータはタンゴ歌手を夢見て首都ブエノスアイレスで路上生活をする。
エバの路上生活の中で、陽の当たらない都会の片隅をその日暮らしで生きる人々を知り合った。また自分を卑しめてきた一握りの金持ちとの、独裁政治のもとでの圧倒的な「貧富の差」が、彼女の胸中を重石のごとくに占めていた。
大した教育を受けていないにもかかわらず、新聞やニュースをよく読み、政治や社会について素晴らしい理解力を示し、労働者達とも語り合い、ワタリがつけられるほどだった。
そして自身が出演するラジオ番組のパーティで、ペロンとよばれた若い将校達に人気のある人物と出会う。
ペロンは最初の妻をなくしており独身であったが、エバと付き合ううちに、彼女の知力や人脈からして、自分の「守護神」になってくれるかもしれないと思うようになる。
そして、いつしか2人は一緒に暮らすものの、ペロンの運命は「暗転」する。
ペロンを「新たな独裁者」として喧伝する勢力があり、また戦時中のドイツ派ともみなされ、その責任を追及され逮捕されるのである。
逮捕後、ペロン自身も自分の命運はつきたとエバに語ったという。
ところがここからエバが本領を発揮する。
エバは、そこから10日間、ブエノスアイレスじゅうを巡り歩いて、ペロンを救うために、労働者達にゼネラル・ストライキをよびかけたのだ。
そしてなんと70万人の労働者がデモを行い、ついにはペロンは「釈放」されてしまうのである。
その釈放5日後に2人は正式に結婚した。
そしてフアン・ペロンは、1946年の選挙で圧倒的な勝利で大統領となった。
さて連合初の会長となったのは、芳野友子。幼いときの夢はバレエダンサーで、就職後はバレーボール部のマネージャーを務めたという。
出身の会社はJUKI(ジューキ)」で、主力事業の工業用ミシンのシェアは世界1位。世界中の有名アパレルブランドで使われているが、会社の歴史が面白い。会社の主力製品が、一般に男が使う「銃」から、一般に女性が使う「ミシン」へと転換したからだ。
創設は1938年12月、日中戦争中に陸軍が使用する「九二式重機関銃」および「九九式短小銃」を生産するために東京重機製造工業組合として設立された。
1943年に戦後に武器製造は中止し、使用していた工作機械を活用しミシンを作り始めた。
その後「家庭用ミシン」を発売し、その性能が高く評価され、工業用ミシン事業に参入した。
1969年に「自動糸切り機構」を開発し、このミシンが縫製工場に革命を起こし、生産性を大幅に向上させた。
芳野はJUKI労働組合の中央執行委員を務めていたころから、企業や職場、そして労働組合の中の男性中心的発想を打開する為に組合内に女性委員会を発足させるなどの取り組みなど、「男女雇用機会均等」を現実化する働きをしてきた。
ところで「男女機会均等法」の成立に関しては、「連合」の片方の母体「総評」の婦人局長である山根和子の存在が大きかった。
赤松良子は1東京大学法学部を卒業、労働省に入省し婦人少年局婦人労働課に勤務、女性で初めて山梨労働基準局長に就任する。
女性官僚キャリアの草分け的存在として、「男女雇用機会均等」法成立に尽力した。
この法律成立のキーパーソンとなったもう1人の女性がいる。日本最大の労働組合「総評」の女性幹部の山根和子で、赤松とこの法律をめぐって論争相手となった”労働者側代表”であった。
山野は三重県出身、高校を卒業して愛知県の会社に入りアシスタント的な仕事ばかりをしてきた。
1976年から89年まで総評・婦人局長となり、当時加入人数380万人にも達する日本最大の労働組合の全国組織・総評の婦人局長であった。
そして、法案を通す際の最大の障害は経営側であり、それは「男社会」の壁との戦いでもあった。
赤松は、依然意識の低い経営者代表に、なんらかの「男女平等法」をつくらないと、国際的に人権意識が低い国と見られ様々な分野での交渉にも支障が生じると訴えた。
こうした赤松チームの説得で少しずつ経営者側の意識が変わっていった。
この法案成立には、タイムリミットがあった。1975年が国際婦人年で、日本も10年をめどに男女平等法をつくる「行動計画」を批准していたからだ。
ところが1984年4月、国会提出のタイムリミットぎりぎりの審議会で、労働者側代表の山根和子は罰則規定のない「手ぬるい法律」と異論を唱え、審議会への出席を拒否した。
山根が出席を拒否すれば、すべてが水泡に帰する。赤松は山根に最後の電話をかけて訴えた。
「不十分な法律であることはわかっている。法律ができなければ、国連の女子差別撤廃条約を批准できない。これでは世界の動きからいっそう遅れてしまう」。
その翌日、山根和子は審議会に現われた。
赤松は法案の説明をしながら、心の中で山根に頭を下げていたという。
そして1984年、国会で「男女雇用機会均等法」が成立した。
さて芳野会長率いる「連合」にとって一番の課題は、各党への距離と向きの取り方ではなかろうか。
「連合」の中には、立憲民主党の枝野会長当時、限定的だが共産党との「協力」につき言及し、共産党に寄り過ぎという批判がくすぶる。
また、立憲民主党の泉代表は「問題点を追求し、おかしいと声をあげる議員が多い国会にしたい」という一方、国民民主党の玉木代表は「対決より解決。右だ左だといってないでとにかく政策実現だ」と述べ、立ち位置の違いが鮮明となっている。
振り返れば、民主党が政権交代をとげたのは2009年。内紛にあけくれ、なかなか政策上の優位性と団結力を示せなかった。
当時の山岸連合会長は、民主党に寄り過ぎないように、自民党や公明党の応援団ともなりうると注文をつけた。
「応援団」とは微妙な言い方だが、山岸会長の言葉は今、ますます現実となりつつある。