駅のホームにて

2022年10月14日、日本の鉄道は新橋ー横浜間が開業してから150年を迎えた。その歴史を振り返ってみると、少なくとも20世紀末までは、「官」の役割が大きかったことがわかる。
確かに初期には、日本鉄道、山陽鉄道などの私鉄が路線を伸ばしたが、1906年の「鉄道国有法」により買収された。
「国有化」は軍事物資を速やかに運送するというのが主な理由だが、ではなぜ電車ではいけなかったのか。
電車では発電所や電柱など様々な設備が破壊されれば運行できなくなるため、自律して走る蒸気機関の方が時代の要請にあったものであった。
戦争が終わり1949年には、公共企業体としての「日本国有鉄道(国鉄)」が発足する。
1960年代、モータリゼーションが進み高速道路も次々と建設され、国鉄も相次ぐダイヤ改定を通じて、近代化や高速化を図ろうとした。
1964年の東京オリンピック開催に間に合うように東海道新幹線が開通する一方、地方の赤字路線は次第に廃止されていった。
70年代には、自動車が輸送シェアで自動車がエピソードを抜き、国民産業が鉄道から自動車に移った。
国鉄赤字は国家的な課題ともなり、1983年、国鉄が分割民政化される一方、赤字ではあっても住民の足として貴重な路線は「第三セクター」として生き残った。
「山形鉄道」は、国鉄改革にともない特定地方交通線に選定された長井線の経営を引き受けるために設立された山形県や沿線地方自治体等が出資する「第三セクター」の鉄道会社である。
「山形鉄道ーフラワー長井線」は、片道約30キロメートルを1時間ほどかけて結ぶ。
沿線に花の名所が多いことからその名がつけられた。
それでも「フラワー長井線」は、ホボ廃線がきまっていた。そんな状況を一変させたのが、新入社員である松山愛さんである。
松山愛さんは全く鉄道の知識が無く、就職の面接でも「駅に動物園を作りたい」と方言丸出しでそのことばかりを話し続けた。
実は松山さんは農業高校を卒業後、一度は保母さんになるが人間よりも動物の方が好きなことに気つく。
フラワー鉄道の採用担当者の中に、あんな夢をもった人間ほど、今のこの会社に必要ではないかという人がいたのである。
そして、松山さんは夢をかなえるために、どこかの駅で実現している「猫駅長」を参考にして、宮内駅の駅長になんと「白ウサギ」を就任させたのである。
宮内駅には、駅長のもっちぃ、助役のかめ吉、駅員のぴーたーとてんの3羽のうさぎが勤務し、それがだんだんと評判になり、フラワー長井線には多くの人が訪れるようになり、なんと乗客は20倍にも増え、廃線の危機を脱したのである。
この「フラワー長井線」を舞台に映画「スウィングガールズ」(2004年上野樹里主演)が制作された。
東北の片田舎の落ちこぼれ女子高校生が、ひょんなことからビッグバンドを組んで、ジャズを演奏する青春映画である。
「スウィングガールズ」では、爆睡して演奏会に遅刻しそうになった女子高校生が乗ったのが「山形鉄道・フラワー長井線」である。
地方の寂れたローカル線に命を吹き込んだドリームガールの松山さんと、「スウィングガール」の面々が重なった。

松本清張の「点と線」(1958年)では、「駅のホーム」が大きなカギを握っていた。
福岡県の香椎海岸で男女の死体が発見された。青酸カリを服用し、着衣に乱れがないため、心中事件として処理された。
ベテラン刑事の鳥飼は、男が持っていた列車食堂の領収書に疑問を抱く一方、死んだ男が疑獄事件の渦中にある人物と判明する。
警視庁の三原刑事は鳥飼の話を聞き、心中は偽装ではないかと疑う。
