テネシーワルツ

「ワルツ」は、西オーストリア・南ドイツ(ハプスブルク帝国)起源で、13世紀頃から今日のチロル州とバイエルン州の農民が踊っていた「ヴェラー (Weller)」 というダンスから成立した。
個人的には、「スケーターズワルツ」と「テネシーワルツ」(曲そのものはワルツではない)ぐらいしか思いつかないのだが、クラシックにはたくさん傑作があるのだと思う。
実際、前身形態のドイツ舞曲からモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトら名だたる大作曲家が手がけて発展させ、シュトラウス父子が爆発的に普及させたことからドイツ民族を代表する舞曲として位置づけられている。
ヴェラーは、ゲルマン文化初の男女が体を接して共に回るダンスであったが、品がないという理由からハプスブルク帝国時代、長年に亘って法律的に禁止されていた。
しかし監視の目が届かないアルプスの渓谷の奥では、厳しい生活の中、ヴェラーは農民の数少ない娯楽であった。
このヴェラーが16世紀に入ってからインスブルックなどの都市に住む住民にも伝わり、各町村の住民も踊るようになると、次第に優雅さを増していき、ワルツに発展していく。
あまりの人気のため、ハプスブルク帝国は法律の改正を余儀なくされ、当初はチロル州でのみ、最終的にはオーストリア、そしてハプスブルク帝国全体で解禁される。
世界史の教科書にブリューゲル作の「農民の踊り」(1538年)という絵画が出てくるが、あれはヴェラー とは関係ないのであろうか。
ともあれ、国際的な場に初めてワルツが登場したのは1814年、「会議は踊る、されど進まず」で有名なウィーン会議でのことで、これを機に「ウィンナー・ワルツ」として世界中に広まった。

昭和と平成の変わり目まで東京赤坂にあったナイトクラブ「ニューラテンクォーター」は、昭和史の雄弁な証言者である。
それは、数々の国際スターがステージに上がった華やかな場所であり、力道山刺殺の現場であり、同じ敷地内にあった「ホテルニュージャパン」が焼失した出来事もあった。
「ニュー・ラテン・クォーター」のナイトクラブ黄金期のステ-ジにたった超大物外国人は次の通り。
1961年:ア-ル・グラント、ナット・キング・コール。
1963年:プラターズ、ルイ・アームストロング、パティ・ペイジ、サミーデービスJr。
1964年:パット・ブーン、ベニー・グッドマン。
1982年:「ニュー・ジャパン」の火災の影響で「ニュ-ラテンクォーター」の客も遠のき、ついに1989年に閉店となった。
「ニューラテンクオーター」には上記以外にも錚々たる国際スターが立ったが、山本平八郎社長にとって最も印象に残ったのは、1963年にステージに立ったパティ・ページだったという。
まばゆいばかりの光の中に浮かび上がった白いドレス姿のパティ・ペイジが歌う「テネシ-・ワルツ」に、仕事を忘れ夢見心地であったという。
「テネシ-・ワルツ」はポーランド系のアメリカ人が1946年に作曲したものだが、日本人が聞いても郷愁をさそう。
山本社長にも、きっと故郷である福岡を思い浮かべたのではなかろうか。
実は、日本人の多くが知っている「テネシ-・ワルツ」は、パティ・ペイジではなく、「江利チエミ」バージョンであったが、パティペイジと江利チエミの境遇は幾分似ている。
パティ・ペイジは、アメリカのオクラホマ州 Claremore 出身で、1950年代に女性アーティストとして最も多くのレコード売り上げ枚数を記録した。
本名クララは大家族の貧しい家に生まれた。父親は線路工夫として働き、母親と姉妹は綿花摘みをして生計を立てていた。
後年彼女がテレビで語ったところによると一家は電気もなく暮らし、日が暮れると本を読むこともできなかったという。
クララは18歳の時にオクラホマ州 Tulsa のラジオ局、KTUL の15分番組に歌手として出演するようになった。
この番組のスポンサーが「ペイジ乳業」であったために、クララは「パティ・ペイジ」と名乗る、とてもローカルな歌手であった。
1946年、サックス奏者でバンドのマネージメントを手がけていたジャック・リール (Jack Rael) が一夜限りのライヴのため Tulsa を訪ねた際、たまたまラジオで耳にしたペイジの歌が気に入ったことが、全国的に知られるきっかけとなった。
マネージャーとなったジャック・リールの「1人で一曲全てを四重唱として歌うアイデア」を大変気に入って、それによって録音された「With My Eyes Wide Open I'm Dreaming」が大ヒットとなり、彼女にとって初のミリオンセールスを記録した。
ペイジが最初にヒット・チャートの1位を記録したのはモーリス・ラヴェルのボレロを翻案した「All My Love」だった。
この曲は1950年に5週間にわたって1位の座にあった。
彼女の最大のヒット曲は同じく1950年にリリースされた「テネシーワルツ」である。
この曲は同年に13週間にわたって1位の座にあり、累計売上げは600万枚に達しビルボード誌のヒット・チャートで1950年代最大のヒットを記録した。
