聖書の言葉から(時と期)

「人生100年時代」といわれて久しい。
バブルの時代の頃まで、「カルチャーセンター」が百花繚乱といった感じであった。
最近では、「カルチャーセンター」のことはあまりきかない。老後の楽しみとより、「セカンドキャリア」が求められる時代なのかもしれない。
つまり、もう一度の職業人生ということであるが、もっともっと生きたがる人もいるようだ。
グーグル創業者のラリー・ペイジやアマゾン創業者のジェフ・ベゾスら、シリコンバレーの成功者たちが、つぎつぎと「不老不死ビジネス」に投資している。
なにしろ近年のAIは、人間の脳に似せた働きさえもできるようになった。不老不死も実現できそうと思ってもおかしくはない。
世界的なベストセラー「サピエンス全史」を書いた無神論者のユバル・ハラリは、人間の生命は「アルゴリズム」とまで言った。
生死にかかわるDNAの復元は、コンピューターがヒトゲノムを解析し、ゲノム編集も可能な今、デジタル技術と生物学が融合すれば、「死」を避けることが出来るかもしれない、ということらしい。
中国の秦の皇帝・始皇帝が不老長寿の薬をもてめて周辺の国に使いを送ったことはよく知られている。
日本にも始皇帝の使者がやって来たことを示す、「徐福伝説」が残っている。
最近の「不老不死」への挑戦はヨーロッパ中世の「錬金術」を思わせる。人間は原子を化合して「金」を創ることはできなかった。
とはいっても、「錬金術」こそは「化学」(ケミストリー)が生まれるきっかけとなった。
ベゾスが投資している会社は、「アルトス・ラボ」という企業で、細胞の若返りプログラミングに注目し、革新的な医薬品を目指している。
さて、「不老不死」について、DNAでノーベル生理学賞ををとった山中伸也教授が無償でアルトス社のの上級アドバイザーを務めているという。
不老不死に道を開く可能性をいう海外メディアに対して、山中教授は、「我々が目指しているのは、あくまでも健康寿命の延伸です」と否定している。

世界または国内の最高長寿者が亡くなったというニュースが時々あるが、そのすべてが110歳代である。
人間は「120歳の壁」を越えられないようだ。
そこで思いうかべるのは、旧約聖書の次の言葉である。 「人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生まれた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の者を妻にめとった。そこで主は言われた"わたしの霊は長く人のなかにとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう"」(創世記6章)。
実は、この神の言葉が発せられたのは、ノアの洪水の後で、それまで(創世記5章まで)の人類は、はるかに長寿だった。
人類の始祖・アダムは930歳まで生き、その子供たちも900年前後が寿命であった。
遡って天地創造の人類創生に遡ると、人間が神と共に永久に生きていたエデンの園から追放されて以後、人間は「死ぬべき存在」となる。
それとともに生きるために額に汗して土を耕す存在となる。
「地はあなたのためにのろわれ、なたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。あなたは額に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから、あなたはちりだから、ちりに帰る」(創世記3章)。
現在のシリコンバレーの大富豪達が投資した会社が、「人生120年」の壁を超えるか、「不死」を手にする技術を開発することが出来たら、それこそ神を出し抜くことになる。
聖書には、「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも伸ばすことができようか」(ルカの福音書25章)とある。
聖書には「時と期」を支配するのは神であることが示されている。
イエスは、復活後に弟子達にしばしばその姿を現したが、その時イエスは弟子達に次のように語っている。
「さて弟子が一緒にに集まった時、イエスに問うた言った。『主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか。彼らに言われた、『時期や場合は、父󠄃がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知るかぎりではない。ただ、聖霊があなたがたも下る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらには、地のはてまで、私の証人なろう』」(使徒行伝1章)と語っている。
ここで「時と場合」とあるが、文語訳聖書には「時と期」と訳されている。「期」とは時間の幅を意味する「期間」のことであるが、聖書には「40日」とか「40年」を至る所にみいだすことができる。
上記のイエスが復活後にその姿を現したのは40日間であるし、ノアの洪水の期間は40日雨が降り続き、モーセがエジプトを出てミデアンの野で暮らすのが40年、出エジプト後、イスラエルがシナイの砂漠を彷徨ったのも40年、ソロモンのイスラエルの統治が40年、イエスの荒野の試みが40日とある。
