「統計・地図」のチカラ

東京駅をでて皇居に向かうと、日比谷側の側面に「第一生命ビル」と書いた建物がある。
あれが終戦後マッカーサーがGHQ本部をおいた「第一生命ビル」かとすぐに気付くが、皇居にも首相官邸にも近く、なるほどこの場所には利便性がある。
我が地元の博多駅から大博通りを博多湾側に向かうと祇園近くに「第一生命ビル」がある。
そこに、「加藤司書(かとうししょ)」という人物の歌碑があるが、加藤は福岡の「勤王派」の代表的人物として弾圧の末、この場所で切腹している。
皇居前の第一生命ビルといい、筑前勤王派の加藤の歌碑といい、「第一生命」は皇室と何か関係があるのではないかという疑念が湧きおこった。
調べてみて、両者の間にはいかなる関係も見出すことはできなかったものの、この探索のおかげで「矢野恒太(やのつねた)」という興味深い人物を知ることになった。
矢野恒太は、1883年、岡山県医学校に入学した。そこは九州の学生が多く、宮崎高鍋の石井十次がいた。
石井十次は、一人の貧しい巡礼者の子を預かったことをきっかけに、医学の道を捨てて児童福祉を志した。東奔西走しながら資金を集め、教育を施し、手に職を付けさせて2千人もの子どもたちを自立へと導いた。
学制変更で岡山県医学校は、国立の第三高等中学医学部になり、矢野恒太はこの学校を24歳で卒業、恩師の紹介で大阪の「日本生命保険医」になった。
しかし、経営陣との対立から退社し、図書館に通いながら、保険制度と経済学の勉強に熱中する。
さらに勉学を深めるために渡欧し、ドイツの相互保険会社などで2年間保険実務を研修した。
帰国後、農商務省の嘱託職員として「保険業法」の起草に参画し、その後「農商務省保険課長」に就任。
そこを3年で退職し、1902年念願だった日本初の相互保険会社「第一生命」の設立に至った。
第一生命は大正に入り全国展開し五大生命保険会社の一角を占め、昭和になると保有契約高で業界二位となり、矢野は1946年まで31年間、社長、会長を務め保険業界のリーダーとして活躍した。
特に矢野が取り組んだのは結核対策で、結核は当時、年間8万人が死亡する国民病と呼ばれていた。
1913年、北里柴三郎が日本結核予防協会を設立、矢野は理事に就任した。
さらに矢野は、財団法人保生会を設立、結核療養所の建設、早期発見、治療などの事業に乗り出した。
1939年、官民あげての「結核予防会」が設立され、矢野は完成した結核療養所など保生会の全財産を寄付し予防会理事に就任する。
保険業界の先頭をきって結核対策に乗り出した矢野であったが、このころには財界でも一目置かれる経営者になっていた。
特質すべきことは「第一相互貯蓄銀行」(協和銀行→りそな銀行)を設立したこと。
矢野は、医者・経済人であるばかりか、趣味人でもあり教育者であった。
我々に馴染みなのは、日本国民に数字により実態を理解することを普及させるため、年刊の統計解説書である「日本国勢図会」を刊行している。
この本は、1927年初版以来、終戦前後を除き継続発刊されている。
また、故郷への思いと同時に、「精神教育」の必要性を感じ、私財を投じて岡山市竹原に「三徳塾」を設立した。竹原といえば、池田勇人首相やマッサンこと竹鶴政孝の出身地なので、彼らも「三徳塾」の影響とは無縁ではないかもしれない。
そして「論語」にわずかな解説をつけて「ポケット論語」を出版し、体験談をもとに書いた「芸者論」と共にベストセラーとなった。
「三徳塾」跡地に立つ顕彰碑には、「名利に恬淡、直言清行、数理に長じ文筆に達し」とある。
