臼杵から豊後竹田へ

大分駅から西に向かう路線で、福岡の久留米に向かうのが「久大線」、熊本に向かうのが「豊肥本線」である。
はじめて「九州横断線」各駅停車に乗車したのは、「豊後竹田」をめざすため。「豊後竹田」は、滝廉太郎の「荒城の月」の舞台で、客は多くはないと思っていたら意外にも、若者が多い。
各駅停車の3番目の駅が、「大分大学前」駅でその理由がわかった。
7番目の駅に「菅生(すごお)駅」に列車が停車した。ここが1952年の「菅生(すがお)事件」の舞台、すなわち公安警察による共産党弾圧事件(自作自演による駐在所爆破)の舞台かと知った。
さらに約1時間ほど、車窓を笹枝かかすめるように走って「豊後竹田駅」に着く。
なお「赤い鳥」のカバーでよく知られた「竹田の子守唄」(1970年)は、京都の竹田の方で「豊後竹田」とは無関係である。
江戸時代の蔵をイメージしたような古風な駅を出ると、すぐ前の橋を渡って右側に見たのは「田能村竹田(たのむらちくでん)」の銅像である。
田能村竹田は、江戸後期の文人画で知られる存在で、日本史の教科書にも登場する。
田能村が豊後竹田が出身地とは知らなかったが、名前をよくみると「竹田」の名がはいっている。
「荒城の月」で知られるる滝廉太郎の記念館は駅から10分ほど歩いて到着する。
ここは滝の生家を改装して「記念館」にした処だが、時間的な余裕がなく、まずは目指す「荒城の月」の舞台「岡城址」まで歩くことにして、徒歩約40分ほどで到着した。
その間、江戸時代からの商家が並ぶ町並みをぬけたが、併行して武家屋敷通りもあり、その江戸時代からの街並みの景観がよく保持されている。
豊臣秀吉の時代1593年朝鮮出兵「文禄の役」において岡藩城主・大友吉統(よしむね)が秀吉から鳳山(北朝鮮鳳山郡)撤退を責められ所領を没収された。
翌年、播磨国三木から中川秀成が移封され、入城後3年がかりで大規模な修築を施した。
豊後竹田7万石の中川氏は、関ケ原で東軍に属したため所領をそのまま安堵されている。
明治維新後、「廃城令」によって廃城とされ、城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは石垣のみである。
この「廃城」の風情こそが滝廉太郎の「荒城の月」作曲にインスピレーションを与えた。
広い駐車場から岡城を見上げるが、城の石垣が、隆々たる巌(いわお)の上にあるため、実際にのぼるととても峻嶮である。
「荒城の月」の作詞は英文学者の土井晩翠(ばんすい)で、「春高楼の花の宴」という歌詞のイメージを描きつつ見える岡城は雅を湛えた中にも、なにか「すごみ」さえ感じさせる。
滝廉太郎は、1879年生まれ。滝家は江戸時代に「日出(ひじ)藩」で家老をつとめた家柄である。
父吉弘は大久保利通にスカウトされ、明治政府に加入した人物で、大久保がと東京紀尾井坂で暗殺された後、吉弘は伊藤博文の秘書官になっている。
瀧が生まれた年、学校における音楽の教育機関である「音楽取調掛」が設立されている。
その中心的立場にいたのが伊沢修二で、伊沢は西洋の音楽が輸入され続ける事で、日本の古き良き音楽が消えてしまうことに懸念を抱いていた。
伊沢は「西洋音楽と東洋音楽の良い部分を取り入れる」という理念を抱き、そうした理念に応え得る音楽が作られることをことを求めていた。
そんな時期、父・吉弘が神奈川県の少書記官に任命され、滝一家は横浜に転勤する。
横浜は西洋の文化が多く伝わる土地、滝は隣の宿舎に住んでいた松川家の人々とも親しくなる。
松川家の人々はキリスト教徒で、滝は彼らによって西洋文化の一端にふれることとなった。
滝一家は再びの父の転勤で富山県に移り住み、尋常師範学校附属小学校に学んでいる。
