聖書の言葉から(土のちり)

旧約聖書「創世記」のはじめにある「土のちり」。現代の最先端科学のテーマでもある。
「主なる神が地と天とを造られた時、 地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。主なる神は”土のちり”で人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた」(創世記2章2~7)。
18世紀の科学革命において、「天動説」に対する「地動説」「創造説」に対する「進化論」などの衝撃度は、キリスト教的世界観を覆すほど大きかった。
実際、科学の光に照らせば、キリスト教的世界観は迷妄であり、科学がもたらす「進歩主義」こそが人々の信仰になった。
その進歩した最先端科学は、かつての宗教的世界観を超えるほどの「奇想天外」さで、それをそのまま受け入れることは、ある種の「信仰」を必要とする。
なぜなら科学が唱える説とは所詮は「仮説」、つまり「暫定的真理」にすぎないからだ。
さて、この世界に存在するすべての物質は「原子」というごく小さな粒でできている。
鉛筆の芯は炭素の原子、水は1個の酸素の原子に2個の水素の原子が結合した水分子からできている。
これら、物質をつくる元になっているモノを「原子」、そして「水素」「炭素」「酸素」のような「原子」の組み合わせを「元素」という。
現在は、日本人が作った「ニホニウム」が最新の原子で113番目の原子である。ただし、これは人工的に作られた元素で自然界に存在するものではない。
最近では、元素は「発見する」より「作る」ものだそうだ。たとえそれが一瞬で消えてなくなるにせよ。
宇宙の始まりとされている「ビックバン」直後には、主に水素とヘリウムしかなかった。水素とヘリウムは、それぞれ原子番号1と原子番号2の元素である。
その後、酸素・炭素・カルシウム・鉄などの元素が星の中で作られていく。そして、それらの元素は、再び宇宙へ放たれることになる。
星がその生涯を終える時、太陽よりも大きな星の場合は「超新星爆発」により元素は宇宙に飛び散る。
太陽のような比較的軽い星の場合は、ゆっくりと元素を宇宙に放出し始める。
それらが宇宙空間を彷徨いながら再び集まり、次世代の恒星や惑星が作られる。
もちろん地球も例外ではなく、かつては恒星の中にあった元素によって形作られている。
そして、人間を含む地球上の生物もその元素によって作られている。
地球上の生命は海から生じたので「母なる海」といいう言葉があるが、その更に向こう側には実母たる「宇宙」の広がりがある。
我々のこの体を構成する元素も、かつてこの宇宙の何処かにあったものだ。
そして、聖書の「土のちり」に関連して最新の科学が明らかにしたことといえば、地球の土は宇宙からやってきたものであり、神がそのチリをもって人類を創造したとすれば、「人間は星屑でできている」ということになる。

科学的真理は「暫定真理」に過ぎないということを最も劇的に表すのが、「ニュートン力学」といえよう。
ニュートンは、リンゴが木から落ちるのを見て、リンゴは地球に引っぱられたとみなした。つまり地球は「引力」をもっていることを閃いたといわれている。
そこまではいいとしても「万有引力」なんてにわかには信じがたい。
自分の体と目前のパソコンがひきつけあっているとか。地上のリンゴと地球が同じ力でひきつけあっているとか。もし受け入れるのなら、もはや「信仰」に近い。
それでもニュートンの「万有引力の法則」は、地上の物体の運動と、それとは別の法則に支配されていると考えられてきた惑星の運動を統一的に説明するという偉大な成果であった。
例えば、地球は「毎秒30km」という猛スピードで周っているが、それがどこかに飛んでいかないのは、絶えず太陽に向かって「落ちる」ことにより軌道を描くからである。
さて、「引力」と似た言葉に「重力」というのがあるが、これは地球上のものが受ける力のことである。
地球は自転をしてるので、地球上にあるものは、地球の引力で引っぱられるだけではなく、地球の回転によって生じる力もかかっている。
この地球の引力と自転によっておこる力をあわせた力を「重力」とよんでいる。
ニュートンの業績は、アリストテレス以降の約2000年間に続いた概念を覆すものであったが、ニュートン自身は重力に関する研究が完全なものとは考えてはいなかった。
引力を起こる原因を特定できていないことや、離れた物体間に重力という見えない力、すなわち「遠隔力」が働いていることを説明できなかったからである。
しかしこの法則によって宇宙の運動も地上の運動もそれですべてが説明できるならば、それでヨシとして発見から20年後に発表にふみきる。
しかし20Cになると、「万有引力の法則」では説明できない現象を、人々は目撃することになる。
1919年南半球で「皆既日食」が起きた時のこと、ある天文学者が太陽の近くに見える星の位置を観測したところ、それが夜に見える位置より少しズレていることを報告した。
