2022年2月24日、ロシア軍がウクライナに侵攻した。ウクライナには、首都のキエフと第2の都市ハリコフに旧ソ連時代に開業した地下鉄が走っていて、多くの避難民がそこに逃れている。
また、無差別攻撃を受けている南東部のマリンコフに残された市民は、地下街に逃れる外に行き場を失いつつある。
モスクワの地下鉄もエスカレーターが深く下りないとホームにたどりつけないらしい。
記憶を呼び起こすのは1940年~41年、ドイツ軍がイギリス各地を空襲した時に、ロンドンでは地下駅がいくつも防空壕となり、多くの市民が避難した。
当時のロンドンでは、地下に「もうひとつの社会」ができていた。
地下鉄の車両が食堂車になり、簡易トイレや2段ベッドに整備され、映画会やコンサートまで開催された。
イギリスがドイツに勝利した一因は、地下の有効利用といえるかもしれない。
同じ時期、日本では東京では地下鉄「銀座線」が通っていたが、激しい空襲があったが、政府の方針で避難民のために利用されることはなかった。
一方、関西私鉄の「御堂筋線」は政府方針を無視して停電せず、避難民が逃げ込んでいたという。
炎の中、命からがら地下鉄に逃げ込んだ人の証言によれば、そこに「別世界」があったという。
個人的に思い出すのは東京の地下鉄は日比谷あたりで千代田線・日比谷線・銀座線などが交叉し、エスカレーターがどうしてここまで潜るのかと疑問を抱いていたことだ。
週刊誌などでは、「核シェルター」ではないかと書かれていた。
戦後のエピソードでは、1960年安保改定交渉の時、反対運動に10万人以上ともいわれる学生たちが国会を取り囲んだ。
岸首相を国会に入れなければ、安保改正を阻止できると考えたのだが、岸首相は悠然と国会に姿を現した。
どうやって岸首相は包囲網を潜り抜けたのか、憶測が憶測を呼び、国会や官邸周辺には秘密の地下通路があるという噂が流れた。
実は、首相官邸の地下には、本土への空襲に備えて防空壕が1942年に造成されている。
官邸防空壕には執務室・閣議室・書記官長室・秘書室・書記官室・機械室兼事務室の6室があり、外部につながる緊急避難用トンネルも整備された。
公式的に、地下通路の一部が完成するのは1963年だが、岸首相が通るだけのなんらかの「通路」がすでに出来ていたのかもしれない。
ともあれ、日本の地下世界には一般では知りえない様々な「秘密」があるのかもしれない。
思い出すのは、春日三球・照代の、「地下鉄の電車はどこから入れたの? それを考えてると一晩中寝られないの」というフレーズから始まる夫婦漫才である。
1970年代に一世を風靡した「お笑いネタ」であったが、地下鉄のことを調べるうちに、その笑いの裏側に「涙」があったことを知った。
二人は1964年に結婚し、翌65年からコンビを組んで活動を始める。地下鉄漫才で大ブレイクするが、それから10年後の1987年に照代がテレビ番組収録中にくも膜下出血で急逝し、三球は妻にして相方を失うという憂き目に遭ってしまう。
実は三球は照代に会う以前にも相棒を失っている。
1957年に「クリトモ一休・三休」の「三休」としてデビューした三球は、62年3月のNHK漫才コンクールで優勝する。
いよいよスターダムに上り詰めようという矢先、コンビの相方「一休」こと内堀銀司を失う。
内堀は、同年5月3日、東京都荒川区の国鉄常磐線の三河島事故で亡くなったのだ。
三河島事故がなければ、世に出ることもなかった三球・照代の地下鉄漫才だが、「鉄道ネタ」で脚光をあびたのは皮肉なことであった。
日本の「地下鉄の父」といわれるのが、早川徳治(はやかわ のりはる)という人物である。
早川は地下鉄を生んだばかりか、現在の「地下街」の原型を創ったという面もある。
最近TVで、早川徳次が日本でいかに地下鉄導入をはかったかを知るに及んで、「そうだったのか」と個人的に抱いていた地下鉄の不思議が解けた。
早川徳次は1881年、山梨県御代咲村長の子として生まれた。
早稲田大学の学部に学び、卒業後は南満州鉄道に就職、その後JRの前身「鉄道院」に入局している。
1914年 早川は、鉄道院からイギリスの貨物列車を視察するためにロンドンを訪れて、目にとまったのが「地下鉄」。
ロンドンで初めて 地下を列車が走ったのは1863年のこと。当時は「メトロポリタン鉄道」という名前の鉄道が開業し、 蒸気機関車が地下を走っていた。
ちなみに、ミュージシャンの細川晴臣の祖父が鉄道院からロンドンに派遣され、日本人で唯一タイタニック号に乗り合わせ生存して帰国している。
さて早川がロンドンで目にしたのは道の傍らの地下鉄の階段から多くの人が出入りしてる様子。
そして、地下鉄の運行間隔の短さに衝撃を受ける。
そして地下鉄を日本に導入しなければ、イギリスには追いつけないということを痛感する。
そして、東京に地下鉄をつくる事を決意し、あっさり仕事を辞めた。