1998年にはグラミー賞の最優秀スタンダード歌手賞など長く活躍したが。2013年1月、カリフォルニアで85歳でなくなった。

1951年、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本は独立国としての歩みをスタートした。
小島信雄の小説「アメリカンスクール」(1950年)は、戦後まもない日本人にとっての「英語」との距離感を描いた小説である。
戦争中、軍の意向でスポーツの世界でも「敵性言語」として英語が禁じられ、ストライクは「正球」、ボールは「悪球」、セーフは「安全」、アウトは「無為」などに変わった。
審判も、ストライクワンは「よし1本」、フォアボールは「一塁へ」、アウトは「ひけ」、三振アウトは「それまで」などとコールするようになるのである。
テニスでも、「ネットイン」というところを「網こすり、良し」などどコールするほどであった。
「アメリカンスクール」は、そんな時代からの転換を背景としている。
、 アメリカンスクールは、在日アメリカ人のためのナショナルスクールとして1902年に設立された。
当時、築地にあったアメリカンスクール見学団を構成する日本人英語教師たちには、様々なタイプがいた。
伊佐は、国のプライドをかけても、英語らしい英語を話すことにとまどう英語教師である。
授業の始まりに、思い切って「グッド・モーニング、エブリボディ」と生徒に向っていうと、血がのぼって谷底へ転がり落ちて行くような気がしたほどだった。
これは単なる、単に英語の技量の問題ではなく、自分より優越する文化に取り込まれてしまうことへの本能的な怯えか。
中途半端な言語で、イッパシの外国人みたいな気になって話すことに対する「羞恥心」なのか。
それでも、アメリカンスクールの生徒たちが話す英語が、小川のセセラギのように清く美しく響いてくる。
そんなに美しく響く言語をどうして恐れる必要があろう、とも思う伊佐であった。
山田は伊佐と対照的に、米軍とのあらゆる交渉に興味をもち、英語を武器に出世しようとする。
山田は、迷うことなく通訳からあらゆる米軍との交渉まで興味を持ち、チャンスをつかんでアメリカ留学したいものと願っていた。
彼にとって、このアメリカンスクールの見学も、自分の英語力を誇示するチャンスなのだ。
もうひとりのミチ子は「切り替え」の器用さがある。英語は堪能でアメリカンスクール内では運動靴をハイヒールに履き替える。
そんな器用さをもって英語教師をこなすが、心底はアメリカ精神に馴染んでいるわけでもない。
さてアメリカのジャズを歌いこなす少女・江利チエミにとっても、「アメリカンスクール」に登場する英語教師のような葛藤がなかったわけではない。
なぜなら英語はあまりにも明白な「支配者」の言語であったからだ。
江利チエミ(本名:久保田千恵美)の父・久保益雄は福岡県田川郡添田町の出身で、独学でクラリネット奏者になり、船のバンドマスターなどをしていた。
軍事徴用での工場の作業で指の先を痛め仕事が出来なくなってしまう。
以降再び独学でピアノ弾きに転向したり三味線も独学で習得したりと、その優れた「音楽センス」を生かそうと苦心したが、仕事がない時期が多かった。
母はレビュー一座・東京少女歌劇出身の女優、谷崎歳子である。名喜劇女優として、当時同じく吉本にいた笠置シヅ子と共演したり、榎本健一とも映画で共演したりしているが、智恵美を身ごもるころより身体を壊し、一線から退いた。
智恵美は、失職した父と病床で寝たり起きたりの母、また3人の兄、これだけのものを背負うことになる。
長兄も陸軍士官学校出身のエリートだったが、戦後の価値観の変化などで順調とは行かず、父がマネージャー、長兄が付き人という「3人4脚」での芸能活動が、1949年12歳のころからスタートすることになった。
久保千恵美は、進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに進駐軍のアイドルとなり、「エリー」という愛称でよばれるようになる。
芸名の江利チエミはこの「エリー」から母が名づけた。
江利チエミは、進駐軍キャンプ回りをしながら歌で稼いだが、特にかわいがってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイドから「テネシーワルツ」のレコードをプレゼントされる。
歌手になることを志していた彼女は、この曲を自分のデビュー曲と心に決めるも、13歳ぐらいの少女が歌うジャズが売れるはずはないと、どの会社からも不合格の通知しか届かない日々が続く。
背水の陣で臨んだキングレコードのオーディションにようやく合格したのが、14歳の時のことだった。
1950年にパティ・ペイジが録音してから2年も経たないうちに、江利チエミはレコード会社の大人たちをうなずかせて、現実に録音を果たしたのだ。
そして1952年1月23日に江利チエミバーションの「テネシーワルツ」が発売された。
母親はチエミのデビューを待たず1951年6月に他界している。
しかし、母親は江利チエミにとって貴重なアドバイスを残している。それは「自分らしく歌いなさい」である。