富山は立山連邦など美しい自然の情景に囲まれており、通学した小学校が旧富山城内にあったことから、登下校を通じて「城」というものに対して特別な思いを抱くようになった。
また、師範学校講堂で富山県初の音楽会が開催された際、滝も音楽会に参加して歌ったり、楽器に触れたことが大きな体験となった。
つまり滝は横浜の地で讃美歌やバイオリンを知り、富山の地で神楽・雅楽・朗詠などの古き良き日本の音楽にふれたのである。
滝は伊沢修二の求める「西洋東洋の音楽の良い部分に触れる教育」に応え得る感性が養われたのである。
ところが父・吉弘は依願免職となり、1885年5月に次の仕事を探すために一家を連れて東京に戻ったため、四谷に近い麹町小学校2学年に転入している。
やがて父・吉弘が故郷の大分県で大分郡長に命じられ、滝はしばらく東京にとどまっていたが、1891年12月に一家は大分県の豊後竹田へ転居した。
ただ病弱だった姉のリエが亡くなる悲劇に見舞われる。
滝が転入した直入郡高等小学校では学校の裏に「岡城跡」があり、滝はこの場所でよく遊んだという。
この学校には、高等小学校には当時では珍しいオルガンがあり、進学の許可を得た滝は教員達から音楽の手ほどきを受けている。
そして音楽の才能を発揮するようになり、姉のバイオリンを独学で弾き鳴らして、音楽の道を志すことを考えるようになった。
しかし父親は「音楽は婦女子のする事」と反対し、滝に官僚の道に進むことを望んだ。
一方、18歳歳の離れた兄は、滝の才能を高く評価し、「人は各々天分を生かすべきだ」と父を説得した。
この訴えに父親もついに折れて、滝は東京音楽学校への進学が許された。
そして1894年9月に最年少で難関の東京音楽学校の予科に合格。当時は日清戦争が終わったものの、その雰囲気はいまだ残っていて、滝もその影響を免れえず、 「我が神州」という軍歌調らしきものも作っている。
その一方でソプラノとアルトによる合唱である「四季の瀧」を作曲。新たなアプローチを加えた曲を作り上げていき、頭角を現していった。
この当時、滝がプロポーズしたのが三浦環(みうらたまき)であったが、三浦は学校には内緒で結婚しており、この恋ははかなく散っている。
三浦はのちに「マダム バタフライ」で世界的に知られる存在である。
滝は東京音楽学校専修科を首席で卒業し、卒業式で謝辞を述べ、その後の演奏会で「クレメンティのソナタ」を独奏している。
その後、専門性の高い教育を受けるため専修科に進学し、この頃の滝に大きな影響を与えたのが、6年間のドイツ留学から帰国した幸田延(のぶ)であった。
日清戦争の影響で外国人教師が帰国していたため、反対に延のように西洋の技術や知識を学んで帰国した者が期待されていたのである。
幸田延は文豪・寺田露伴の妹で、日本初の音楽留学を果たした女性である。
滝は、卓越した才能を評価され留学が決まるが、成果を残してから留学をしたいという思いがあったのかその留学を1年先延ばしにしている。
実際、滝はこの期間に組曲「四季」など4曲を作曲している。それに並行して「お正月」「雪やこんこん」「鳩ぽっぽ」などの幼稚園唱歌も多数作曲した。
そして中学校唱歌として応募した「荒城の月」「箱根八里」「豊太閤」は全て入賞するほどの充実をみせた。
この1年で、滝の名は不動のものとなった。
そして1901年4月6日に滝の留学の日が決まるが、音楽学校初の男子学生による留学で、その分周囲の期待も大きかった。
滝はドイツのベルリンに到着し、その後は更に北にあるライプツィヒに向かった。
滝は名門のライプツィヒ音楽院に進学するが、そんな夢多き留学が一機に暗転する。12月に結核が判明して学校を退学、1902年10月に帰国を余儀なくされた。