誰が見ても心中という状況の中で、三原刑事は容疑者の鉄壁の「アリバイくずし」に挑む。この完全犯罪が成立するためには、日本の鉄道の正確無比の発着時間が前提となっている。
この男女は東京駅で博多行の特急「あさかぜ」に乗るところを「たった4分間」しか見通せない隣のホームから目撃されていた。
松本清張は、東京駅で13番ホームから15番ホームが見渡せる時間を現場で探し出したという。
ちなみに、我が地元・福岡県筑紫野市にある「紫駅」のホームに設置された看板広告が話題となった。
それはある自動車学校の看板で、その文句に「向いのホーム スマホ世代がこんなところ みるはずもないのに」と、山崎まさよしの曲「One more tome,One more chance」をオマージュした自虐コピーで、つい「もしも願いがかなうなら」と口ずさみそうだ。
また近年、東京駅には世界を驚かす「奇跡の7分間」というのがある。
東京駅などで新幹線に乗ると、一列に並んでお辞儀をする女性たちの姿を見かける。列車がホームに入る3分前に、1チーム22人が5~6人ほどのグループに分かれて、ホーム際に整列する。
列車が入ってくると、深々とお辞儀をして出迎える。降りてくる客には、1人1人「お疲れさまでした」と声を掛ける。
「新幹線1両を1人、7分間で清掃と掃除」で注目を集めている企業、JR東日本の子会社で、新幹線の掃除を担当している鉄道整備会社である。
客の降車が終わると、「7分間」の清掃に入る。座席数約100ある1両の清掃を1人で担当する。
約25mの車両を突っ切り、座席の下や物入れにあるゴミを集める。
次にボタンを押して、座席の向きを進行方向に変えると、今度は100のテーブルすべてを拭き、窓のブラインドを上げたり、窓枠を拭く。座席カバーが汚れていれば交換する。
トイレ掃除の担当者は、どんなにトイレが汚れていても、7分以内に完璧に作業を終える。
チームのリーダーは、仕事が遅れていたり、不慣れな新人がいる場合には、ただちに応援し、最後の確認作業を行う。
7分間で清掃を終えると、チームは再び整列し、ホームで待っている客に「お待たせしました」と声を掛け、再度一礼して、次の持ち場へ移動していく。
始発の朝6時から最終の23時まで、早組と遅組の2交代制でこの作業を行い、1チームが1シフトで、多いときには約20本の車両清掃を行う。
JR東日本で運行する新幹線は、車両数にして約1300両、これを正社員、パート含めて約820人、平均年齢52歳の従業員で清掃する。
2008年に国際鉄道連合(UCI)の会合が日本で開かれた際、その分科会がこの会社を視察に訪れ、同年ドイツ国営テレビが取材にやってきた。さらには米国のラフォード運輸長官も視察に訪れた。
視察だけではなく、米国のスタンフォード大学、フランスのエセックス大学の学生たちが研修にやってきて、制服を着て掃除の実習をしている。
ある日、従業員が作業終了後、整列、退場の一礼をすると、たまたまホームで待っていた外国人客から大きな拍手と歓声が沸き起こったという。
「さすが、ニンジャの国!」と思ったかもしれない。

最終列車が近い新幹線プラットホームでの会話。
客:「のぞみは、ありますか」。
駅員:「のぞみはないけど、ひかりならあります」。
この言葉、当時気持ちが落ち込みがちだった客の心に、ずっと"こだま"し続けたという。
今、世界の主要駅で「ピアノ」が置いてあって、演奏者のピアノが駅構内にこだましている。
今から20年ほども前に、佐賀県の鳥栖駅の駅構内に隣接した建物にピアノが置いてあるのを見つけた。
きっかけは、鹿児島の知覧(特攻隊の出撃基地)の平和記念館に行った時のこと。
そこには、ドイツ・フッペル製の白いピアノが展示してあるのを見つけた。
