文明開化の綱引き

小倉の街に祗園太鼓が響く夏がやってくる。新型コロナの蔓延や旦過市場の火災などで、全開とまではいかないだろうが。
祇園太鼓といえば映画「無法松の一生」の映像が脳裏に浮かぶ。この映画は戦前、いい男が未亡人に心を寄せるなど不謹慎とされ、戦後は占領軍によって祇園太鼓は軍国主義を助長すると「二重検閲」を受け、制作当初の完全な映像をみることはできない。
小倉は文学の香り漂う街である。JR小倉駅からの繁華街を歩けば、鍛冶町あたりに林芙美子歌碑や森鴎外旧宅など文学史跡があり、小倉城近くに松本清張記念館もある。
森鴎外の紛失した小倉時代の日記を埋めようと、その足跡を追った青年がいた。
松本清張は、その不遇の青年の生涯を自分の前半生と重ねるように「或る小倉日記伝」書いた。
しかし戦後その「小倉日記」が、青年の努力を虚しくするかのように出てきた。
鴎外の末子の類(るい)さんが、疎開した荷物を整理していて出てきたのである。
そこには、当時の小倉時代の日常が手に取るように記されているという。
こうして文豪の「空白」は長い時間をかけて埋められてきたようだが、森鴎外ほどの人物がなぜ小倉に居たのか、鴎外はなぜドイツに留学したのか、「そもそも」的な疑問がわいてくる。
森鴎外は明治日本が生んだ大知識人、当時37歳の鴎外が第十二師団の軍医部長として北九州市小倉に着任し、1899年6月から2年9か月間滞在している。
鴎外は11歳からドイツ語を勉強し、流暢にしゃべれたため、当時の軍医監に「君の任務はドイツ陸軍の軍陣医学の研究と、陸軍衛生制度の研究だ」と念を押されていた。
そこで、コレラ菌を発見したコッホ博士について学び、医学論文を書くなどして成果をあげたが、陸軍医学部の先輩の論文を医学雑誌で批判したりした。
またそれでも飽き足らないように、1884年から約1年間の「ドイツ留学」を元に、ベルリンを舞台にした「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」といった「ヨーロッパ三部作」を書き一躍、文壇の寵児となってしまう。要するに役人の世界で目立ち過ぎたのだ。
プライベートでは、帰国後すぐに海軍中将男爵の長女と結婚したが1年8か月で離婚しているし、「舞姫」のモデルとも言われるドイツ人女性エリーゼ・ヴィーゲルトが鴎外を追って来日するなどのお騒がせぶりが顰蹙をかった。
そういう事情で、一等軍医正の鴎外が、少将担当官の軍医監で小倉に着任する。
身分的な体面は一応保たれて意れているものの、実質は「左遷」であった。
当時の兵役において、新兵の採否を決める徴兵検査の立ち会いは、軍医部長の重要な任務であった。
鴎外はその立ち会いのため各地を訪ね、地元地方新聞に投稿したりしていた。
福岡では貝原益軒や亀井南冥、久留米では高山彦九郎、唐津では近松門左衛門の遺跡などを訪ねることを楽しみにしていたという。
こうして「栗山大膳」(福岡)や「阿部一族」(熊本)といった歴史小説が生まれた。
鴎外は前妻と離別して13年間独身生活を送るが、母親のすすめで、小倉を去る3か月前に、鴎外41歳の時に23歳の女性と再婚している。
これは幸せな再婚だったらしく、鴎外は師団の幹部ともよく同調して、「第一師団軍医部長」の肩書きをひっさげ、新夫人を伴って東京に戻ってくる。
鴎外の「そもそも」のもうひとつは、明治期の日本はどうして医学をドイツに学ぼうとしたのか。
日本における最初の近代憲法である大日本帝国憲法は「プロシア憲法」をモデルに作られたので、日独両国の関係が浅かろうハズはない。
その一方で、民法や刑法はフランスから導入しているのだから、チグハグな気がする。