滝は帰国してからしばらく従兄弟のもとに身を寄せるが、その従兄弟が脳溢血で40歳の若さで死去し、滝は両親のいる大分に戻る事を決意する。
その頃の記録はわずかに残されていて、滝は曲が出来ると大分高等小学校に行き、オルガンを借りて教師や生徒にその曲を聴いてもらっていたという。
しかし滝は自分の死期を悟り、最期の曲「憾(うらみ)」を作曲している。
「憾」はうらみつらみの憎しみではなく、心残りや未練、無念という意味が込められている。
滝は1903年6月滝は23歳と10ヶ月の若さで死去した。その14年後には山田耕筰が、大幅なアレンジを加えた「荒城の月」を編曲、形を変えて滝の曲が歌われている。
岡城城址のふもと近くに「広瀬武夫」の銅像が立っている。戦前学校の教科書にも載った日本陸軍の軍神が、豊後竹田出身とは知らなかった。
調べてみるとこの竹田市から阿南唯幾(あなみこれちか)などの著名な軍人を輩出している。
広瀬武夫は、1897年にロシアへ留学してロシア語などを学び、貴族社会と交友をもった。また、中国山東省の旅順港などの軍事施設も見学している。
ロシア駐在武官となり、その後少佐昇進し1902年に帰国している。
広瀬武夫がロシア留学、駐在員時にアリアズナというロシア人女性と知り合い、一般的には文通をする恋仲だったといわれている。
広瀬がロシアを去るとき銀時計と自分の写真入りのロケットを渡した。そして広瀬戦死の報が入った時、一人喪に伏したという。
また、ロシアでの勤務を終えた広瀬は、ソリでシベリアを横断して帰国した。そして旅館で髭の伸びた自分の顔を鏡で見て一言「俺の顔は八角時計によく似ているわい」と語り、意外とユーモラスな一面があった。
1904より始まった日露戦争において旅順港閉塞作戦の際に、福井丸を指揮していたが、敵駆逐艦の魚雷を受けた。
撤退時に広瀬は、自爆用の爆薬に点火するため船倉に行った部下の「杉野孫七」上等兵曹がそのまま戻ってこないことに気付いた。
広瀬は杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に戻って捜索したが、彼の姿は見つからなかった。
やむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受け戦死した。35歳の若さであったが、その遺体はロシア軍により旅順の墓地に埋葬された。
日本初の「軍神」となり、出身地の大分県竹田市には1935に岡田啓介(当時の内閣総理大臣)らと地元の有志により広瀬を祀る「広瀬神社」が創建された。
死後「広瀬中佐」は海軍の軍神となり、文部省唱歌の題材になったほか、万世橋駅(秋葉原のあたり)には広瀬と杉野の銅像も建てられるほどの国民的英雄であった。また、海軍柔道の先駆者としても知られ、柔道殿堂にもその名を連ねている。
「広瀬神社」は、長い階段を上ると、そこは広々とした境内となり、しかも荘重な神殿が大きく構えられている。
かつて竹田の街が一望されるその境内の一角には、「海軍軍艦旗」が、日章旗とともに空高く掲げられていた。
そして終戦時の陸軍大臣であり同郷の「阿南惟幾の顕彰碑」が、その境内に置かれている。揮毫は岸信介。
阿南は終戦の8月14日の夜に割複自決をとげた。

1594年、播磨国三木から中川秀成が総勢約4000人で入部し、現在の城郭や城下町を整備した。
「古町通り」の街並みを歩きながら見つけたのが「竹田キリシタン研究所・資料館」である。
また岡城址の麓近くには、幼稚園とひとつとなった「竹田キリスト教会」があり、園児たちが歌う「マリーゴールド」の声が聞こえてきた。
つまり竹田はキリシタンの里でもあった。それもそのはず、豊後の大友氏はキリシタン大名である。