なぜなら、それまでのジャズ歌手が「アメリカに向いて歌っていた」のとは違って、チエミの天才たるゆえんは、「日本人のハートで歌う」というスタンスを身に付けていたのだから。
父親がクラリネット奏者といえば、江利チエミと高橋真梨子の境遇がよく似ていることに気が付く。
広島生まれの高橋の父は国鉄を辞めてジャズクラリネット奏者を目指した父は、朝鮮戦争下で米軍基地が多くジャズが盛んであった福岡に移り、まもなく当時1歳だった真梨子も母に連れられて博多に転居した。
父は博多でジャズバンド「九州ナイト」のクラリネット奏者として活動したが、被爆の影響か脱疽の症状が出て病状が悪化し、働くことが出来なくなった。
その父に代わり、母は中洲でスナックを経営し、高橋も若くして米軍基地をまわって家計をささえた。
さて江利チエミは、メジャーデビューシングルの「テネシーワルツ」で23万、続く「ツゥー・ヤング」(トゥー・ヤング)も15万枚 の大ヒットとなった。
クラシック音楽以外の全ての海外製ポピュラー音楽を総称して「ジャズ」と呼んだ当時、この大ヒットが、大規模の劇場や公会堂を使ったジャズ・コンサート(ジャズ・コン)ブームや、ジャズを放送で取り上げる民間放送の開局ラッシュと重なり、ジャズが全国へ広がるうえでの牽引役となったのである。
メジャーデビューの翌年、1953年の春には、招かれてアメリカのキャピトル・レコードで「ゴメンナサイ / プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成した。
ロサンゼルスなどでステージにも立ち絶賛を浴び、帰路のハワイでも公演を成功させ、そこで合流したジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と共に凱旋帰国、ジョイント・コンサートを各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得する。
江利チエミは歌手としてばかりではなく、母親の血なのか喜劇役者としての才能を発揮する。
後に、美空ひばり・雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、一世を風靡、「ジャンケン娘」(1955年)などの一連の映画で共演した。
映画版の「サザエさん」シリーズがヒット。後にテレビドラマ化され、生涯の当たり役となる。
ところで、江利チエミの夫となる高倉健(本名:小田剛一)は、福岡県中間市出身なので、江利チエミの父親とも故郷が近い。
1931年、筑豊炭田にある福岡県中間市 の裕福な一家に生まれる。父は旧日本海軍の軍人で、戦艦「比叡」乗り組みなどを経て 炭鉱夫の取りまとめ役などをしていた。
母は教員で、太平洋戦争の終戦を迎えた中学生の時、アメリカ合衆国の文化に触れ、中でもボクシングと英語に興味を持った。
学校に掛け合ってボクシング部を作り、夢中になって打ち込み、英語は小倉の米軍司令官の息子と友達になり、週末に遊びに行く中で覚え、高校時代にはESS部を創設して英語力に磨きをかけたという。
旧制東筑中学、福岡県立東筑高等学校全日制課程商業科を経て、貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学している。

テネシー川といえば、F・ローズベルト大統領のニューディール政策(テネシー川流域開発)で有名な、オハイオ川の最大の支流である。
長さがおよそ 652 マイル (1049 km) で、この川には色々な名称があったが、かっては「チェロキー川 (Cherokee River)」 とも呼ばれた。
というのは、 先住民のチェロキー族の故国がこの流域、とりわけテネシー州東部とアラバマ州北部にあったからである。
詳しくいうと、この支流であるリトル・テネシー川 が、 ノース・カロライナ州西部 と ジョージア州北東部からこの川に流入し、 ここで多くのチェロキーの町が隣接していた。
テネシー川の現在の名称は「チェロキーの町」の Tanasi に由来し、 これはアパラチア山脈のテネシー側にあった。
しかし、アメリカ政府の一方的な命令でチェロキーの人々は、オクラホマに移住している。
ところでモンゴル系と推定されるチェロキーの血をひく映画人やミュージシャンが多いことに驚かされる。
例えば、キム・ベイシンガー、キャメロン・ディアス、クエンティン・タランティーノ、ケヴィン・コスナー、エルビス・プレスリー、ジミ・ヘンドリックス、ジョニー・デップ、ティナ・ターナー、リタ・クーリッジ、ランディ・バース(野球)などである。
チェロキー族の強制移住先であるオクラホマ州出身のパティペイジの「テネシー・ワルツ」が、似たような境遇にあった江利チエミの曲として歌われたのにも、運命的なものがあるのだろうか。
1982年2月8日かつてパティ・ペイジが、その地下にあった「ニューラテンクオーター」のステージに立ったホテルニュージャパンの火災、翌9日の日航機羽田沖墜落というニュースの陰で、4日後の江利チエミの死のニュースは、小さく物悲しかった。