世界に目を転じると、統計学を自らの力としたのは、意外にも「白衣の天使」ともよばれたイギリスの看護師フロレンス=ナイチンゲール(1820年-1910年)である。彼女は統計やデータの客観性を重んじるリアリストだった。
その一方で、ナイチンゲールは「神の御心を知るには統計学を学ばなければならない」という言葉を残している。
彼女は上流階級の家庭に生まれ、高いレベルの教育を受け、若い頃から「近代統計学の父」ベルギー人アドルフ=ケトレーを信奉し、数学や統計に強い興味を持っていた。
ナイチンゲールは、イギリス政府によって看護師団のリーダーとしてクリミア戦争に派遣された。
野戦病院で骨身を削って看護活動に励み、病院内の衛生状況を改善することで傷病兵の死亡率を劇的に引き下げた。
彼女は統計に関する知識を存分に使ってイギリス軍の戦死者・傷病者に関する膨大なデータを分析し、彼らの多くが戦闘で受けた傷そのものではなく、傷を負った後の治療や病院の衛生状態が十分でないことが原因で死亡したことを明らかにした。
彼女が取りまとめた報告は、統計になじみのうすい国会議員や役人にも分かりやすいように、当時としては珍しかったグラフを用いて、視覚に訴えるプレゼンテーションを行った。
今も「鶏のとさか」と呼ばれる円グラフの一種はこの過程で彼女によって考え出されたものである。
1860年には、ケトレーが立ち上げた国際統計会議のロンドン大会に出席し、統一的な病院統計のためのモデル形式を提案した。
統計のとり方がバラバラであっては、有効な比較分析に支障を来し、医療技術の向上にもつながらないと考えたのである。
提案は会議の分科会で討議され、各国政府に送付する決議が採択された。
国をまたいで統計調査の形式や集計方法を標準化することは、今日でも簡単なことではない。
ナイチンゲールには現場の経験と統計の知識に裏付けられた揺るぎない信念があったからだ。
このような活躍が認められ、ナイチンゲールは1859年に女性として初めて「王立統計協会」の女性会員に選ばれ、その16年後には米国統計学会の名誉会員にもなっている。
ナイチンゲールは、祖国イギリスでは「統計学の先駆者」として今も人々の記憶に刻まれており、「近代看護教育の生みの親」とも呼ばれる所以である。

箱根・小田原近くを流れる「酒匂川」(さかわがわ)であるが、個人的な思い出がある。
2006年8月18日、小田原アリーナでバトミントンの試合を観戦していたまさにその日、小田原アリーナに面して存在するこの川が豪雨で増水し、釣り人が中洲に孤立しヘリコプターで救出するという出来事が起きた。それを翌朝の朝刊一面トップで知った。
それからまもなく、偶然にもある映画の場面で「酒匂川」の名と再度遭遇することになる。
黒澤明監督の「天国と地獄」(1963年)で、誘拐犯人が身代金の受け渡しに、東海道線の特急の窓から現金の入った鞄を投げる場面で、犯人が指示してきた川の名前こそが「酒匂川」であった。
しかし、酒匂川を語るには黒澤明よりも、二宮金次郎の方が先かもしれない。
二宮金次郎は1787年に小田原に生まれ、この酒匂川の氾濫を契機として一家離散の状態に陥った。しかし、その苦難から立ち直る経験を生かして、その後の数多くの「農村復興」をもたらすことになる。
小田原アリーナ最寄りの小田急線・蛍田(ほたるだ)駅から二つめの駅「栢山(かやま)駅」から歩いて15分で二宮金次郎の生家に着く。
江戸時代末期多くの農村が疲弊し荒廃していた。飢饉が続いたということもあるが、働いても年貢で搾りとられるばかで明日も見出せない人々は飲酒や賭博にあけくれた。
昼間から三味線をひき精神的な荒廃も目に余るものがあり、対外的な危機もせまる一方で、幕府や藩も改革の成果がみられず閉塞感があふれていた。