このニュースは、翌日大々的に報道されたが、讃えられたのはこの観測者ではなく、かつてソレが起きることを予測したアインシュタインであった。
アインシュタインは、光は波の性格をもった「粒子」であるから「重力」によって「曲がって」進むと考えたからである。
したがって、大きな重力を持つ太陽の下で、光も曲がるとよんだため、昼夜の星の位置が違うことを予測したのである。
「皆既日食」の日は、太陽があるのに「真っ暗」になるので、この瞬間に太陽付近の星の位置を調べることができるからである。
それによって、昼の星の位置と夜の星の位置とが異なることが観測でき、「光が重力による曲がる」ことが証明できたのである。
しかも、その「ズレ」は、アインシュタインが予測した「ズレ」とほぼ一致していたのである。
光が天体などの重力によって曲げられ、観測者からの見え方が変わることを「重力レンズ効果」というが、これによって我々が「見ている世界」は、真実の世界から「曲がった」世界であることが判明したのである。
この予測が見事にあたり、アインシュタインの名前は一夜にして世界に知られたのである。
まさに「オーバーナイト・センセーション」。
ニュートンはリンゴが地球に重力によって「落ちる」ことを説明したけれども、リンゴにその重力がどのように物質に働くか「遠隔力」までは説明しなかった。
アインシュタインは、「重力によって空間が曲がるために生じた引力による」と説明した。
わかり易くいうと、座布団の上にリンゴを二つおいてドコカを押して窪ませると、その「窪み」に向かってリンゴは動き出しドコカでくっつく「近傍力」というカタチで説明した。
この座布団を「空間」と見立て、窪みを「空間の曲がり」とすれば、二つのリンゴがひとりでに「引き寄せられた」ように見える。
ちなみに、重力により時空がまがることの誤差は、我々が日常的に使うGPS機能においても誤差調整が行われ実用に役立っている。
また、アインシュタインは、絶対時間や絶対空間の概念を捨て、「光速不変の原則」を中心にすえる。
そうすると、「光の速度=距離/時間」として、実験の結果によれば光速が不変なので、時間と空間の比が一定に保たれるためには、時間が縮小(増加)すれば空間も縮小(増加)する必要がある。
時間が縮小するとは、時間が早く進むということである。
アインシュタインは、大胆にも「光速不変」を唯一の絶対的基準とし、時間や空間そのものが伸縮や歪曲するという驚くべき世界観をうみだした。
また、光速に近づくと空間は縮小して、光速を超えて存在することはできない。つまり、宇宙の最高速度制限は、"光速"なのだ。
さらにアインシュタインは、重力を考慮しない「特殊相対性理論」から、地球に働く重力をも考慮した「一般相対性理論」に発展する。
そしてニュートンがいうように「引力」で事物が引き合うのではなく、重力の周辺では空間や時間に歪みで引き合っているとした。
ニュートンの世界は、絶対空間と絶対時間のうえに構築されていたが、アインシュタインは、時間と空間がよりフレキシブルであることを導き、ついには時間と空間を「時空間」に統一してしまったのである。
それは、宇宙のはじまりがビッグバンによって「時空」が生じたという説にもよくかみあう。
それは時間の流れ方や空間の在り方は、それぞれの立ち位置で変わってくるものであり、まして神と人間なら「千年は1日、1日は千年のごとく」(第二ペテロの手紙3章)ということもありうる。
したがって、聖書「創世記」において神が天地を6日間で創造し7日目に休んだという天地創造を非科学的と決めつけることはできない。
ところで望遠鏡で宇宙の「遠く」を見るとはどういうことなのだろうか。
「光」が地球に届く時間のことを考えれば、宇宙で「遠くを見る」ということは「昔発せられた光」によって見ているのだから、「昔の宇宙」を見ていることになる。
だから望遠鏡で遠くを覗くことは、「宇宙の起源」を知ることに繋がる。人類の故里は「遠くにありて覗くもの」なのだ。
つまり129億年前の星をみている。月なら1分前の月、太陽なら8分前の地球をみている。
ただ見ることにには、「壁」がある。なぜなら「見る」ということは光をキャッチすることであり、光さえ発していなかった「暗黒時代の宇宙」を見ることはできないのだ。
しかし国立天文台の元教授らが30年前から取り組んでき共同プロジェクトでは、宇宙からのミリ波やサブミリ波と呼ばれる電波を観測し、その電波の波長によってソレが当った物質を分析できるようになった。
とはいってもビッグバン直後は熱い火の玉なので、それ以前の宇宙をみることがでいない。
しかし、探求のベクトルを反転させて、微小な世界にそのヒントがある。
「素粒子」つまりこの世で一番小さいものは、10のマイナス35乗メートルという大きさである。
以上は「極小」世界の話であるが、「極大」の方の「宇宙の広がり」は、10の27乗メートルという大きさである。
この「極大」と「極小」の途方もない「広がり」故に、両者は何の関係もないと思いがちだが、最近の科学はこの間に「兄弟」のようなキズナがあることを明らかにした。