唐突なようだが、早川はイギリスに行く前に、栃木や大阪の方の私鉄で会社を立て直す経営者のような仕事をして、東武鉄道を創設した同郷の根津嘉一郎の知遇を得ている。
そして鉄道院の退職金を使って全財産費やして、パリ ベルリン ニューヨークなどではトンネルの大きさや線路の幅駅のつくりなどを調査。
たった一人で6カ国以上の地下鉄を回り地下鉄づくりに必要な知識を徹底的に勉強した。
そして1916年2年の調査を終えた早川は満を持して帰国。地下鉄を東京のどこにどんなふうに作るか地質などのデータを調べ、自分なりの「地下鉄構想」を練った。
その構想をもとに資金を集めようと鉄道関係の専門家などを色々訪ねてたが、誰に聞いても 東京は無理と一蹴されてしまった。
東京は 特に都心部は「江戸前」寿司という言葉があるように、元々海だった所を徳川家康の時代に次々と埋め立てをしていった処。一般に、トンネルを掘るというのはもってのほかという観念をがあった。
ところが早川は東京の地盤が弱いという常識を自力で覆してしまう。
早川が注目したのは「日本橋」という立派で重たい橋があり、しかも上を路面電車が走っていること。
早川はさっそく、日本橋の建設に関わった関係者を訪ねてみると、およそ2メートルにわたって軟弱な地盤が続いているが、その下の固い地盤に橋脚が立っていることを知った。
これを見つけた早川は20余りの橋の建設データを集め、それらの多くで2メートル以下は地下鉄を掘る事が可能な固い地層である事を確認した。
こうして早川は、当時の専門家たちの常識を覆してしまった。
このように早川はどういうところにどんなデータがあってそれを組み合わせればどういう事で使えそうかという感覚が優れていたといえる。
「地下2メートル以下ならば地下鉄工事ができる」としても、それ以上に大きな問題は「資金」。
現代の価値に換算すると500億円が必要で、早川のように無職であっては社会的信用もない。
そこで頼ったのが渋沢栄一。渋沢は 当時77歳で第一線からは身を引いていたが、電力や銀行など色々 当時のビジネスモデルを最初につくっていくつも成功させていた。
渋沢を説得できれば資金が集まるでではないかと、「事業計画書」のようなものを作った。
早川は具体的な出費と収入、そしてその根拠についてまとめ、渋沢に対し2時間にわたってプレゼンした。
これを機にそうそうたる資本家 200人から1000億円もの資金を集める事に成功した。
それにしても、早川は 一体 どうやって具体的な売り上げを予測する事ができたのか。
そこには、豆を使って まさにカウンターのようにして数を数えていった伝説の「交通量調査」があった。
白と黒の豆をポケットにいれて、 例えば 乗用車が通ったら黒い豆をズボンの右ポケットに移動する。
実際はもっと細かく分けて、これを半年ぐらいにわたって毎日、たったひとりで東京各地の交差点でひたすら行った。
東京中の交通量調査をした結果、早川はまず「浅草から品川に地下鉄を敷く」計画を立てた。
しかし早川の前に大きな試練がまちうけていた。
第一次大戦が終わってヨーロッパの生産力が上がると日本の製品が売れなくなる「戦後恐慌」によって、日本の資本家たちは大打撃を受けて出資者がどんどん減っていった。
また1923年の関東大震災で190万人が被災。10万人もの命が失われた未曽有の大災害。
この2つの出来事で、4分の1に資金が減ってしまい早川の「地下鉄構想」もで潰えそうになっていく。
普通なら諦めてもおかしくない状況だが、これからが早川は本領を発揮、画期的なアイデアを連発していく。
資本家たちは地下鉄事業にみ向きもしない状況に陥っているが、早川はとにかく浅草から上野までの間を「開業」させることにした。
いわゆる「開業の前倒し」で、困難な時期だからこそ地下鉄を2,2キロでも日本で初めて開通させる事が、震災復興に対する人々の希望になると考えた。
一回作ってしまえば皆 地下鉄の便利さに気づく。このネライは見事にあたった。
そして、「浅草→田原町→ 稲荷町→上野」の2.2キロが開業。
そして1日の乗客者数は10万人と鉄道史上類を見ない大盛況となる。当時の人々にとっては、交通手段というよりはジェットコースターにでも並んでる感覚だったようだ。
その間、早川は「路面覆工」という新たな方法を生み出す。「路面覆工」とは開削工法で開けた穴の上に仮の道路をつくり、フタの役目を担わせることで地上の交通を妨げずに地下で工事をする方法。
現在では水道工事やガス管工事で当たり前のように行われているが、実は早川らが地下鉄工事に採用したのが日本初といわれている。
また早川はは車両にもこだわりがあり、明るく晴れやかにしたいと、銀座線では創業時と同じ黄色い電車が走っている。
また当時の電車はまだ木材で車体とか内装に使っていたが、地下鉄なので万が一 火災が起きたりした時のリスクを考え、全ての車体を鋼鉄製鉄製で作った。