いかにがんばっても年貢をとられてヤケになっている農民の心の内側を変えることは荒地を耕すよりも困難だったにちがいない。
小田原藩におよばず全国でそうした事態が進行しつつあったのだが、小田原藩家老の負債整理に力を発揮した二宮金次郎に注目し彼の力を借りて関東一円の農村復興にあたろうとして、栃木県の小田原藩支領・桜町領の再興に手腕を発揮したのである。
以後、彼は二宮金次郎から二宮尊徳となった。
二宮は支配階級に対してあからさまな反逆をするわけではないが、仕法の実施にあたって支配者側に厳しい「分度」を求めている。
なにしろ、支配階級の念頭にあるのだは領民からどれだけ搾り取られるかとうことであり、生産意欲を向上させる方策はほとんどとられていないというのが実情なのである。
幕府や藩の命令(依頼)に対して、尊徳の受け方が面白い。
出来ること出来ないことをはっきりと「仕分ける」、そして藩主が自ら「一汁一菜」を守らないらば、あるいは年貢のある水準までの減免をみとめないならば農村復興にあたることはできないと現実的な「取引」をしていることである。
そして実際に「年貢減免」を勝ち取るのだが、果たしてこの当時の農民がどれほど一揆をしたところで、年貢半減を勝ち取ることができたであろうか。
二宮は180センチもある大男で杖で土を検分し、家を穴からのぞいてその生活をまで戒める二宮に対して、その厳しさを煙たがり反発する人も多かった。
しかし、二宮は突如姿を消し機をみて成田山新勝寺にこもり断食をしているという噂を流して、少しずつ村民の心を掴んでいったのである。
「二宮尊徳」の真の姿は、「地域経営学者・実践者」とでもいうべき人物であった。
封建制度の江戸時代にありながら、資本主義下の社会的企業を思わせる。
尊徳は、全国各地の藩、村などの要請に応えて、地域の再建を図ったが、その手法は、「経世済民」 と「報徳思想」がセット、きわめて科学的で経営の原則にかなうものであった。
その地域の米の単収など生産性、年貢の徴収法(勤労意欲)、人口の動向など統計デ-タに基づいて過去と現状を分析、将来の発展可能性、具体的な対策・過程を提示して「地域経営政策」の実践をする。
尊徳は、数字が整い、入手できるまで動かない、無理な資金計画は立てない。
現在の金融機関がやっているようにきちんと「経営計画を診断」、単なる運転資金ではなく、成長・見返り・成果が期待される「投資に対してのみ融資する」の手法であった。
二宮の残した書類はすべてが国会図書館に保存されておりその数は一万卷にもおよぶ。
そのほとんどが、多くの数字と計算が記されていることも注目に価する。

守屋荒三(もりやあらぞう)は、1872年、岡山県の浅口(あさくち)郡西原村(現・倉敷市西阿知町)で生まれた。
荒三は長じてカトリックの洗礼を受け、「最高の賢者」を意味する荒美雄(すさびお)へと改名する。
小学生から高校生まで、日本の学校に通う生徒たちが教科書として手にする「地図帳」の発行元として有名な、帝国書院(東京)の創業者である。
病弱な荒三少年が2年遅れで通った西原小学校は、倉敷市立西阿知小学校として存続し、正門近くには荒美雄の胸像が立っている。対岸の倉敷市船穂町の高台には、両親と自身の墓がある。
しかし、地図帳の浸透ぶりに比べたら、荒美雄の知名度は地元においてすら高くない。
老朽化した構造物の撤去や雑木の伐採をして墓地をきれいにし、荒美雄を顕彰する説明板が建てられたのは、帝国書院が創業100周年を迎えた2017年。
荒美雄1938年、65歳で亡くなるが、母校の銅像は三回忌に合わせて準備された。当時は全身の立像だったが、戦時中の金属供出で胸から上が残された。