そして「素粒子」を探ることが、「宇宙の成り立ち」ばかりではなく「生命の起源」を知る上でも、重大なヒントを「隠している」ことが判った。
さて、こういう宇宙と素粒子との「結びつき」が生まれた背景には、「ビッグバン」の発見がある。
ビッグバンとは、この宇宙には始まりがあって、爆発のように「膨張」して現在のようになったとする説だが 、ビッグバン直後には、宇宙は「極小」の「素粒子」だったという「奇想天外さ」なのである。
原子の構造を詳しく見ると、中心には陽子と中性子からなる「原子核」があり、その周りを陽子と同じ数の電子が回っている。
そして加速器は、山手線の大きさをほどもあるが、ビッグバンを再現させて宇宙の始まりを明らかにしようという施設なのだ。
はなぜ宇宙が「加速的に」膨張しているのが判るかというと、「明るさ」の決まっている超新星の光を観測することで、判明したという。
宇宙はビッグバンにより始まり、宇宙は徐々に拡大し、その拡大する勢いは衰えるどころか、マスマス「加速」ているということである。
アインシュタインの方程式に従うならば、宇宙の「膨張速度」は宇宙空間のエネルギーできまる。
エネルギーがたくさんあれば早く広がるが、空間が広がればエネルギーも薄まるので、膨張速度も衰えるハズだから。
現代科学では、アインシュタインの理論でさえも、光速より速いもの、エネルギー保存法則の例外など、説明できない事象が増えている。
ただ、ビッグバンの理論に基づく「宇宙観」は、宇宙空間とは我々が住んでいる世界と「別次元」ではなく、「同質の世界」であること。したがって、この「地上の法則」(物質の内容やその運動法則)を、宇宙に適用してもかまわないということだ。
意外にも、宇宙はふるさとであり、とてもみじかなものだったのである。

聖書の「創世記」によれば、「主なる神は"土のちり"で人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた」(創世記2章1~8)。
まず、人類の始まりは37億年まえアフリカの大地溝帯で見つかった「アウストラロピテクス(南の猿)」と命名されたものが人類の始めだとされる。
これは、「猿人」とよばれる存在で、以後人類学の分類では「原人」→「旧人」→「新人」と続く。
新人は「ホモサピエンス」ともよばれ我々の祖先であるとされる。
ただ旧約聖書の記述によれば、神は「命の息」を吹き込んだ人類を「エデンの園」に置いたので、これを人間(アダムとイブ)のスタートとしている。
この「エデンの園」の場所はかなり具体的で、チグリス・ユーフラテイス川の名前がでてくる場所つまり「メソポタミア文明」の地である。
以前、日本史の2つの史料の違いに悩んだ学者の話を聞いたことがある。
新田義貞がいよいよ鎌倉攻めにいくとき、ある文書では、新田義貞が館(やかた)で挙兵したと書いてあるのに、別の文書では寺で挙兵したと書いてある。どちらが本当なのか。
学者は、新田義貞が寺にて兵を「結集」したという記述に注目し、地元で手勢を率いて挙兵することも、寺で広く兵力を集めることも、等しく「挙兵」という言葉が使ってあったにすぎないことに気が付いたという。
聖書がいう「人類創生」と、アフリカで発見された「猿人」の存在は同じ人類の始まりでもまったく違う意味をもつものである。
したがって聖書の記述と、考古学上の人骨発見は同列のものではなく、矛盾するものでもない。
聖書によれば、神は人を神の似姿として創造し、神とコミュニケェートできる存在としてメソポタミアに位置する「エデンの園」においたのである。
聖書的にいえば、「神の霊を吹き込んだ」以後が人間であり、どんなに人型であろうと、それは「アダム以前の存在」ということになる。
さて、宇宙塵は地球のような固体惑星や我々生命の原材料でもあるため、なぜ我々が地球上に存在しているのか、その起源や進化の研究は極めて重要である。
小柴昌俊教授を中心として作られた観測装置「カミオカンデ」というが捉えることに成功したニュートリノは、大マゼラン星雲の「超新星」爆発によって生じたもので、テレビの画面のアノ乱れを生じさせる。
1983年に発見された地球近くの「フェートン」は、かつての彗星がちりを放出しきって小惑星になった。「フェートン」が放出したちりが地球にぶつかると、毎年12月のふたご座流星群となるという。
地球の生命は、こうした”ちり”に含まれる「有機物」から誕生したという説が浮上している。
聖書はいう。「あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」(創世記3章19)。

もし、宇宙の塵といわれるものの中に有機物(炭素)をふくむものがあり、それが地球を形成していったのであれば「生命誕生」の端緒となる。
そして「死」によって「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」(伝道者の書12章7)。