国鉄とか 私鉄とかと比べると、だいたい30年ぐらい先をいく発想だった。
また、日本初となる自動ブレーキシステムや乗客の転落を防ぐために、当時最新の自動ドアシステムを導入するなど日本最先端の車両が誕生した。
とはいえ、何もかもがうまくいくはずもなく、様々な課題を抱えていた。
神田の手前で神田川の下を潜らなければいが、開削工法はここでは採れない。
そこで、神田川の中央に、向きを変えて川の流れに沿った形でこの鉄樋(てつどい)を埋め、鉄樋から出発して川の淵に向かって「塀」をつくった。
ポンプアップしてかき出して中を乾燥させることによって、この部分で工事ができるようにする。
実は この「鉄樋」を使うということのヒントは、日本古来の治水の「掛樋」という工法であった。
こうした見事なアイデアで攻略法は定まったものの、ただでさえ資金が足りなかったのに、お金ばかり出ていってしまう。
ここで早川が取ったのは、なんと「副業」で資金を増やす作戦。
当時 上野駅に開業された日本初の駅内の日用品ショップが登場。ストアの特徴は普通の沿線の利用者に、日頃 使うものを安く売るというもの。
しかし、今までにない場所に商品を出しているのに、どうしてそんなに安くできたのか。
それは、電車用に一括で大量に買った電気の一部を駅の中なのでそこに向けられたし、鉄道会社というところで信用もある。
それなりの数を 一気に仕入れる事で単価は低くおさえることができたのである。
2年半にわたる「神田川工事」を終えるといよいよ早川構想の中間地の新橋への路線延長に着手するが、資金難は相変わらずであった。
そんな難題続きの早川に運気が傾いてくる。
日本橋三越の専務でのちの会長となる倉知誠夫が、三越も関東大震災で被災ししたので、デパートを再建したい。そういう意味で 地下鉄がこの前を通るのなら直結したいという事であった。
そこで三越側で経費を出すから自分で 駅のデザインも自由にさせてほしいというもので、駅構内では初めてのエスカレーターを作るということも提案された。
それは、資金不足に悩んでいた早川にとっても願ってもない提案。ウィンウィンの申し入れであった。
その後、三越の噂を聞きつけたデパートが同様の条件をだしてきた。
日本橋駅は 高島屋、京橋駅は明治屋、銀座駅は銀座三越と松屋銀座、そして 上野広小路駅は松坂屋と、5つの駅が百貨店と直結しそれぞれ駅の建設費の一部を百貨店に負担してもらった。
地下鉄の経費を民間が一部負担するという発想は、その後帝都高速度交通営団になってもメトロ株式会社になっても引き継がれていて、日本は独特の地下鉄の発展を遂げたといていい。
そして上野や浅草の下町が、「銀座線」によってデパート百貨店が並ぶ銀座と繋がることができた。
ロンドンの決意から20年。工事の着工から9年かけここまできたが、銀座線は新橋から赤坂見附表参道 渋谷へと繋がっている。
もともと早川は品川に向かう構想であったが、なぜ渋谷に延ばすことになったのか。
そこには、早川の構想に対抗して、「鉄道王」とよばれる人物の働きかけがあったからである。
渋谷を中心に高級住宅街 田園調布など東横線沿線の街づくりを推し進める事業で大成功してきた五島慶太であった。
五島慶太は、早川の地下鉄と直通運転する乗り入れる目的で「京高速鉄道」というもう一つの地下鉄会社をつくった。
五島は、新橋を繋ぐ早川路線に自身が持つ路線を繋げる事ができれば利便性がさらに向上すると、渋谷から新橋までの地下鉄を極めて短期間で気に開通させたのである。
つまり五島が早川が新橋駅を完成させたあとに、その資金力にまかせて一機に作った路線なのである。
早川と五島は、路線について何度も話し合いはするものの平行線で解決しない。
そこで五島は早川を説得するのは無理だと判断し、早川の会社の株式40パーセント近くを一気に買い占めてしまった。
五島はこうしたライバル会社の株を買い占めてグループに入れていくのが、得意の手法であった。
しかし、早川の会社を買収しようと画策する五島に対し、早川の会社で働く3500名もの従業員この会社を守ろうと「ストライキ」を宣言する。
このままでは地下鉄が止まってしまうと、運輸省の中心人物・佐藤栄作らによって事態は収束する。
早川と五島 役職辞任、2人とも一線を退くよう国が勧告した。いわば、喧嘩両成敗。
交通インフラの整備を進めたかった政府は、2人の会社を買収し「合併」させてしまう。
そして誕生したのが東京メトロの前身「営団地下鉄」だった。
銀座駅のコンコースには、「地下鉄の父」早川徳次像がたつ。引退した早川の事を思った社員たちが作ったものだそうだ。
日本の地下鉄はいずれ誰かが作ったかもしれない。
しかし「早川流」こそが、今日の地下鉄と地下街のスタイルを創ったといえそうだ。