存命中の34年、帝国書院から発行された地図帳「新選詳図 帝国之部」は復刻版が出ている。「世界之部」と対をなす国内版だが、台湾、南樺太、朝鮮半島が含まれる。
敗戦で領土が縮小し、新憲法の発布により、「帝国」が付く国号が過去のものになったことは、荒美雄の名が忘れ去られたことに影響したのかもしれない。
西阿知小の荒美雄像の隣には、まきを背負って本を読みながら歩く二宮金次郎像が立っている。
銅像と同じ時期に刊行された『守屋荒美雄伝』は、金次郎並みに「刻苦勉励」の生涯だったことを伝える。
育ったのは、耕地も持たぬ貧しい家。父は義理人情に厚い人物だったが賭博遊戯に溺れ、就学の遅れを取り戻すため、息子に手習いをさせることもなかった。
にもかかわらず、荒美雄は生家近くの小学校で抜群の成績を収め、4年生になり、西之浦小学校(現・連島(つらしま)西浦小)の高等科への編入試験を受けると、村からただ一人合格した。
西之浦小は、生家から南へ約2里(8キロ)。吉備の穴海時代は島だった大平山(162メートル)を越える必要があった。
往復の途上少しの時間も無にすることなく教科書の要点をかきぬいて道々これを記憶しながら通学した。
4年で高等小学校を卒業。実はこれが荒木荒美雄の最終学歴である。
当時は過渡期で、進学せずとも教員になれる各種の資格認定試験が用意されていた。
荒美雄は高等小学校の授業生試験や正教員試験に次々と合格し、最後は超難関の「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」(文検)まで突破する。今なら中卒ながら高校で教える資格を得たようなものだ。
「知事級の人物にならねば、死すとも帰らじ」。荒美雄はそんな誓いを立て、文検受験に合わせて上京する。数えで25歳の年だった。
静岡県立富士東高校の地歴科教諭での伊藤智章氏は2011年、月刊「地理」(古今書院)で、荒美雄の評伝「地理教育に賭けた生涯」を連載した。
高校では来年度から地理がほぼ半世紀ぶりに必修科目となるが、10年前は地理を習う高校生も地理教員を志す学生も減る一方という閉塞感に包まれていた。
伊藤氏によると、荒美雄が「教科書」で成功するきっかけは、独逸(ドイツ)学協会学校(現・独協中学、高校)の地理教員時代、文検の受験者向けの参考書を執筆したことだという。
その読者が教員となり、荒美雄が書いた教科書の支持者となった。
その頃、教科書といえば、帝国大学教授らが執筆者に名を連ね、テキスト主体のものが多かった。
荒美雄が初めて教科書の執筆依頼を受けた際の条件は、たくさんの挿絵を挿入したいということ。
勤務先所蔵の原書からも挿絵や主題図がふんだんに引用され、ビジュアル重視の新しい教科書としてヒット。
40歳で教員を辞して執筆活動に専念し、1917年に帝国書院を創業。3年後には、自社初の地図帳「帝国地図」を出版した。
今も帝国書院は、地図帳のシェア9割を誇る。地名索引や国別統計、言語や宗教の分布図まで網羅する地図帳は、卒業しても使う機会がありそうで、「捨てられない教科書No1」ともいわれる。
地図帳は英語で「Atlas(アトラス)」。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」はもはや美術品といっても過言ではないが、それを思い出させる全ページカラー印刷、守屋荒美雄の名前が表紙を飾る。
欧米では分厚く重いものが一般的で、教室の後ろに置かれ、生徒たちに共有されることが多いそうだ。
「1人1冊」、持ち運べる地図帳は、荒美雄の創意工夫から生まれた「日本の文化」ともいえる。