それに、戊辰戦争(討幕戦争)中までは英仏の武器を買い込み、フランス式の軍事訓練とフランス海軍の士官教官を呼んでいる。
それはヨーロッパ情勢の変化が微妙な影響を与えたと推測される。
1866年「普仏戦争」においてビスマルク・ドイツの勝利によって、一転してドイツ(プロシア)式の軍隊、法令、政治を取り入れるようになったのだ。
1889年からの「民法典論争」では、フランス流では「民法出でて忠孝滅ぶ」という批判もでて、退けられていく。
また、日本の医学においては、イギリスから学ぶか、ドイツから学ぶかが、大きな問題となった。
明治初期、日本の医学の西洋化にあたり、明治政府では薩摩と関係の深いイギリスの医学を導入することをほぼ決めていた。
しかしそれを覆したのが、佐賀藩出身で医学校取調御用掛という役職にあった相良知安(さがらともやす)という人物であった。
相良は16歳で佐賀藩藩校弘道館内生寮に入学し、大隈重信や副島種臣や江藤新平らと共に学んだ。
佐賀藩では、1808のフェートン号事件以来、外国と対抗できる軍事力の増強には教育刷新による人材育成が急務とされていた。
そこで弘道館の中でも優秀だった相良は、蘭学寮でオランダ語を学び、創設されたばかりの「医学寮」へと進む。
佐賀藩主・鍋島直正の侍医となった相良は、1861年26歳で江戸遊学を命じられ、下総佐倉(千葉県佐倉市)の佐倉順天堂塾(順天堂大学の前身)の門下に入り、創始者の養子佐藤尚中に師事した。
順天堂塾で2年学んだ相良は、門下の秀才33名の中でもトップとして塾頭にまでなった。
その後、長崎に学び「精得館」(現在の長崎大学医学部の前身)でオランダの名医ボードインと出会う。ボードインから蘭医学を学び研鑽を積んだ相良は、その学才を認められ後任の館長に就任する。
ところがそこで、オランダの医学書がすべてドイツの医学書の翻訳であることに気づいてしまう。
ドイツのコッホが破傷風菌、ガフキーのチフス菌を、クレプスのジフテリア菌など、ドイツで世界的な発見が相次いでることにも注目していた。
その後、文部省医務局長となった相良の必死の説得で、明治政府はドイツ医学導入を決定する。
その際、相良は性格が激越で自分の主張を理解せぬイギリス医学派の政府高官を面罵することもあり、メンツをつぶされた高官から恨みを買い、不正会計があったとして投獄されてしまう。
同郷の司法卿・江藤新平らの尽力で、これが「冤罪」であるとして復職を果たした。
ここまでは、左遷から中央復帰した森鴎外と、入獄から中央復帰した相良知安の人生が重なり合うところがある。
しかし数年後、相良はまたもや罷免され、晩年は易者として細々と生活し、貧困のうちに亡くなっている。
とはいえ、相良知安がいなければ、森鴎外の名作「舞姫」は生まれなかったのは確かである。
ところで日独交流で忘れてはならない人物が、1823年にオランダ商館の医師としてやってきたシーボルトである。
実は彼はオランダ人ではなくドイツ人であり、その日本における影響力たるや絶大なものがあった。
本来はドイツ人であるシーボルトの話すオランダ語は、日本人通辞よりも発音が不正確で、幕府方に怪しまれたらしいが、「自分はオランダ山地出身の高地オランダ人である」と偽って、その場を切り抜けたというエピソードがある。
オランダは干拓によってできた国であるため山地は無いはずなのだが、そんな事情を知らない日本人にはそれで十分だったのだ。
シーボルトは帰国に際して、幕府天文方の高橋景保により伊能図を渡されたことが発覚した。地図といえば当時は最高の軍事機密であり、1829年にシーボルトは国外追放され、高橋は処分(死罪)された。
世に言う「シーボルト事件」(1800年)である。