「40」という数字の意味はわからないが、神の計画には「期」というものが予め定められいるようだ。
ところで、旧約聖書は主に「メシア到来」つまりイエス・キリストの誕生とその生涯を預言している。
例えば、「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った。彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。かれはみずから懲らしめをうけて、われわに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ」(イザヤ書53章)などである。
イザヤは紀元前8世紀の預言者であることに注目したいが、聖書にはイスラエルが待望したメシアの誕生を「神の時が満ちた」と表現している。
旧約聖書には、メシア誕生の預言が大きなテーマであるが、その一方で、この世の終わりに至るまでを預言した預言書がある。
それが「ダニエル書」である。当然ながら新約聖書の「ヨハネ黙示録」との整合性が問題となる。
「ダニエル書」は、なにしろ「具体的な数字」で示されている部分が多いので、歴史的な出来事と照合すれば、その信憑性を推しはかることができる。
その前に、聖書解読の基本的な姿勢としてあげたいことは、「聖書のことは聖書に聞け」ということ。
つまり聖書の謎の多くは、聖書の言葉で解けるということである。
ここを離れては、人に都合のいい解釈に陥ってしまう。
また、これと関連して聖書は「時」について次のように語っている。
「主のもとでは1日は千年のようで、千年は1日のようです」(Ⅱペトロ3・8)とある。
つまり、聖書解釈において「日数は年数」と読み替えてもよい、ということである。
したがって旧約聖書冒頭の「天地創造」において「神は第1日に昼と夜をつくり、第2日に大空と天を創ったとあり、第6日に天地創造を完成し、第7日に休まれた」(創世記)と記載あるものについても、その「1日を千年」と解釈することが可能で、こうした解釈をほどこせば、聖書をガチガチの文字どおりの解釈から、かなり柔軟に読みとることが出来よう。
ヘブライ人(古代イスラエル)は、BC586年に新バビロニアによってエルサレムが陥落したあとバビロンに移される(バビロン捕囚)。
そのバビロン捕囚の中で、王の目に留まり重視されたのがダニエルである。
反ユダヤ勢力によってライオンの穴倉に投げ込まれるなどの試練に見舞われるが、ある日、王宮の宴会中、空中に突然手があらわれ壁に文字を書く。王はの文字の意味を知りたくて思い悩む。
誰かこの絵の意味を説き明かすものはいないか求められ、そこで呼び出されたのがダニエルである。
そしてダニエルは、書かれた文字の意味を見事に読み解き、王国を襲う運命を解き明かす。
その約50年後、ペルシャによって新バビロニアが滅ぼされ、捕囚民のエルサレムへの帰還が許される。
しかし一部のユダヤ人は、この地で優遇されていたためにそのまま残る者も多かった。
ユダヤ人のネヘミヤもアルタクセルクセス1世の「献酌官」という名誉ある地位に就いていた。
しかしある日エルサレムから尋ねて来た親戚の話に心を痛める。
「かの州で捕囚を免れて生き残った者は大いなる悩みと、はずかしめのうちにあり、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼かれたままであります」(ネヘミヤ記1章)。
BC445年、ネヘミヤは自ら志望してユダヤの総督として任命してもらう。
ネヘミヤは、スサからエルサレムに行き、城壁の再建工事を呼びかけ、様々な反対や問題にあいながら、優れたリーダーシップを発揮してユダヤの民の復興を助ける。
しかし、ネヘミヤのイスラエルの復興事業は、何度もカナーン人との戦いで阻まれ中断が生じた。
それは、20世紀にパレスチナでのイスラエル復興のために尽力したベングリオン(後のイスラエル初代首相)と重なる。まさに「歴史は繰り返す」である。

旧約聖書の「ダニエル書」9章24節~26節の預言をとりあげたい。
「あなたの民と、あなたの聖なる町については70週が定められています。これはとがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なるものに油をそそぐためです。それゆえ 、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、7週と62週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。 その62週の後にメシヤは断たれるでしょう」。
この箇所に表れる数字について解釈をしていきたい。
まずこの預言に登場する「メシア」であるが、当然イエス・キリストのことである。
最初に、「エルサレムを建て直せ」の命令がキュロス王によって出されたもので、BC538年という記録にある。
しかし実際には、原住民の妨害でよって進まず、王の代が変わるたびに、なんどか更新された。
ちょうど、日本の「荘園整理令」のようなものだ。