荒美雄は晩年、郷里の橋や駐在所、母校の講堂の建設などに、寄付を惜しまなかった。「知事級」を超えて、高小卒の学歴から教科書会社や学校法人の創立者となり、故郷に錦を飾った。
晩年の守屋荒美雄は、学校経営に乗り出し、「関東商業学校」と「帝国第一高等女学校」を創立した。
前者は甲子園常連校に数えられる「関東第一高校」(東京都江戸川区)、後者は「吉祥女子中学・高校」(同武蔵野市)と、それぞれ校名が変わっている。

岡山県倉敷市の郷土研究家・高橋義雄さん(79)は、岡山県の風土が影響したと考えている。「教育を重んじるのは、岡山の伝統。江戸時代には寺子屋や私塾の充実度が全国トップクラスだった」。
荒美雄の生家の周辺からも著名な漢学者が輩出しているという。備中聖人と呼ばれる山田方谷(ほうこく)を育てた丸川松隠(しょういん)や、その養子に学んで方谷の一番弟子となり、東京で漢学塾二松学舎(現・二松学舎大学)を創立した三島中洲(ちゅうしゅう)らだ。高橋さんはその伝統の中に荒美雄を位置づける。
一方、荒美雄の評伝を書いた伊藤智章さんは、帝国大教授ら当時のエリートへの対抗心こそ原動力だったとみる。「自分自身は(旧制)中学を出ていないのに、その中学生を教える立場だった。嫌な思いもたくさんしたでしょう。見返してやろうという思いだったのでは」と語る。
さて世界の歴史を見ると、ガリレイやニュートンは自然の精巧さに驚き、その製作者である神をたたえ、神の意図を知るために、自然を研究した。
そのうち、自然という機械のしくみを明らかにして、自然を加工し、利用することをめざすようになっていった。
それを象徴する言葉が、イギリス人哲学者ベーコンの「知は力なり」である。
つまり、現状が将来何をもたらすかを明らかにし、具体的な数字でいま現状で出来うることを明確にし、それが達成できた暁に見えるビジョンを提示したということだろう。
報徳学園は、1911年(明治44年)神戸御影の実業家として活躍していた大江市松翁によって創立されました。 その頃日本は、日露戦争に勝利し、人々のおごりや高ぶりが頂点に達しようかという時代であった。 翁は軽佻浮薄に流される現状をみて憂い、このままでは日本は滅んでしまうと危惧し、地に足をつけた質実剛健の、そして感謝と思いやりを知る若者を育てなければならないと考え、日頃から二宮尊徳先生を敬愛し、その教えである報徳主義を実践されていました。 それゆえ「以徳報徳」の精神を身につけた青年を育成したいと願い、神戸御影の地に3年制の報徳実業学校を創立されたのが始まりです。
報徳仕法は二宮尊徳の教えにもとづき、飢饉などで荒廃した農村を建て直す政策のことです。報徳仕法は文政5年(1822)に下野国桜町領(現在の栃木県真岡市あたり)から始まり、関東地方を中心に、実施された地域は広がっていきました。 中村藩では、天明3~4年(1783~1784)の大凶作「天明の飢饉」によって大きな打撃を受け、人口の激減、田畑の荒廃が進み、藩の財政、存続は危機的な状況にありました。そこで中村藩でも農村建て直し政策のひとつとして、人口増加のため浄土真宗門徒移民政策や、財政立て直しのために報徳仕法を実施するのです。この報徳仕法の実施には、富田高慶というキーパーソンの存在が必要不可欠でした。 二宮尊徳の一番弟子、富田高慶 着物や顔のしわなど細かいところまで繊細に彫られた木造富田高慶坐像の写真 木造富田高慶坐像 南相馬市博物館所蔵 佐藤朝山(玄々)作 富田高慶(とみた こうけい(たかよし))は文化11年(1814)中村藩士の家に生まれました。困窮を極めていた藩を建て直すため江戸で勉学に励んでいた高慶は、報徳仕法の評判を知りその方法を学ぼうと二宮尊徳に入門し、一番弟子となりました。 