なお、シーボルトは日本人女性と結婚しており、その娘・楠本イネは日本で最初の産婦人科医師となり、東京築地に開業した。その病院跡地にはシーボルトの胸像が設置されている。
実はこの娘、1958年追放令解除によって再来日したシーボルトと再会している。
1866年、シーボルトはミュンヘンにおいて70歳で亡くなっている。

江戸幕府、第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の時代、オランダ商館のあった長崎港内に、イギリス軍艦フェートン号が不法に侵入した。
当時、ヨーロッパ諸国の中で唯一日本と貿易を行っていたオランダは、フランスのナポレオン戦争により、フランスの属国となっていた。
一方、18世紀後半からの産業革命で世界の大国に成長したイギリスは、フランスと対立。東アジアにおけるオランダの商業拠点を攻撃し、東アジア貿易の独占を目論んでいたのである。
イギリスは東アジアのオランダの商業拠点に軍艦を派遣し、オランダ船の捕獲を行っており、フェートン号侵入も長崎港に停泊中のオランダ船を捕獲することを目的とするものであった。
イギリスの軍艦フェートン号は「オランダ国旗」を掲げ、オランダ船になりすまして長崎港に侵入する。
イギリスの目論み通り、オランダ船と勘違いして出迎えにやってきたオランダ商館員2名を人質にとった。
長崎奉行だった松平康英(やすひで)は人質を救出するため、実力行使によるフェートン号の焼き討ちを計画する。
しかし長崎警護を任されていた佐賀藩(鍋島藩)は、太平の世に慣れ、守備兵の数を規定よりも大幅に減らしていて、32門の大砲を備えたイギリス軍艦に太刀打ちできるような状況にはなかった。
そこで、幕府とオランダ商館はイギリスの要求を受け入れ、人質を解放する代わりに食糧・水・燃料を提供し、フェートン号は長崎港を後にしたのである。
事件後、長崎奉行の松平康英は自害、守備兵の数を勝手に減らしていた佐賀藩(鍋島藩)の9代藩主・鍋島斉直が幕府から100日間の閉門に処された。
しかしフェートン号事件後、イギリス船は次々と日本に来港し、1824年5月には水戸の大津浜にイギリス人12人が勝手に食糧調達のため上陸するなどしている。
これに幕府は警戒つよめ、1825年「異国船打払令」を発令する。それは別名「無二念打払令」というように、無条件に相手を砲撃などによって打ち払うことである。
フェートン号事件から30年たった1838年6月にアメリカのモリソン号が現われ、「異国船打払令」にしたがって砲撃を行って退散させた。
、 これに対して、陸奥水沢出身の町医者・高野長英は、「戊戌夢物語」を著して、モリソン号打払いの無謀さを批判した。
高野は幕府批判で罪せられることを恐れ、「夢物語」(夢の中の集会で見聞した物語)という形式にし、また三河田原藩の家老であった渡辺崋山も、「慎機論」と題して「井蛙の見を打開し、英達の君の出現を要請する」「日本が鎖国している間に、西洋の強国が日本に接近しているので、時機を慎まなければならない」(慎機)と論ずるなどした。
1839年、幕府は「尚歯会」の洋学者グループ渡辺崋山・高野長英ら洋学者26人を幕政批判のかどで逮捕、高野を「永牢」とする一方、渡辺は故郷田原での蟄居を申し渡した。世に「蛮社の獄」である。
その後、高野長英は、牢屋が火事になったのを契機に脱出、門人など守られながら、潜伏しながら自説を主張して回った。
そして「顔を薬で焼き、咽喉をつぶし」て江戸に入り、ここでも自説を主張し続けた。
結局見破られ、潜伏先に踏み込まれ、その場で自害して壮絶な死をとげた。