岡藩は、最多時には1万5千人もの信者がいた豊後国最多のキリシタンの里であった。とはいえ江戸時代には禁教令が出て、外国人宣教師は追放されキリシタン達は棄教を迫られたはず。
不思議なのは、豊後竹田にはキリシタン弾圧の痕跡がみられない。ある意味、特殊なキリシタン達であったように思える。
「竹田キリシタン研修館」は城下町内にあった空き店舗の衣料品店を改装したスペースで、竹田のキリシタン文化を研究し情報発信するNPO法人が中心となって、クラウドファンディングや寄付によって資金調達、オープンにこぎつけた施設であるという。
館内には、キリシタン遺物が約45点並び、圧巻は、重量108kgもあるキリシタンベル「サンチャゴの鐘」である。
文化庁の監修下で制作したレプリカであるが、成分や重さは本物(国重要文化財)と同じ、クリスマスには除夜の鐘ならぬ「サンチャゴの鐘」を鳴らしたという。
ちなみにサンチャゴとは、イエスの12弟子のひとり「聖ヤコブ」のスペイン語読みで、スペインの世界遺産都市クエンカのデザインの類の似性を示していると説明パネルにあった。
驚きは、この巨大なサンチャゴの鐘、キリスト教禁教の時代になんと岡城で隠されていた。
また、使徒ヤコブの頭像なども岡城に隠されていたという。
江戸時代に、キリシタンに対する厳しい監視の目は、大名をして多くのキリシタンを弾圧に向かわせたはず。
それが城主自身が、キリシタンの遺物を大事に保持していたということは何を意味するのであろうか。
豊後竹田駅を結ぶ「古町(ふる)通り」には、江戸時代に地下室をもっていた屋敷がいくつもあり、地下室に備えていた礼拝スペースが藩に見つかって捕まった豪商もいた。
1783年に、商家の地下に礼拝堂が造られていたことが発覚する笑い話のような事件が起こっている。
数十名の人が踏み絵を行っている最中に広間の床が抜けて、役人もろとも地下に転げ落ち、そこにはマリア像が安置された祭壇が設けられていたことがわかった。
現在でも古い地下室のある商家がいかつかあるという。
このように宣教師やキリシタンが存在した環境だったからこそ、どこかヨーロッパの雰囲気さえ漂う「岡城」を築いたとも推測される。
JR豊後竹田駅前からバスに揺られること約30分で、日本では珍しい炭酸泉が至る所に湧き出る「長湯温泉」がある。
戦国時代に、朽網(くたみ)氏という熱烈なキリシタン武将が治めていた。
そして朽網は、「日本8大キリスト教布教地」のひとつとして、ヨーロッパにも知られた町であった。
宣教師たちが歩いた長崎と大分を結ぶ「キリシタンロード」の途中にあったこの地にあって、炭酸泉は、ヨーロッパでは「聖水」として使われる例もあり、そこに西洋の宣教師をひきつけるものがあったのかもしれない。
この地域にある「原のキリシタン墓碑」には、駐日バチカン大使が訪問したことからも、国内よりも外国で関心が寄せられる土地であることがわかる。
興味深いのは、竹田の城下町内には他にもこれに似た「五角形の洞窟」が多く分布しており、多くが稲荷社として祀られている。
信者数が1万5千人もいれば、当然それに見合った礼拝堂があることは、自然といえば自然。
キリシタン洞窟礼拝堂の正面側にも朱鮮やかな稲荷神社が祀られており、これはカモフラージュとして存在しているのではなかろうか。
また「五角形」といえばペンタゴン、西洋式の城郭建築の様式であることにも注目したい。
豊後竹田に近い湯布院では厳しいキリシタン弾圧の跡が散見される。湯布院は2000人ものキリシタンがいたが完成してわずか1年の聖ミゲル教会は破壊され信徒は各地に離散している。
一方、豊後竹田は商店の地下に礼拝堂が秘められ、岡藩城主以下、組織ぐるみの「隠しキリシタンの里」というべきか。