聖書に沿って(天国と神の国)

旧約聖書には、神が悪徳の街ソドム・ゴモラを滅ぼそうとする話がでてくる。
それに対してアブラハムは、神にそれを思いとどまらせようと、訴えをなす(創世記18章)。
アブラハムは神に「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
それに対して神はアブラハムに「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」と言われた。
アブラハムは改めて問う、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。
主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
アブラハムは恐れながらも、正しい者の数を減らしながら同様の質問を重ねる。
そして最後に「もしそこに十人の正しい人がいたら」と問うと、神の答えは「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」と、同様の答えであった。
しかし、ソドム・ゴモラの悪は極みに達していたのか、アブラハムの仲介も虚しく、火と硫黄によって滅ぼされる。
ただ、アブラハムの甥にあたるロトの家族は、神に導かれてこの街から脱出する。
ロトの妻は、街の滅びを見ようと後ろを振り返ったために、「塩の柱」になったという話が残っている。
ソドム・ゴモラの古代遺跡は、「死海の底」に存在しているといわれている。
死海といえば、人々があおむけに浮かんで読書をするほどに、塩分濃度が高いことで知られる。
イスラエルでは日本と同様に「塩」は清めに用いるので、死海の塩分濃度の高さは、ひょっとして「清め」なのかと思ったりもする。
こうした神とアブラハムとのやりとりの中でわかることは、アブラハムが「正しい者」の存在をもって神の怒りを留めようとしている点。 そして、神の慈悲深さと同時に峻厳さである。
旧約聖書の「ヨナ記」には、神がヨナにニネベの街に「悔い改める」ように伝道に遣わす話がある。
しかしヨナは、イスラエルにとっての脅威アッシリアの首都ニネベの人々が救われることを望まず、逃げ出して大魚の腹の中に3日間閉じ込められている。
その後、ヨナはニネベで伝道し、ニネベの人々が神に立ち返ることを喜ぶどころか、不満をもつ。
その時神は、「右も左もわきまえないこの民を惜しまずにいられようか」と、ヨナを諭している(ヨナ記4章11)。
新約聖書にも、世を滅ぼさんとする「不法のはたらき」を留めるものがあることに述べている。
「まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう」(テサロニケ第二の手紙2章)。
ここで、「不法の秘密の力」あるいは「阻止している者」とは何なのであろうか。

イエスのたとえ話のなかには「天国のたとえ」と「神の国のたとえ」とがある。
その違いは、両者の言葉の使い方に表れる。たとえば、「神の国を待ち望む」といっても、「天国を待ち望む」とはいわない。また、「神の国を継ぐ」とはいっても、「天国を継ぐ」とはいわない。
両者の違いを簡単にいうと、「天国」は今でも存在するが、「神の国」はこれからくるもの。
さらにいうと、「天国」が地上にくだってきたものが、「神の国」ということである。
では天国がどのように地上に下るかというと、「キリストの再臨」を通じてである。
ところでイエスは十字架の死の3日後に、復活の姿を弟子達をはじめ人々に現わした。
同時に500人に現われたという記述もある(コリント人への第一の手紙15章6)。
イエスはその後、弟子達の見ている前で、天にあげられるが、彼らの側に居た御使いが、「このイエスは、天に昇って行かれる同じ有様でまたおいでになる」と、証言している(使徒行伝5章4)。
イエスは十字架の死以前に、弟子達との間で次のような約束をしている。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る」 (ヨハネ福音書14章)。
イエスは復活後、弟子達を中心に、40日の間復活の姿を現すが、昇天後に真理の御霊を送るという約束通り、死後50日めにエルサレムの聖徒の群れに聖霊が下り、「初代教会」が誕生している(使徒行伝2章)。
さて、イエスが天に昇った目には見ることができない「霊界」が天国ということがいえる。
パウロのは信徒への手紙の中で、生きながらにして第三の天にまで昇った人を知っていると語っている。(コリント人第二の手紙12章)。実はパウロは、自ら誇ることがないように、「第三者」を知っているとしているが、実は自分が体験したのである。
聖書では、第一の天、第二の天、第三の天があるとしている。
イスラエルの幕屋(礼拝所)が、会見の幕屋・聖所・至聖所という構造をとっているのは、「天のひな型」となっているのである。(ヘブル人への手紙9章23)。
また、イエスは弟子たちに、「天国」について次のようなことを語っている。
「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14章2~3)。
また、聖書は、天の世界でおこっていることと、地の世界で起きていることが、関わりあっているということを教えている。
「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう」。
また、弟子たちに「どう祈ればよいか」と聞かれ、イエスが教えた「主の祈り」(マタイ6章10~13)の内容(一部抜粋)は次のとおり。
「天にいますわれらの父よ、 御名があがめられますように。 御国がきますように。 みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように」。