その「解説パネル」によると、終戦間際に鳥栖の小学校でピアノを弾いた二人の特攻隊員の願いを永遠に残そうと、特攻隊員の仲間たちが、知覧の地に「同じ型」のピアノを残すことにしたのだそうだ。
またこの時、二人の特攻隊員が実際にひいた方のフッペルのピアノが、JR鳥栖駅前のサンメッセ鳥栖に展示されていることを知ったのである。
それでは、日本に2台しかない「フッペルのピアノ」の物語とは何なのであろうか。
それは、映画「月光の夏」で世に知られることになったフッペルのピアノである。
鳥栖小学校の体育館にかつて1台の古びたピアノがあった。
子ども達が乗って遊んだりボールを投げたりで危険なため廃棄が決まった。
そのことを聞いた一人の女性教諭が教頭に語った思い出が、思わぬ波紋を広げてゆくことになる。
この女性教諭の証言から、終戦まじかのある出来事が明らかになった。
1945年6月、鳥栖小学校で音楽を担当する上野歌子先生は、校長室に呼ばれた。
校長室に入ったとき、上野先生は、首に白いマフラーを巻き飛行服姿で立っている2人の青年を見つけた。
青年達は、自分達が音楽学校ピアノ科の学生であり、出撃の前に思いをこめてピアノをひきたいと告げる。
当時、全国のほとんどの小学校にはオルガンしかなかったが、この鳥栖小学校には名器と呼ばれた「ドイツ製フッペル」のグランドピアノがあった。
2人の青年は、そのウワサを聞いて小学校を訪れたののである。
上野先生は急いで2人を音楽室に案内し、大好きなベートーベンの「月光」の楽譜を持ってきた。それはまるで青年の運命を知っているかのようであった。
なぜなら彼の専攻はベートーベンだったからである。
一人の青年が「月光」を弾き、もう1人の青年が楽譜めくった。
上野教諭は、1つ1つの音をシッカリと耳に心に留めておこうと、心をこめてその演奏に聴きいった。
演奏が終わり2人の青年が音楽室を去ろうとしたとき、上野先生は、この短い時間を「共有した証し」を残してあげねばと思い、音楽室にあった白いゆりの花を胸一杯に抱いて二人に渡した。そして、学校にいた皆とともに二人を見送った。
その出来事から約2ヵ月後に戦争は終わり、上野先生は二人の青年との「再会」を願われたが、それもかなわぬまま彼らの消息は不明のままであった。
それから、数十年後「ピアノの廃棄」がきまって教頭に語った二人の特攻隊員の話が地元に広がり始めた頃、元新聞記者やテレビ局などの協力により、二人の青年の行方を探すことになった。
ただ十数年後、上野教諭は鹿児島の知覧平和記念館を訪れた時に、戦没者の写真によりピアノをひいた方の青年の死を知る。
しかしページをめくっていた青年の生存はどうかと、元音楽学校の名簿などをたよりにその人を探し出した。
その青年は出撃後エンジン不調のために帰還され生存され、阿蘇の自宅で音楽教室を開いていた。
しかし鳥栖でピアノをひいた特攻隊の青年のことがマスコミで話題になった時も、それが自分であることを家族にも語らず胸にしまっておいた。
特攻から帰還した者達をナニガ待っていたかについては、「月光の夏」(毛利恒之著)に詳しくかかれている。
この本の中で、福岡市の九電体育館あたりにあった帰還兵を収容するための施設「振武寮」が書いてあり、戦争の「非人間性」を象徴するような施設であったことがわかる。
特攻にいったものが、帰還したのでは政府当局にとって都合が悪かったのだ。
そして45年の時を隔て、上野先生はその青年と再会され、人々が見守られる中その人は鳥栖小学校でベートーベンの「月光」を演奏された。