そして熱心に尊徳に学んだ高慶は、尊徳から絶大な信頼を得て、中村藩建て直しの代理指導を任されたのです。 高慶の指導のもと、中村藩では弘化2年(1845)に坪田村・成田村(現在の相馬市)から報徳仕法を実施し、元治元年(1864)までに、領内226の村の半分近くに当たる101の村で実施され、そのうちの4分の1にあたる55の村で建て直しに成功しました。 二宮尊徳の死後、高慶は尊徳の教えを世に広めるため、『報徳記』や『報徳論』を編纂しました。そして明治23年(1890)、76歳で生涯を閉じるまで報徳仕法と二宮家のために尽力したのです。 - 中村藩の報徳仕法で実施されたこと 用水路や溜池を修理、新設し、田畑への水を確保。 移住者への住居、生活費の援助。 村民の投票により公正に働き者を選出・表彰し、褒美を与え労働意欲を高め、さらに働き者には賃金の貸し付けも行った。 農民の家屋修理、建て替えなどに賃金を援助。 凶作に備え、ヒエの栽培を推奨。 農作業の合間や夜なべに縄ないをさせ、その縄を売った一部金を積み立てて報徳金とした。報徳仕法が終了すると、積み立て金の2倍の金額で返済された。 報徳仕法の原理 富田高慶がまとめた『報徳記』では、報徳仕法の根本を「至誠」とし、これを実施するにあたって「勤労」、「分度」、「推譲」が必須だとされました。 至誠(しせい)・・・とても誠実であること。尊徳の教えはすべて「至誠」が根底にある。 勤労(きんろう)・・・心身を労して懸命に仕事に励むこと。 分度(ぶんど)・・・自分の経済的状況に応じた範囲内で、身の丈にあった生活をすること。 推譲(すいじょう)・・・将来へ向けた貯蓄をし、また他者や社会のために一部を譲ること。 ここまでは報徳仕法についてのごく一部に過ぎません。各地で実施された二宮尊徳の教えはもっと深く、短くまとめるには困難なものです。もし報徳仕法についてもっと知りたい!と思った方は、10月に開催される「第22回全国報徳サミット南相馬市大会 」に参加してみてはいかがでしょうか? 「報徳仕法と浄土真宗門徒移民 ―奥州中村藩の復興への取組み― 」 ところで二宮は自身の墓について、「余を葬るに分をこゆることなかれ。墓石を建てることなかれ。ただ土を盛り上げて、そのかたわらに松か杉を一本うえおけばよろし」と遺している。
だとすれば戦前富山県高岡市で全国にむけてつくられた自らの銅像を、二宮自身は草葉の陰から「分不相応」または「無駄削減」と苦々しく見ていたかもしれない。
最近、政府の経済統計の書き換えなど目にあまるものがある。かつて建築会社の耐震データの偽装が社会問題になったが、最近では、問題の監督官庁の側での偽装である。
犯罪を追及する検察庁で、フロッピーディスクのデータの改ざんがわれたことを思い起こす。
厚生労働所の雇用統計不正の時は、働き方改革の筋道を政権に都合よく見えるためにデータの取り扱い方法が変えられたが、昨年末の国交省の住宅建設発注件数の書き換えを直接消しゴムで消して二重計算を行うなどの「生データ」の書き換えである。
国内総生産統計の根拠の一つとなっているので、影響は大きい。背景に何があるのか、いつものように問題は曖昧にされ責任の所在は不明のままであろうか。
ところで最近、金融工学や最近AI技術の発展により、統計・確率の知識や能力があらためて注目され「データ・サイエンス」とよばれている。
またグーグル社チーフ・エコノミストのハル・ロナルド・ヴァリアンは「私はこれからの10年で最もセクシーな職業は統計学だろう」と語っている。小泉進次郎発言を思い出す。
年長の矢野は人望があり級長に選ばれ、石井は勉強熱心なクラスのリーダーだった。