翌年、アヘン戦争が起こり、中国は、列強の植民地となり、高野や渡辺が予言していたことが中国で起こり、老中・水野忠邦は「異国船打払令」を撤回、翌年「天保の薪水給与令」(外国船に燃料だけを与える)を出している。
ところでフェートン号事件は、日本の対外政策を転換させたばかりではなく、語学研究の方向性を蘭語から英語へとシフトさせたという意味でも重要な出来事であった。
フェートン号事件に衝撃を受けた幕府はイギリス研究の必要性を痛感し、オランダ語通詞らに英語習得を命じ、編纂させた。
イギリス駐在経験のあるオランダ人の指導を受け、「諳厄利亜語林大成(あんげりあごりんたいせい)」という初の「英和辞典」が編纂された。
しかし、その発音はオランダ語訛りが強いなど、不十分な点があった。
それを受け、1867年に日本最初の和英辞典「和英語林集成」を出版する際に、「ヘボン式ローマ字」が考案されたものである。

世界で初めてビタミンB1を発見したのは、鈴木梅太郎という人物である。
鈴木は脚気にかかった鳩に「米糠」を与えると症状が改善される事を突き止め、1910年、米糠から脚気に有効な成分の抽出に成功する。
同年12月、この研究を発表し、抽出した成分を「アベリ酸」と命名、後に「オリザニン」と改名するが、これこそ現在の「ビタミンB1」なのである。
なぜこれほどの功績にノーベル賞が与えられていないのかが逆に不思議だが、そこに森鴎外という存在が影響している。
背景には陸軍と海軍の対立、さらには日本におけるイギリス医学とドイツ医学のせめぎ合いがあった。
当時、軍人たちが悩まされたのが「脚気」の症状である。脚気になると、まず足がむくみ、息切れがするようになり、やがて心不全を起こして死に至る。
何が原因によって発病するのか、陸軍と海軍との間では、脚気の出現状況について明らかに差異がでていた。
海軍医務局長・高木兼寛の功績で海軍は脚気を根絶していた。
高木は、1875~80年までのイギリス留学中、ヨーロッパに脚気がないことを知り、白米を主とする兵食に原因があるのを察する。
彼は、まず遠洋航海実験で、蛋白を増やした新糧食により脚気の発生が事実上なくなるのを示した。
さらに巧みな政治工作で猛反対を押し切り、1885年以降、兵食を蛋白の多い麦飯に切り替えさせた。
すると、海軍での脚気はほぼ根絶するのである。
「麦食」が脚気を予防するのは、蛋白質ではなくビタミンB1を多く含むからである。
後に高木の研究はビタミンの発見につながり、脚気はビタミンBの欠乏で発症することが証明された。
このことから、高木は「ビタミンの父」と呼ばれるようになる。
一方、陸軍の森林太郎(森鴎外)はドイツで主張されていた「ウイルス説」を信じ、高木の方法を決して受け入れず、「海軍の対策は科学的根拠なし」として真似ようとはしなかった。
米食にこだわった陸軍は日清・日露戦争において、多くの脚気患者を出す。
高木兼寛の功績を引き継ぎ、脚気治療薬としてビタミンを世界最初に発見した東大農学部教授の鈴木梅太郎であった。
当時、医学の論文はドイツ語で書くのが普通であり、世界中の言語がドイツ語に翻訳されて発表されていたが、鈴木梅太郎博士はドイツ語に翻訳する能力がなかったため、人に頼んで翻訳を行った。
ただ不運にもその翻訳は不正確で、「世紀の発見」が、意味不明な論文として扱われてしまった。
また鈴木は農学部出身の農学者であり、学会からは医師でも薬学者でもない人間が、医学的な論文を書ける訳がないと決めつけられてしまった。
鈴木が書いた日本語の論文は、世界どころか日本国内でも相手にされなかったのである。
鈴木梅太郎の功績が認められたのは後年のことであり、時すでに遅し。ヨーロッパの学者がビタミンの研究でノーベル賞を受賞していたのである。