この出来事は、テレビのドキュメンタリー番組が作られ、映画制作委員会が設立され映画「月光の夏」(1992年)として全国的に知られることになった。
個人的な話だが、鹿児島の知覧から福岡に戻った際、さっそくサンメッセ鳥栖に行きフッペルのピアノを見に行った。
そして二人の特攻兵がひいた実際のピアノに寄せられた多くの人の思いを、数多くの寄せ書きや絵画、書そして花束などによって知ることができた。
終戦からしばらく、上野先生が再会を願って青年たちを待ち続けたのが、「国鉄鳥栖駅」のホームであった。
というのも、二人の青年が鳥栖小学校を訪問したのは、長崎本線の線路を三田川の目達原(めたばる)飛行場から、3時間以上(12㎞以上)の時間をかけて歩いてきたのである。
ピアノ演奏を終えた二人は、花束を抱えたまま、何度も振り返りながら線路を走って戻っていったという。

江戸時代の国内輸送は海運が中心で、陸運は未発達であった。幕府が防衛のために、大八車などの車輌の使用を禁じたからである。
このため明治政府は、道路よりも鉄道を整備した方が短期間に輸送の近代化を図れると考え、全国に鉄道網を広げた。
蒸気機関車が中心であったたけに、鉄道と炭鉱は常に結びついていた。
1970年代、閉山することとなった福島県の常磐炭田跡に「スーパーリゾート」を作り地域の再生をはかろうという計画がもちあがった。
映画「フラガ-ル」は、東京よりダンサーを招いて炭鉱の娘達にフラダンスを学ばせハワイアンセンターの踊り子に育てようと悪戦苦闘する話である。
娘達が肌を露わにフラダンスを踊ることに、当然に親の不信や抵抗も強い中、東京からやってきた平山まどか先生(松雪泰子)は様々な陰口をたたかれる。
実際、平山先生にも、過去を引きずって生きているのがわかる。
「だいたいSKDだかなんだか知んねえけど、一流のダンサ-ならなんでこっだ田舎に流れてきたんだ? 本物なら都会のでっけえ舞台で踊ってっぺさ。所詮オメ-捨てられた身だべ」。
一方で、まどか先生の指導で最初はぎこちなかった炭鉱の娘達の表情にしだいに晴れやかさが宿っていく。そして一人の娘の次の言葉が印象的だった。
「今まで仕事っつうのは、暗い穴の中で歯食いしばって死ぬか生きるかでやるもんだと思っていた。んだけど、あんなふうに踊って、人様に喜んで貰える仕事があってもええんでねか」。
平山先生の、様々な誹謗や中傷の中、生徒達に自分が伝えんすることを恐れずストレートに開陳し、せいいっぱいに自分を生徒達にぶつける姿が生徒たちの心を動かす。
そこに、はからいもなければ点数稼ぎもないし、相手の感謝さえも期待しない潔い姿なのである。
また「フラガ-ル」では、自分が失業中なのに娘がフラダンスに興ずるとは何事か、と娘を殴りつけ髪を切った父親に平山先生はぷっちん。
なんと、銭湯の男湯の中にまで踏み込んで、父親の顔を強引に浴槽に沈めてしまうという壮挙にもでている。
先生は目の前の生徒達の様々な窮状が自分の内なる涙と通じ合ってしまい、しだいに生徒と一つになっていく。
ここまでやるかと思うほど生徒に熱心に対峙する中、先生も何かにむかって手を差し伸べているようにも見える。そして平山先生は親達にお願いする。
「ハワイアンがヤマを潰すっていいますが、この子達はヤマを救う為に歯を食いしばってがんばってきました立派にプロのダンサ-になりました。オ-プンの日には、どうか晴れ姿を見に行ってあげてください」。
平山先生は結局、フラダンスの練習のために、娘たちが親の葬式にも顔をだせないなどという抗議をうけ、常磐を去ることになる。
娘たち(蒼井優・しずちゃん)は何とか先生をひきとめようと、駅のプラットホームで踊ってみせる。
心にしみるなかなかの名シーンでした。