エルサレム再建が実際に進むのはアルタクセルクセズ1世の時代、王に仕えたユダヤ人ネヘミヤの地方長官としての帰還をもって具体的に実施されるのである。
ネヘミアは自ら申し出て地方の長官として任命され、城壁再建を許可する書簡を携えてペルシアのスサを発ったのが、紀元前445年ごろ。
ダニエルの預言では「メシアが断たれる」まで7週と62週すなわち69週があるとしている。
計算すると7日×69週=483日となる。
聖書は、「日を年と読み替える」ことが可能なので、ネヘミヤがスサを発った紀元前445年に、7週と62週の後にメシアが断たれる」とあるので483年をプラスすると紀元38年にあたる。
イエスの生誕は、紀元6年であるとされているので「38-6=32」、イエスは30歳前後(ルカ3章)から自らを救世主と公言され、その2年後ぐらいに亡くなっており、時代考証とほぼ一致している。
ただ、69週を7週と62週にわざわざ区切ってあるのは謎なのだが、そのヒントを探すとイエスとパリサイとの間の「エルサレムの神殿」についての問答が思い浮かぶ。
パリサイ人たちが「神殿の復興に46年かかった」といった場面がある(ヨハネの福音書2章20節)。
7週は49日、年に読み替えると49年、途中の停滞期間を考えれば、エルサレムの神殿の建設の期間と考えても大きな矛盾はない。
しかし62週に合算するのも妙なので、単なる工事中断など他の理由が考えられる。
さて前述のダニエルの預言で最も重要なポイントは、「あなたの民と、あなたの聖なる町については70週が定められています」である。この言葉を解くヒントは、パウロが書いた書簡などにある。
それは、パウロが「ローマ人への手紙」の中で、「ユダヤ人の時」と「異邦人の時」を分けている点である。
パウロは異邦人伝道の使命をもって地中海世界に福音を伝えるが、イエスの福音はユダヤ人以外の異邦人に広がって、キリスト教会が世界中に建てられていく。
つまり、我々が生きているこの時代は「異邦人の時」にあたり「教会時代」ということがいえる。
これを「ダニエルの預言」と重ねると、「あなたの民と、あなたの聖なる町については70週が定められています」というのは、「ユダヤ人の時」の70週にあたる。
キリストの生誕以前、すなわち旧約聖書の時代は「ユダヤ人の時」でダニエルの預言でいう「69週」がすでに過ぎている。
ということは、ユダヤ人の時「70週-69週」の残り1週(つまり7年)が宙にういたカタチとなる。
この宙にういたような「7年間」は、いったい何なのか。そのヒントは、パウロが書いた「ロ-マ人への手紙」にある。
この点がより明瞭に示される文語訳聖書で示すと、次のとうりである。
「兄弟よ、われ汝らが自己をさとしとすることなからんために、この奥義を知らざるを欲せず、即ち幾ばくのイスラエルの鈍くなれるは、異邦人の入り来たりて数満るに及ぶ時までなり。かくしてイスラエルはことごとく救はれん」(ローマ人への手紙11章25節)。
パウロは、異邦人の(救いの)数が満ちた後に「ユダヤ人の(救いの)時」が来るということを明瞭に示している。
「そこで、わたしは問う。”彼らがつまづいたのは、倒れるためであったのか”。断じてそうではない。かえって彼らの罪過によって、救いは異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。しかし、もし彼らの罪過がよの富となり、彼らの失敗が異邦人の富となったとすれば、まして彼らが全部救われたなら、どんなにかすばらしいことであろう」(ローマ人への手紙11章11節)。
ここでパウロがいうユダヤ人が救われる期間(ユダヤ人の時)こそが、前述の宙に浮いた「7年間」であり、これからの未来において起きることなのである。
「ヨハネ黙示録11~12章」の「時と期」が、「ダニエル書9章」と内容が重なっていることを確認できる。
11章2節の「42カ月」(=3年半)と同じく12章14節の「1年、2年、また半年の間」(=3年半)とを加えると、ピタリと「7年間」になる。
つまりここでは「ユダヤ人の時」で浮いたユダヤ人の救いの期間「7年間」を預言したものである。
さて前述の、弟子たちが復活のイエスに「イスラエルを復興する時はいつですか」という問いであるが、1948年のパレスチナの地で「イスラエルの建国」ととらえることも可能である。
しかし、ユダヤ人の中でこの「イスラエルの建国」を、「イスラエル完全復興」と思うものは、どれほどいるだろうか。
イスラエルの国土は、まるで市松模様のようにアラブ人の居住区がもうけられ、首都エルサレムは国連管理下にある。
エルサレムの神殿の地は異教徒(アラブ人)に占拠され、破壊されたソロモンの神殿の再建さえもままならない情況である。
さらに決定的なのは、神殿に納めるべき「十戒の石版」は依然行方不明なのである。
日本的表現では、「ダルマに目玉が入っていない状態」。
それにもかかわらず聖書は、イスラエルの完全な復興を預言している(ヨハネ黙示録20章)。
それは、イエスの再臨によってユダヤ人がかつて十字架に架けたイエス・キリストを、ようやくメシアとして受け入れる「神の国」(千年王国)の実現をまって、なされるものである。