聖書は「神の国」について次のように書いている。
「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである」(コリント人への第一の手紙15章50)である。
またパリサイ人達が、「神の国はいつくるのか」とイエスに質問する場面がある。
それに対してイエスは、神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ福音書17章20)。
ここでイエスは、聖霊のカタチで「神の国」が信徒に宿ることを示唆している。そういう意味で、見られるかたちでくるものではないと語っている。
したがってイエスの「救い」を受けた者は、「聖霊」を心に宿すことであり、地上に「神の国」が実現する前に、先取りして味わっているということである。
イエスは、いつ神の国がやってくるのかについては、それは「天にいる父のみが知ることである」(ヨハネ福音書14章)としている一方、「あることが起きる」ことが条件であることを示している。
それは、「異邦人の数が満ちる時」(ローマ人への手紙11章10)ということ。すなわちキリストの福音が世界に広がり、ユダヤ人以外の異邦人の数が満ちた時、(その数はわからない)ということである。
さて天上の目に見えない「天国」が「神の国」として実現する出来事が「キリストの再臨」であるが、聖書に沿うと、「キリストの再臨」には「空中顕現」と「地上再臨」の二段階がある。
まず、イエスが再び地上に現われるという約束(使徒行伝1章)どおり、イエスが空中に顕現するのが「空中再臨」である。
この時、キリストの共同体(エクレシア)たる「教会」が天に引き揚げられる。
この「空中携挙」が起きるのは、死者の復活とともに、生ける者の一瞬にして起きる「霊化」である。
「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい」(テサロニケ第一の手紙4章)。
ここでパウロは、「空中携挙」は生者ばかりか、死者が先に蘇るという「奥義」を語っているが、空中に携挙されるのは「教会」である。
ここで「教会」は建物を意味するものはなく、キリストの共同体(エクレシア)である。
ただ、イエスの言葉にある「主よ主よという者が、皆救われるのではない」(マタイの福音書8章21)、「キリストの霊をもたない人がいるなら、その人はキリストのものではない」(ローマ人への手紙8章9)という言葉にあるように、ある限定された「真の教会」を指している。
さて冒頭のソドムゴモラの滅亡が示すように、地上にあって滅亡を止めているのが、「正しい者」の存在である。
ここで「正しい者/悪い者」を道徳的な善悪でとらえるのではなく、聖書全般からいうと、「神を恐れ敬う者/神をないがしろにする者」と置き換えて捉えた方が、適切といえる。
イエスの空中顕現(空中携挙)で、この地上で「不法の力」を留めおくものが「取り去られた」ため、地上はこれから今まで経験したことがない「患難時代」を迎えることになる。
天において天使と戦ったサタンが地上に投げ落とされ、地上では「大患難時代」を迎えるともある。
その期間は、旧約聖書「ダニエル書」から、7年間が導き出され、その期間が過ぎるとキリストの「地上再臨」ということが起きる。
「地上再臨」とは、イエスが7年前に空中携挙された聖徒達と共に、地上に下ることである。
この地上再臨において、「不法の者」をその口の息で吹き飛ばす。そして来臨の輝きをもって、「この世のすべての権威や力を打ち砕く」ことをもって「神の国」が実現する。
このように、「神の国」は、目に見えない天界が、目に見えるかたちで実現する。
それは千年の間続くので「千年王国」とよばれる。
それは、復活したイエスが、復活を信じない弟子達に肉体を触らせてみる場面があるように、具体的な身体をもった蘇った人々の世界である。
ちなみに、アメリカに渡ったピューリタンたちの大多くが「千年王国」を夢見た熱心な人々であったが、それは人間が自らの力で建設するような国ではなく、あくまでもイエスの地上再臨にともなってはじめて実現するものである。
聖書はこれをもって最後とするのではなく、「千年王国」の後に来るのが「新天新地」(ヨハネ黙示録21章)である。
ところで、イエスの十字架の血は、「葡萄酒」に譬えられている。
イエスが最初の奇跡をおこなったのは親族の結婚式(カナの結婚式)である。
結婚式で、葡萄酒がなくなったことを僕(イエス)たちが告げると、イエスは「瓶に水をいれて持ってきなさい」という。
僕たちがそのようにすると、水が芳醇な葡萄酒になるのである。
その後、結婚式場で面白い会話がなされる。大概、宴会の主人は酔いがまわると悪い酒を出すのに、この主人は逆に良い酒を後から出したという驚きである。
この水が葡萄酒(血)に変ることこそが「洗礼」を意味するものである。
洗礼とは、霊的にはイエスの血で洗われることを意味し、これをもってアダムとイブ以来人間が背負わされてきた罪から解放される。
最後の晩餐において、イエスは「葡萄酒」を弟子達と共に飲みながら、次のように語っている。
「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。 あなたがたによく言よく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」(ルカ福音書13章5)。
イエスは十字架の上にあっても、ローマ兵が葡萄酒を呑ませようとするがそれを拒否している(マタイ福音書27章33)。
イエスは「地上再臨」につき次のように告げている。
「それから人々が、東から西から、また南から北からきて、神の国で宴会の席につくであろう。こうしてあとのもので先になるものがあり、また、先のものであとになるものもある」(マタイ福音書5章10)。
つまり、この神の国の宴会でイエスは、信徒とともに「葡萄酒」を呑むことになる。
新約聖書に「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすればすべてのものが与えられるであろう」(マタイ福音書6章33)とある。
聖書の「救い」とは心の救いばかりではなく、ノアの洪水、ソドム・ゴモラの滅亡、エリコの崩落、出エジプトなどといったこの世の大災害からの「救い」を意味するものでもある。